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  • 神について勘違いが多いのは なぜでしょう?

    神について勘違いが多いのは なぜでしょう?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。その理由をおしえてください。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般を    けっきょくは信じるというおかしなこととなる。  C. 同じく 教義を信じるという間違い。   ――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義的な人間    信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思ってい   る間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人間の    能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見受けられます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか?

  • 輪廻と業の説は 無用ではないか

    輪廻と業の説は 無用ではないか  あらためて問います。  (1) 生まれ変わるという意味での輪廻転生は 同じ DNA を持つひとが自分のほかにいないとすれば あり得ない誤謬である。このことの確認を願います。  (2) 業が行為を意味するとすれば この意志行為が原因となって――縁をも呼びこんで――その意志のあり方(単純に善か悪か)に従ってその決まった結果をも招くという見方は まづ一生涯を超えてはたらくということはあり得ない。同じく確認です。  (3) ではこの業にもとづく所謂る因果応報の説は ひとりの人間の生まれてから死ぬまでのあいだのこととしてなら 現実性を持つと見るべきか?  (3‐1) たとえば拉致という被害に遭った本人や家族は その単純に言って悪という結果を得たのは この世に生まれて来てから何らかの悪因となる行為をおこなったからか?    (4) 言いかえると すべての結果=かつ原因(つまり 原因=かつ結果)は 自業自得であるのか? そんなことが言えるのか?  (4‐1) すなわち 輪廻と業の説は いっさい無用であるのではないか? 大いなる勘違いではないだろうか?

  • マナー違反になってしまうかも。

    マナー違反になってしまうかも。 誰かに聞きたいと常々思っていました。ここで聞いたらマナー違反かなと悩んでいましたがお聞きします。 ある宗教の件です。 神(私)を信じるならば息子を殺せ というくだりがあったと思います。 何て怖い神様なんだろうと思ってしまいました。 人を試したり、俺(神)以外の神を信じるななんて 神様にしては心が小さすぎませんか。 私の信じている神様は寛大で、いつも私の心の中に居て、見守ってくれ時には助けてくれます。

  • 神について勘違いが多いのは なぜでしょう?

    神について勘違いが多いのは なぜでしょう?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。その理由をおしえてください。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般を    けっきょくは信じるというおかしなこととなる。  C. 同じく 教義を信じるという間違い。   ――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義的な人間    信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思ってい   る間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人間の    能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見受けられます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか?

  • 輪廻と業の説は 無用ではないか

    輪廻と業の説は 無用ではないか  あらためて問います。  (1) 生まれ変わるという意味での輪廻転生は 同じ DNA を持つひとが自分のほかにいないとすれば あり得ない誤謬である。このことの確認を願います。  (2) 業が行為を意味するとすれば この意志行為が原因となって――縁をも呼びこんで――その意志のあり方(単純に善か悪か)に従ってその決まった結果をも招くという見方は まづ一生涯を超えてはたらくということはあり得ない。同じく確認です。  (3) ではこの業にもとづく所謂る因果応報の説は ひとりの人間の生まれてから死ぬまでのあいだのこととしてなら 現実性を持つと見るべきか?  (3‐1) たとえば拉致という被害に遭った本人や家族は その単純に言って悪という結果を得たのは この世に生まれて来てから何らかの悪因となる行為をおこなったからか?    (4) 言いかえると すべての結果=かつ原因(つまり 原因=かつ結果)は 自業自得であるのか? そんなことが言えるのか?  (4‐1) すなわち 輪廻と業の説は いっさい無用であるのではないか? 大いなる勘違いではないだろうか?

  • 神について勘違いが多いのは なぜでしょう?

    神について勘違いが多いのは なぜでしょう?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。その理由をおしえてください。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般を    けっきょくは信じるというおかしなこととなる。  C. 同じく 教義を信じるという間違い。   ――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義的な人間    信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思ってい   る間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人間の    能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見受けられます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか?

  • 「精神接触」てあると思いますか?

    「精神接触」てあると思いますか? ある特殊な状態=トランス状態、のようなとき、誰か遠い場所の 人物と「精神接触」する場合があると思うのですが、 皆さんは、どう思われますか? 体験談でも構いません。 自由なご意見も歓迎です。 ーーーーー ちなみに、私の場合は、不可能が可能になる=劇的なもの=機能相転移 のような体験が多々あります。おそらく脳の先天的異常が原因です。 機能相転移というのは、未来予測ができることで、災難を避けたり、 あるいは、武術や戦闘において、勝利する、というようなイメージです。

