• ベストアンサー

江戸時代。城を観光資源に。

何かで読んだ記憶があるのですが、織田信長は、安土城を庶民に有料で見物させたそうです。 大勢の庶民が入城したそうです。 江戸時代、領民に城内を見物させた例はありますか。 ギブアンドテイクで、金次第でなんとかなったのでしょうか。 よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • pri_tama
  • ベストアンサー率47% (674/1410)
回答No.5

 童謡『通りゃんせ』の舞台となった三芳野神社は、川越城の城内「天神曲輪」に存在しており、童謡の      行きはよいよい 帰りはこわい  と言うのは、入城(年に一度の三芳野神社大祭と七五三のお祝い時のみ参拝を許可していた)はともかく出城時は密偵による機密情報持ち出しを警戒して厳重な身体検査をした事を由来にしていると言われます。  ちなみに童謡にもある細道というのは、下記の様に城内の要所を見つつ進んだようです。  (まあ三芳野神社が本丸御殿の近くに有るからですが…。)  >南大手門から入城し、田郭門を抜け富士見櫓(天守の代用)を左手に見て進み、天神門を潜って直進し、直角に左に曲がって三芳野神社に直進  あと、細かい事ですが質問者さんの認識しいる城内の範疇ってどこを指しているのでしょうか?  (上記の川越城は、本丸御殿そばまで庶民が接近できる稀な事例ですが…。)  戦国時代後半から主流となった平野部に作られた城(総構え)は、城内に都市部を内包していますので、一般庶民も城内で生活している事になります。  たとえば江戸城の城域は、JR山手線内の2/3(まあ、土地収用の容易さから江戸城外堀沿いに線路を引いたので…。)を地域を占めており、江戸の街中といえば、大体は江戸城内です。  (地方でもその地のお城の外堀沿いに環状線路や環状道路を作っている例は多い。)  江戸時代のお城が現役だった時って、現代人がイメージする城より遥かに広かったりするんですよ…。  (地方の数万石程度の大名の城ですらキロ平方メートル単位の面積があり、ヨーロッパの下手な城郭都市より広い。)

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 川越城が「通りゃんせ」の発祥の地とは知りませんでした。 子どもの頃、遊び歌でよく歌っていました。 不思議な歌だと思っていましたが、意味がやっと分かりました。 城内とは、武士以外立入禁止の場所で、大手門内を想定しています。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (4)

  • nagata2017
  • ベストアンサー率33% (6290/18738)
回答No.4

秀吉は お城じゃないけど 聚楽第の造営と並行して大茶会を開催して  茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず、釜1つ、釣瓶1つ、呑物1つ、茶道具が無い物は替わりになる物でもいいので持参して参加すること。  座敷は北野の森の松原に畳2畳分を設置し、服装・履物・席次などは一切問わないものとする。  日本は言うまでもなく、数寄心がけのある者は唐国からでも参加すること。  遠国からの者に配慮して10日まで開催することにしたこと。 京都北野天満宮境内において開催したけど 1日で中止。 1日めは1000人ぐらい来たそうです。 お城でやればよかったのに。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そうですね、お城でやればよかったのに、と思います。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.3

あれですね 盆山(ただの石ですが)を参拝させるために庶民を城内に招き入れて参拝させた と言うのは有名ですね 信長は自ら神になろうとしてましたから 江戸時代(少なくとも家光以降の幕藩体制確立後)は無いと思います 庶民が登城する事は認められて居なかったので (将軍などが特別な事情で呼んだ場合等は別ですがそれでも城内の見物等は出来なかったはずです)

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 城内を見たいと思う人はいっぱいいたと思います。 カネ不足の大名はカネを集める手段として月見櫓を、というようなことを想像したのですが、そんなこと誰もしなかったということですね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2192/4856)
回答No.2

