日本の体制(合議制)について

このQ&Aのポイント
  • 日本の体制(合議制)の背景とは何だったのでしょうか?
  • 日本は江戸時代から「合議」という価値観を重んじてきた可能性があります。
  • 日本の体制は組織が権力を集中させずに合意形成を重視する傾向があります。
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日本の体制(合議制)について

 司馬遼太郎の「翔ぶが如く」の一節です。そのまま転記します。  この功業と言い、その圧倒的な人気と言い、かれが他の民族にうまれておなじ事をすれば革命政権の独裁者になりえたであろう。日本歴史においても、鎌倉政権における頼朝や、織豊政権における信長や秀吉は、十分に独裁者であった。  しかし江戸三百年の幕藩体制の行政慣習は、日本人に日本風の合議制の訓練をつけさせ、体制内にあって権力を一人に集中させることをしない、というよりもそれを極度に怖れる習慣を身につけさせた。幕府、藩、そして明治初年の太政官といったぐあいに、権力はそういういわば法人が持ち、自然人がもつということはなかった。 質問なのですが、 (1)江戸時代に、上記の「合議制」が発達した理由・背景は何だと思いますか??? (2)漠然としていて根拠はありませんが、日本という国は、江戸時代に限らず、「合議」ということを重んじてきたお国柄のような気もするのですが、この私の「思い」に、賛否どちらでも構いません。ご意見を下さい。

noname#238475
noname#238475
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  • eroero4649
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回答No.4

1 それが日本人のメンタリティに一番合っていたからだと思います。合議制は江戸時代に発明されたのではなく、もっと古くからあったのだと思いますよ。 近年の研究で邪馬台国の最有力候補とされているのが、奈良県の纒向遺跡です。私もここが邪馬台国だった説を支持しています(本当は九州にあって欲しかったのですが)。 この纒向遺跡、非常に特徴的なのが出土する土器が文字通りに全国規模なのです。そのことから推測されているのが、纒向遺跡は全国各地の国の大使館が集まるような都市だったのではないかということです。そしてその実態がよく分からない卑弥呼という存在も、全体を束ねるための象徴的存在で、卑弥呼の名の下に各国の代表が合議して運営をしていたのではないか、という説があります。 私はなんとなくそれは正しいような気がしてなりません。これは江戸幕府と似たような政治体制です。もっというと、室町幕府だって平安時代だって合議制でした。幕府どころか、戦国大名も毛利家や武田家がその典型ですが、大名その人が絶大な権力を持っていたのは信長や秀吉などごく一部に限られていて、実際は家臣の承諾がないと何も決められませんでした。 >日本歴史においても、鎌倉政権における頼朝や、織豊政権における信長や秀吉は、十分に独裁者であった。 ここらへんは最近の研究ではだいぶ変わってきましたね。一時期はあちこちにかなり影響があった「司馬史観」ですが、最近は見直されてきていると思います。例えば司馬史観ではケチョンケチョンにいわれている乃木将軍も最近は再評価されていますし、司馬史観では英雄的に扱われている石田三成も最近では「人望のないエリート官僚」という評価になりつつあります。 源頼朝に関しては、面白い説があるんですよ。その実像がほとんど分かっていない源頼朝、実は北条家によって人質として利用されていたのではないかという説があります。実力はあったものの権威がなかった北条家は、頼朝という「源氏ブランド」を手に入れて、それをカリスマとして利用したのではないかと。 三方が山に囲まれ、一方が海の鎌倉から頼朝が出てこなかったのも、出てこないんじゃなくて、頼朝に逃げられないように鎌倉に押し込めたんじゃないか、という話です。私は、なんだか正解な気がしてなりません。なぜなら頼朝は創業者のはずなのに、公式記録に「落馬して死んだ」と一言で片づけられていますし、その子の頼家はわずか3年後に追放のうえ殺害されます。3代目の源実朝は鎌倉で頼家の子である公暁に暗殺され(たとされ)、その公暁は暗殺犯として追われて討たれ、これにより源氏の血は途絶えて北条執権政治の時代となります。んー、なんだろう、この「片っ端に片付けられた感」は・笑。 日本では、「強い権力者」というのは嫌われるんです。独裁者は天下をとれないんです。信長がその右代表で、おそらく彼が最も信頼していたであろう家臣である明智光秀によって本能寺で討たれます。秀吉は天寿を全うした独裁者ではありますが、天皇家のシステムにも手を付けず、またその政治体制は「五大老政治」でしたから、確かにその実力は天下人ですが、徳川家も上杉家も毛利家も滅ぼしていません。敵対勢力をガンガン滅ぼした織田信長とは違います。 明治維新の独裁者といえば、大久保利通ですが、ご存知の通り彼も暗殺されます。他に独裁者的に振舞った政治家といえば、小沢一郎氏に橋下徹氏です。しかし彼らも味方以上に敵が多く、事実上失脚したといっていい状態でしょう。日産の独裁者であったカルロス・ゴーン氏もクーデターによって失脚させられました。ひとり我が道を行って世間をかき回した堀江貴文氏も、国策捜査によって潰されました。殺されなかっただけマシかもしれません。彼の番頭役だった部下は、沖縄で不審死を迎えましたから。 信長や大久保利通のように、日本では独裁者は殺されるのです。日本で人気なのは、調整型リーダーです。これは今に始まった話ではなく、少なくとも邪馬台国の時代から続いているものではないか、というのが私の説です。 蛇足: ちなみに、私、こう見えて実は典型的な調整型リーダーです・笑。

