• ベストアンサー

女性奉公人

江戸時代の、ご先祖の嫁さんが早くに亡くなり、亡くなる前から雇ってた女性奉公人なのか、亡くなってから子供の世話をしてもらう目的で雇った女性奉公人かは分からないですが、その女性奉公人とは嫁さんが亡くなってから、しばらくして結婚しました でも、女性奉公人(人数は分からない)しか雇ってたという話ししか聞いてません ご先祖は藩士です、武家は男性奉公人、中間を雇わなければいけないという規則がありましたよね? 男性奉公人、中間は女性奉公人に比べ、お金がかかるんでしょうか?

  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数2

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.2

No.1です 補足がありましたので追加の説明をさせて下さい。 >下級武士の武家屋敷って広くないのに奉公人は、どこに寝泊まりしてたんでしょうか?奉公人用の小屋が屋敷敷地内にあったんですかね 御質問の奉公人を下男、下女(女中)に限れば屋敷が狭く雇う人数も少ない下級武士の場合は専用の部屋も小屋もありませんでした。 下男、下女(女中)というのは原則的に独身でした。 衣食住のうち衣食は雇用主から支給されていましたので本人が用意したり個室で食事を取る必要がありませんでした。 住も寝る空間があれば充分でした。 いわゆる起きて半畳寝て一畳で充分でした。 従って下女(女中)であれば布団部屋など別用途の部屋の隅に寝起きしていました。 女中部屋などがあったのは屋敷に余裕があり下女(女中)も複数いた中級以上の武士の場合です。 下男も同様に薪小屋など別用途の部屋や小屋などで寝起きしていました。 下女(女中)の場合は習慣的に雇い主が嫁ぎ先を探し出していました。 これをやらないと待遇の悪い屋敷とされて下女(女中)が居つかなかったり応募してこなくなりました。 蛇足 武家奉公人というのは極めて広い範囲の人達を指します。 その取扱いは大名家(藩)によって違っていました。 明治維新後に明治政府が定めた身分制度で平民ではなく士族に繰り入れられた奉公人もいたことから現在では極めて分かり難くなっています。

その他の回答 (1)

回答No.1

>武家は男性奉公人、中間を雇わなければいけないという規則がありましたよね? 軍役として身分に応じて引き連れる家臣数を定めてはいましたが荷役などを請け負う中間の数までは定められてはいませんでした。 >男性奉公人、中間は女性奉公人に比べ、お金がかかるんでしょうか? 女中と呼ばれる女性の奉公人や力仕事をする下男などは日常的に必要ですが登城などの正式な外出の際に体裁を整えるために引き連れる中間は臨時に必要なだけで日常的には必要がありませんでした。 お金がかかるというよりもたまにしか用がない人間を常雇いするのは無駄ですので必用な時に臨時に雇っていました。 このような臨時雇いを請け負う渡り中間と呼ばれる人達がいてこの渡り中間を斡旋する人宿とか口入屋という商いもありました。 職責にもよりますが平和な江戸時代には登城して執務するというのは月のうち十日程度でした。 中には三日程度という人もいました。 これには色々理由がありますが基本的には一人の人間に権力が集中しないように常に同じ職責の人間を複数任命していた結果です。 逆に言いますと江戸時代の武家というのは相当暇だったということです。

sokoo0823
質問者

補足

中級以下の階級が高くない藩士は、奉公人を一人くらい雇って、中間か小者を一人臨時雇用してたんですかね 話しは変わりますが、下級武士の武家屋敷って広くないのに奉公人は、どこに寝泊まりしてたんでしょうか?奉公人用の小屋が屋敷敷地内にあったんですかね

関連するQ&A

  • 江戸時代、商家に奉公した女性について

    カテゴリが違う方が有力な回答が得られるとのアドバイスを受けて、再投稿です。 江戸時代、女性が商家に奉公する場合に、どのような雇用制度でどれくらいの期間雇われていたのか、何と呼ばれていたのか、仕事内容、結婚事情など教えて下さい。 丁稚(小僧)―手代―番頭のような昇格システムは男性特有のものだったのでしょうか? 資料を探そうとしても、女性の奉公では武家奉公・妾奉公等、商家への奉公だと男性の物しか見つけられない……という状況で大変困っております。

  • 江戸時代商家に奉公した女性は…?

