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フッサール《生活世界》とはお化けの支配する場ですか

 《生活世界》というのなら 誰もが日から日へおのが人生をおくるその現実の場ではないのですか?  そうではなく すでにその現実の生活に先行して(時間的にではなく考え方として先行して)存在しハタラキを持つ何かなのですか?  ・ 前・述語的判断  ・ 能作  ・ 現象学的還元  ・ 純粋意識  ・ 本質直観  などについておしえてください。

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回答No.4

「生活世界」については「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」の第3部、aで論じられているから参照のこと。 前述語的判断は「経験と判断」の第1篇「前述語的(受容的)経験」と第2編「述語的思考と悟性対象」を参照のこと。 「能作」の概念は「受動的総合の分析」の第3部、第3章「触発的覚起の能作と再生産的連合」を参照のこと。 「現象学的還元」はすでに言っているように.「現象学の理念」と、「イデーン」第1巻、第2編、第4章「現象学的還元」を参照のこと。 「純粋意識」については同じ「イデーン」第3章、「純粋意識の領域」を参照のこと。 また、意識の本質としての「志向性」については「論理学研究」の第2巻の5「志向的体験とその内容」を参照のこと。 「本質直観」については同じ「イデーン」第1編「本質と本質認識」の第1章、「事実と本質」を参照のこと。 フッサールを読まずして勝手な憶測はしないこと。 私から説明するよりも、直接フッサールの著作を読んで確かめるのが先決。 私はヤフーの哲学カテで回答するのが忙しいから、いちいち説明していられません。

bragelonne
質問者

お礼

 これは ご回答をありがとうございます。  ★ 私はヤフーの哲学カテで回答するのが忙しいから、いちいち説明していられません。  ☆ こちらは 余力とか余滴といったところでしょうか。  まぁ 仕方がないとあきらめましょう。    『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を途中で放り投げた口です。  だって いつまで経っても 玉ねぎの芯には到達しないんですから。  また機会がありましたら。

その他の回答 (5)

回答No.6

フッサールの「経験と判断」でいう、前・述語的判断について、ちょっと説明しておきます。 判断というのは基本的に主語と述語からなっています。 例えば「ソクラテスは人間である」という命題があるとして、ソクラテスが主語、人間が述語です。 そして、そのような命題、あるいは判断には、その主語が存在している、という信念が伴っています。 もし、ソクラテスが存在しないとしたら、そもそもそのような命題とか判断もあり得ないでしょう。 あなたが「そこに富士山があり、富士山は日本一の山である」といったとします。 その場合、あなたは富士山が存在しているという信念があって、その上でそういうことを言っているわけです。 すべての判断には、その主題が存在しているという信念が伴っている、それをフッサールは前・述語的判断といったのです。 私たちは世界が存在している、そして私が存在している、という信念、これをフッサールは「存在信憑・世界信憑」といっていますが、私たちが判断したり、行動する場合には、その物が存在しているという信念、「存在信憑」が先行しており、その上で判断がなされたり、行動がなされたりしているわけです。 なーんだ、そんなことかと思うかもしれませんが、その当たり前のことをフッサールはちょっと難しい言葉で、前・述語判断といったわけです。 だけど、哲学は無前提から出発しなければならないのですから、その場合、世界が存在している、私が存在している、という信念、「存在信憑」があるとしたら、それは哲学を考えるうえで障害になります。 だからフッサールはそれを否定するわけではないとしても、その信念を「中和する」必要があると考えました。 それが「現象学的還元」です。 私たちは世界が存在している、私が存在しているという強い信念を持っているのですから、それを中和するためには世界は存在しない、私は存在しない、という反対の強い信念を対抗させなければなりません。 実際に、世界が存在しない、私が存在しない、と思ってはいないとしても。 この判断にはその主題が存在しているという信念を伴っていることをデレク・パーフィトとクワインは「チャリティーの原則」といいました。 人が何か発言するときはその主題が存在している、あるいはその言明が正しいという信念があるのでなければならない、ということです。 自分がそれを間違っていると思っていて、発言してはいけない、ウソをついてはいけない、それが原則だということです。 あなたが「富士山は日本一の山である」といったら、それはウソでなく正しいという信念を持っていなければならない。 もちろん、ウソをついて、自分はそれを正しいと思っていなくても、そういう発言ができるけど、基本的には、原則としては、ウソをついてはいけない。 同じようなことを言ったのに、英国の哲学者・フランク・ラムジーの「真理の余剰説」があります。 前の例でいえば「富士山は日本一の山である、は正しい、真理である」というもの。 だけどそんなことをわざわざ言う必要はない、すでに「富士山は日本一の山である」といった時に、それが正しい、真理であることが含まれている。 すでに含まれているのだから、わざわざそれを「・・・・・正しい、真理である」なんて言う必要はない、そんなことは余計なことだ、それをラムジーは「真理の余剰説」といったのです。 まあ、当たり前の話です。 それと同じ、フッサールの言っている、私たちが何かの言明をなすときに、その主題が存在するという信念を伴っているというのも、当たり前の話です。 そもそもそのものが存在しないと思っていたら、そういう言明をするはずがありません。 そしてフッサールはすべての言明にはそのものが存在するという信念が伴っているという「存在信憑」を「世界」といったのです。 「世界」というのは「存在信憑・世界信憑」の体系のことです。 それは私たちの知覚にも言えます。 私たちがあるものを知覚する、あるものを「見る」ということには「存在信憑」が、そして「世界信憑」が伴っています。 だから、あるものが見えているときに、見えているから存在する、なんていう必要はないのです。 知覚する、見ている、その時はすでに、その物が存在するという信念を伴っているのですから。

