芥川の「蜘蛛の糸」についての質問

このQ&Aのポイント
  • 釈尊の手元にあるのか、池の中にいるカンダタの方に垂らされたのか
  • 池の底に蠢く亡者さんたちの行為と罪は各人にのみ起因するのか
  • 本当に苦しむ人に救いを与えようとすることこそ真の聖者の姿か
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芥川の”蜘蛛の糸”

ご周知のように芥川に”蜘蛛の糸”という短文があります。 【質問1】 釈尊が垂らした糸の蜘蛛は釈尊の手元にあるのでしょうか。 池の中のカンダタの方に垂らされたのでしょうか? もし後者だとしたら、池の外にいる雲を活けの底に落とすことになりますね。 それは釈尊としてはあるまじきことではないでしょうか? 【質問2】 池の底に蠢く亡者さんたちの行為と罪は遡り分析すると、その各人にのみ起因するのでしょうか? 創造者とかそういう人間を出した存在こそに起因するのだとは言えないでしょうか? 【質問3】 仏教の教説には門外漢ですが、 本当に苦しむ人がいるならそこに行って何とか救おうとすることこそ、聖者であり釈尊ではないでしょうか? 私は本当の聖者様はもっとも苦悩の人に寄り添うものだと思います。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • seble
  • ベストアンサー率27% (4041/14682)
回答No.1

1 前者と思います。蜘蛛が糸を垂らすのであって、蜘蛛が降りていくというような表現は無かったように思います。 2 仏教では、特に創造という概念は無かったように思います、不勉強ですが、創造するのはキリスト教とかの方かと。 3 単純に苦しんでいるのではなく、罪業によって地獄へ落とされた訳ですから、一種の刑罰、修練なのです。それを単純に助けてしまったら、当人のためにもなりませぬ。

krya1998
質問者

お礼

そうかもしれませんね。 ありがとうございました。

krya1998
質問者

補足

一種の刑罰、修練ですといわれても カンダタである私はひたすら這い登ろうとする人生です。 ありがとうございました。

その他の回答 (2)

  • takuranke
  • ベストアンサー率31% (3923/12455)
回答No.3

1.お釈迦様のそばにいた、 極楽の蜘蛛が銀色の糸をヒスイ色の蓮の葉にかけていたのを お釈迦様自ら手にとって、 血の池にいるカンダタにたらしたので、 蜘蛛が自ら糸をたらしたわけではないです。 2.仏教にはもともと創造主と言う概念はないです。 血池地獄にいる者たちは 現世での行いによってそこに落とされたので、 自らの罪に起因します(因果応報)。 3.現世での自らの行いで 死んだ後に地獄に生まれたので 苦しむといっても自業自得です。 地獄での寿命が尽きるまでは、 責め苦を受け続けます。 カンダタは、 蜘蛛の命を助けたことで、 極楽にいける機会を得たのですが、 結局は自分だけと言う考えによって、 その因果が断ち切られることが無く、 血の池の底に石のように沈んでいきました。 もともと子供向けに書かれたものですが、 かなり異なる内容の絵本などが多く、 原作(ってわけではないですが)では、 お釈迦様がたまたま蓮の池を除いて、 地獄にいるカンダタを見つけ、 カンダタが行なったたった一つの善行を思い出し、 蜘蛛の糸を自らの手でたらしたのですが、 蜘蛛がお釈迦様に頼んで糸をたらしたとか言うのもあります。

krya1998
質問者

お礼

ご回答の通りですね。 ありがとうございました。

krya1998
質問者

補足

自業自得ですとは悲しいですね。

回答No.2

1.クモにとっても、功徳を積む事は良い輪廻、ないし解脱への途なのです。落ちようと焼け死のうと、輪廻の前には修行の過程です。 2.その人の行動は、過去の原因によるのではないかというのは、因果律の問題で、確かに過去の原因が連なって現在の現象を起こしていますが、それは現在の判断の免罪にはなりません。 そもそも1つの現象の原因が1つであるという考えが間違っています。その現象に連なる原因全てが責任を問われるべきであり、かつ、その結果が明らかでありながら許容した判断=当人が責任を問われるのは当然である。 3.1にも書いたように、苦しみは修行です。苦しみの原因の多くは煩悩であり、それを救う=喜ばせる事は堕落です。   

krya1998
質問者

お礼

ありがとうございました。

krya1998
質問者

補足

カンダタである私には、辛いご回答ですね。

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