>織田信長は、安土城を庶民に有料で見物させたそうです。 その通りですね。 特別な日に、入場料を取って庶民に城内を見せた様です。 城内に「かがり火」をともして、暗闇に浮かび上がる城を演出しています。 天守台から飛び出して、舞台まで設けていました。 >江戸時代、領民に城内を見物させた例はありますか。 見物目的ではありませんが・・・。 江戸城が有名ですね。 三社祭には、神輿と一緒に庶民が城内を回ります。 また、将軍家主催の「能」を行う時「町年寄・町役人」を城内に招いています。 もちろん、能舞台では将軍自らが舞を演じます。 町年寄・町役人は、舞台下の土間に蓆を敷いた場所で正装で見物。 その後は、禁止区域を除いて城内を回っています。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「三社祭」と「能」ですね。 よく分かりました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.1

それは安土城が完成した時じゃなかったでしょうか? 自分の威光を庶民に示すためなのでは? それに商売がうまい信長独自の考えでしょうね。 本来城は要塞です。 皆に白の秘密を見せることはありません。 その後の徳川などは、普請した設計者も暗殺したとも聞きますしね。 後にも先にも信長だけなのでは?

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 威光を庶民にまで知らしめるためだったのでしょうが、城内にまで招き入れるとは太っ腹ですね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 城を庶民に開放。

    何年か前にテレビで見た話ですが、信長が安土城内を近隣住民に開放していました。 確か、入場料を取っていました。 特別な日に城を庶民に開放したり、あるいは裕福な町人・商人に“こそっと”見せたり した事例があれば教えてください。 武士以外の領民は、石垣の中を見たかったはずです。 岡山藩主のなかには、庭園(今の後楽園)内の能舞台で催される能を 庶民にも鑑賞させていた例もあります。 よろしくお願いします。

  • 【歴史・安土桃山時代】安土桃山時代の100文って現

    【歴史・安土桃山時代】安土桃山時代の100文って現在の貨幣価値で幾らですか? 織田信長は安土城を地方の大名に見せるときに見学料として100文を摂取したそうです。

  • 鷹狩りを好んだ武将を教えてください。(戦国、江戸時代)

    鷹狩りを好んだ武将を教えてください。(戦国、江戸時代) 織田信長が鷹狩りを好んだのは知られていますが、 他に鷹狩りをよく行った武将は誰でしょうか。 あと尾張藩で鷹狩りを行った藩主はいますか? 近所に尾張藩の鷹場があったそうなので気になります。

  • 「安土桃山時代」というネーミングの謎

    平安時代→鎌倉時代→室町時代→安土桃山時代→江戸時代  全て当時の有力者が権勢を奮った地名から名付けられたと解釈できるのですが…  「安土桃山時代」において「安土」が織田信長であるということには合点がいくのですが、「桃山」が豊臣秀吉であることに、シックリこないのです。  木幡山の伏見城のことを指すのでしょうが、隠居地として1年くらい滞在しただけで、なぜこの名前が選ばれたのでしょうか?個人的には秀吉が最も力を入れた「大坂」を取り上げて「安土大坂時代」とするのが妥当だと思うのですが…なぜ「大坂」が取り上げられなかったのでしょうか?  この「安土桃山時代」というネーミングの由来をご存じの方、載っている文献やサイトをご存じの方、また、推測でこうではないかと思われる方。私と同様に疑問に思われる方も気軽にご意見下さい。

  • 江戸時代。城を観光資源に。

    何かの本で読んだ気がするのですが、幕末、江戸城や大坂城では、有力商人をこっそりか、あるいは堂々とか知りませんが、城内にご褒美として招き入れたそうです。 どこの城でもよいですが、このようなことは、実際にあったことでしょうか。 よろしくお願いいたします。

  • 何で幕府は首都ではないのか?

    日本の都は東京遷都されるまでは 朝廷がある都(京都の平安京、それ以前に平城京や長岡京など)ですが 実質の政権は朝廷ではなく幕府ですよね 鎌倉時代は鎌倉幕府で鎌倉、江戸時代は江戸幕府で江戸 (室町時代は室町幕府で京都ですけど) 室町幕府が織田信長に滅ぼされて信長が天下を握っていた安土桃山時代は桃山城で安土ではないですか? なぜ平安京以後は明治時代になるまで1000年以上首都は京都なのですか?

