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地上戦での死体を収容する「遺体収納袋」

第2次世界大戦でドイツ軍がソ連に侵攻する直前、国境近くに「遺体収納袋」を大量に用意しているのを見て、ソ連との戦争が、近く始まると予測した人が居たそうです。 また、米軍もイラク戦争前に大量の「遺体収納袋」を用意したそうです。 質問です。 旧日本陸軍にも「遺体収納袋」のような物があったのでしょうか。 ノモンハン事件では、停戦合意後、日ソ両軍が戦闘した同じ場所で、同時に自軍の遺体を収容したそうですが、日本軍はどのようにして遺体を収容したのでしょうか。 変な質問ですが、よろしくお願いいたします。

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  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2183/4836)
回答No.3

>旧日本陸軍にも「遺体収納袋」のような物があったのでしょうか。 上官専用の袋は存在しました。 戦死した上官・仕官の遺体は、日本に戻っています。 が、多くの兵士には「遺体袋」は存在しません。 当時の軍部は「兵士は消耗品」ですからね。 「産めや増やせや!」⇒子供を多く産んで育てて兵隊にしろ! 「兵隊は誇りだ!」⇒上官の命令は天皇陛下の命令だ!突撃! 遺体袋を積む余裕があれば、武器・弾薬を積み込みます。 >日本軍はどのようにして遺体を収容したのでしょうか。 先に書いた通り、上官のみ収集しています。 ♪海行かば水漬(みづ)く屍(かばね)、山行かば草生(む)す屍♪ 兵士の遺体に関しては、そのままですよ。 ※自軍若しくは敵軍が大きな穴を掘って、ブルドーザーで一気に埋葬。 現在でも、(厚労省が中心になって)外国で戦死した遺骨採集が行われていますよね。 >変な質問ですが、よろしくお願いいたします。 別に、変な質問ではありません。 昭和の時代だと、皆遠慮して質問しませんからね。 平成・令和になって、初めて誰に遠慮することなく戦時中の事を調べる事が出来る様になったのですから・・・。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 上官だけは特別扱いだったのですね。 朝鮮戦争での米兵の死者のなかには、“死に化粧”を施される場合もあったそうです。 こんな国と戦争したのですから勝てっこないですね。 「別に、変な質問ではありません」には、勇気づけられました。 昭和天皇があれやこれやと戦争に口出ししていたことも明るみに出てきました。 質問した甲斐がありました。

その他の回答 (3)

  • pri_tama
  • ベストアンサー率47% (674/1410)
回答No.4

>旧日本陸軍にも「遺体収納袋」のような物があったのでしょうか。  日本の場合、遺体の一時的な保存なら棺に入れますから、遺体袋はあまり使われなかったかと思います。  まあ日本の場合は戦死者の遺体は可能な限り速やかに火葬(荼毘)とするとされたので、必要があまりありませんが…。  (戦前だと冷凍保存とかの技術もないので、外国から日本へ遺体を輸送したら、日本に着くころには腐敗して…。)  あと、宗教的な面でも釈迦(仏陀)が火葬となっているので、推奨されています。  なお他の宗教は火葬を忌避する傾向が強いというのも考慮すべきかと。  例えば、キリスト教系は、復活の教義があり遺体は可能な限り現状維持が望ましいとされました。  ⇒火葬にするとその人物は、神が降臨した際に復活できないと認識される事に成り、遺族が…。  (カトリックでは、災害等で遺体が腐敗して二次災害発生を防ぐため火葬を認める方向に最近転嫁しましたが…。)  ちなみに、米陸軍軍事情報部の戦訓広報誌には、帝国陸軍は末端兵士の死にも敬意(最寄りの司令部に運び将軍から一兵卒まで全員、敬礼しなくてはならない)を示す事(葬儀の様子まで詳細に)が記されています。  なお、帝国陸軍は遺体の回収にも熱心であり攻勢が失敗した米軍陣地の数ヤードそばまで這い寄って遺体を回収していたことが記載されています。  ⇒帝国陸軍は味方の遺体を回収に来るから、放置された日本兵のそばで待ち構えていれば、効果的に奇襲できるという戦法がとられたくらい…。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 帝国陸軍が遺体収容に熱心であったことは、よく分かりました。 ただ、遺体を収容する余裕があったのは、太平洋戦争開戦初期だけだったのではないでしょうか。 日米最初の陸戦はガダルカナルの戦いでしたから、その当時はなんとか遺体を収容しようとする気力もあったのでしょう。 炊事の煙さえ制限された戦場では、はたして火葬できたのか、疑問です。 勿論、原則は火葬ですが…。 質問した「遺体収納袋」は使用していなかったこと、分かりました。

  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (379/1171)
回答No.2

神風特攻を考え、実行し、常軌を逸した大本営に、遺体収容なんて事、考えていなかったと思いますよ。 フイリッピンで戦死したとして、靖国神社で受け取った、叔父さんの 遺骨の箱に入っていたのは、綿に包まれた、小石だったと、母が 語ってくれました、兵士は只の消耗品だったのです。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 やはり、そうですか。 「兵士は只の消耗品」だったのですね。

  • DESTROY11
  • ベストアンサー率23% (785/3378)
回答No.1

何か証拠とかそういうものはないのですが、遺体を回収できた場合は現地の基地で火葬を行い、灰を故国へ送ったようです。 が、大半は置き去りでした。 重傷者はその場に置き去りにして自決を促す。後日回収に来るとかそういうことはなかったようです。出来なかったというべきかな。 だから未だにフィリピン、硫黄島など激戦地では日本兵の遺骨が眠っています。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 やはり、そうですか。 死体を収容するような余裕があれば突撃せよ、と言うような感じですね。

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