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平安時代の夜間行事
「藤原彰子」という本を読みました。本題じゃ無いところが気になりました。 平安時代というと、灯りとか不自由なので、夜は早めに寝ているのではないかと思っていたのですが、儀式・行事がちょくちょく21時22時といった夜に開催されていて、その後の宴会が24時を過ぎることもあったようです。また、引っ越しも20時出発とかしてる場合もあります。 なぜ、明るい日中でなく、夜にも行事などをやったのでしょうか?もちろん、日中の行事もあったわけですが、ほとんどが日中という感じでは無さそう。 宴会自体は暗くても出来るでしょうけど、料理飲み物を用意する人が暗い中で大変そうです。 平安時代と言っても長いので、少なくとも道長の時代の話です。
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- ichikawa2017
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