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家康が入城したときの江戸城の様子

調べてみますと、江戸城の前身は、「室町時代の1457年で、関東管領扇谷上杉氏の太田道灌が古河公方足利成氏に対抗するための拠点として築いた。」とされているのですが、戦国期には北条氏の支城だったようで、期間は、「1524年から1590年までの66年間、その間、城代として太田氏、富永氏、遠山氏などが送り込まれていた。」とあります。 その後、北条氏が秀吉に滅ぼされ、1590年に豊臣秀吉の命で、徳川家康が江戸城に入っています。北条氏の支城だった期間の終わりと一致します。まさか、北条氏の城代一族が城を守っているのに、「家康にどうぞ」なんて言わないとは思うのですが。 質問なのですが、家康が江戸城に入城したときの「江戸城」というのはどんな様子だったのでしょうか???秀吉の小田原攻め以前、又は家康入城の時には、すでに「空城」になっていたのでしょうか???  それとも、家康入城の時に「城の明け渡し」のような儀式なり、戦があったのでしょうか??? 

noname#247736
noname#247736
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みんなの回答

  • eroero4649
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回答No.3

ご存知だとは思いますが、北条氏は秀吉によって滅亡させられています。いわゆる小田原の役のときに北条軍の主力は全て小田原城に入城しており、乱暴にいうと全軍が小田原城内にいて他の城はほぼもぬけの殻に近い状態となっていました。 後北条時代の武蔵(東京)の中心地は北条氏照の居城であった八王子城でした。武蔵で一番堅固な城が八王子城です。しかし氏照本人は自ら兵を率いて小田原城に入っており、八王子城には守備兵が残るのみでした。その八王子城は秀吉多国籍軍の攻撃を受けて一日で落城してしまっています。 北条氏の領土は、後に「のぼうの城」で取り上げられた忍城を除けば北条氏が降伏するまでにすべて落城してしまいました。 現在の東京都、千葉県北半分、埼玉県は北条氏の勢力圏だったので、江戸城は後北条氏滅亡当時は重要度の低い後方基地となっていました。どの程度の城郭だったのかは後の江戸城築城で埋もれてしまったのであまり分かっていません。 http://yogokun.my.coocan.jp/tokyo/chiyodaku.htm このページにあるイラストみたいな規模だったのではないかと推測されています。なお、このイラストは建物が小さすぎると思います。 Wikipediaにもありますが、徳川家が関東に入った頃は江戸城は荒れ果てた小城に過ぎなかったと思います。小田原の役のときの記録は残っていませんが、おそらくはそのまま豊臣多国籍軍によって無血占領されたのではないかなと思います。 当時の関東での一番の大都市ならびに大城郭は小田原城でした。だから、家康も小田原城を本拠にするだろうと思われていましたが、家康は新たな本拠地探しをします。 その理由を書くとまた長くなりますが、家康としては秀吉のことを念頭に置くと、小田原を本拠にする限り秀吉に攻略されてしまう(小田原では戦さに勝てない)ということを分かっていたからだと思います。それに関東全体を見るには小田原は領土の西寄りすぎて不便です。また小田原の都市としての発展性の少なさにも気づいていたと思います。 そういった中で本拠地として一番理想的な場所にあるとなったのが江戸城だったといえると思います。海に接していて海運が使え、荒川を始めとして河川が多くあります。河川は堀という役割と水運が使え、市民の飲料水(生活用水)の供給源にもなります。ちなみに世界的大都市はほぼ必ずといっていいほど川のそばにあります。ロンドンにテムズ川、パリにセーヌ川、ローマにテベレ川、ニューヨークにハドソン川。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 ご回答の内容が、頭の中で描いていたことと、大きく違っていませんので、すんなり理解できました。 ただ、「江戸城は後北条氏滅亡当時は重要度の低い後方基地となっていました。」というのは、想定外でした。ついつい今の東京や皇居の姿を前提に空想してしまいます。笑 イラストみたいな規模だったのではないかと推測されています。なお、このイラストは建物が小さすぎると思います。……WIKに「氏政は氏直に家督を譲って江戸城に隠居したあとも、」とあります。これが事実であれば、イラストの印象よりも、建物なども、もう少し整備されていたかもと想像します。 豊臣多国籍軍によって無血占領されたのではないかなと思います。……そういえば、戊辰戦争の時も。「江戸城では血を流してはいけない」という不文律でもあるのでしょうか。 家康は新たな本拠地探しをします。……秀吉も「江戸」を勧めたというのを何かで読みました。もっとも秀吉にとっては、「家康はできるだけ遠くに行ってほしい。」という魂胆があったかもしれませんが。 世界的大都市はほぼ必ずといっていいほど川のそばにあります。……そういえば、もう記憶が薄くなっていますが、4大文明も大きな川のほとりだったような。しかし、東京も、そろそろ危ないのでは。グラッときそうで。

  • D-Gabacho
  • ベストアンサー率62% (953/1525)
回答No.2

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90 上のwikiの小田原征伐の説明によれば、江戸城は遠山氏の縁戚の川村秀重が1000人で守備していたものの、4月27日、浅野長政や徳川靡下の榊原康政、戸田忠次らが攻め寄せたため開城降伏したそうです。徳川実紀に「忽ちに降参し此城を進らす」とあり、戦いらしい戦いなしに開城したのでしょう。また、このとき家康の臣下の戸田忠次が城をうけとったとあります。戸田忠次自身はその後も各地を転戦していますが、配下の者がいくらかは残っていたでしょう。家康が8月1日に入城する前から、事実上、江戸城は家康の管理下にあったといえます。 徳川実紀 第1編 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772965

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 秀吉と家康の「立小便」の話は別にしても、「実際のこの頃には後北条領は家康に与えられることになっていたと考察されており、伊豆は4月中旬には既に家康の領国化が始まっていた。」というWIKの解説がみられるということは、江戸城開城の頃は、家康の関東移封は決まっていたということですかねぇ。そうだとしたら、「配下の者がいくらかは残っていたでしょう。家康が8月1日に入城する前から、事実上、江戸城は家康の管理下にあったといえます。 」もよく理解できますね。

  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2589/17102)
回答No.1

「城」というのは、戦国時代までは基本住むところではなく、要所に設けて襲撃を受けた時に防ぐための砦です。普段は「見張り番」のような人物しかいないことが多く、領主は別の場所に設けた屋敷に住んでいるものなのです。ですから、使用しなくなれば短期間で老朽化が進んでしまいます。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 使用しなくなれば短期間で老朽化が進んでしまいます。 ……「城」に限らずのようですね。

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