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中世までの町人・農民は天皇や将軍の顔を知ってた?

京都・江戸・大坂あたりの町民なら見た事ある町人がいたかもしれませんが、それ以外の地方の農民・町民が徳川将軍や天皇の顔なんて知っていたのでしょうか? 今の日本で天皇陛下や総理大臣の顔を知らない人はほとんどいないと思いますが、当時は「そう言う人が日本を治めている」と言う事は知っていても、どんな人かまでは知らない人が圧倒的多数だったのでしょうか?

noname#243483
noname#243483
  • 歴史
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みんなの回答

回答No.7

知らないと思いますよ そもそも天皇は御所から出る事は無いし 行幸のために出たとしても顔は絶対に見えない様にされていました なので庶民が天皇の顔を見る事は不可能でした 徳川の将軍は宮中に参内したり 日光東照宮に参詣したりしていたので その時に地元の人は顔を見たかもしれません まぁ頭を下げてたのでチラっと顔を上げてみる勇気が有ったかどうかですが 見ようと思えば見れましたので

  • staratras
  • ベストアンサー率40% (1441/3515)
回答No.6

天皇や将軍に直接会って顔を見ることが極めて困難な一般庶民にとって、昔はそもそも顔を知る手段がありませんでした。 写真がない時代に顔を知る手段は絵だけです。日本では「似絵」と呼ばれる写実的な肖像画が中世、鎌倉時代から南北朝時代にかけて描かれました。「後鳥羽天皇像」など天皇像もいくつか現存していますが、現在国宝や重要文化財に指定されていることからもわかるように、描かれた当時から今まで極めて大切に伝えられてきたもので、広く庶民が見ることができるものではなかったと考えられます。 江戸時代には浮世絵の版画が比較的安価で売られるようになりましたが、役者や力士、芸者・遊女などの肖像はあっても、その当時の江戸の将軍様や京の天子様の顔を写実的に描いたものを回答者は知りません。「現存する貴人の顔を描くのは憚られる」ことはもちろんですが、絵師も顔を知らないのですから「描けと言われても描きようがなかった」でしょう。 この事情が一変したのが明治になってからで、明治天皇は浮世絵に描かれています。また御真影と呼ばれた肖像写真も世間に広く普及していきましたので、庶民も「顔を知る」ことができるようになりました。天皇を頂点とした近代国家を作りたい明治政府は、天皇を「庶民にもイメージできる具体性を持った存在」にしたかった、ということです。 しかしそれでも今から84年前の2.26事件の際、秘書として官邸にいた岡田総理大臣の義弟を殺害して本人と誤認するということが実際に起きています。庶民とは言えない陸軍の将校でさえ、首相の顔をあまり鮮明でない新聞の写真でしか見たことがなく、はっきりとは知らなかったということになります。 現在の私たちも、今の総理大臣や天皇の顔を知っているように思っていますが、直接会ったことがある人よりも、テレビの映像や新聞・雑誌の写真などだけで知っている人の方がずっと多いはずです。

  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2176/4821)
回答No.5

>京都・江戸・大坂あたりの町民なら見た事ある町人がいたかもしれません と言っても、天皇には上級公家しか謁見できません。 カルタを作って生活をしていた下級(貧乏)公家では、一生天皇に会う機会はありません。 京の大店では、取引の関係で天皇・皇太子にも会ったとの記録があります。 孝明天皇の時代は、3万石でしたからね。 3万石で、天皇家・皇太子家や上級公家・下級公家全ての生活を賄っていました。 これでは、食費・光熱費・家屋の補修は足りません。^^; 孝明天皇が裕宮を連れて御所内を歩いていれば、出入り商人は陰に隠れた!と記録にあります。 ※記録では、裕宮(後の明治天皇)は虚弱体質で右利きだった!との事です。 ※幕末には、10万石にUP! 将軍も、同様です。 1万石の大名でも、歴代藩主は歴代将軍の顔見たこともありませんよ。 将軍家・御三家一門の場合は、本家と一緒に将軍に会う事は出来ましたがね。 >どんな人かまでは知らない人が圧倒的多数だったのでしょうか? その通りです。 各藩では、藩主の顔も知らない領民が一般的でした。 天皇と言う存在も、薄かったのです。 ただ、徳川将軍家は名前だけは知っていました。 そこで、明治維新の時は「天皇は下向して、江戸城に入った」のですね。 徳川将軍家の時代が終わった事を、江戸庶民や国民に見せるパフォーマンスでした。 そうそう、フィクションの「黄門漫遊記」。 印籠が無ければ、庶民・代官・藩士でも「徳川光圀」と認識していませんよね。 このシーンだけが、唯一時代考証が合っていたのです。(笑) 余談ですが・・・。 古くから「明治天皇偽物説」が存在します。 1.7卿の都落ちの時に、三条実美は裕宮を人質に連れて行った。 1.虚弱体質の裕宮は、長州藩内で死亡した。 1.高杉晋作の騎兵隊と並ぶ「伊藤博文の相撲隊」隊員を、偽の裕宮に擁立。 1.京で裕宮を見た商人は、筋肉もりもりの大男で左利きに成長した裕宮に驚いた。 ※老舗の記録では「あの大男は、誰や?」と、噂が広まったとの事。 これなんかも、天皇・皇太子など時の権力者と会ったことが無い現実を物語っています。

