AXIS_ の回答履歴

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  • 因果の理法(因果応報)とはどういうことですか?

    因果の理法(因果応報)とはどういうことですか?

  • 救済

    救済 この語がむなしく響くのはなぜか

  • 神との契約

    神との契約 神との契約が有効になるための条件はどのようなものがありますでしょうか? 知的障害者や精神障害者なども神との契約を結ぶことが出来ますでしょうか?

  • W杯で日本×デンマークはどんな結果になると思いますか?

    W杯で日本×デンマークはどんな結果になると思いますか? 多数の意見お待ちしています。

  • 表現の自由が人権侵害することはないか?

    表現の自由が人権侵害することはないか? 哲学上の問題ではないのですが、ここは、モノゴトを徹底的に考える方が集まっていると思うので、質問させて頂きます。 先週日曜日のテレビ番組、サンデーモーニングで江川さんと張本氏が衝突し、張本氏がTBSに圧力をかけて江川氏を番組から降板させたというので、ブログ管理人が張本氏とTBSを批判しています。批判理由の1つに管理人は、(江川氏の)表現の自由ということを上げています。 リンク→http://igajin.blog.so-net.ne.jp/2010-06-19#comments 表現・言論の自由がなく抑圧された歴史が日本にはありますから、「表現の自由」などと言われたら、それに異を唱える気力が失せてしまいます。 しかし、私はちょっと違う気がするんですね。文学作品とか政治的発言は自由な発想で表現しても問題ないと思いますが、表現の自由が個人に向かうとき、それが「人権侵害」になる時があるのではないかと思っています。 例えば、職場で上司が部下を怒鳴るというのは「パワハラ」であり、「重大なる人権侵害」であると法務省が言っております。パワハラの定義は、権力や地位を利用した・・・などとどこかで読んだことがあります。じゃあ、道端で赤の他人に怒鳴った場合、怒鳴られた人がひどく傷ついた場合、これは人権侵害ではないのか?精神的ダメージを受けたのですから、職場とか上司に関係なく、これも「人権侵害」だと私は思います。 今回の場合だけでなく、江川氏は以前からこういう張本氏に対する「絡み」はよくやっていました。野球に対して哲学と信念を持っている張本氏は、彼女のそういう行為を、非常に不愉快な「嫌がらせ」「いちゃもん」のように感じていたのでしょう。スタジオで議論するのは、彼の仕事ではないし、彼の性分ではないので、番組外でTBSにお願いしたのだと思います。それを、管理人は「圧力」だと批判していました。 張本氏が彼女のいつもの「絡み」に非常に不愉快なものを感じていたのは事実だと思います。これは「人権侵害」には当たらないのか?娯楽番組なんだから、張本は「大人気ない」と彼を批判する人が多いように思います。しかし「人権」というのは時代や体制に関わりのない、一番上位にある価値観だと私は思っています。娯楽番組だからという価値観を人権の上位においていいのでしょうか?娯楽番組の中で、マジメに信念を通す権利はないのでしょうか?そうしたらマズイのでしょうか? 実話ですが、ある日本在住のスペイン人が日本で働いていて職場で、しばしば日本の慣習やり方に合わないので周囲の日本人に非難される。「ここは日本なんだから、日本のやり方に従え」と。すると彼女は必ず言い返しました。「でも、私はスペイン人よ」と。ここは娯楽番組なんだから、番組のやり方に従えという声が多いようにみえます。 私自身、まだ頭の中で色んな価値観がこんがらがっていて、スッキリした結論が出せずにいます。皆さん方、論理的に明快な考え方がありましたらどうか教えて頂きたく思います。

  •  あっ、ライオンの目の前にふくろうの雛が!

