• ベストアンサー

卑弥呼の「卑」は?

邪馬台国女王の卑弥呼の名前には「卑=いやしい」 という字が用いられています。 昨今、名前に用いられる漢字の追加に対して、 適正でない物は除外されましたが、殆ど2000年前とは 言え、国の女王の名前を表すのにこの「卑」の字は あまりに酷いと思いませんか? 何でこんな字が当てられてるんでしょうか?

noname#14601
noname#14601
  • 歴史
  • 回答数5
  • ありがとう数4

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#11181
noname#11181
回答No.4

当時の中国は三国志でも有名な魏の国が覇権をとり 色々な事柄を記録しております。 さて、古来、中国には中華思想といって支配する 人達の中心が最高の文化の担い手であり礼儀や 文化の先端を行くものである、という定義があります。 ですから周辺の人々に対しては不遜な態度をとるのが ごく当たり前でした。 周辺の呼び方にも蔑視を感じられる表記が されています。 しかし日本にもそのような考え方はあったようで 熊襲、夷などはそのような考え方と一致します。 近世においてはチャ○ナ、チョウ○○野郎、ロス○、 などなど 世界中の民族でこのような蔑称や見下したような 言い方がありますね。 悲しいことですが。

その他の回答 (4)

  • sharako3
  • ベストアンサー率29% (333/1130)
回答No.5

すでに答えはでていますが、中華思想によるものでしょう。 日本のことを「倭」と表記するのも同じ理由です。 もし、当時の日本に漢字があり、日本人が彼女のことを歴史に残していたとしたら、「日御子」とか「日巫女」などの文字になっていたのではないでしょうか。 「倭」も、もちろん「和」でしょうね。

noname#14601
質問者

お礼

ここを借りて皆様にお礼申し上げます。 中華思想を誇る国なら、サッカーでブーイングなんてするなと思いますよ。 しかし、謎が解明したのでスッキリしました。

noname#14601
質問者

補足

「倭」という言葉も相手を蔑む意味があるんですか?

回答No.3

 記録したのは当時の中国ですから。最先端の国が海の向うの田舎の長を記したんですし、バカにするのも仕方ないでしょう。

回答No.2

中国では周辺国の名前に卑しい漢字を当てる習慣があるようです。 下記サイトに詳しく(おもしろく)載っています。

参考URL:
http://village.infoweb.ne.jp/~fwkh8072/deko/his/07.htm
  • gorisuke
  • ベストアンサー率22% (10/44)
回答No.1

昔、中国(その時は中国とは言わないんでしょうが)が日本を格下扱いして、卑弥呼という名前は中国に名づけられました。あまり詳しくなくてすみません。

関連するQ&A

  • 邪馬台国の女王「卑弥呼」とは何者か?

    魏志倭人伝に登場する邪馬台国の女王「卑弥呼」とは何を意味するのでしょうか。当時の日本に邪馬台国という小国があって、その領袖は女性であり、「卑弥呼」という名前だったと、素直に読むべきでしょうか。それとも、一部の歴史家が言う様に、邪馬台国とは初期の大和朝廷のことであって、女王というのは当時の中国人の誤解であり、当時の日本人が領袖を「日御子(ひのみこ、ひみこ)」と呼んでいた。それを中国人が聞いて「卑弥呼」の文字をあてた。「日御子」は後世になって「天皇」と呼ばれるようになった、と考えるのが正しいのでしょうか。

  • 邪馬台国についての新解釈

    なにかの本で読んで、うろおぼえなんですが、邪馬台国について面白い説を唱えている人がいるようです。 この説とは、邪馬台国の成立は卑弥呼の倭王即位以後のことである、というもの。 つまり、私たちはこれまで邪馬台国という国があって、そこに卑弥呼という女王がいて、その女王を倭国全体の王として共立した、というふうになんとなく考えています。しかしそうではなく、卑弥呼が倭国の王として即位した後、その居所を邪馬台国と呼ぶようにした、というのがこの説のキモです。 この説ならば、邪馬台国論争にまつわるさまざまな矛盾を解決できる、なかなかのアイデアではないでしょうか。 たとえば卑弥呼が九州のどこかの国の女王で、倭国共立王となってから、近畿にやってきてその宮殿の場所を邪馬台国と呼ぶことにした。・・こう考えれば、九州説、近畿説の「いいとこどり」もできますよね。 この説について、皆さんはどうお考えになりますか。

  • 卑弥呼と邪馬台国の日本名はなんだったのでしょうか。

    タイトルにも書きましたが、考古学素人です。以前から疑問に思っていることなのですが、卑弥呼というのは中国の文書に記載された名前ですね。 では、当時、卑弥呼という方は日本ではなんと呼ばれていたのでしょうか? 同じように、邪馬台国も同じ質問です。中国名で邪馬台国は日本ではなんと言う国だったんでしょうか? 註:何故このような質問をさせていただくかですが、今でも外国から日本を みると、悪い表現する場合もありますので、例えばJapanese,とJap は同じ人々を示しているのかどうかということなのです。 やまと朝廷を大和朝廷と書きますが、どう考えても当て字のように思います。日本人は当て字は非常にうまいですよね。 同意語の当て字でもいいのですが、何か参考になることはあるでしょうか。 よろしくお願いします。

  • 卑弥呼が死んだときには古墳時代でしたか?