bragelonne
質問者

お礼

 うりがだいさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ すべての判断には、その主題が存在しているという信念が伴っている、それをフッサールは前・述語的判断といったのです。  ☆ なあんだ。そんなことだったんですか。  だって それだったら 文表現というもの(こと)に関しての前もっての取り決めとして(あるいは 命題を語る話し手の前もってのひとつの想定として)そういう前提があると見なすことにすれば 何でもないことではないのですか?  話し手(主体) : 主体の自己表現としての文(命題)  文(命題・判断): 主題(問い)+論述(答え)  _________________________  文例      : 富士‐ハ  日本一の山である。  __________________________  話者格〔我言う〕: 主題格   + 論述格(答えとしての主題格)  〔話者として主題を主格に立てますよ〕: 主格(富士‐ガ)‐述格(~~~である。)    文表現には 文外にと言いますか 文を統括する主体がいて 言わば機械仕掛けででもどんなモノゴトをも主題に取り上げ主格(主語)に立てることができます。  このような表現の仕組みのことを《前・述語的判断》と言うのでしょうか。だとしたら なあんだです。  フッサールは その《話者格》のからくりのことを 《信念がある とか 存在信憑・世界信憑》というふうに説明しているのですか? なんと大げさなる男よ。  ★ なーんだ、そんなことかと思うかもしれませんが、その当たり前のことをフッサールはちょっと難しい言葉で、前・述語判断といったわけです。  ☆ 《なーんだ》と確かに言いました。  そのあとの次の問題は いただけません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  だけど、哲学は無前提から出発しなければならないのですから、その場合、世界が存在している、私が存在している、という信念、「存在信憑」があるとしたら、それは哲学を考えるうえで障害になります。  だからフッサールはそれを否定するわけではないとしても、その信念を「中和する」必要があると考えました。  それが「現象学的還元」です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 文としての表現をめぐる人びとに共通の約束事としておけば いちいち《中和する》必要はないと思いますよ。そうではないでしょうか。  ふつうの自然本性として――という意味は わたしのようにいつも能天気でいると―― いちいち中和する必要などはさらさらありません。初めっから 中和されています。中立自然の境地でいます。  《話者格》の想定があっても――それがあたかもデウス・エクス・マキナのごとくハタラキを起こすとしても―― 何ら《障害》にあるようなことはない。と言っていいはずですよ。フッサールくん おくれてるウ。  ★ デレク・パーフィトとクワイン  ☆ も フッサールに変わらず 大げさな男たちですね。  ★ 「チャリティーの原則」:人が何か発言するときはその主題が存在している、あるいはその言明が正しいという信念があるのでなければならない、ということです。  ☆ 前項つまり《話し手が 表現および判断の主体として 文において主題を提示する》という仕組み これは そのとおりです。  後半の事項は どうですかね。その言明は 自分の主観にあってはただしいと だいたい思っているでしょうね。ただし 間違っているかも知れないという思いがある場合もあります。さらには けっきょくウソを ウソだと知っている場合にも つくときがあります。  このようにただしいという信念がうすい場合にも そのような信念の欠けが 文による自己表現を妨げるものではありません。それは 相手との対話における言わば弁証法過程を想定し前提していると考えられます。  そこにさらに色をつければ 人間関係における信頼という要素があります。(あるいは むろんインチキやペテンをはたらくという場合も あります)。  判断についての確信があやふやであっても 相手との縁起共生の場であり道であるとして 《信念をもって》表現におよぶ場合はじゅうぶんあります。《自分ひとりによる信念のただしさ・確かさ》に閉じ籠って コミュニケーションを論じることはないはずですよ。《自由》を信頼してもよいでしょう。  パーフィトもクワインも知りませんが 何だかしゃちほこばった中学生たちの学問を聞いているみたいですよ。    ★ 自分がそれを間違っていると思っていて、発言してはいけない、ウソをついてはいけない、それが原則だということです。  ☆ これは 完全にマチガイです。表現の自由を知らな過ぎます。哲学は 不法行為の起こり得ることを前提にして 理論をかたちづくります。  かくなる上は フッサール批判にうりがだいさんも まわってください。

