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《哲学する者は神の国の外交官である》は成り立つか

 1. わが心なる《非思考の庭》は 言わば《神の国》である。    2. ひとは 自然本性として身と心がそなわっており 身は 感性の原野を成し 心は 思考の緑野としてはたらく。これらは 経験世界の内にあり 経験事象と対応している。  ○ 自然本性:身(身体)と心(精神):経験存在   心:【考える】:思考の緑野   身:【感じる】:感性の原野  3. しかも人は これらの身体および精神だけではなくそれらを超えたナゾのチカラをも自然本性プラス・アルファとしてのごとく そなえている。――これは ふるくは ブッダター(仏性)やアートマン(霊我)あるいはプネウマといった神の霊なるチカラとして捉えられたものである。  4. このナゾのチカラを 《非思考の庭》と呼びたい。具体的には《心の明け》としてのごとく 知恵としてヒラメキを得させ 良心として身体の神経組織で恥ぢを知らしめるヤマシサ反応を起こさせる。  ○ 非思考の庭とは 心が閉じられていないことである  【信じる】:非思考の庭:聖霊(知恵・ 良心)・・・・【神の国】                 ↓    ↓  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  【考える】:思考の緑野:  ヒラメキ  ↓ ・・・・・【地上の国】  【感じる】:感性の原野:      ヤマシサ反応・・【地上の国】  5. 信じる非思考の庭は 経験的な存在である人間すなわち《われ》の内にやどっている。これを 《神の国》と呼ぶことは 哲学はゆるすか? 神とは 普遍神である。  6. 哲学する者は 神の国の外交官(アポストロス)として生きると言えるか?  7. 地上の国のみで生きる人に対して 外交官は その人たちそれぞれと同じように成って 外交活動を繰り広げるであろうか。  8. ムンジェインやキムジョンウンあるいはシーチンピンと同じ思考や感性をおのが内にあたかも開発して 対話を推し進め得るか。  9. アマテラシテ天皇やアマテラス公民なる人びとそれぞれと心において同じように成って 社会と人間のあり方について 話し合いをすすめ得るだろうか。  10. こういう話はあり得るか?

みんなの回答

回答No.1

髪の国(つまり頭)の外交換だろ? つまりヅラじゃねーか(笑)

bragelonne
質問者

補足

 駐日・《髪の国》大使館に勤務する哲学の徒・・・ってわけですか?  このあと   ★ ヅラ  ☆ かるんだろう?  読んでくれてありがとう。

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  • 神は人間を何であると思っていると思うか?

     神は人間を何であると思っているとあなたは思いますか?  質問者のこたえは わたしにとって神は 信じているのであって・つまりは わが心なる《非思考の庭》に受け容れているのであって 何とも分からないというものです。   ○ わが心(身と心)の成り立ち    信仰:非思考の庭:ヒラメキ    -----------    哲学:思考の緑野:思考・想像    知覚:感性の原野:直感   ・ なお 《哲学》には シュウキョウのオシエが入ります。それは 信じるものではなく 考えるものです。

  • 神について

     1. 哲学として現実の問題をあつかいたいと思うとき この主題があいまいであると なかなか話が前へすすまないという事態になります。そこで:  2. 神について最小限必要なことがらを共有しておくことは 大事だろうと考えます。  2-1. ただしこれは 《神についての説明》の共有であって 《神そのもの》のではありません。神とわれとの関係は その人自身の主観の内面にとどまります。  3. たとえば次のような説明があります。  ▲ (アウグスティヌス:神のかんたんな定義) ~~~~~   物体のように 場所と時間によって可変的な本性が存在する。   また魂のように決して場所によらないで ただ時間によってのみ可変的な本性が存在する。   さらに場所によっても 時間によっても 変えられ得ない本性が存在する。これが神である。   (『書簡集』18・2  390年頃)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    4. ここから 次のように整理します。《物体》は 《感性》の問題であり 《魂》は 《理性ないし思考》のそれであり 《神》は 《非思考すなわち 信じる》の問題であると捉えます。  ○ 《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  5. あるいはつまり われわれ人間は 神をもひとつの概念として捉え その概念(ないし言葉)をとおして神を思うということがあるとしますと そのときわれわれの思いは とうぜんのことながら 永遠につづくわけではありません。  5-1. すなわち 人間の思いは――神という言葉を補助線として 何とか神を望み見ようとするときその思いは――かなしいかな・いかんせん 断続的であり 変化してしまうことがあります。  5-2. ところが 神は――と言って推測をたくましくするなら―― そういう思いの切断や変化 こういったことは起こらないと考えられます。  5-3. すなわち 神は うつろいゆくものではない。人間は変わりゆき やがて朽ちざるを得ないのですが 神は そうではない。  6. 最小限必要なこととして 以上のような説明内容は 一般にも共有され得ましょうか どうでしょうか。これを 問います。

  • 神について何故ひとは哲学しないのか?