回答No.4

直に顔を拝められる人は、極一部の限られた人達だけで、庶民が顔を見れる機会は、江戸の三大祭りに将軍が特別観覧席から、ご覧になられてる姿を運良く垣間見る事が出来た人でしょうか。 警護も厳しいでしょうから! 天皇や皇族に至っては、存在は伝え知っていたと思われますが、殆ど京の御所敷地内から外へ出る事は、幕府は認めて無かったと考えます。 個人的な想像で、根拠となる資料は何一つ持ち合わせておりません。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10470/32925)
回答No.3

写真がない時代には、面識がある人以外はそれが本人であると知る術はありません。 赤穂浪士の討ち入りのときは、物置に隠れていた老人が吉良上野介であるかどうか確認するために、吉良家の足軽を連れてきて面通しをさせました。大石内蔵助でさえ、身分が違いすぎて吉良上野介と会ったことがないので顔が分からなかったのです。 江戸城には、将軍のSPがいました。将軍の身に何かあった場合は、将軍はSPに守られて江戸城を出て甲州街道を使って国そのものが城のようになっている甲斐の甲府に逃げるというのが徳川幕府の危機対応マニュアルでした。 その際、10名ほどいる将軍のSPは将軍と全く同じ服装をすると決まっていました。10人くらいの全く同じ服装の男たちがワラワラといると、どれが本物の将軍か分からないからです。 それになんというか、私たちは西郷隆盛の顔も知りません。西郷隆盛は大の写真嫌いで、生涯に一度も写真を撮らせませんでした。だから我々が思う「西郷どん」の顔は、生前によく似ているといわれた弟の西郷従道をモデルにして描かれたものです。上野の西郷さんの銅像ができたときに奥さんが「全然似てない」と言ったという話は有名ですよね。 また写真がない時代の肖像画が、「実は別人だった」となることはしばしばありますよね。足利尊氏の肖像画は、長らく刀をかついだ馬に乗る武人のものが本人だといわれていましたが、最近あれは間違いだったと明らかになっています。 他にも源頼朝など「有名なあの絵は違うんじゃないの?」と疑惑をかけられている人は何人もいます。

  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.2

 京都の、庶民は御所に天皇と呼ばれる人がいるということは知っていたでしょうが、会ったことなどありません。  天皇は、御所からほとんど出ませんし、ごくマレに外出する(御幸)場合は、牛車に簾をかけてたくさんの貴族を引き連れての行列ですから、顔を見ることなどできませんでした。  御所でも、天皇は五位(最低従五位)の位を持つ者でないと会えませんでした。ゴイサギという鷺がいますが、あれは醍醐天皇が庭にいた鷺に「また来いよ」と言ったら鷺が「私は無位無冠だからもう来れません」と言ったので、「じゃあ、五位に叙すからまたおいで」と言われたのが名前の由来だということになっています。漢字では「五位鷺」と書きます。  五位より低い者(掃除者)などはすぐ顔を伏せて土下座し、「存在しないもの」として扱われたそうです。  江戸っ子も、将軍がいたのは知っていて「将軍のお膝元」の住人であることをホコリにしていたようですが、やっぱり将軍は江戸城から出ませんでした(鷹狩りなどに出た将軍もいたが土下座を強いられて顔を見るなど)不可能でした。  御家人(お目見え以下の階級)でさえ、将軍の顔などしらず、高級旗本でさえ、お家相続などのおりに前を通ってもらえる程度だったようです。  なので、天皇も将軍も、顔を見た事があるなんて人間は何人もいなかったでしょう。  余談ですが、平成の現代(たぶん令和も)、団体で御所清掃作業などをやると両陛下が来られて、代表から挨拶の言葉を受けられ、「今日はご苦労様でした。おかげで・・・ 」などと陛下からも声を掛けられるのですが、これも正式な「会話」ではなく、「ご会釈」(たまたま通りがかったのでチラリと頭を動かされた)の扱いだそうです。

  • stss08n
  • ベストアンサー率16% (454/2762)
回答No.1

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