    数年前に奈良の古墳の年代測定で、卑弥呼の時代はすでに古墳時代に突入していたというニュースがありました。 その後ニュースを聞かないのですが、卑弥呼が亡くなったときにはすでに古墳時代であったということで決着がついたのでしょうか? 邪馬台国畿内説の優位は動きませんか。 よろしくお願いします。

  • 卑弥呼が日本の歴史書に詳しく記されていない理由は?

    以下のような目の醒める興味深い投稿を見つけました。あなたはどう思いますか? 卑弥呼が日本の歴史書に詳しく記されていない理由は卑弥呼が日本では嫌われた売国奴だったからです。 実は卑弥呼に関連する事は記紀の中に記されていますが、それは日本書記の神功皇后のなかで魏に貢物をした時に関連した記事が出てくるだけで当時の記紀の作者らは魏志倭人伝の存在も内容も知り読んでいながら、全く興味を示さずに調べようともせずに、神功皇后の事だけ書いています。 つまり記紀を執筆した人々は完全に卑弥呼を無視しているのです。 しかも彼らは卑弥呼が存在していた事さえ知っています。 それなのにどうして卑弥呼の名前さえ書こうともせずに無視して軽視したのでしょうか? それは卑弥呼が当時は売国奴であり、魏に支援を頼んだところで売国奴として、親族の卑弥弓呼に処分(殺害)されたことに原因があります。 卑弥呼の最後を見てみれば一目瞭然です。 卑弥呼の行動については日本の記紀では数行で済ませていますし、他の文献でも卑弥呼はほとんど無視されています。この事から卑弥呼は日本にとっては重要な存在でなかったことを示しています。 それでは卑弥呼が書かれている魏志倭人伝をもう一度見てみましょう。 倭女王卑弥呼与狗奴国王卑弥弓呼素不和 狗奴国の卑弥弓呼と卑弥呼の仲が悪く、しかも男子王の卑弥弓呼の地位は高く卑弥呼もおいそれと手出しできなかった事が魏志倭人伝に書いています。 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状 遣塞曹椽史張政等因齎詔書黄幢 拝仮難升米為檄告諭之卑弥呼以死 魏志倭人伝にも書かれているように卑弥呼が魏に援軍を頼んだところでこの男子王である卑弥弓呼に殺されたとみるのが妥当だと思います。 その原因もこの男子王の卑弥弓呼に軍事面では全く敵わないから外国に援軍を頼むという今でも昔でも恥知らずともいえるべき売国奴行為です。 卑弥呼は同じ日本人からも見捨てられて、、魏に内通した売国奴として卑弥弓呼(卑弥呼王)に殺されたのでしょうね。 しかし卑弥呼と卑弥弓呼(卑弥呼王)はどうみても夫婦か血縁的に非常に近い関係ですね。 当時は兄弟でも肉親でも時として反目して戦争で殺しあっていました。 魏志倭人伝をよく見ると卑弥呼は軍事面においてはこの男子王の卑弥弓呼に全く敵わずに援軍の要請を魏に出していることがわかります。その中で卑弥呼は魏を説得させるために明らかに嘘をついています。 だから話がおかしなことになるのです。 金印の原因となった貢物のついても、お金はあるが、軍事力がない卑弥呼のバックグラウンドを垣間見る事が出来ますね。 さて狗奴国の卑弥弓呼ですが、卑弥呼と名前が非常に近い事、また卑弥弓呼とは卑弥呼王と推測できるが故にこの人物も間違いなく皇族であり、卑弥呼とほぼ対等な立場の人間だったと思われます。 卑弥弓呼(卑弥呼王)と卑弥呼は文字通り兄弟若しくは親戚。はたまた夫婦であったと考えられます。 だから狗奴国の卑弥弓呼も邪馬台国の政治に関与できる人間と見た方がいいでしょう。 実際に卑弥弓呼は男子王を擁立しようとしています。 と言う事は狗奴国の卑弥弓呼は邪馬台国の政治に口を出せる立場であった事がうかがえますね。 魏志倭人伝でも狗奴国の卑弥弓呼は殺されたとは書いてありません。 むしろ邪馬台国の後継者問題に口をはさんで争いを起こしているのです。 それでも殺されていないことが伺えます。 これは卑弥弓呼は卑弥呼と仲は悪かったが、邪馬台国において非常に高い地位にあった事を示しています。 結局はこの卑弥呼と言う女は対立する卑弥弓呼を殺ろして日本を乗っ取るために魏に援軍を頼んだものの、それがすぐに発覚して殺されたとみるべきでしょう。 卑弥呼(詐欺師)の貢物や金印の目的も魏志倭人伝に書いてありますし、死因も書いてあります。 じゃあ、卑弥呼とは誰だったのでしょうか? 最近の最も有力な説の倭迹迹日百襲媛命ですが、この人の場合には最後には陰部に棒が刺さって死んでいます。(これは最後には売国奴と死んだことを表しています) 魏志倭人伝の卑弥呼の場合にも悲惨な死を迎えましたから、合致していますね。 日本の記紀によると神功皇后の時代に卑弥呼がいたと記されています。 注意したいのは記紀では神功皇后が卑弥呼だとは一言も言っていないのです。 該当するのはおそらく仲哀天皇の残りの二人のお妃でしょう。 もしくは神功皇后に仕えていた侍女あたりでしょう。 本居宣長は山門(ヤマト)の田油津姫を候補に挙げていますが、知ったか戦後の現代人の考える卑弥呼像より、こちらの方がはるかに正しいと私は思います。 ともかく売国奴として死んだ卑弥呼はその後に忌み嫌われて日本史の舞台からは抹消されたと考えるのが筋でしょう。 記紀の内容は嘘ではなく真実も多く含まれると思われます。 魏志倭人伝の内容も邪馬台国の位置や方向がでたらめな事を考慮するとこれもまた半分は眉唾物であり、記紀と同じくらいの正確さしかないと思われます。