     せめて神についての勘違いをただしておくことまでは出来るのではないか?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは いっぱんに教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力    にかかわっている。      これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般をけっきょくは    信じるというおかしなことになる。  C. オシエを信じるという間違い。   ――オシエは 人間の言葉で表わされている。ゆえに人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。      やはり 精神主義的な人間信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っている間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。想像力の    産物であるに過ぎない。人間のつくった神でしかなく いわゆる近代人の    《人間の能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見られるのではないか。理念や観念としての偶像(つまりアイドル)がそこら中に見られます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても神の知恵についての仮りの表現でありそれとして観念の偶像であるのですから その偶像は偶像(仮りの表彰)として――扱えばまだしもいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。        *  同じく神は 何でないか? について考えます。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《しんじる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《しんじる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の場に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神のハタラキにとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。あるいは そこにやどる。  この非経験の場が わが心なる非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。  これをそのまま受け容れたというその行為を《しんじる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。どちらも《しんじる》である。  8. 神は存在すると見ても存在しないと捉えても どちらも互いに同等の《信じる》行為である。  非思考の庭なるナゾを 思考の緑野においてその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の庭は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. ○ (ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《心の明け》というのは 心がいろんな名のあらゆる神に対してあるいは《無い神》に対しても閉じられていないことである。  10. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス アッラーフ ブラフマン アミターバ マハーワイローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。全体としての一である。  と言うより 神が人間のつけたその名によってそれぞれ違っているということがあり得ない。  11. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  12. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  13. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。  物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて非思考の庭から思考の緑野に降りて出て来ている。この仮りの代理の場をとおして 神のナゾを望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。    14. だからオシエは 思考の緑野に属しており それが非思考の庭の神だということはあり得ない。なのに教義や宗教を信じるという言い方をする間違いが見られる。    15.エトセトラ。エトセトラ。  16. まとめて 神は何でないかまでは人間が明らかにしうるのではないだろうか。  さらなる探究へと 思いっきり自由なご批判をあおぎます。

  • 神は ひとつである。

     神は ひとつである。――次の趣旨説明にてその当否・成否を問います。  (あ) 神は どんな名前の神を持って来ても・あるいは《無い神》を持って来ても すべて全体として ひとつである。  それよりほかにあり得ない。  (い) 人間にとって 神だという存在――または 非存在――が 同じひとつでないことのほうがおかしい。  (う) ただし オシエは互いに違っている。  (え) 《信じる(その神を心に受け容れる)》と《考える(因果関係や排中律にしたがって経験合理性にもとづき推論する)》とは 別である。  (お) 神は 《信じる・つまり 思考に非ず》として受け容れるものである。  (か) 《考え》て理解できる内容の神なら それは 人間の思考や想像によってつくられたものである。  (き) ただし 《信じる神》について その信仰――非思考の庭なる動態――にもとづき その定義や説明をほどこすことは有り得る。  (く) ということは この神についての定義や説明あるいはさらに神学であっても そのような文章表現やシルシなどはすべて 神を指し示そうとするための補助線である。  (け) ちなみに かみという言葉・文字・発音も 神について知るための補助線である。  (こ)  もしこの補助線としての説明書きを 神であると錯覚したなら それは 《思考や想像の産物》としての神が出来上がる。そのように人間がこしらえた神であるとなる。  (さ) このような観念の神は その作った時点ですでに 死んでいる。つまり思考の問題であり 観念にとどまる。そこに 言わばいのちは ない。――信念とは成りうるところの思い込みがある。有限の移ろいゆかざるを得ない果敢無い《いのち》はあるかも知れない。  (し) ○ 《信じる》と《考える》との区別 ~~~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (す) 《非思考の庭》においていだかれるのが 神である。名前は いかようにもつけられる。  (せ) 《思考の緑野あるいは感性の原野》において持たれる神は ただの観念の神である。人間がつくった神である。人間に理解でき認識しうるものであるなら わざわざ神という謂われはない。必要がない。せいぜい アイドルと呼ぶがいい。  (そ) したがって 《非思考の庭》においていだかれる神を イワシノアタマと名づけるなら それが 神である。イワシノアタマという言葉は ただの補助線に過ぎない。  (た) もし実際の鰯の頭を――ということは 感性や思考の対象となる事物としての魚であるものを――神としたなら それは 偶像としての神であり もしさらにこの鰯の頭を自分のあたまの中に想像し思い込み神としたなら それは 観念の神である。人間のつくった神である。