  • 輪廻と業の説は 無用ではないか

    輪廻と業の説は 無用ではないか  あらためて問います。  (1) 生まれ変わるという意味での輪廻転生は 同じ DNA を持つひとが自分のほかにいないとすれば あり得ない誤謬である。このことの確認を願います。  (2) 業が行為を意味するとすれば この意志行為が原因となって――縁をも呼びこんで――その意志のあり方(単純に善か悪か)に従ってその決まった結果をも招くという見方は まづ一生涯を超えてはたらくということはあり得ない。同じく確認です。  (3) ではこの業にもとづく所謂る因果応報の説は ひとりの人間の生まれてから死ぬまでのあいだのこととしてなら 現実性を持つと見るべきか?  (3‐1) たとえば拉致という被害に遭った本人や家族は その単純に言って悪という結果を得たのは この世に生まれて来てから何らかの悪因となる行為をおこなったからか?    (4) 言いかえると すべての結果=かつ原因(つまり 原因=かつ結果)は 自業自得であるのか? そんなことが言えるのか?  (4‐1) すなわち 輪廻と業の説は いっさい無用であるのではないか? 大いなる勘違いではないだろうか?

  • 神について勘違いが多いのは なぜでしょう?

    神について勘違いが多いのは なぜでしょう?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。その理由をおしえてください。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般を    けっきょくは信じるというおかしなこととなる。  C. 同じく 教義を信じるという間違い。   ――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義的な人間    信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思ってい   る間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人間の    能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見受けられます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか?

  • マナー違反になってしまうかも。

    マナー違反になってしまうかも。 誰かに聞きたいと常々思っていました。ここで聞いたらマナー違反かなと悩んでいましたがお聞きします。 ある宗教の件です。 神(私)を信じるならば息子を殺せ というくだりがあったと思います。 何て怖い神様なんだろうと思ってしまいました。 人を試したり、俺(神)以外の神を信じるななんて 神様にしては心が小さすぎませんか。 私の信じている神様は寛大で、いつも私の心の中に居て、見守ってくれ時には助けてくれます。

  • 神について勘違いが多いのは なぜでしょう?

    神について勘違いが多いのは なぜでしょう?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。その理由をおしえてください。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般を    けっきょくは信じるというおかしなこととなる。  C. 同じく 教義を信じるという間違い。   ――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義的な人間    信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思ってい   る間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人間の    能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見受けられます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか?

  • 神について勘違いが多いのは なぜでしょう?

    神について勘違いが多いのは なぜでしょう?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。その理由をおしえてください。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般を    けっきょくは信じるというおかしなこととなる。  C. 同じく 教義を信じるという間違い。   ――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義的な人間    信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思ってい   る間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人間の    能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見受けられます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか?

  • 同じ音楽が体調により「速いとき遅いとき」があるのはなぜ?

    同じ音楽が体調により「速いとき遅いとき」があるのはなぜ? 皆さんは、同じ楽曲が速く聞こえたり遅く聞こえたりすることはありませんか? これってどうしてなんでしょうか? 私の推測では、脳内のクリック=テンポが一定ではないため、 相対的に、聞こえる音楽の速度も変わる、ていうことかな? 誰か知っていたら教えてください。 また自由な、ご意見も歓迎です。

  •  人の難しさ、神の難しさ

     人の難しさ、神の難しさ  <神について勘違>ということばが標目にあるご質問もあり、そこに投稿したかったのですがまた私には別世界の懸隔の中に迷いそうなので、躊躇しました。  1. 最初にお断りしておきますが、上記の質問文自体は私の理解とは違う意味で使われていますが、<神について勘違>ということば表現に私は、独断的な独りよがりの感じを受けました。  このような取り方はやはり私の狭隘さや自己の認識の独尊的感情があるからでしょうか?  2. 人の内臓や生きてきた経験は、本当は同じ人間同士だろうけど、なかなか尊重しあえません。  昔から、<あが仏>という語があります。   自分の信仰や宗教ってどうしても最高と思いがちです。   そうではあっても、自分以外の方々の信仰や宗教も、多分自分がその人の内臓と生きる歴史になれば、すごい最高だと思うんです。   だから、自分の大事な信仰などを持ちながらも、人のこと、そして人の信仰の尊重は大事なんでしょう。   人の信仰を大事にする仕方を少しでも教えてください。   私は仏教やヒンドゥそして論語(日本的)をとても優れたものとおもっています。   だからそれ以外や自分の信仰の仕方以外の事の大事さが理解しにくいのです。   そういう私になにか助言をしてください。  3. 最後に、宗教戦争的なことを人類が克服していくにはどうしたらいいでしょう

  • 神について勘違いが多いのは なぜでしょう?

    神について勘違いが多いのは なぜでしょう?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。その理由をおしえてください。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般を    けっきょくは信じるというおかしなこととなる。  C. 同じく 教義を信じるという間違い。   ――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義的な人間    信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思ってい   る間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人間の    能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見受けられます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか?

