fishbowl66 の回答履歴

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  • 記憶を失ったら仏教の悟りも失われる?

    不退転の悟りを得た仏教徒がいるとして、その人が、頭を打つなどして過去の記憶を失ったとします。彼は、言葉は話せても、自分が何者で何をしてきたかすら思い出せません。そうなると、悟りも失われてしまうのではないかと思います。悟りが失われてしまうと、再び執着心が生じてしまうと思うのですが、どうなのでしょうか?それとも、不退転の悟りは記憶に依存しないと考えられているのでしょうか?

  • ゼノンのパラドックスについて

    興味本位で今ゼノンのパラドックスについて調べています。 本やWebページで調べてみてだいぶわかってきたのですがいくつか疑問があります。 ゼノンのパラドックスの中でも亀とアキレスについてですが ・結局、正しいか間違っているか結論は出たのでしょうか?? ・もし結論が出ていないのなら、アキレスが亀に追いつくまでを、無限回数に区切ったに過ぎないだけで実際はそのようなことはありえないという意見で否定することはできないのでしょうか?? ・否定派の意見はよく目にするのですが肯定派の意見はどのようなものがあったのでしょうか?? わかる範囲でいいのでよろしくお願いします。

  • 理由、原因をなぜ知りたがる?

    私たちはなぜ理由や原因を知りたがるのでしょうか。 科学者・・・この現象が起こるメカニズムが知りたい。 納税者・・・納得いく説明を求める。 サラリーマン・・・ミスをした原因、売り上げが上がらない原因を分析する。 被害者・・・なぜ私がこんな目に もちろん日常的に行われていることなので、心情的にはよく分かることです。理由がわかると納得して気持ちが楽になるのはよく分かるのですが、ではなぜ理由がわかると納得してしまうのでしょうか。私たちの探究心の九割九分は理由、原因を調べることに当てられているのではないでしょうか。どうしてそこまでと思う次第です。 我思うゆえに我ありの”我”はなぜこれほどまでに理由にこだわると思いますか。

  • 《絶対》の概念をもし導入するとしたら・・・

    どのような考え方で どのような方向・方策が考えられるでしょうか。 どのように動機付けしていけばよいと思われるでしょうか。 むろん 導入の不要論や反対論も受け付けてまいります。 たとえば 司馬遼太郎の言うには:―― ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・ むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。 しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞) http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ちなみに わたしは 日本人のあいだでも 身分制のきびしき折り 愛し合った男女が 身分の違いで引き裂かれるというとき 道行きにみづからを追い込んでいったとき かれらは 絶対を見ようとしていたかも知れないと思います。死を覚悟の譴責を家来としておこなったりする場合も見られるように思います。 上の事例と同じように おこないとして どうかとも思うのですが 忠臣蔵も 絶対を見ようとしたのかも知れません。 とにかく 多岐にわたるでしょうが たとえばクリスチア二スムやイスラームとの付き合いでは わきまえておいたほうがよいと思ったりします。そして よかったら そのあたりでなりとも お考えを述べていただければさいわいです。 なおわたし自身は 絶対の概念について自分の見解を持っております。そして その導入ということについては いままでに特に考えたことはありません。

  • パターナリズム、患者さんの利益と自律の対立

    医療現場で働いていて思うのですが、患者さんの為になること利益になることと思えることが、患者さんの意思に反することであった場合、どの程度、患者さんの意思を尊重すべきでしょうか。具体例を出せば、たとえば入院患者さんの生活習慣病を改善するために、あまり乗り気でないのに、ほぼ強制的に運動プログラムを取り入れるとか、うつ病の入院患者さんの自殺を拘束して阻止するとか、そういうような場合です。 倫理学において、パターナリズムと呼ばれていることだと思うのですが、医療倫理学では、どのような回答があるのでしょうか。

  • 僕は自分の意思で物事を考えているの?