     あっ、ライオンの目の前にふくろうの雛が!  今日のMSNのホームのトップニュースに載っていた写真のことです。  その記事の写真は、目の前のふくろうの雛に無関心なライオンの顔が。  それは動物園での出来事であったとか。  だからちょっと考えてしまいました。  動物園での出来事だった、と思うから。  皆様の“哲学的”ご意見、感想を聞かせてください。  よろしくお願いいたします。

  • ヘーゲルが自分が真実だけを言う、自分は真実そのものであるとどこかに書い

    ヘーゲルが自分が真実だけを言う、自分は真実そのものであるとどこかに書いていると何かで読んだ事があるのですが、ヘーゲルのこの発言の出典をご存知の方がおられましたら、ご示唆を承りたく存じます。

  • ズバリ、唯識の欠点とは何か? 現代哲学はどう唯識を本質的に批判できるの

    ズバリ、唯識の欠点とは何か? 現代哲学はどう唯識を本質的に批判できるのか? 答えられる方があればお願いします。ちなみに、百歩譲って、下のwikipediaの記述における間違いでも結構です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 唯識とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の 見解の一つである。ここで、八種類の識とは、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な、表象、認識、思考の諸行為を内含し、それらと相互に影響を与えあうその個人の無意識の領域をも内含する。 あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な虚構であり客観的存在ではない。それら諸存在は無常であり、生滅 を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(色即是空)。このように、唯識は大乗仏教の空 (仏教)の思想を基礎に置いている。また、唯識と西洋哲学でいう唯心論とは、基本的にも、最終的にも区別されるべきである、、、

  • ズバリ、唯識の欠点とは何か? 現代哲学はどう唯識を本質的に批判できるの

    ズバリ、唯識の欠点とは何か? 現代哲学はどう唯識を本質的に批判できるのか? 答えられる方があればお願いします。ちなみに、百歩譲って、下のwikipediaの記述における間違いでも結構です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 唯識とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の 見解の一つである。ここで、八種類の識とは、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な、表象、認識、思考の諸行為を内含し、それらと相互に影響を与えあうその個人の無意識の領域をも内含する。 あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な虚構であり客観的存在ではない。それら諸存在は無常であり、生滅 を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(色即是空)。このように、唯識は大乗仏教の空 (仏教)の思想を基礎に置いている。また、唯識と西洋哲学でいう唯心論とは、基本的にも、最終的にも区別されるべきである、、、

  • 唯物論と唯識論の接点は?在るでしょうか?

    唯物論と唯識論の接点は?在るでしょうか? 唯識における精神は唯物で言えば何?

  • 仏弟子の修行と研究は楽を欲す故の怠慢ばかりが目立つ。

    仏弟子の修行と研究は楽を欲す故の怠慢ばかりが目立つ。 http://okwave.jp/qa/q5964141.html これに続きます。 哲学の多数派より胸糞悪い回答を得たので早々に締めましたが、気を改めて再投稿です。 お釈迦様の生きた時代とは、農耕が勃興し文明が開花しつつある時代です。 その時代に置いて生きる事すなわち耕す事とは、来年のために種を残すこと。 すなわち、自らが生きるために自然界と共生する事です。 無を離れ愛の感想を述べましょう。 地を耕し命をはぐくむことは、自らが生きるために他者おも生かす事です。収穫は共同体の中で平等に分配され、翌年を種がまかれ命をはぐくむための共生が行われます。 たったこれだけ。 ところが現代でも異論が挟まります。 利己心のみで、ただむさぼりたいだけ、地を耕すのだ。 そのようにいかさまを働いたのがお釈迦様の生きた時代のバラモン(聖職者であり内情は単なる寄生虫)の教えであり、お釈迦様は無の観想のみでそれに対抗し「そんなもんありゃしねー」と、吹っ飛ばしたのです。 それが無の観想です。 あえて言いましょう。 「そんなのかんけーねー」と、裸をどりをするお笑い芸人の姿がお釈迦様です。 なのに、そんな「無」の観想を回避して仏弟子を気取る畜生が現代の信仰をいまだに支えています。 観念研究とは、宗教的(仏教による)束縛を離れて、純粋な哲学としておこなってこそ成果がある事柄であり脈々と受け継がれる仏教の教えは初源の無の悟りから離れるばかりです。 人間として仏弟子を全うするには「無」を理解する事が避けがたいのです。 以上が哲学的たたき台です。 質問する場なのでそれなりの事を問うとしたら、信仰の内側から無に至ることは不可能ではないか? 故に極楽往生の研究のみが目立つ。このような意見に本当にそうですか?と言う質問です。 よろしくお願いします。

  • 泥棒はいかなる事情があっても悪い事なのか?

