• 締切済み

ご意見お聞かせください。江戸時代ってどんな時代?

川原 文月(@bungetsu)の回答

回答No.6

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 特に「江戸時代」は専門分野。 お勧め書籍としては、少々古くなりますが、 元東京帝国大学教授・三上参次「江戸時代史」(1)~(7)講談社 私も、PCで「アゴラ」読んでみました。 http://agora-web.jp/archives/2033224.html 八幡 和郎:評論家、歴史作家、徳島文理大学教授 なるほどねぇ。こういう考え方の人もいるのですね。いや、いても当然ですが、大学で教鞭をとり、学生にこうした自己流を教え込む(植え付ける)べきではありません。これまでの卒業生、そして現在の学生が、氏の考え方に感化されて支持して、中学校や高校の教師となって生徒に流布すべきではありません。社会から「弾き飛ばされて」しまいますよ。 私も氏の考え方を一つひとつ検証してみたいと思います。 (1)鎖国のせいで軍事力が低下し植民地にされかかった まずは、「鎖国」。 外国船の入港と外国との交流を制限しただけで、全てを閉鎖した訳ではありません。 徳川家康は米国人ウイリアム・アダムス(=三浦按針)を外交顧問とし、諸外国の正確な情報収集にあたらせ、オランダとの国交を結ぶ。後の出島でのオランダ貿易の基礎をつくった。 三浦按針は、当時の英国、スペイン、ポルトガル、オランダ、等の情報収集をした中で、オランダは、唯一、軍隊を用いず、商業船団だけで現在のジャカルタ辺りを拠点とした交易を推し進めていた。 そこで、按針は日本がオランダとの交渉の中で、 (1)長崎一ヶ所の港だけを解放する。 (2)その港は、あくまでも商取引の拠点であって、植民地とはしない。 という条件を提示。 オランダは英国、スペイン、ポルトガルに後れをとっていたため、新たな進出国が見つかったことに喜び、その条件を飲んで日本との交易を樹立したのです。 しかし、「鎖国」とは言っても、「四口」(よつのくち)と呼ばれて、 *中国から琉球へ、そして、薩摩藩を通じて幕府への路。 *中国から朝鮮へ、そして、対馬を通じて幕府への路。 *中国やオランダから長崎へ、そして、幕府への路。 *蝦夷地(アイヌ)から松前藩を通じて幕府への路。 が、開かれていました。 このように、一言で「鎖国」と言い、外国との交流が全くなかったかのように言われがちですが、最近では、「そうか、言われてみれば鎖国だったのかな?」と言う意見も多くなり、高校教材で山川出版社「日本史」では一切「鎖国」という言葉は使っていません。「海禁」と表現しています。その動きは中学、高校教材に広がりつつあります。 また、鎖国のせいで軍事力が低下した訳ではありません。国内でも対外的にも戦う必要性がなくなったから、軍備を増強する必要性がなかっただけです。 それだけ「平和」が280年も続いたということは、他の国にはない、とても素晴らしい国だった、と誇るべきではないでしょうか。 黒船が来た時、軍事力が低下していたので植民地化されそうだった。 黒船の来航目的は、米国の捕鯨船などに、水や食料、薪などの「補給基地」として開国を迫っただけです。ただし、日本は「中々、開国をしない国」と世界から受け止められており、そのため、江戸湾内に入って測量や空砲などをぶっぱなして「脅し」をかけただけで、植民地化しよう、などとは考えていませんでした。 (2)科学技術も300年遅れたままだった 何をもって科学技術が遅れた、と言うのでしょうか? 日本でも「からくり人形」や「和時計」など、指先が器用な国民性から、小さな発明品は生まれています。 何も機関車や蒸気船などを造ることだけが科学技術ではないはずです。 (3)国民の大半は引っ越しも旅行も禁止の半奴隷状態だった 引っ越しができない・・・農村部でしょうか? 江戸市中でしょうか? 農村部で言えば、土地を所有していれば、その土地に定着するのが当然です。これは日本に限ったことではありませんよね。 また、江戸市中であれば、庶民は庶民で6畳一間の暮らしに、それなりに満足していました。 さらに言えば、江戸幕府は分国経営(合衆国のよなもの)で、各地の大名にその領土内の運営、経営を任せていましたから、よほどの事件(お家騒動など)でもない限り幕府が指揮権を発動することは控えていました。 