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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:神学と哲学って、一体何処がどう違うの?)

神学と哲学の違いは?

このQ&Aのポイント
  • 神学と哲学の違いについて解説します。
  • キリスト教の初期における神学と哲学の関係について説明します。
  • 初めて聖書を読む際のポイントとして、神学と哲学の対比を理解することが重要です。

質問者が選んだベストアンサー

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  • hue2011
  • ベストアンサー率38% (2800/7250)
回答No.2

日本語でいうから混乱するんで、哲学はphilosophyであって神学はtheologyです。神についての論理が神学であり、知に対してのめりこむのが哲学です。 違うことを言った方がわかりやすいから言いますが、チョムスキーが言語活動をラングとパロールという2つの見方で説明することを提唱し、それを読んだあと、ラングの方向で民俗学を展開し分析してみせたのがレヴィ=ストロースですけど、彼らがやったのは一見言語学、民俗学に見えますが、構造主義哲学ですね。つまり人間の知的活動には型があり、型は他の型を包含したり噛み合ったりするという考えでより高度な人間認識に至ろうとします。こういう見方考え方をすると、愚かに見える人間社会のしがらみが構造でできてきることが明確になり、科学的でもなんでもないと思われる思考が、科学に橋をわたすんですね。 哲学というのは常に外に開いています。 これは神学ではありえないことです。神学はまず神が存在することから始まり神が語る本心は何かということを議論します。当然原典主義とか異端論議のような凝り固まった方向に進む危険が多くあります。キリスト教でいうと福音主義のようなものです。これは迷っている人間を導くのに快感のある考え方であり、説得力があるのです。国をまとめるにも都合がいいんです。 日本でも、聖徳太子が国をまとめるのに仏教が効果的だと思い、それまでにあった日本神道を軽んずる方向に舵を切って守屋大臣と競ったあれは神学同士の対決です。 神学は同じ神を信じる団体では通用する方法ですが、全く違う文化とは相いれません。世の中にはいろいろな宗教が存在するわけですから。イスラム教で教条主義にこりかたまるとISになるわけです。 これを橋渡しできるのが哲学であるわけで、そこで使徒書簡の話に繋がるのです。 同じ旧約聖書の元に生まれた文化が、イエスの出現で局面を変え、いわゆるユダヤ教の世界とキリスト教の世界に遊離したわけです。あとあとでさらにムハムードとかが現れてさらに面倒な3つどもえになるんですけど、初期キリスト教のときは、布教をするのに相手を説得しなければならないのです。 神学でやらかしたら、そもそも信じているもの同士の会話にしかなりません。ユダヤ教の人間は仲間はじきになり、敵味方になってしまいます。また、同じキリスト教のなかでも心棒になる大物は使途以下何人もいるわけで、この連中が喧嘩するのも問題になります。 そこで橋渡しできるのが哲学ということになるわけです。 別の文化のもの同士が会話するのは哲学以外ではできません。同じ宗派の人間なら神学が最善です。そういうことを「新約聖書の使徒書簡の部分は、初期キリスト教の神学と哲学を論じている。」とまとめているのです。

1685
質問者

お礼

とても丁寧なお返事を下さり、本当に有り難う御座いました。確かに日本語ですと、幾等かの混乱が生じて来るのが事実ですよね。

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その他の回答 (1)

  • jack-a3
  • ベストアンサー率34% (199/584)
回答No.1

グーグルさんあたりに「神学とは」と「哲学とは」でそれぞれ検索してヒットした先頭から数個のサイトを読み比べてみればなんとなく分かるんじゃないですかね? ざっくり言うと「神学」は、神の存在を認め、宗教の意義を認める立場からその神や宗教なりの成り立ちとか論理を考察し、構築する学問。神の存在を信じることがベース。 それに対して「哲学」は、人間や世界の成り立ちや意義について論理的に考える学問。必ずしも神の存在を必要としません。

1685
質問者

お礼

お返事を下さり、本当に有り難う御座いました。一度Googleなんかで調べてみます。

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