  • 安土城に関して質問です

    織田信長の築いた安土城は本能寺の変の時一度焼失し清洲会議のあと再建されたそうですがどの程度の規模だったのでしょうか?  またその後いつごろ消滅したのでしょうか?

  • 該当すると思われる、時代劇番組は?

    テレビ大阪制作で、ローカル局ネットによる、旅番組「おとな旅あるき旅」。 毎週土曜日の午後6時半から放送する、テレビ大阪であれば、先月の7月15日前後の土曜日に放送された、「滋賀県の安土城と、その周辺を旅する」回で、司会の三田村邦彦さんは、スタート地点のJR安土駅の駅前にある観光案内所で、「有料で借りて、記念撮影出来る様にした」鎧(ヨロイ)を、借りて着た姿に扮して… 「この観光案内所では、織田信長が着た鎧を元に作られた鎧を、有料で借りて、記念撮影するなり出来ます。 私は、戦国時代を舞台にした時代劇では、豊臣秀吉役を演じた事はあるけど、上司の殿様となる織田信長役は、演じた事が無いです」と言う内容で、同行者であるテレビ大阪の女性アナウンサーに、説明してました。 このシーン含めて、自宅のテレビで私は、見ました。 そこで、「プロフィールの視点から見た、三田村さん」に関して、質問したいのは… 「三田村さんが、豊臣秀吉役で出演したのは、昭和(平成)何年の何月何日頃に、どのテレビ局で放送された、戦国時代を舞台にした、何と言う題名の時代劇番組か? 「秀吉から見れば、上司となる織田信長等、他の武将(殿様)役や部下役に、奥さんや子供である姫様役」等、主な出演者の俳優さんや女優さんは誰かや、民放テレビ局の番組であれば、担当の監督さんは誰か迄は、分かる範囲内で、構わないが…?」に、なります。 「プロフィールの視点から、「俳優・女優」カテで、質問したい」と、思います。 それでは、お願い致します…。

  • 幕末から明治維新の時代をどのようにお考えですか?

     今、幕末から、明治維新に関する本をいろいろあさって読んでいるのですが、読んでいるうちに、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の「餅つきの例え」を思い出しました。漠然とした記憶なので、調べてみると「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに 食うは徳川」ということでした。江戸時代の狂歌(私は、狂歌というのがどういうものか知りません。現在のサラリーマン川柳みたいなものでしょうか?そもそも、歴史とか、文化にはオンチです。)なのだそうですが、これを「幕末から明治維新の時代に登場する人物や、出来事・事件に当てはめたらどんなことが言えるのだろうか?」という疑問というか、興味が、ふと湧いてきました。  「戦国から江戸に至る時代」が単純だったとは思いませんが、「幕末から明治維新の時代」というのは、藩の立場、登場人物、思想の変化、事件の背景など、かなり複雑だった(わずかに本を読んだだけの知識に基づく個人的な印象)ような気がしますので、 単純に   「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに 食うは徳川」 などというようなことでは表現できないと思いますが、日本の歴史に関心を持たれている方が、「幕末から明治維新の時代」をどのようにとらえておられるのか、「教えてほしい」という気持ちになり、質問しました。  幕末から明治維新の時代を「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに 食うは徳川」というようなフレーズで表現していただければ、おもしろいと思いますが、「天下餅」という単語や、「天下餅=総理大臣(伊藤博文)」などという、人物に当てはめることにもこだわりません。明治維新を表現する興味ある「いいまわし」を教えて下さい。既存の「いいまわし」だけでなく、普段考えておられることなどをご回答いただければ、これから、勉強するに当たって参考になると思います。<(_ _)>

  • どうして日本はキリスト教を弾圧してきたのか?

    日本でのキリスト教は 織田信長は保護 江戸幕府(家光以後)は禁止⇒踏み絵等で弾圧 明治初期は禁止(五傍の掲示)で欧米の反発で削除 ですよね どうして弾圧されるのですか? 仏教には身分があってキリスト教は身分が無く平等だから駄目だと聞きましたけど仏教も平等ですよね? キリスト教派は大名などにも大勢いたのでは?