  • 邪馬台国を作ったのは誰か

    邪馬台国について,その国があった場所やその後は?と延々と論議が尽くされていますが,邪馬台国を作ったのは誰かという事に関しては殆ど議論されていません。 何処に有ったか,その後どうなったかも解らないのに,何処から来たなんて解る訳が無いと言ってしまえば勿論ですが・・・・・・。 敢えて,推論しますと卑弥呼は鬼道をよく使い・・・とありますので呪術に優れていたのでしょう。また魏に朝貢したのは母国への挨拶とも考えられます。呪術と朝貢の言葉から邪馬台国の祖先は中国からの渡来人ではないかと考えますが,如何でしょうか?。

  • 邪馬台国って、

    やはり、邪馬台国は、 九州地方かと思います。 魏志倭人伝よりルートを 素直に読むと、 不弥国 <福岡県槽屋郡宇美>より、南へ水行20日 当時はもちろん手漕ぎ舟ですから、 相当時間がかかったようです。 が、陸路を歩くよりかかなり早いかと。 現在不明地域の投馬国に到着。 たぶん、日向市辺りかと思います。 そこで休憩し食事をし、 更に南下し水行10日で、 邪馬台国。 (陸路一月というのは、一支国 <壱岐>から、歩いた場合かと。) たぶん邪馬台国の卑弥呼の住む街は 日南市辺りかと 思いますね。 卑弥呼の納めてる国そのものの一周は、400キロ。 卑弥呼が住む街より 南側は、 狗奴国で、邪馬台国と敵対視している国。鹿児島を含む北九州地方かと。 邪馬台国が宮崎市と言う説があるが、 船旅の 距離的に合わなくなる。 また、内陸に邪馬台国があった場合は、他国との情報が遅くなり不利になる。 卑弥呼亡き後は、その跡に家が建ち並ぶとあり、新たに男子を国王としと記述あり。 卑弥呼の住処は たぶん、現在は、日南市の 住宅街の地下に痕跡かあるかと。 昔からある県境は、 やはり、昔ながらの山林地形や、 立ち入り禁止箇所であるいにしえがあるから、その歴史などを参考にすると 良い。歴史上あまりかわらないときが 多い。 ゆえに、南側の国が、邪馬台国を 攻めきれない場所には、 やはり国境には、たくさんの人が 警戒し住んでいたことになるため、 情報収集のため、 やはり卑弥呼の住む街も国境に 海寄りになる。 卑弥呼が女王になったときは、 すでに卑弥呼は年齢的に増していたために、当時寿命は50歳だったため、たぶん40歳代ぐらいだったのかと。ゆえに、身内男子が采配をし 卑弥呼は、行事的な神秘的な 神主巫女みたいな感じでは なかったかと。 どうかな? このような、 説は? 私は九州地方に一回も行ったことが ないけれど、 九州地方に住む方は、地形などわかるから、 邪馬台国の謎って、ロマンありますよね?