    泥棒はいかなる事情があっても悪い事なのか? 終戦直後の日本は貧しかった。 そこに空襲ですべてをなくた、母と小さい息子がいたとする。 母は病弱のため寝たきりで、食べるものをどうする事もできない。 そのため息子は母のために農家に行き、食べるものを盗んだ。 泥棒は悪い事と人はいう。 それは正論であろうが、泥棒は場合により正当化されても いいのではないのか? ちなみに、僕はこの場合は盗んでもいいのではないかと思う。 ただし、畑に何もなくなるくらい盗むのはいけない。

  • あなたは神を信じますか?

    あなたは神を信じますか? 生き物を超越し意思を持った何かを、信じますか?

  • あなたは神を信じますか?

    あなたは神を信じますか? 生き物を超越し意思を持った何かを、信じますか?

  • 私は神になりたい

    私は神になりたい 神になる前に人間になりたい、私が人間である確証がほしい…。 人間とはなんだろう… 物質(肉体)と非物質(精神・心)で別けて考えてみた。 もし、サル顔の人がいるとしよう、 彼は紛れもなく「人」だ。 もし、身体までも限りなくサルに似た人がいたとしよう、 彼もまた「人」であろう。 なら、サルの身体に人の精神が宿っているなら、 身体までも限りなくサルに似た人とどこが違うのだろう。 その反対に、 人に限りなく同じ形に作られた牛や馬がいるなら、 あなたはそれをなんと呼ぶのだろう。 なので、私は人の定義を肉体ではなく精神にあると決める。 となると、人の精神、人の心は何を持って人のだと言い切れるだろう。 我らは、いったん人として生まれたら、 虐殺や殺人のような酷いことをして“人でなし”と言われ様とも、 その罪人を本気で人ではない生物として認識したりはしない。 つまり、道徳や倫理や規範や常識などは 単なる人としての正しい道を示すだけに過ぎず、 それが人の非物質的な部分を定義してるわけではないはずだ。 ゆえに、 私は人の定義を探している。 その答えを得るために、 私は今、神様に会うための道を歩いている。 彼に会った時、私は気づくのであろう、 今私は彼と同じ道に立っていることを…。 今日この瞬間は、赤ちゃんのはいはいにも及ばない、 お母さんの羊水の中で目にも見えない程度の 小さな細胞ひとつのもがきのような動きに過ぎないかも知れないが、 かつで、月へ宇宙へ届くことを信じて夢見ていた先駆者のように、 私の道のりはここから始まる。 その道に辿り着くために、私の人生は、あまりにもはかなく短い。 しかし、 その続きの道は誰かによってきっと究められるはずだと信じる。 同じ道を探している同士を求む!! (宗教の勧誘とか、どこかの宗教に入りたいつもりはありませんのでご了承ください)

