論理学の「空」の読み方は?

このQ&Aのポイント
  • 論理学初心者の方が、「論理学入門」(近藤洋逸、好並英司 著)という本で「空」の読み方について悩んでいるようです。
  • 論理学でいう「空」は、「から」と読むのか「くう」と読むのかについての疑問があります。
  • 例文を引用しながら、「空」の読み方について説明されています。
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論理学の「空」は何と読みますか?

論理学初心者です。 「論理学入門」(近藤洋逸、好並英司 著)という本を読み始めたのですが、読み仮名が付いていないため、漢字の読み方に確信がもてません。 論理学でいうところの「空」は、「から」と読むのでしょうか? それとも「くう」でしょうか? たとえば、このような文で用いられる「空」です。 +++++++++++++〈上記本からの引用〉+++++++++++++ これまでは名辞の示すクラスの成員は複数としてきたが、しかし成員が1個やゼロの場合もある。成員がゼロのクラスを空な(empty)クラスという。プラトンのような固有名詞や、「その机」のような指示形容詞のついたものや、また「地球」のクラスなどの成員は1個であるが、プラトンを他の人物から区別する性質があれば、また地球を他の天体から区別する性質があれば、これがそれぞれの名辞(概念)の内包である。(ただし固有名詞や指示形容詞つきの名詞は一般には概念とはいわない。)「幽霊」のクラスは科学の立場からみれば空であり、「空飛ぶ円盤」のクラスは空かどうかまだ不明であるが、このようなクラスでも、それに対応する概念に内包があるからこそ、それらの概念について議論もできるのである。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ このような文章における「空」の正しい読み方をお教えいただけませんでしょうか? よろしくお願いいたします。

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  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.1

 「くう」

soyokazespring
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 おかげさまで、すっきりと学習を進められそうです。

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