旅行に関しては、江戸の街について言えば、 泰平の世が続いた江戸中期になると交通網も整備され、旅行がしやすくなっていった。「お伊勢参り」の伊勢大神宮は日本人の信仰の大元(おおもと)であり、江戸の家々には神棚が設けられ、どこの家でもお伊勢さまのお札が祀られていたほどであった。一生に一度でもお伊勢参りをすることが、江戸庶民の夢であった。年末になると伊勢神宮から「御師」(おし)と呼ばれる下級の神職がやってきて、「伊勢暦」や「一万度のお祓(はら)い」という神札を配って歩いた。そして、話がお伊勢参りのことにおよぶと道中での宿泊先などの斡旋もしてくれました。 現代の「JTB」とか「日本旅行」などと同じく「旅行斡旋業」の先駆けです。 幕府は江戸に関して言えば、「入り鉄砲に出女」を危惧して関所は設けましたが、女芸人であれば芸を披露すれば「手形」がなくても通過できました。割合、自由に旅をしていたのですよ。 (4)女性差別と部落差別は江戸幕府が創り出した 女性差別・・・とんでもありません。「男耕女織」(だんこうじょしょく)という熟語がありますが、男は外で農耕をしなさい。女は家で機織りをしなさい。実に優しい考え方ではありませんか。 さらに、江戸中期になると「五人組制度」が発令されましたが、これは、例えば病気などで一家の主人が死亡してしまい、女や子どもだけの世帯の農耕には、この五人組で助けてあげなさい。 また、川の氾濫などで一軒の家が流された。五人組で炊き出しなどの援助をしなさい。 「レディファースト」が必ずしも先進国とは限りません。 「部落」について言えば、 「非人」とは、本来は、世捨て人や僧侶などを指しましたが、やがては、 (1)姉妹伯母姪と密通した者。 (2)男女の心中(相対死)で女が生き残った場合。もしくは、両人とも生き残った場合。 (3)主人と下女の心中で主人が生き残った場合の主人。 などのように、人間としてあるまじき行為をした者が人間の身分を取り上げられて非人とされました。しかし、江戸府内では「弾左衛門」と言う者が頭でいましたが、家族や親類縁者が多少の銭を支払うことで「真人間」に戻れました。 また、各地の農村部で言えば、上記の他に村の秩序を乱した者、などがそれに当たり、どちらにしても、「人間としての道義違反」が対象です。 この人間としての「差別」は、現在でも「職業の優劣」などで残っているのではないでしょうか。 また、この「部落問題」がクローズアップされたのは、 明治4年(1871)に制定され、明治5年に編成された、いわゆる、壬申戸籍(じんしんこせき)に「皇族」「華族」「士族」「卒」「地士」「僧」「旧神官」「尼」「平民」「新平民」「非人」「穢多」(えた)、などの身分が記載されており、誰もが自由に閲覧できました。 ところが、昭和43年(1968)に、差別部落の人を探し出す事件が発覚し、大企業での採用取り消し、部落民との結婚禁止などという事件も発覚し、同年、「閲覧」および「公開」を禁止し各地の法務局に「永久封印」とされました。 つまりは、身分制度が悪いのではなく、それを悪用する人がいたから問題になったと考えます。 (5)武士道は明治時代に新渡戸稲造が捏造した はい、これは正解です。 (6)教育レベルは低く識字率が高いというのも嘘 とんでもございません。 米国の初代公使タウンゼント・ハリスが本国政府に送った書簡の中に、 「日本人は、少なくとも半分以上の人が文字の読み書きができる。さらには、日米和親条約の提携において、日本人は英語を覚えるのが著しく早い。これは、驚くべきできごとである。」 と記載されています。 米国の某資料によると、識字率は、 日本人・・・・約60~65% イギリス人・・約35% アメリカ人・・約25~30% フランス人に至っては・・何と約4% という統計が公表されています。 なぜ、日本人の識字率が上がったか。 これは、言うまでもなく、「寺子屋」のおかげでした。 お寺は江戸や大坂などの大都市はもちろん、地方でもお寺は大事にされ、そのお寺の「お礼」が寺子屋で文字や読み書き、さらには、算盤、なども教えたのです。 従って、例えば、江戸を例にとっても「札の辻」などに立てられる「高札」を大部分の庶民が読めました。 また、「南総里見八犬伝」などという小説が大ヒットしました。 ご存じ、「瓦版」なども飛ぶように売れました。 もっと手軽なところでは、「絵草紙」なども自由に貸し借りができ大概の人が読めたのです。 No2へ続く・・・