  • 《信じる》を哲学として定義せよ

     たたき台です。  ○ 《信じる》とは  ~~~~~~~      一般に《神》(*1)と呼ばれる《非経験の場 X 》(*2)を対象(*3)としつつ    神の名(*4)をシルシ(*5)として 心に受け容れる(*6)ことである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~     *1 神:    次に出てくる項目の《非経験の場 X 》が 経験的に認識され得るような《有る・無い》を超えているゆえ 神については それが《有る(有神論)》と仮りに言っても 《無い(無神論)》とやはり仮りに言っても 同じことである。   *1-1 また神は 世界の中で見れば いろんな名がつけられている。これらも 次の《非経験の場 X 》の定義から言って どの名であれ 《全体としてひとつ》なる神のことを言っていることになる。   *1-2 たとえば 次のごとく:    類   型:   神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人    __________________________   ・ ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・・・・・・・・アートマン               (梵我一如)   ・ ゴータマ・ブディズム:無(ア‐ブラフマン)・・・無(アン‐アートマン)               (無無一如)   ・ マハーヤーナ・ブディズム:ブッダ・・・・・・・・ブッダター(仏性)               (仏仏一如)   ・ ヘブライイズム:ヤハヱー・・・・・・・・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・ プラトン(?):プシュケー・コスムー・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・・・・・・・・・   *2       非経験の場 X : 前項(1-2)の《神》の項目のそれぞれが 非経験の場の具体的な事例である。   *2-1 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。   *2-2 人間にとってその能力によっては それが何であるか・またあるか無いかが 分かるか分からないかが分からないもの これが 非経験の場のことである。そういう想定になるものである。   *2-3 この神は 得たいの知れない・雲をつかむようなナゾであるゆえ 《霊》とも呼ぶ。   *2-4 《アートマン》は 神の霊がやどったその場のチカラを称して言っている。《霊我》と言われる。   *2-5 《ブッダター(仏性)》も 神の霊のことである。呼び名が違うだけである。   *2-6 この《非経験の場 X 》の意味において《イデア》と言っても それはかまわない。神の名は ただのシルシである。ただし・また従って イデアに概念内容や意味はない。(として扱うということになる)。   *3    対象: 何が何だか分からないナゾの霊であるゆえ これが信じるの対象であるということは 《非対象》ということである。   *3-1 それゆえまた この非対象を どんなシルシとしての名で呼んでも 基本としての違いはない。   *4    神の名: 前項の(1-2)などを参照。   *5   シルシ: (2-6)などを参照。   *6    心に受け容れる: たとえばアミターバ・ブッダなる神のシルシとしての名を介して 非経験の場 X を心に受け容れるとは どういうことか?   *6-1 雲をつかむがごとく心に受け留め 何の思考も疑問(=つまり思考)もなく 受け容れる。これは あたかも賭け事において賭けるようなものでもある。相手(対象)は 何もないものであるゆえ・つまり非対象であっても 心でその領収証を発行しておく。これで 《信じる》の完了である。   *6-2 《信じる》が完了すると わが心に《非思考の庭》が成る。非経験の場 X を受け容れたというそのかたちである。   *6-3 この非思考の庭で わが信仰はみづからの動態過程をたどる。具体的なかたちとしては わづかにヒラメキが生まれるといったことがある。ほとんどそれのみである。   *6-4 信仰は おのれが日々あらたにされるごとくして 動態となってあゆむ。みづからの思考がもしあやまったなら これを捉えてワレをもとのワレに立ち帰るように仕向ける。   *6-5 それは 実際には むしろ感性においてその信号がおくられるようにして 作業がなされる。非思考の庭は むしろ感性とつながっているか。(直感と直観つまりヒラメキ)。            *   --参考--   ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~  ○ (簡略版:ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・ この質問は 次の質問と互いに姉妹版のごとくです。主題は別建てと成りうるものです。  【Q:フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8074286.html