noname#238475
質問者

お礼

ありがとうございました。 合議制は江戸時代に発明されたのではなく、もっと古くからあったのだと思いますよ。……確かにそうでした。質問に「漠然としていて」と書いたのですが、どうにも、テレビか何かで観たかすかな記憶のある鎌倉時代の元寇の時の対応のあり方というのが気にかかって、質問した後で、調べてみましたら、頼朝は別にしても、「鎌倉時代」というのが「合議制」を柱にしていたようですし、江戸時代は、「発達した」というよりも、むしろ、「体制維持の策として、確固たるものにした」ということなのかも知れないなぁという気がしてきました。 (本当は九州にあって欲しかったのですが)。……邪馬台国については、まったく無知ですが、心情的には同感です。(*^_^*) それにしても、ううぅ~~ん。「メンタリティ」ですか。想像だにしなかったご回答です。日本の気候風土や地理・地勢などと関係があるのか???興味深いテーマです。 「司馬史観」ですが、最近は見直されてきていると思います。……私は「歴史」のプロではありませんので、詳しいことは知りませんが、司馬小説のファンではあります。(*^_^*) 源頼朝のくだりについては、拙い歴史知識ではありますが、正室の政子のことなども思い巡らしてみると、私も「そうだったのか」という気がします。 (おっと、ここで地震があったので、しばらくパソコンの電源を切って様子を見ます。9月のブラックアウトでは痛い目に遭ったので。(T_T)(T_T)(T_T)) 頼朝に逃げられないように鎌倉に押し込めたんじゃないか、……天然の要塞???「鎌倉」観が180度ひっくり返ってしまいますね。面白い、実に面白いです。 日本では、「強い権力者」というのは嫌われるんです。……「示唆」に富んだ教訓だと思います。 こう見えて実は典型的な調整型リーダーです・笑。 ……お偉い方のようですね。(*^_^*)考えてみると、今の日本の政治の姿というのを思い起こしてみても、詰まるところ「調整」ということなのかも知れませんね。おっと、「政治」に限らず、日本のあり方の根本に「調整」というのがありそうな気がしてきました。私は苦手でしたが。若い頃、このことに気づいていれば、少しは「偉くなっていた」かも???人生の敗残者です。(*^_^*)

その他の回答 (3)

回答No.3

かつて天皇親政の時代に摂政・関白が独断で政治をやって それで失敗したから武家政権は合議制にしたのだと思います

noname#238475
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • staratras
  • ベストアンサー率40% (1441/3515)
回答No.2

