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ご意見お聞かせください。江戸時代ってどんな時代?

川原 文月(@bungetsu)の回答

回答No.7

bungetsuです。No2です。 藩校ができましたが漢文を教えるだけで、たいていの武士は九九もできませんでした。 Oh NO. 江戸に限って言えば、 武士は、もちろん、文武両道であるが、5歳~7歳ぐらいまでは、手習いで文字を覚えさせられた。7歳からはいきなり「中庸(=四書のうちの「礼節」の部分)」の素読から始まる。中味の意味までは教えてもらえない。8歳ぐらいになると師のもとに通い、10歳までに「四書五経」の素読を覚える。まあ、その間には、聞きかじりで意味を理解するようになる。武術は、剣道と水泳であった。 武士の子息が12歳になると、湯島聖堂附属の学問所で試験を受けた。出世を目指す者は特別試験の「素読吟味」にチャレンジし、さらには、「学問吟味」と呼ばれる国家試験があった。前者は年に1回。後者は3年に1度行われた。少なくとも、「素読吟味」に合格しないと、どんなに家柄が良くても家督相続さえ許可されなかった。 (7)下級武士から上級武士になるのすら不可能に近かった 親と子が同じ職業につくのが原則で、とくに、上級武士(馬に乗れて殿様に会える)とそれ以外が峻別されました。 現代だって同じではないでしょうか? 料理屋の息子は料理屋を継ぐ。 旅館の娘や息子の嫁は老舗旅館を継ぐ。 宮内庁の職員は天皇陛下に会える。我々庶民はよほどでない限り天皇陛下とは会えない。 (8)北朝鮮なみに禿げ山だらけで環境先進国は嘘 江戸時代にものを大事にしたりリサイクルが発達したのは事実ですが、それはものがなかっただけです。いまの北朝鮮がそうであるのとおなじです。そして薪や炭を主たる燃料にしたのでほとんどの山が禿げ山でした。 物は「腐るほど」ありました。 しかし、日本は儒教の精神があり、物を大事に使う、というのが基本でした。 使い捨てが「美学」なのでしょうか? 禿山だらけ? バカをお言いじゃありませんか。 「吉野杉」にしたって「高野檜」にしたって、何百年という年輪です。 全国各地には、それなりの銘木の産地があります。 どこから、そのような発想が生まれるのでしょうか??? 江戸時代は確かに燃料は「薪」でした。 しかし、やがては明治~昭和初期にかけては「石炭」。 そして今や、灯油、ガソリン、等の石油関係、あるいは、ガス関係。 これが近代的とでも言うのでしょうか? 後、何百年かで石油資源も尽きるとか・・・。 時代が発展する中では、次々と新しいエネルギーの開発が課題です。 原発、ソーラ・システム、風力発電、ごくごく自然の発展ではないでしょうか。 徳川幕府の時代は「木」、明治、大正、昭和初期の時代は「石炭」、今は主に「石油」、これから先は??? (9)北朝鮮と同じように餓死者が続出 日本の江戸時代は天明・天保・享保の飢饉などがあって、本当に何十万人もの「餓死者」が出ていた。天明の飢饉では、全国で30万から50万人の死者が出て、 確かに、食糧事情は天候に左右されたのは事実。 餓死者が出たのも確かです。 それを現代の季節が解らなくなるほどのスーパーなどでの野菜や果物。 「いちご」・・・・春。 「メロン」・・・・夏。 えっ、本当??? だって、一年中売ってるよ。 まるで、長屋の熊さんと八っあんの会話みたいですね。 これが江戸時代にはなかったから悪いと言うのでしょうか。 餓死者が出たのは徳川時代だけではありません。 「日本書紀」には飢餓の記録が頻出します。最古の記録は、崇神天皇5年で、 「疫病により人民の半分が死に、飢饉となった」 とあります。 欽明天皇28年(567)には、 「郡国、大水により飢え、人がお互いに食べあった」 と、いきなり食人の記録が書かれています。 養和元年(1181)には、京都で4万2300人が亡くなった「養和の飢饉」がありました。鴨長明の「方丈記」には、 「築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬる者のたぐひ、数も知らず、取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変りゆくかたちありさま、目もあてられぬ事多かり」 とあって、市中に遺体があふれ異臭を放っていたことがわかります。 