  • マナー違反になってしまうかも。

    マナー違反になってしまうかも。 誰かに聞きたいと常々思っていました。ここで聞いたらマナー違反かなと悩んでいましたがお聞きします。 ある宗教の件です。 神(私)を信じるならば息子を殺せ というくだりがあったと思います。 何て怖い神様なんだろうと思ってしまいました。 人を試したり、俺(神)以外の神を信じるななんて 神様にしては心が小さすぎませんか。 私の信じている神様は寛大で、いつも私の心の中に居て、見守ってくれ時には助けてくれます。

  •  人の難しさ、神の難しさ

     人の難しさ、神の難しさ  <神について勘違>ということばが標目にあるご質問もあり、そこに投稿したかったのですがまた私には別世界の懸隔の中に迷いそうなので、躊躇しました。  1. 最初にお断りしておきますが、上記の質問文自体は私の理解とは違う意味で使われていますが、<神について勘違>ということば表現に私は、独断的な独りよがりの感じを受けました。  このような取り方はやはり私の狭隘さや自己の認識の独尊的感情があるからでしょうか?  2. 人の内臓や生きてきた経験は、本当は同じ人間同士だろうけど、なかなか尊重しあえません。  昔から、<あが仏>という語があります。   自分の信仰や宗教ってどうしても最高と思いがちです。   そうではあっても、自分以外の方々の信仰や宗教も、多分自分がその人の内臓と生きる歴史になれば、すごい最高だと思うんです。   だから、自分の大事な信仰などを持ちながらも、人のこと、そして人の信仰の尊重は大事なんでしょう。   人の信仰を大事にする仕方を少しでも教えてください。   私は仏教やヒンドゥそして論語(日本的)をとても優れたものとおもっています。   だからそれ以外や自分の信仰の仕方以外の事の大事さが理解しにくいのです。   そういう私になにか助言をしてください。  3. 最後に、宗教戦争的なことを人類が克服していくにはどうしたらいいでしょう

  •  人の難しさ、神の難しさ

     人の難しさ、神の難しさ  <神について勘違>ということばが標目にあるご質問もあり、そこに投稿したかったのですがまた私には別世界の懸隔の中に迷いそうなので、躊躇しました。  1. 最初にお断りしておきますが、上記の質問文自体は私の理解とは違う意味で使われていますが、<神について勘違>ということば表現に私は、独断的な独りよがりの感じを受けました。  このような取り方はやはり私の狭隘さや自己の認識の独尊的感情があるからでしょうか?  2. 人の内臓や生きてきた経験は、本当は同じ人間同士だろうけど、なかなか尊重しあえません。  昔から、<あが仏>という語があります。   自分の信仰や宗教ってどうしても最高と思いがちです。   そうではあっても、自分以外の方々の信仰や宗教も、多分自分がその人の内臓と生きる歴史になれば、すごい最高だと思うんです。   だから、自分の大事な信仰などを持ちながらも、人のこと、そして人の信仰の尊重は大事なんでしょう。   人の信仰を大事にする仕方を少しでも教えてください。   私は仏教やヒンドゥそして論語(日本的)をとても優れたものとおもっています。   だからそれ以外や自分の信仰の仕方以外の事の大事さが理解しにくいのです。   そういう私になにか助言をしてください。  3. 最後に、宗教戦争的なことを人類が克服していくにはどうしたらいいでしょう

  •  良心とか、好ましい心、といった表現について。

     良心とか、好ましい心、といった表現について。  以前、何処かで“良心”という言葉を使って思いを述べた時、良心って何ですか、と言ったような意見を貰った事があります。  そのとき私は“えっ”て驚きました。  「良心って何」って問うような事柄なのだろうかと。  でもだんだん分かるようになってきました。  そのように問う人の“良心”に就いての捉え方は、人間社会に於ける“理性的良心”について、だと言う事を。  言い換えれば、理性で考えられるところの“良心”とは、と言うものでした。   こうした観点からの“良心”について考える事は人間社会をより良くするために、必要なことであろうと思います。  とは言っても、理性で考える“良心”は感情に於ける“良心”を拠り所にするしかないのでは、と思うのです。  感情に於ける良心をないがしろにして、「良心」なるものを考えようとしても、言葉の世界の域を出ないのではないでしょうか。  私が意識して使う“良心”は、小学生でも分かる「やさしさ、思いやりの心」と言った気持ちのことです。      

  • 神について勘違いが多いのは なぜでしょう?

    神について勘違いが多いのは なぜでしょう?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。その理由をおしえてください。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般を    けっきょくは信じるというおかしなこととなる。  C. 同じく 教義を信じるという間違い。   ――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義的な人間    信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思ってい   る間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人間の    能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見受けられます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか?