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思想を信じるのは善いこと?(仏教など)

例えば、人を殺すのは悪いって、哲学で意味は分からないですけど、仏教なら殺生してはいけませんですよね。哲学上では難解な話になるかと思います。 ギャンブルであれば経済でいえば、カジノを建てたらいいのでしょうけど、仏教ではよくないですし風紀も落ちるともいえるかと思います。 ポルノも同様ですね。 経済原理と道徳の間で説明できなければ、崩してしまうということがあるかと思います。 でも世界的宗教である仏教を善い生き方の目的とすれば、経済原理で否定すればそれってある意味宗教否定で共産主義の主張と同じになるのでしょうか? 神道も同じく、日本の道徳ですよね。 思想といえば、政治がらみでもつのはよくないようなイメージですけど、このような東洋思想など持つほうがいいように個人的に思えます。 思想を信じるというのは、いいことなのでしょうか?それともよくないのでしょうか? 全部なぜギャンブルはしていいか悪いかなど理論解明なんてむずかしいように思えてます。 理論解明より思想でいいのではとも思えてます。

みんなの回答

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.14

mezorosi様、おはようございます。 >「仏教では、よくない」 そうですか。 >「仏教なら殺生してはいけませんですよね。」 一般的には、そういう理解です? >「神道も同じく、日本の道徳ですよね。」 そうですか? 「神道なら殺生してはいけない」と言われますか? >「全部なぜギャンブルはしていいか悪いかなど理論解明なんてむずかしいように思えてます。 理論解明より思想でいいのではとも思えてます。」 人権を侵害しないように、心掛けたいですね。

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.13

哲学 思想、東洋思想、共産主義 宗教>仏教、神道 道徳、風紀  政治 経済原理 経済 上記のような言葉を縦横に駆使しておられますが、いささか整理が不十分なような気がして書き抜いてみました。これらの一般的な定義をある程度厳密に考えないと議論は混乱してしまうことがあります。 個々の論旨は、宗教を政治に取り入れたらうまく行くのではないか、というような主流があるように見えます。 経済原理と道徳が矛盾しないように宗教を利用すれば良いと言うようなことでしょうか。 日本など先進国家では、政治に特定の宗教が関わることは憲法などで厳しく禁じていますので、このようなことは議論の余地はありません(説明は省きますが、一例、イスラム諸国の低迷と混乱が反面教師です。)。 経済と道徳、風紀などのガチあいを法律などで整理しているのが政治、国家の役割です。 思想という言葉は非常に広い概念で、宗教はその一部に過ぎません。今のギャンブル規制なども含めて、政治もある意味現代までに到る様々な思想(主にロックやモンテスキューなど西欧の近代哲学思想です)が指し示す理論にもとづいて法律を作り、国民を指導している面が大きいです。

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1677)
回答No.12

>思想を信じるというのは、いいことなのでしょうか?それともよくないのでしょうか? 信じる、信じないという事を議論する前に、、、『もっと勉強しましょう』と言いたい。 これは、あなたたけではなく全ての人に対してです。(こういったサイトは、回答するのも自由だし、中には自分自身の概念だけで回答している方も少なくありません。) 『信じる』と一言でいっても、良いことだと信じる、悪いことだと信じる、正しいと信じる、間違いだと信じる等、信じるにも色々な場合があります。ただ『信じる』だけだとそれが良いものか悪いものかの判断もしていない場合もあると思います。世の中には、そうした『信じた』だけで、自身の人生が無茶苦茶になったケースも存在します。(尊師を信じたことで死刑判決を受けたり、ジハードだといって人を殺したり、死ねば楽になれると思い自殺をしたり、、、) 多くの日本人の場合、小学校・中学校の義務教育課程で基礎的な学習はしていますし、ある程度の大人になるまでには、環境を含めて様々な体験を通じて物事の判断基準は養われるものだと思います。つまり、多くの日本人は日本語で書いてある書物も読めるし、会話もできるし、理解もできるものだと思います。 ただし、義務教育課程や高等教育課程では『学ぶ事の出来ないもの』があります。それが、思想であり、宗教の教義です。これは、日本国憲法にある『信教の自由』に基づいて教育をする事が出来ないものだからですし、大学の思想・哲学・宗教等の専攻学科に入るか出家してその宗派の教義を学ぶかしないと専門的に勉強できないからです。 しかし、私達の国日本には、実に多くの思想・哲学・宗教等に関する書籍が存在しているのです。『スピリチュアル』も含めれば大変な数になるでしょう。中には、インチキ霊能者の書いた本も存在しているかもしれません。先ずは、そうした書物に学んで、それが『正しい』か『間違っている』かを判断しなければいけません。 この回答は、たぶん12番目の回答となると思います。あなたは一つの質問をし、12人もの回答を得る事が出来たのです。しかし、そのうち何人の方がどれくらい専門的にその専門分野を勉強し、確信を得回答しているのかは、私は疑問に思います。全く勉強していない回答者もいるのではないだろうか。その回答の中にさえ、高低浅深が存在しています。 世の中に存在する哲学書や仏教書(仏教の場合には、釈尊の教えを説いた『経典』と後の学者が書き表した『釈書』しかないのだが、、、)は数多くありますが、その根底には著者の宗教が必ず存在しているのです。例えば、この間『芥川賞』を受賞した又吉直樹著の『火花』にしても、彼の持つ何らかの宗教があるのです。要するに、人間が書いているものであれば、何らかの宗教感、思想感が反映されているのです。これは、書物だけの事ではなくて、人間のする行為の裏側には、必ず宗教・思想が存在するのです。 それくらい宗教・思想というものは、人間の行動、言動に直接影響をするわけですから、先ず人間は勉強しなければならないのです。そして、勉強をした後に、自らが高低浅深、取捨選択をし正しいものと正しくないものとに分けなければなりません。その上で『正しい』と思うものを他人に回答として与えなければならない。特にこのサイトの哲学のカテゴリーにおいては、思いつきで回答してはならないのです。 また、あなたが正しいものに出会えるかどうかについても、あなたの持つ『縁』というものが大きく関係しています。これは何かの病気で良い医者に出会えるかどうかといえば、分かりやすいでしょう。あなたに縁が無ければ、良い医者には巡り合えないのです。 最後になりますが、本来宗教というものは、人間の行動・言動について直接的な影響を及ぼすものだという事は先に書きましたが、その中でも仏教は『人間』というものに焦点をあてて書かれたものです。人間が抱える様々な悩みや苦悩を【解決】する為に解かれたのです。一言で『はるか昔に、、、』なんて書かれている方もいらっしゃいますが、未だかつて人類は人間すら解明できてはいないのです。その人間の持つ『生命』について解かれたのが仏教なのです。前回の解答にも書きましたが、自身の内に向かって物事を考えると“人間とは何ぞや”という疑問に当たり、その疑問に人間生命の次元から回答を与えているのが仏教なのです。 しかし、その仏教は長い歴史の中で、数多くの宗派を生みだし、釈尊本来の教えを捻じ曲げ勝手な教義を取り入れてしまっている物が殆どです。『南無阿弥陀仏』を唱えていれば西方極楽浄土に往生できるなんていうものは、法然が勝手に考えたもの(勘違いをした)であって何の功徳も無いのです。良く葬儀などでお寺の住職が導師を務めますが、そこで『南無阿弥陀仏』と唱えても、死んだ人は天国なんて行けないのです。未だに何の疑いも無く葬儀で『南無阿弥陀仏』と唱えている住職がおりますが、全く持って不勉強な僧侶だとしか言いようがありません。そして、それを信じている檀家(在家)の民も阿呆だというか哀れだというか可哀そうな事です。葬儀を執り行っている導師(僧侶)に対して、“『南無阿弥陀仏』なんて死んだ父(母)が天国に行けなくなるから止めてくれ”なんて、勉強していないから言いだすことができないでしょう。ほんのチョット勉強したくらいで、このくらいの事は言えるようになるのですよ。 いずれにせよ、先ずは自らが学ぶ事が大切です。 【付録として】・・・宗教の高低浅深を図るものとして『五重の相対』を記しておきます。 『五重の相対』 ・内外相対⇒内道と外道の比較 ・大小相対⇒大乗仏教と小乗仏教の比較 ・権実相対⇒大乗仏教の内、実教と権教の比較 ・本迹相対⇒法華経において、本門と迹門の比較 ・種脱相対⇒成仏する過程の比較 これだけでも、勉強する価値はあると思いますよ。 ※ちなみに、この間思った事なのですが、基本的な人間の作用を仏教思想から解いた本が有りますが、164ページ、258円の本でした。これで人間の悩みや苦しみが解決できるのであれば安いですよね。生命の働きが書いてあるのですよ。 高いだけが、本じゃないのですね。

回答No.11

思想とは、「世界とは何であるか(世界観)」「何のために 生きるか(価値観)」を解明するものであり、その原因を 神に求めたものを、宗教というのです。 だから、人類の知識が乏しい古代は、世界の本質など及びも つかず、唯一、全知全能の神に依存した説明しかできなかっ たので、宗教=思想&科学だったのです。 やがて科学が発展し、神による説明が齟齬をきたすケースが 出てきて、科学や思想は宗教から分離し始めたのです。 つまり思想とは、見えている世界をより深く理解するところ に生じるものであり、環境認識とは別な選択肢として語られ るならば、その「思想」は、真の思想ではなく、方法論的な ものに過ぎない。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.10

”でも世界的宗教である仏教を善い生き方の目的とすれば、経済原理で 否定すればそれってある意味宗教否定で共産主義の主張と同じになるのでしょうか?”        ↑ なると思います。 科学的社会主義ということで、宗教は否定されますから。 ”神道も同じく、日本の道徳ですよね。”     ↑ 神道てのは、日本民族の宗教的感情であり、それが 結果として秩序維持に役に立っている、という ことだと思われます。 ”思想といえば、政治がらみでもつのはよくないようなイメージですけど”     ↑ 人権概念も、民主主義という概念も思想ですよ。 思想というのは、人間社会や個人を上手く運営させるための 道具なのです。 その道具を上手く使うか否かの問題です。 包丁は、美味しい料理をつくる道具になるし、人を殺せる 道具にもなります。 思想も同じです。 人々を幸福にすることも出来ますし、不幸にすることも出来ます。 ”このような東洋思想など持つほうがいいように個人的に思えます。”      ↑ 西洋哲学てのは理詰めで真理を発見しようとするものですが、 東洋哲学は人生の指針が中心になっています。 西洋哲学でも、実存主義に到れば、神は死んだことに なりますから、人生の指針としての意味に重点が置かれる ことになります。 つまり、西洋哲学は東洋哲学に接近してきているのです。 ”思想を信じるというのは、いいことなのでしょうか? それともよくないのでしょうか?”     ↑ 思想てのは宗教とは違います。 信じる信じないではなく、正しいか間違っているかです。 その思想で社会が上手く運営され、個人が幸せになる のであれば、それは正しい思想です。 社会主義のように、独裁と貧困と大虐殺しか産まないような 思想は間違っている思想です。 ”なぜギャンブルはしていいか悪いかなど理論解明なんてむずかしいように思えてます”      ↑ 理論で説明するということは次のようなことです。 1,善悪の定義を定めます。 2,そして、善悪の根拠、基準を定めます。 3,ギャンブルの定義を定めます。 4,ギャンブルが悪の基準と照らしてどうであるか、つまり  ギャンブルと悪が、因果の関係にあることを論証する。 これが出来て、初めて理論的に説明が出来た、という ことになります。 社会に害があることが悪だ、と定義すれば、ギャンブルは 悪だ、と論証できます。 しかし、悪をどう定義するか、その根拠を説明するのが 困難です。 社会の秩序を害するのが悪だ、とするなら、社会の秩序を 害するのがどうして悪なのだ、とその根拠が必要になります。 その根拠を説明しても、更に、根拠の根拠が説明できなければ なりません。 つまり、不可能という訳です。 ”理論解明より思想でいいのではとも思えてます”      ↑ 西洋哲学が理論解明に努めてきたので、西洋で 近代科学が発達出来たのです。

回答No.9

ギャンブルにおぼれたり、酒、女等におぼれる人がいるから宗教という浮き輪があるのだと思います。浮き輪はおぼれない人にとっては不要なものですが、おぼれてる人にとっては重要なものです。 宗教を必要とする人にはそれなりの原因、理由があり、信じることによって救われます。 宗教を必要としない人は、自分の意志が強く、問題を自分で切り抜けることができるから必要ないです。 殺生、ギャンブルが悪いと決めつけるのはおかしな話で、 よく言われるのは子供がありを殺すことと、人を殺すことに違いがあるのかです。 これを説明できない人は何かに頼るしかないですね。 思想は誰かの考え方ですよね、それに同意できるかどうかを考えればよく、同意すべきかどうかと考えるのはおかしくないですか? 宗教などは何千年にもわたって信仰されてきているので、それなりに納得できる部分が多いのだと思います。 ギャンブルがいけないのは依存症の人がいるからダメなんです。 宝くじは問題視されないのは依存症の人がいいない(非常に少ない)からでしょうね。

回答No.8

人違いだったら、すみませんが、この人と同一人物だろうか? mezoriso81さんと同一人物かはわからないが、mikaze007とは似ていると思っていた。 jun060708 http://chiebukuro.yahoo.co.jp/my/jun060708

回答No.7

直接は明言されていないが、私を殺したいと表明した少年の思想を 善いと私は言うべきだろうか? たぶん私が死んで欲しい人は、たくさんいるのだと思う。 とはいえ私は殺されたくはないし、気になっていた。 それに この少年がなぜ私にそこまで殺意を持つのだろうか? 仏教と関係があるのか?

回答No.6

抹殺と殺すの違い。 http://okwave.jp/qa/q8494919.html この質問をした人かどうか気になった。

回答No.5

~~~~~~~~~~~~~~~~ 74 ORACULAR PHILOSOPHY themselves whether Schopenhauer's advice to a dishonest guardian has not been successfully administered by many educationists to many promising youths, inside ahd outside of Germany. I have in mind the passage : * Should you ever intend to dull the wits of a young man and to incapacitate his brains for any kind of thought whatever, then you cannot do better than give him Hegel to read. For these monstrous accumulations of words that annul and contradict one another drive the mind into tormenting itself with vain attempts to think anything whatever in connection with them, until finally it collapses from sheer exhaustion. Thus any ability to think is so thoroughly destroyed that the young man will ultimately mistake empty and hollow verbiage for real thought. A guardian fearing that his ward might become too intelligent for his schemes might prevent this misfortune by innocently suggesting the reading of Hegel.' Jaspers declares " his nihilist tendencies even more frankly, if that is possible, than Heidegger. Only when you are faced with Nothingness, with annihilation, Jaspers teaches, will you be able to experience and appreciate Existence. In order to live in the essential sense, one must live in a crisis. In order to taste life one has not only to risk, but to lose ! Jaspers carries the historicist idea of change and destiny recklessly to its most gloomy extreme. All things must perish ; everything ends in failure : in this way does the historicist law of development present itself to his disillusioned intellect. But face destruction and you will get the thrill of your life ! Only in the ' marginal situations ', on the edge between existence and nothingness, do we really live. The bliss of life always coincides with the end of its intelligibility, particularly with extreme situations of the body, above all with bodily danger. You cannot taste life without tasting failure. Enjoy yourself perishing ! This is the philosophy of the gambler of the gangster. Needless to say, this demoniac ' religion of Urge and Fear, of the Triumphant or else the Hunted Beast ' (Kolnai 90 ), this absolute nihilism in the fullest sense of the word, is not a popular creed. It is a confession characteristic of an esoteric group of intellectuals who have surrendered their reason, and with it, their humanity. There is another Germany, that of the ordinary people whose brains have not been poisoned by a devastating system of higher education. But this * other ' Germany is certainly not that of her thinkers. It is true, Germany had also some * other ' thinkers (foremost among them, Kant) ; however, the survey just finished The Open Society And Its Enemies Vol II https://archive.org/details/opensocietyandit033064mbp ~~~~~~~~~~~~~~~ This is the philosophy of the gambler of the gangster. もしかしてmikaze007さんですか。人違いだったらすみません。 本人だったらしつこいです。私に関わらないで下さい。

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