    世の中は全て物理的な運動の集合体です。 ビリアードでのブレイクショットのように世界は運動の連鎖によって構成されています。 ここで計算の神がいるとします。 この神はあらいるものをを完璧に計算できる力を持っています。 それは人間が測定できないような微塵の狂いもない計算です(カオス理論抜きで考えてください)。 この神にかかれば木から葉っぱが落ちる動きもビリヤードでの玉の動きも完璧に予想できます。 この神はビックバンが起こった時、そのエネルギーやらなにやらを計算して地球という惑星が生まれる事も計算できます。 そしてその地球がどのようになるかもビックバンが起こった時点で計算できるはずです。 さらには人類が生まれる事、そして僕が生まれる事も計算できるはずです。 脳は物体です。意識は脳の中にあります。ということは意識とは物体です。 ニューロンやら何やらありますが意識も例外ではなく物理的運動のはずです。 という事は考えも物理運動になるはずです。 僕が今考えている事はビックバンが起こった時点で計算する事が出来るはずです。 では僕は自分の力で考えているのかが怪しくなります。 勿論僕は自分で考えていると思っています。 でもそれは、良くわかりませんが脳の中でA地点からB地点に電気が流れたり、そんな事の連鎖です。 それならばそれは自分で考えているんじゃなくて電気が動いてるだけという事になります。 なんともうまく伝えられないのですがよろしくおねがいします。

  • 《絶対》の概念をもし導入するとしたら・・・

    どのような考え方で どのような方向・方策が考えられるでしょうか。 どのように動機付けしていけばよいと思われるでしょうか。 むろん 導入の不要論や反対論も受け付けてまいります。 たとえば 司馬遼太郎の言うには:―― ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・ むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。 しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞) http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ちなみに わたしは 日本人のあいだでも 身分制のきびしき折り 愛し合った男女が 身分の違いで引き裂かれるというとき 道行きにみづからを追い込んでいったとき かれらは 絶対を見ようとしていたかも知れないと思います。死を覚悟の譴責を家来としておこなったりする場合も見られるように思います。 上の事例と同じように おこないとして どうかとも思うのですが 忠臣蔵も 絶対を見ようとしたのかも知れません。 とにかく 多岐にわたるでしょうが たとえばクリスチア二スムやイスラームとの付き合いでは わきまえておいたほうがよいと思ったりします。そして よかったら そのあたりでなりとも お考えを述べていただければさいわいです。 なおわたし自身は 絶対の概念について自分の見解を持っております。そして その導入ということについては いままでに特に考えたことはありません。

  • 疑わないときは信じているときなのか?

     明日が雨になることを疑うことをせず、明日が晴れになることを疑うことをしないときというのは、明日が雨であることも、晴れであることも信じていることになってしまうのでしょうか?    信じているというものについて混乱してしまいました。どうか、ご教授ください。

  • マルクス・エンゲルス著の「ドイツ・イデオロギー」について

    今、ドイツ・イデオロギーを読んでいるのですが、勉強不足のために多々意味が取りにくい部分があるので、質問させていただきます。 ――以下引用―― 大工業は大量生産諸力を生み出したが、その生産諸力にとって、私的所有は桎梏となったのであって、それは同職組合がマニュファクチュアによって桎梏となり、また、小農村経営が発達しつつある手工業にとって桎梏となったのと同様である。この生産諸力は、私的所有のもとではただ一面的な発展しかとげず、大多数にとっては破壊力となり、そして、そのような諸力の多くが、私的所有においてはまったく利用されることができない。 ―― ここの部分ですが、「なぜ生産諸力にとって、私的所有は桎梏となったのか」がいまいちわかりません。 むしろ分業が発達していき、大工業が生まれることによって、私的所有がもっと広がっていくのでは?と思ってしまいます。 あと「物質的活動」「精神的活動」の用語の意味も教えていただけると幸いです。

  • カントにとって道徳的な人とは?

    レポートを書く上で困っています カントは多くの質問が出されているので被っていると申し訳ありませんが。 実践理性批判 からなのですが カントにとって道徳的な人とはいったいどのような人なのでしょうか? おそらく 「ひととしての義務」 や 「善い意思」などがキーワードなのではないかと思いますが うまくまとめられません 回答お願いします

  • 哲学するための自然科学の知識について

    私立の大学の哲学科に通っていますが、 自然科学の知識がほとんどないため、 あまり充実した哲学的思考を持てません。 ラッセルや、古代ギリシャの哲学者の様に、 というのはかなり先ですが、 とりあえず、各分野を最低限習得するためには、 どういった勉強をすればいいのでしょうか? お勧めの書物やサイトなどを教えていただければ、幸いです。

  • 漠然とした事実

    ケインズの言葉だったと思いますが、 不確かな考察より漠然とした事実が重要である、 のような言葉があったと思いますが、ご存知の方いらっしゃいましたら、ご教授いただきたく。

  • 「ポストモダニストは隠れマルクス主義者だ」ということは?

    うろ覚えなんですが、なんかの本で「ポストモダニストは隠れマルクス主義者だ」という一文を 目にしたことがあります。これはどういう意味なんでしょうか? ポストモダンのご本尊はマルクスなんでしょうか?

  • リバタリアンコミュニタリアン論争

     リバタリアン・コミュニタリアン論争をきちっと学びたいのですが、きちんと整理した学術書を教えていただきたいです。  また英語の雑誌でその論争を展開している有名なものがあると聞いたのですが誌名を忘れてしまいました。それもご存じの方がいれば、ぜひ教えてください。

  • 言語記号の恣意性は正しいか

    反証例を掲げますので 自由な意見を述べてください。 / nVgV /という形態素を取り上げます。このシニフィアンが同じなら シニフィエも同じく《障害の除去》だという例です。 (1)/ nagi /なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ (切り払うべきもの・波風・心の動揺がそれぞれ順に障害ないし邪魔と見做され これを除去する・これが消滅する というシニフィエとなっている) (2)《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれている。 nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる) naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる) naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く)  naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある) (3)《和ぎ nagi 》関連。母音の交替を加えて。 nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態) nago-mu   和む     (障害が消滅していく) nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる) negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜  (障害の消滅を希求) nega-u   願う     (障害の消滅を希求)

  • 言語記号の恣意性は正しいか

    反証例を掲げますので 自由な意見を述べてください。 / nVgV /という形態素を取り上げます。このシニフィアンが同じなら シニフィエも同じく《障害の除去》だという例です。 (1)/ nagi /なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ (切り払うべきもの・波風・心の動揺がそれぞれ順に障害ないし邪魔と見做され これを除去する・これが消滅する というシニフィエとなっている) (2)《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれている。 nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる) naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる) naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く)  naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある) (3)《和ぎ nagi 》関連。母音の交替を加えて。 nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態) nago-mu   和む     (障害が消滅していく) nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる) negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜  (障害の消滅を希求) nega-u   願う     (障害の消滅を希求)

  • 言語記号の恣意性は正しいか

    反証例を掲げますので 自由な意見を述べてください。 / nVgV /という形態素を取り上げます。このシニフィアンが同じなら シニフィエも同じく《障害の除去》だという例です。 (1)/ nagi /なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ (切り払うべきもの・波風・心の動揺がそれぞれ順に障害ないし邪魔と見做され これを除去する・これが消滅する というシニフィエとなっている) (2)《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれている。 nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる) naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる) naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く)  naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある) (3)《和ぎ nagi 》関連。母音の交替を加えて。 nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態) nago-mu   和む     (障害が消滅していく) nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる) negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜  (障害の消滅を希求) nega-u   願う     (障害の消滅を希求)

  • 学校の発表でレヴィナスを起用

    学校での「総合的な学習」で各自で進路先に関係する題材で発表をすることになりました。私は哲学を進路先で学ぼうと思ったので、現代哲学に関する発表をしようと思っています。そこで私は、現代抱える問題と哲学とを結びつけようと思って悩んだ挙句に「殺人」と「レヴィナス哲学」を結びつけたテーマにしました。しかし、本を借りてきてもレヴィナスの「他人の顔」が生身の他人なのかそれとも広い意味での他人なのかわかりません。どなたかレヴィナス「他人の顔」の解釈がわかる方はいらっしゃいますか?

  • 人間は自ら言語を生み出す力を持ってますか?

    人間は一般には、親などの既に言語を習得している人から言語を習い覚えます。しかし、もし、そのように予め言語を習得している人がいなかった場合、人は自ら言語を生み出す能力を持っているのでしょうか? 常識的に考えると、初めは「あー」とか「ウー」とか言っていたのが、段々、単語が増え、文節ができ、何万年か経つうちにちゃんと文法構造を持った言語ができてきたと考えるのでしょうが、本当にそんなことが起こり得るという何らかの実証的あるいは理論的裏づけはあるのでしょうか?

  • 人間は自ら言語を生み出す力を持ってますか?

    人間は一般には、親などの既に言語を習得している人から言語を習い覚えます。しかし、もし、そのように予め言語を習得している人がいなかった場合、人は自ら言語を生み出す能力を持っているのでしょうか? 常識的に考えると、初めは「あー」とか「ウー」とか言っていたのが、段々、単語が増え、文節ができ、何万年か経つうちにちゃんと文法構造を持った言語ができてきたと考えるのでしょうが、本当にそんなことが起こり得るという何らかの実証的あるいは理論的裏づけはあるのでしょうか?