  • やはり邪馬台国=日本ということらしい

    そもそもの日本は前原市(伊都国)から。 平原遺跡 1号墓(平原弥生古墳)から出土した、副葬品の日本最大、直径46.5センチメートルの大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)は、どうも神器の八咫鏡と同じデザインが使われているそうです。 長年・・・邪馬台国はどこ?という議論がされていますが、最新の研究で、伊都国から奈良に遷都されたのが、2世紀~3世紀ということは、倭の大乱の時期に、ヤマトタケルの東征があったってことでしょうか? 伊都国、邪馬台国、狗奴国にそれぞれ王(天孫)がいて、特に争った狗奴国が出雲王国という解釈でよさ気な気がしてきました。 卑弥呼というのは、天孫族の女王で、誰でもなったわけではない気がします。 そもそも日本では、女性の名は伏せることになっているので、名前は伝わっていないのでしょう。 本当の名前を知りたいところですね。 考えてみたら、天皇だといわれた神功皇后(息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと))が卑弥呼ってことでいいですか?

  • 魏志倭人伝等の倭国の各国々の名前について

    魏志倭人伝等の歴史書に出てくる倭国の各国々の名前について 各歴史書をトータルすると、建武中元2年(57年)に「漢委奴国王」という金印を授けたという記載に始まって、それ以降、だいたい2~3世紀頃までの倭は数十の小さい国が並立していて、大乱状態だったのを、邪馬台国の卑弥呼をトップに置いてとりあえず一度乱を収拾したのだということでした。また、その死後再び乱れると卑弥呼の後継者を立てたという流れだと理解しています。 各歴史書とは「漢書」以降は、当時のことが書いてあるのが順に「魏書」(3c.半ば)・「魏略」(3c.後期)・「魏志倭人伝(三国志)」(285年)・「後漢書」(422年)→(カッコ内は書かれた年)となるわけですが、書いた人物は当然異なり、時代も、立場も全て異なり、目にした書類は違っても(新旧はあっても)その大もとになった記録書は全て漢の時代に帯方郡の役人が提出した書類ではないでしょうか? そこで各歴史書で、邪馬台国をはじめ、倭の各国々の名前、人名が出てくるわけですが、それらは漢の時代に、まだ文字を持っていなかった倭人が呼んでいる名前を帯方郡にいた漢の役人が当時の漢字の読み方に「当て字」をして王朝の方に報告したのがそのまま記録として残ったのだと思います。 とすると、その「漢(後漢)の時代の漢字の読み方(上古音?)をはめれば、当時の倭人が国名や人名をどう呼んでいたかが分かると思うのですが。いかがでしょうか?」 これがお聞きしたい質問内容です。 (補足) ただ、誤解していただきたくないのが、「●●」という文字は○○と読んだのだから、この「●●という名の国はここだ」と決めたりはできないということです。 まずそこの地名の呼び方自体が変わっていったであろうし、また、漢字の日本での読み方も変わっていっただろうし、「音訓」の読み方がある程度定まってくると、どうしても以前の漢字ではその名前は発音をできず、呼び名を変えるか、漢字を変えるしかなかったというのがほとんどだったと思うのです。 例えばどんな説の方も違わないのが、対海国=(対馬国)、壱大国=(壱岐国)だと思うのですが、当時倭人が「○○」と対馬の国を呼んでいた。そうすると役人が「○○」に「対海」と当て字をした。それから倭人も漢字を使いはじめていくのですが、倭人サイドも中国ほどではないにしても発音や漢字の読み方が変わっていき、場合によっては漢字の表示はそのままで無理やりその漢字をそう読むようになってしまう場合もあったのではないでしょうか。だから「対馬」を「つしま」と読むようになった。現在の普通の日本語なら「ついま」「ついば」とか「たいうま」とかしか読めないし。 まあ、いずれにしてもこの2国は場所がはっきりしていて、なおかつ現在の地名にも1文字が残っているから誰も違うと思わないし、読みが現在の日本語と違っていても変だと思わないんですよね。多分、稀有な例だと思います。 だらだらと質問してすみません。 上古音の読み方がわかる方、また合わせて日本の奈良時代の漢字の読み方(風土記や万葉集)がわかる方、是非カタカナで当時どう読んだか教えてください。 宜しくお願いします。

  • 漢字ネックレスを作りたいです。

    自分の名前でネームネックレスを作ることを多く見ていますが、 殆どがローマ字です。 漢字とかひらがなでネックレスを作るところがありませんか? ローマ字のネームネックレスではなく、漢字ネックレスが欲しいです。