noname#260418
noname#260418
回答No.5

サッカーみたいなやつですか? 本質直感 運動神経 でしょうね。

bragelonne
質問者

お礼

 【Q:現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7034634.html  これについては 問い求めたことがあるのです。  でも必ずしも さだまった答えが得られたわけではない。  そして 今度は うりがだい氏から もっと《神秘的な》内容の《生活世界》の議論が出たので いろんな概念をひっくるめて尋ねるかたちとしています。  本質直観。――ううーん。つまりは まづエポケーという判断中断をおこなって みづからの意識のみの世界に入る。これが 純粋意識です。そこで得られる直観のことを言うのでしょうね。  生活世界も 生活と言いながら どうもそのような《純粋世界》のことを言うらしい。  と言っても これらは 推測ですので 割り引いて捉えてください。  ご回答をありがとうございます。

noname#208489
noname#208489
回答No.3

気になる・・・ 何故に 質問なのか・・!?ってのが・・・ だって 理解出来て無いって事でしょ・・・ 俺 パソコン始めて3年目・・ 此処のサイト 見つけたのが2年前・・ その頃くらいから あなたや他の人( z等)見てるが ちーっとも進歩しない・・

bragelonne
質問者

お礼

 ぢゃあ その後のやり取りの展開を見て 解説でも結論でも書いてくださいな。ご回答をありがとうございます。  ☆☆(【Q:フッサール現象学とヘーゲル現象学の違いについて】回答No.2)~~~~  ◆ (No.1お礼欄の要約としてこちらが編集したもの) じつはこれは 神秘思想なのだ 体験した者でなければ分からないところがある。  ☆ という説明を聞いた――つまり フッサールの《生活世界》について――としか思えないのですが どうですか?  神秘主義の思想家は 幾人か出たようですが その神秘哲学の問題点については もともと神秘的なナゾを容れた信仰を論じたパウロから明らかにされています。それは 《異言(シャリバリ≒アブラカダブラ)》のことです。  ▲ (パウロ:コリント前書 12章 10節) ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。  ▲ (同 14章 02節) 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。  ◆ メルロー・ポンティは「知覚の現象学」の中で、フッサールの「生活世界」を「現象野」と言い換えていますが  ☆ メルロポンティを知らないので分からないのかも知れませんが――そして メルロポンティについては 心のウワベにおける現象としての心理学に片向いているという印象をしか残念ながら持っていません―― なおまだ《預言 すなわち 解釈》が必要であると考えますが 横着でしょうか。  ◆ 私たちは世界の中の対象を関心とか知覚によって捉えていますが、それはほんの一部で、知覚的世界はそれを意識していないけれども、もっと広大なもので、その広大なものの中から、関心を持つものだけをピック・アップして、それを構成して世界と称していますが、それは世界のほんの一部です。  ☆ これだと やっぱし《神秘》の領域はそのままにして かろうじて全体の見取り図を作成したといったところです。  この概念図から《ナゾナゾ》をカッコに入れて ほかのところで説明のあった《見えるものと見えないもの》についてはそれを解釈しようとすれば――いやしくも《生活》と言うからには―― ふつうに人間の生きて見て知っているその社会生活のことだと捉えることに マチガイはないでしょう。たとえば パスカルです。  ▼ (パスカル:幾何学の精神と繊細の精神) ~~~~~~~  幾何学の精神( l'esprit de géométrie )と繊細の精神( l'esprit de finesse )との違い。  前者においては 原理は手でさわれるように明らかであるが しかし通常の使用からは離れている。したがって そのほうへはあたまを向けにくい。慣れていないからである。しかし少しでもそのほうへあたまを向ければ 原理はくまなく見える。それで 歪みきった精神の持ち主ででもないかぎり 見のがすことがほとんど不可能なほどに粒の粗いそれら原理に基づいて 推理を誤ることはない。  ところが繊細の精神においては 原理は通常使用されており 皆の目の前にある。あたまを向けるまでもないし 無理をする必要もない。ただ問題は よい目を持つことであり そのかわり これこそはよくなければならない。というのは このほうの原理はきわめて微妙( déliés )であり 多数なので 何も見のがさないということがほとんど不可能なくらいだからである。      (『パンセ』 前田陽一・由木康訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この世界認識も 《見えるものと見えないもの》を説明しています。納得が行きます。  つまりは 《繊細の精神》のはたらく領域というのは よくもわるくも言わゆる《空気》のことです。ふるくは《以心伝心》とも言ったような。  ◆ そして私たちは生きる上で、そうした目に見えない「生活世界」を受動的に、非・志向的に、これをフッサールは「志向性」に代えて、日本語訳では「能作」といっていますが、「能作」によって受け入れて、その中で生きているのです。  ☆ という説明を聞くと あれっ 《繊細の精神 または 情感の共同性ともよぶべき情況域》のことかと一瞬思いますが その次の説明を聞くとやはり違っていると思われます。:  ◆ フッサールはそれを「経験と判断」といいう本で、前・述語的判断と言っています。 / 前・述語的とは、私たちが判断する前に既に判断してしまっているということです。  ☆ そんなわけはない。よく知らないで言いますが あたかもM.フーコの《エピステーメーに則ってどこにでも噴出して来る言ってみればなじみ深いような身の周りの権力・支配欲》のことかと錯覚しましたが そんなわけはない。  まづ 《情感の共同性》ともよぶべき所謂るクウキ これによって人びとはたいていは支配されます。その・えも言わずに醸し出されたクウキの動向にわれわれは 従わざるを得なくなるのが つねです。しかもそのことは《前・述語的判断》をしていることを意味しません。  クウキなるものは 一般に横暴であるとわたしたちは知っているからです。きちんと判断をしています。その判断をそのまま実行し得ないからと言って そのクウキにわれわれは奴隷となっているわけではない。  (奴隷は自由を奪われていると言うとすれば それと同じように主人も奴隷の存在に嫌が応でも依存しておりそのぶん自由を奪われています)。  といった話をしたとしても 《生活世界》は もっともっと《深ーぁいナゾに満ちた領域》なのでしょうか?  ◆ あなたはヘーゲルも「生活世界」を視野に入れていました、といいますが、私はヘーゲルが自然的な意識、自然的世界から、「現象学的還元」を経た、現象学的意識、現象学的世界に転換しているとは思いません。  ☆ というように現象学的還元が 欠かすべからざる哲学のコツだとしますと なおしっかりと説明していただかなければならない。こう考えます。  (そのむかし おれはこの上なくとうとい知恵のさとりを得たと宣言して ついにその内容を明らかにせずただただ大化城なるまぼろしを見せ続けて人びとを引っ張った――そしていまでもそれに溺れる人間がいます――そのペテン師のマジック仕掛けと変わりないということになるでしょう)。  (カントだって 物自体を言うだけで 神秘はそこまでにとどめました。良心的です)。  ◆ あなたは世界が存在していると思いますか? そして私というものが存在すると思いますか?  ☆ 《世界》と言って指し示すものは何か? これについてわたしたちは みなが一応共通の了解を得ている内容があります。けっきょく意識された・また意識されうるものごとのすべてのことです。  わたしは 実存思想に立ちますから この共通の理解があればあとは その言葉その概念を用いて互いに意志疎通する。これで じゅうぶんだという見解に立ちます。  そのようにしてすでに実存していれば 一生を終えるようになったとしても悔いは残らないと思っているわけです。むしろ そのようにして――現実の背後の《神秘に満ちた生活世界》なる《本質》(?)には目もくれずして―― 現実を生きることが 人としてのわたしという存在であると思っているわけです。  けれども この実存思想は  ◆ 私はもしかしたら存在しないのではないか、と思っているんです。  ☆ という自由度をふくんでいますよ。なぜなら・そしてまたはその内実は それが《有限なる経験世界 プラスα》としてのナゾ(非知)のことだと知ったからです。わたしの用語で 《非思考の庭〔なるあたかも心としての動態〕》のことです。  (ヘーゲルは この非思考の庭のことに触れているはずです。〔狭義の〕自然的なるものは この無限と有限とのあたかも一体を持っていないか または持っていてもそれに我慢ができないと)。  (ブディズムの名誉のために言えばブディストらは この《プラスαとして自然を超えたところのふつうにおだやかな自然本性》のことを ブッダター(仏性・如来蔵)として打ち出しています。ただしこれは ブラフマ二ズムにおける《アートマン(霊我)》と同じものです。プシュケー・トゥー・コスムー / アニマ・ムンディ イデア 物自体 世界精神・・・)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり 表題に【Q:フッサール《生活世界》とはお化けの支配する場ですか】と書いたのは そんな《お化けの支配する世界》を理論としたのですか? と問うています。皮肉っています。そういう意味に採ってね。