  • 私は神になりたい

    私は神になりたい 神になる前に人間になりたい、私が人間である確証がほしい…。 人間とはなんだろう… 物質(肉体)と非物質(精神・心)で別けて考えてみた。 もし、サル顔の人がいるとしよう、 彼は紛れもなく「人」だ。 もし、身体までも限りなくサルに似た人がいたとしよう、 彼もまた「人」であろう。 なら、サルの身体に人の精神が宿っているなら、 身体までも限りなくサルに似た人とどこが違うのだろう。 その反対に、 人に限りなく同じ形に作られた牛や馬がいるなら、 あなたはそれをなんと呼ぶのだろう。 なので、私は人の定義を肉体ではなく精神にあると決める。 となると、人の精神、人の心は何を持って人のだと言い切れるだろう。 我らは、いったん人として生まれたら、 虐殺や殺人のような酷いことをして“人でなし”と言われ様とも、 その罪人を本気で人ではない生物として認識したりはしない。 つまり、道徳や倫理や規範や常識などは 単なる人としての正しい道を示すだけに過ぎず、 それが人の非物質的な部分を定義してるわけではないはずだ。 ゆえに、 私は人の定義を探している。 その答えを得るために、 私は今、神様に会うための道を歩いている。 彼に会った時、私は気づくのであろう、 今私は彼と同じ道に立っていることを…。 今日この瞬間は、赤ちゃんのはいはいにも及ばない、 お母さんの羊水の中で目にも見えない程度の 小さな細胞ひとつのもがきのような動きに過ぎないかも知れないが、 かつで、月へ宇宙へ届くことを信じて夢見ていた先駆者のように、 私の道のりはここから始まる。 その道に辿り着くために、私の人生は、あまりにもはかなく短い。 しかし、 その続きの道は誰かによってきっと究められるはずだと信じる。 同じ道を探している同士を求む!! (宗教の勧誘とか、どこかの宗教に入りたいつもりはありませんのでご了承ください)

  • 私は神になりたい

    私は神になりたい 神になる前に人間になりたい、私が人間である確証がほしい…。 人間とはなんだろう… 物質(肉体)と非物質(精神・心)で別けて考えてみた。 もし、サル顔の人がいるとしよう、 彼は紛れもなく「人」だ。 もし、身体までも限りなくサルに似た人がいたとしよう、 彼もまた「人」であろう。 なら、サルの身体に人の精神が宿っているなら、 身体までも限りなくサルに似た人とどこが違うのだろう。 その反対に、 人に限りなく同じ形に作られた牛や馬がいるなら、 あなたはそれをなんと呼ぶのだろう。 なので、私は人の定義を肉体ではなく精神にあると決める。 となると、人の精神、人の心は何を持って人のだと言い切れるだろう。 我らは、いったん人として生まれたら、 虐殺や殺人のような酷いことをして“人でなし”と言われ様とも、 その罪人を本気で人ではない生物として認識したりはしない。 つまり、道徳や倫理や規範や常識などは 単なる人としての正しい道を示すだけに過ぎず、 それが人の非物質的な部分を定義してるわけではないはずだ。 ゆえに、 私は人の定義を探している。 その答えを得るために、 私は今、神様に会うための道を歩いている。 彼に会った時、私は気づくのであろう、 今私は彼と同じ道に立っていることを…。 今日この瞬間は、赤ちゃんのはいはいにも及ばない、 お母さんの羊水の中で目にも見えない程度の 小さな細胞ひとつのもがきのような動きに過ぎないかも知れないが、 かつで、月へ宇宙へ届くことを信じて夢見ていた先駆者のように、 私の道のりはここから始まる。 その道に辿り着くために、私の人生は、あまりにもはかなく短い。 しかし、 その続きの道は誰かによってきっと究められるはずだと信じる。 同じ道を探している同士を求む!! (宗教の勧誘とか、どこかの宗教に入りたいつもりはありませんのでご了承ください)

  • 唯物論と唯識論の接点は?在るでしょうか?

    唯物論と唯識論の接点は?在るでしょうか? 唯識における精神は唯物で言えば何?

  • 唯物論と唯識論の接点は?在るでしょうか?

    唯物論と唯識論の接点は?在るでしょうか? 唯識における精神は唯物で言えば何?

  • こんな内容のメール

    こんな内容のメール もう嫌です。疲れました。気が狂いそうです。 女性が男性からこのような文面のメールをもらったらどのような気持ちになりますか?