    江戸時代、商家に女性が奉公する場合、どのような雇用体制でどれくらいの期間雇われていたのか、仕事内容、何と呼ばれていたのかなどを教えて下さい。 武家奉公に関しての資料は出てくるのですが、商家に仕えた女性の資料がなかなか発見できません。 丁稚(小僧)から手代、番頭へと昇格していくシステムは男性特有の物だったのでしょうか? 宜しくお願いします!

  • 奉公人,水呑百姓,地借などの身分について

    江戸時代の身分について調べています。いろいろと調べていくうちに疑問点が出てきましたので、いくつか質問させてください。 1 水呑百姓や本百姓に隷属した名子、被官などは「百姓身分」になるのでしょうか? 2 正式には地主、家持が「町人身分」らしいですけど、地借、店子や奉公人などの身分はどうなるのでしょうか? 3 武家奉公人の中間、小者などの身分は「武士身分」でしょうか?

  • 江戸時代の職業

    江戸時代の町人の職業で、花形稼業はどの職業だったのでしょうか? 火消しや役者なんかは思い浮かびますが他はどうだったのでしょうか。 中間などの武家奉公人は誰でもなれる仕事だったのでしょうか?

  • 江戸在住の庶民への課税

    農民の年貢についての記述はよく見かけるのですが、町人への課税の話はあまり聞きません。 農村には年貢米という税がありますが、武家を除く江戸在住の庶民へは、課税がなされていたのでしょうか。 武家は貰う側だから課税はないですよね。 あるとしたら、それはどういったものだったのでしょうか。 また、どの階級までにかかるものでしょうか。 例えば、一季雇いの奉公人や、中間などにもかかるのでしょうか。 ご存知の方、教えて下さい。

  • 鎌倉時代の後半くらいに

    先祖が石川県で御家人だったみたいなんですが、その後江戸時代とかは加賀藩とかに参加してたりしますか? 加賀藩とかって、武士の家柄しかなれなかったんですか? 新撰組が好きで、京へ行ってなんやかんやで絡んでないかな~とか思ったんですが・・・加賀藩自体あんまり何もしてないとか書いてありましたけど、京には行ってるみたいです。 鎌倉後半に御家人だからって、ずっと江戸時代まで武士やってる訳じゃないんですかね?

  • 江戸時代の女性の武器が薙刀なのは何故

    江戸時代の武家の女性は薙刀を習っていたようですが、 どうして槍や刀を使用しなかったのでしょうか。 誰が薙刀と決めたのでしょうか? よろしくお願いします。

  • 江戸時代の藩士の跡継ぎ

    江戸時代の藩士の跡継ぎは、前の代が下級の上クラスでも、跡継ぎは一番下級の御広間勤からスタートして、徐々に階級が上がると聞きましたが、それは、どこの藩でもやってましたか? 御広間勤を20年以上勤めたって話しは、結構あったらしいです 因みに、うちのご先祖の藩の分限帳には御広間勤は役なしだからか分かりませんが、御広間勤は人数だけで名前は載ってません

  • 江戸時代の髪型

    江戸時代の農民と差別されていた人の 髪型について調べています。 服装も差別化されていた時代なので 武家と同じ髪型というのもおかしいと思うのですが なかなか調べてもわかりません。 もちろん、江戸時代と言っても長いので 流行はあったでしょうが、基本的なもので構いません。 男性、女性それぞれについて 詳しい方、教えていただけると助かります。 よろしくお願いします。

  • 江戸時代の武家の女性装束について

    江戸時代の武家の女性の装束ですが、庶民とはTVなどで異なるようです。ネットで画像を検索しているのですが中々、ヒットしません。 髪型や衣などについて詳しく解説されているサイトがあったら教えてください。髪形も武家は違うのですね。