(1)最初と最後以外の江戸時代は徳川家以外の大名が天下を取る夢を奪われ、家臣の武士たちも次第に領地から切り離され、鉢植えのように勤め人化(サラリーマン化)していった時期です。天下取りやそこまで行かずとも立身出世の大望があれば別ですが、与えられた地位の勤めを大過なく果たせればよいと考えた場合、トップ一人やごく少数の者だけで決めるより合議制で「皆で決める」ほうが、無難であることは今も昔も変わらないでしょう。 その判断・決定が成功した際に自分一人でその功績による栄誉を独占できない代わりに、失敗した場合でもその責を一人で負わされることからは逃れ得るからです。また官僚組織には「成功したら俺の功績」「失敗したら部下のミス」とするような上司がいつの時代にも存在するでしょうから「ことの成否にかかわらず一蓮托生」にしておく必要があります。 (2)確かに日本では「独裁」は好まれず、「合議」が好まれます。その根本的な理由は、中世において自立・自治的な村(惣村)の寄合が合議制だったからではないでしょうか。もちろん村の中にはリーダーとなる存在はいましたが、寄合は別にそのリーダーがすべてを決めて他の成員がこれに従う「上意下達だけの会議」というようなものではなく、みなが話し合って納得して決めるのがよいとされていたと考えられます。 また農村以外でも博多や堺や京などでは町衆による自治の伝統があり、こうして培われた「合議」を重視する伝統は近世以降も継承されただけでなく、21世紀の日本の会社でも役所でも国会でもしばしば見られます。 この合議制志向の最大の問題点は、責任の所在が不明確になり、しばしば「無責任体制」になってしまう点でしょう。この問題を克服できれば、下手に独裁者にふんぞり返られて挙句の果てに崖から転落するよりは、合議制の方が天下泰平です。ただしどんな世界でも猪突猛進でトップを疾走するためには、合議制の「安全運転」だけではダメで、ここが難しいところだと考えます。

noname#238475
質問者

お礼

ありがとうございました。 「皆で決める」ほうが、無難であることは今も昔も変わらないでしょう。……おっしゃるとおりですが、質問の趣旨は、司馬遼太郎の表現が正しいとすれば、江戸時代に「合議制」が発達した理由・背景は何だと思いますか???ということなのです。 確かに日本では「独裁」は好まれず、「合議」が好まれます。その根本的な理由は、中世において自立・自治的な村(惣村)の寄合が合議制だったからではないでしょうか。……「安定した政権あり方」というのを「自立・自治的な村(惣村)の寄合」に学んだ」ということなのですか???私は、「自立・自治的な村(惣村)」に関する歴史というのは全く知りませんが、「自立・自治的な村(惣村)」には「責任逃れ」とは異なる、「規律」とか、あるいは「縛り」のような意味合いのほうが強かったのではないか???と勝手に想像してしまいました。鎌倉幕府の合議制も、これで説明できるのでしょうか???

noname#252332
noname#252332
回答No.1

 信長秀吉、また家康でさえも天才であり独裁して生き残りました。しかし当時他に独裁のリーダーは無数にあり、みな馬鹿なことをやって滅んだのです。信長の子も秀吉の養子も家康の子も、父の半分の英邁もありませんでした。天才とは突然変異ですから当然で、当人もそれを知って二代目には合議制を指示します。信長は死の当日まで死ぬつもりがなかったので指示がありませんが。  合議制とは最高の発展のチャンスと言うよりも最悪の独裁の災難を避けるマシな選択です。天才的だと思われた独裁者が後半生で堕落して国を失う例も多数あります。ナポレオンのここは良かった、ここがダメだよ、と我々にとっては雑談ですが当時のヨーロッパに生まれれば人生を狂わせる悪魔です。そこで合議制です。「これって普通でしょうか?」とだいのおとなが見知らぬ冬休みの中学生に質問することはたいへん効果のある安全策です。

noname#238475
質問者

お礼

ありがとうございました。

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