  • 日本人の神とその信仰

     1. 神という言葉で言っているのは ふつう 神本体の依り代である。神な霊(び)なる山や磐座(いはくら)なる石などであり そして神社であっても神殿に神のシルシはなく ただ奥の山や杜が 依り代となっているだけである。  2. 依り代つまり神を理解するための補助線が けっきょく八百万の神々として受け留められている。に過ぎないのではないだろうか。  3. むろん神は ひとつです。つまりこの一という数は 全体を表わしている。一同の者とか関東一円とか言って使う。  4. つまり言いたいことは この神の《依り代》とは 大ざっぱな捉え方にはなるけれどもけっきょく神の使いなのである。すなわち 《天使》のことだと思えば話が早い。主体的な存在だとは むろん 捉えられてはいない。だけである。  5. だとすると 図式としてどうなるか。これまでに 神とその信仰は 次のように捉えて来たけれど さらに詳しく見るとどうなるか?  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   ・《非思考の庭》は 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  6. クリスチアニズムでは 天使を――必ずしも必要とは思わないけれど――説明に加えると 次のごとく:  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   神なる聖霊:スピリトゥス=ロゴス(α)      -----------【天使(α’):ロゴス(α)の使い】-----------   神の宮なるわれ:クレド(信じる;非知なるナゾ⇒非思考の庭)   -------------------------   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. では 日本人の信仰のかたちは?   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   神なる霊: 大いなる《?(なぞ)》   -----------《依り代=補助線》-----------   われの内なる霊:信じる(=きよらかなおそれ)   -------------------   われ(自然本性):思考の緑野・感性の原野  8. 違いは 天使は目に見えないが 依り代は 山や石や目に見えている物であり しかもその物をとおして神なる霊を見る。つまり 目に見えない。心の目にも見えないと思う。  以上を問います。

  • 《アルケーの神》は 《信じる》のではないのか?

     1. アルケーの神とは 宇宙の法則であると言う。けれどもこの表現による規定は あくまで仮りのもの・すなわち《補助線》を引いただけのことではないか?  2. すなわち もし神が宇宙の法則であるとすれば 一方で たとえば山に登り 虹が出てきれいな自然を見ると それは アルケーの神の意志の現われだということらしい。  他方では ではもし雪崩に遭ったりクレバスに足をすべらせたりしたら それは 引力という宇宙の法則であるから やはりアルケーの神の意志の現われであると言えるか?  3. 言えまい。ならば 宇宙の法則だという説明は あくまで仮りのもの・単なる補助線だと捉えなくてはならない。本体は 分からない――つまり分かるから分からないかが 人間には分からない――と想定し規定するのが 哲学としてかなっている。  4. すなわち 《アルケーの神》は 《感じる》ものであって《信じる》ものではないと高らかに宣言しているようであるが 《感じる》のは 単なる補助線としての経験事象であるに過ぎない。のではないか?  《本体》については けっきょく《感じる》ではなくまた《考える》でもなく やはり《信じる》ということではないか?  5. 《信じる》というのは 《思考:考える》や《感性:感じる》をも超えたところのナゾの何ものかを それでもわが心に受け容れるということである。  受け容れるのは ふつうの経験事象としての人間の意志行為であり その対象は 何であるかが分からないナゾの何ものかである。これが 《信じる》という行為である。  6. かくのごとくして わが心なる《非思考の庭》における・雲をつかむようなコトが起きていると 人間という人間にかんして 普遍的に言える。のではないか?   ○ 参考:《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. なお この《信じる》をオシエにして組織をつくり その信仰の度合いを基準にして組織内外の人間を評価し さらにはこれらのよわく薄い信仰の者らをみちびくと言っているのは じつは・じつに《信仰》の自殺行為である。  教義化・組織化は 仮りの補助線を現実の神としてしまうおそれに満ち満ちている。そのヒエラルキアは 聖なるものでも何でもない。むしろ人間に対する支配欲によってみづからが支配され 信仰を利用して世界を心としての自殺行為にみちびく準犯罪行為である。  ご見解をどうぞ。

  • 神は ヤハヱーもキリストもアッラーフも同じでは?

