オカマの涙と処女性の哲学的意義について

このQ&Aのポイント
  • オカマの涙と処女性の関連性について、聖書の神学としての意義や明治期以降の道徳の変化を考察します。
  • 処女性は古い部族社会の条件として定義されており、信仰の対象ではなく風俗であることを指摘します。
  • また、お釈迦様の時代では処女よりも美女が尊敬されていたことを紹介し、処女性の意義について考えます。
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哲学 オカマの涙は私が潤そう。

悲しみに染まる涙よりも、熱き男の心の愛に喜びの涙を流せ。 実在する仮面ライダー。 ドリル番長だ。 今回は無差別ドリルだ。 オカマの皆さん。 失ってしまった処女に涙する必要はない。 処女性の倫理の源流は、旧約聖書の部族社会の地方色丸出しの規範であり、そのシンボルとして新約聖書のマリアさんに象徴される。 聖書は外国で神学の教科書として活用されているが、神についてはなにも語っていないも同然なのが定説だ。 処女は信仰の対象となる神学ではなく、古い部族社会で同一の宗教を形成するための条件として定義されているだけだ。 道徳であり風俗だ。 神学ではない。 ところで知っているかね。 仏教関連の古文書研究によると、お釈迦様の生きた時代は処女より美女が尊敬されていた。 その美女は娼婦になることで社会に認められ尊敬を集めた。 日本でもゲイシャガールなる高級娼婦は歌って踊るだけでもてはやされたりしたよね。 そのおおらかな社会が本来であり、明治期以降西洋から持ち込まれた、禁止事項にまみれた戒律という考え方から、君達は今、自らを悲しむのだ。 私が君達を慈しもう。 美しいよ。 この美女である事が愛を交す条件だ。 西洋から持ち込まれた医学的見解で君たちの身体的処女は回復しなくても、精神の処女性は私が与えよう。 愛しているよ。 美しき者よ。 さて、質問を投稿するとHPトップページに掲載されます。 そこから間違ってこの魔窟に迷い込む人のための忠告をしておきましょう。 哲学カテゴリーは男同士が男を磨く闘技場で、男らしさで負けた挑戦者は「ひどいわ、私女の子なのよ、やさしくして」このように見え透いたV字開脚をするオカマバーでもあります。 別名クラブヴァルハラです。 このような場でオカマの皆さんに興味深々だからこの様な質問を立ち上げました。 哲学に取り組むことは命題に取り組む事ですが、自ら命題を策案することも哲学です。 趣旨は結構まじめでして、聖書の神学としての意義、処女性と関連して、明治期以降の道徳はそれ以前のおおらかな信仰心による処女性を信奉しない考えとどの位変わるかとか、まあ思うところを哲学してください。 オカマバーの名物である、オカマの皆さんとの痴話げんかもショープレイとして有効です。

質問者が選んだベストアンサー

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  • kurinal
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回答No.2

Flareon様、こんばんは。 時代によっては、まさに「産めよ・殖やせよ」 ・・・SEXすることが義務である、とされたことも、 明治時代には、あったようです?

Flareon
質問者

お礼

ありがとうお穣さん。 愛し合うことが義務なんだよ。 それは僕たちの未来のようだ。 ラララララー。 哲学としてまじめな回答がないと質問の意義がないんだが、楽しませようとした文章がふざけ過ぎとでも解釈されたのかな。

その他の回答 (1)

  • 177019
  • ベストアンサー率30% (1039/3443)
回答No.1

差別用語の羅列です。内容が「支離滅裂」こんな男は新潟県の恥です。

Flareon
質問者

お礼

ありがとうお穣さん。 世の中に遠慮しなくても、もっと裸でいいんだよ。 ラララララー。 今回はこの路線で行くからよろしく。

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