skyhigh555
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。?️(*´艸`*) 本当に、詳しく教えていただき感謝(^∧^)です。 旅行ができない、禁止されてた,,,って、「東海道中膝栗毛」とか、上方落語の「旅ネタ」と、おもいっきり矛盾するんですよねぇ。この程度の常識の持ち合わせもないのに、大学院で教えるとは、エエ度胸ですな。(。・´д`・。) >御師 「伊勢音頭」の、福岡貢ですね。 江戸時代の教育水準が低いって、言ってる八幡せんせぇの教育水準も、大したことないですよね。( ・`д・´)

skyhigh555
質問者

補足

福岡貢で、追加です。「万呼べ万呼べ、万野を呼べ」ですな。

関連するQ&A

  • 江戸時代のベストセラー。

    江戸時代のベストセラーと言えば、十返舎一九『東海道中膝栗毛』を思いついたのですが、『東海道中膝栗毛』以上に売れた本はありますか。 また、どのくらいの部数(冊数)が売れたのでしょうか。 Wiki「東海道中膝栗毛」によれば、 「人気作品となり刊行は『東海道中膝栗毛』と『続膝栗毛』あわせて20編・21年間の長期に及んだ」とあります。 よろしくお願いいたします。

  • 近世文学とお菓子、江戸時代の食文化

    大学で近世文学ゼミに所属している者です。 卒論で、江戸時代のお菓子、または庶民の食文化を扱いたいと考えているのですが、具体的な構想がなかなか固められません。 お菓子やその他の食べ物が登場する近世文学作品といえば、お菓子好きな十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や、井原西鶴の作品群を思いつくのですが…。 それらから、何をどう論じればいいのやら、困っています。 江戸時代には料理本などもたくさんありましたが、文学とは離れてしまうでしょうし…。 アドバイスやヒント、アイデアをお聞かせ願えれば幸いです。 よろしくお願いします。

  • 江戸時代、関西の浮世絵師・版元は・・?

    江戸時代、出来れば延宝(1673)~元禄(1704)時代の、 関西に居た浮世絵師及び版元を調べています。 江戸(東京)に限ると腐るほど資料は見つかるですが 関西に関しての浮世絵・版元の資料は少なく感じます。 江戸に出版が集中していたが関西に版元も絵師も居た、 と記述もどこかで見たのをチラッと見たのを 覚えている程度です。 市販されているよい文献などありましたら教授 いただけると幸いです。 ネットや図書館でも探しているのですが 持ち出し禁止の本などが多く、ヘタに西鶴さん なぞの原文も解読できず・・・・・ ヤレ困ったなと言う感じです。

  • 江戸時代の本

    江戸時代、東海道中膝栗毛とか町人が読むような小説等の本の値段は現代の貨幣価値に換算するといくらくらいしたのでしょうか? 現代の本の値段に比べてどのくらい高かったのでしょうか。

  • 江戸時代の娯楽

    江戸時代の代表的な娯楽というとどんなものがあったのでしょうか? 素人の私が思いつくのは歌舞伎や浮世絵、本(小説)、落語とかそんなものです。

  • 江戸時代の京阪の絵師・版元は・・・?

    個人的に調べています。 江戸時代、主に元禄期前後の大阪・京都、京阪の絵描き、版元はどこの誰だっただろうかと探していますがかなり資料が少なくあります。 浮世絵全盛期、西ではどのようにして出版が行われていたのか、質問の仕方が乱暴で恐縮ですがご教授いただけると幸いです。

  • お薦めの江戸文学は?

    岩波文庫の「東海道中膝栗毛」を読みました。 次は、どの江戸文学を読もうかと考えています。 「浮世風呂」なんかが良さげですが、いかがでしょう? 滑稽で読みやすいのがいいのですが・・・ お薦めの本があったら教えてください。 あと、入手方法(××文庫にあるよ、とか)も 教えていただけると嬉しいです。

  • 江戸時代の版本を読む

    浮世絵などに、ぐにゃぐにゃした文字が書かれていることが ありますが、あれを是非読めるようになりたくて、江戸かな (変体かな)の勉強をしているのですが、最近色々な原本を片っ端 から読んでみたい、という欲求がわいてきました。多分図書館に 行っても、そういう古い本は借りることができないでしょうし、 古本屋にあっても高過ぎて買えないと思います。また、題名が はっきりしないので探すのも大変だと思います。原本を写真に 撮ったようなもので安価に入手できる本はないものでしょうか? 以下の条件を満たすものを希望します。 ・江戸時代の庶民または子供が読んだもの 往来もの? ・版本(赤本、青本、黄表紙など) ・絵が多く、かなもしくは、漢字にふりがなをうったもの

  • 江戸時代の大坂を舞台にした小説など

    作家志望のものです。 江戸時代の大坂(元禄時代の方が助かります)を舞台にした小説、映画、漫画 また、史学の本、新書などで良いのがあれば教えていただけないでしょうか。 町人文化、人形浄瑠璃などについて、話を書きたいと思っています。 また、大坂の寺子屋を舞台にした作品があれば、そちらも教えていただけると 非常に助かります。 アバウトな質問で失礼しますが、よろしくお願いしまsじゅ。

  • 江戸時代 絵画から庶民文化語れる?

    江戸時代に限った話ではないですが、とりあえずここでは江戸時代の話でお願いします。 今でこそ私たちは本やテレビやインターネットで様々な作品を見ることができますが、昔はそんなものはなく気軽に絵画に触れる機会が無かったように思います。浮世絵は流通して庶民の文化として紹介されているのを見ますがではそれ以外の絵画はどうなのでしょうか?今の私たちが知っている応挙や若冲や芦雪や…そういった画家の絵を見る機械はあったのでしょうか?寺にあるものは庶民も見ることができたのでしょうか? つまり、当時の絵を見てそのころの文化について語ることは可能なのでしょうか?絵から推察できるのはあくまで特別な身分の人々の文化なのでしょうか? みなさまのご意見お聞かせくだされば幸いです。