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平安時代の夜間行事

fujic-1990の回答

  • fujic-1990
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回答No.4

 1番回答者です。補足質問を拝見しました。  想像の域を出ないので、改めて書くべきかどうか迷いましたが、  深夜に行う儀式は、夜間にうごめく魑魅魍魎を含めた神々全体に対して祈るというような、一口で言えば「神秘性」「荘厳さ」「おごそかさ」など、その種の言葉で言い表されている雰囲気、空気を醸し出したいからではないでしょうか。  人間、あまりにハッキリした、わかりきった事に対しては畏敬の念をもたないものです。白日の下にさらされたことにはありがたみはなく、「よくわからないから有り難みが増す」というようことがよくあるものです。  下世話な話ですが、藤原氏の登場以来権力を奪われた皇祖皇宗は、生き残り、権威を保持するために、代々それを狙ったのだと思います。

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