昭和に入ってさえ飢饉による餓死者は出ています。 http://www.mumyosha.co.jp/docs/01new/kyosaku.html まだまだありますが「省略」。 (10)裁判や警察制度が不十分で切り捨て御免も伝説ではないし、サドマゾ刑罰に拷問もやり放題 確かに「斬り捨て御免」はありましたが、幕府の旗本や御家人、あるいは、各地の大名地であっても、斬った武士は、後刻(後日)、評定所に出頭して、明らかに相手に落ち度があったことの「申し開き」または「証拠を提示」しなければなりませんでした。 従って、武士にしても、何でもかんでも簡単に「切り捨て御免」はありませんでした。 拷問は自白の強要と言う観点からは、現代から見ればあまり良いとは思えませんが、それを言ったら拷問で一番有名なのは少し昔の十字軍とかも、クシザシとか、生きている人間の目玉をくりぬくとか。 また、秀吉の時代の「石川五右衛門」は釜茹での刑。 さらには、第二次世界大戦での、ヒトラー。 何の罪のない人々を何万人? 何10万人? 有無を言わせず殺した。 江戸時代より酷いじゃあありませんか。 奉行所擁護という観点から。面白そうな話を2~3つ・・・。 ★女の取り調べ 女に対しては、原則的に、責問や拷問はしないことになっていた。そして、取調べの最中、少しでも膝小僧から上を出すと調べは中断された。そこで、両膝を縛って取り調べをした。しかし、そのことを承知している女は、わざと後ろにそっくり返って、取調べをたびたび中断させたとか。 ★奉行所が三つ? すでに多くの方がご存知の通り、江戸には南北二つの奉行所があった。通常は奉行所のことを「御番所」と言った。南は現在の数寄屋橋内、北は呉服橋内であった。しかし、元禄15年(1702)に中町奉行所が東京駅八重洲口付近にできた。しかし、この中町奉行所は17年後の享保4年(1719)に北町奉行所に合併させられた。南北二つの奉行所は一ヶ月交代で門を開けて訴えを受け付けた。非番になると大門を閉じていたが、仕事をしなかったわけではない。前月のやり残しの事件処理にあたった。また、両奉行所同士で「内寄会(うちよりあい)」という連絡事項の回覧や相談書を交わしていたが、細部までは協定がされておらず、訴人は有利な扱いをしてくれる御番所へ、その月番を待って願い出ることもあったという。 ★大岡越前守が有名になったわけ 享保16年(1731)、無宿の伝兵衛という者が火付けの罪で、江戸市中引き回しのうえ火焙(あぶ)りの刑を火付盗賊改から言い渡された。しかし、越前守の部下である手付同心が「伝兵衛にはアリバイがある」という噂を聞き、越前守に上申した。そこで、密かに、越前守は証拠集めを指示し、吟味のやりなおしをして無罪を言い渡した。当時は、1審制度だったので、再審まで断行し無罪を言い渡した越前守は、当然、庶民から人気の的となった。 ★南北奉行所・・・どっちが偉い? 南町奉行所の方がやや格が上だったのである。遠山の金さんでおなじみの遠山左衛門尉景元は、天保11年(1840)、はじめ北町奉行に任命されたが、数々の手柄をたてたため、上役(老中)の引き立てもあり、嘉永年間(1846~)に南町奉行に「出世」した。しかし、役高はどちらも3000石だった。 最後に、やはりこの人も可笑しな人。 井沢元彦氏 「逆説の日本史」 浅野内匠頭が吉良上野介に人情に及んだ「松の廊下」。 松の廊下に描かれていた「松」の絵は、とても小さかった。 歌舞伎で見るような、あんなでっかい絵ではない。 「松」の絵が大きかろうと小さかろうと、特に歌舞伎などでは演出効果で、でっかく描いているのだろうから、どっちでもいいじゃないですか。・・・と、歴史学者や多くの歴史作家は「冷ややかな目」でみています。

skyhigh555
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。?️(*´艸`*) 克明な反論、ありがとうございます。全て納得が行きます。 へぇ😮、中町奉行所って、あったんですか。( *゜A゜)「大岡裁き」には、実説があったんですね。 なんで、こんなアホが、いっぱしの知識人みたいに、飯🍚食ってるんでしょうね。( ・`д・´)

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