     霊のお話です。  神の霊は しんじるのであって 考えるのではない。  信仰は 非思考である。  ゆえに:  ○ (ワタシなる存在における《霊》の位置) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  したがって 《非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)》における《神》は 全体として ひとつであって その名が違っても何らその神に差はない。   ヤハヱー・キリスト・アッラーフなどなどという名は そういう言葉として 《思考》の次元であるから。《非思考の庭》にとっては ただそれを代理してあらわすシルシに過ぎないから。  《無い神》という名の神であっても 同じくである。〔下記の(2)の例を参照〕  参考に 宇宙の霊と 《小宇宙(わたし)》の霊との関係を次のように図解しました。  1. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン主宰神    我:アートマン霊我  2. ゴータマ・ブッダ:無無一如    無:シューナター(空)=ゼロ    無:アン‐アートマン(無我・非我);ニルワーナ(寂静)  3. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ(阿弥陀仏) / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)  4. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  5. (プラトン?):霊霊一如    霊:プシュケー・コスムー(宇宙霊魂) / アニマ・ムンディ( 宇宙霊魂)    霊:《われ》  6. シントウイズム:《あはっ!》:もののあはれを知る    =きよらかなおそれ    =聖なる甘え    =わび・さび  こう捉えておけば もう神の議論は要らないと思われます。そういう問い求めです。いかがでしょう? 

  • 宗教は 百害あって一利なし。

     (1) 宗教は 個人の信仰とはまったく別の社会現象である。  (2) そのオシエが もし《信じる》べきものであると言うのなら それは 精神錯乱に落ち入ることを意味する。  (3) オシエは 命題(人間の思考し判断したもの)としてあるからには 《考える》ものであって そのような思考ないし理性の問題であるものを どうして信じる(つまり 神として受け容れる)ことが出来ようか。  (4) 《信じる》と《考える》とを区別するべきである。   ○ オシエは 信じるものではない ~~~~~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (5) 《信じる》とは 神をわが心に受け容れることである。神は 非経験の場だから 《考える》ことも認識することも出来ない。わづかに信仰の何たるかを説明するために ヒラメキから得た知識を理論として形成するとき この説明理論は 神を知るための補助線となる。  (6) この補助線たる説明書きが オシエと見なされ得る。《神は愛である》なり《至高の善である》なりの取扱説明書を オシエとして さらにはこの思考内容ないし概念を神として 信じよと言うのが 宗教である。  (7) この宗教は 信仰としての蝉の 抜け殻である。百害あって一利なし。  これを問います。出来れば 確定させたいと考えます。

  • 《分かるか分からないかが分からないナゾ》が 神。

     たたき台を述べます。その当否を問うています。  《分かるか分からないかが分からないナゾ》 とは《非知》と呼ばれる。  それは 《非経験の場》である。  すなわち 図示しますが:  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》というのは 個人が信仰にあって得られたヒラメキを観想(テオーリア)としてコトバに表現したところに発する。すなわち その観想を表現したものを オシエとするところからである。  オシエのもとに群らがり始めたら それは個人の信仰を去って その抜け殻としての宗教に変身したことを意味する。そこは 《信じる》の問題ではなくなり 《考える》をとおして理解した人間のあたまの中の観念の神へと変わる。  けれども 神は 非知なるナゾである。    人間は いのちのもとにあるから・そして命のつづくことを欲し・また良くつづくことを志向するから このイノチのみなもとなる神を 善と見る。至高の善という属性を 神に付与する。じっさいには 善悪の彼岸としてのナゾの場である。  同じようにして この上ない愛・慈悲・また 義あるいは真理とも呼ばれるようになる。愛憎をふくむ愛 あるいは 相対的な主観真実における義不義や真偽を超えたところの真理。  神が この世界を見守るというようなイメージにまで人間の想像が及び これは 摂理というコトバで呼ばれる。そこから ダルマまたは宇宙の法則などとも呼びたくなり呼ぶ場合もある。  ところが 《非知:すなわち 人間の能力では分かるか分からないかが分からないナゾ:つまり非経験の場》のことを想像し思ってみたとき そこにすでに神に触れた感覚(予感)が得られるのではないだろうか。  これを 《考える》ではなく 《信じる》と呼ぶが この信じるは 信じないと言っても 同じコトになる。信じないと信じたことになる。《非知に触れた感覚》 これが神と接した体験である。