noname#208489
noname#208489
回答No.2

お好きに・・ 質問や お礼等 こっちは見て無い・・・ あなただから 毎回質問ばかりだなぁーって 思っただけ・・ 普通 学問は それなりの本を買えば 答えが書いてるよ・・・

bragelonne
質問者

お礼

 そんなに気に成りますか?  鼻につきますか?  がんばって 哲学としてまた度量として追い抜いて行ってください。  ご回答をありがとうございます。  (つまり むろん わざと余計に鼻につくように表現したのですよ)。

noname#208489
noname#208489
回答No.1

哲学って 自分では調べたり勉強したりしないで 他人にばかり 聞く学問なのか!? 他の学問は 自力で一定までは 到達する場所までは行かないと 駄目なものなのに・・・

bragelonne
質問者

お礼

 【Q:フッサール現象学とヘーゲル現象学の違いについて】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8999672.html  ☆☆ (その回答No.1)~~~~~~~~~~~~~~   ヘーゲルは とにもかくにも 《無限なる場ないしチカラ》と《有限世界》とを区別していると考えます。  この区別に立てば 世界精神と〔ふつうの精神の持ち主である〕人間とを地続きだとは見ない。とすることが出来るなら 《有限なる経験世界》とそのプラスαとしての《無限・世界精神》とを合わせた現実としての・ふつうに一般的な《社会生活》をも見つめているでしょう。  つまり 無理なく――上の意味での――《生活世界》をも視野に入れています。  つまり この意味での生活世界は いちいち  ◆ 最終的に私たちの目から見えなくなってしまった「生活世界」を現象学によって再発見し  ☆ たというその対象とするのは 何とも現実から離れているように見えて仕方がありません。何を言っているのか? と。  ついでに触れておくなら 《純粋意識・本質直観》というのも けっきょくあたかも《負のイデア》?)のごとくであり・あるいはイデアのネガ(陰画)のようであり そうは言いつつも けっきょく何のことかよく分からない。と考えます。  ◆ 世界の存在、「生活世界」が私たちの人生の根底にあって、私たちがそれに生かされていることを発見した  ☆ この命題もあいまいです。  一方で 生活世界を現実として捉えるのなら それは初めから私たちと共にあった。わたしたちが社会にあって生活するのであり その生活した結果がまた歴史が わたしたちに影響をおよぼす。ごくふつうの世界であるはずです。  もう一方で 生活世界は《私たちの人生の根底にあって 私たちがそれに生かされている》という見方を採るなら どうなるか? いったい何のことか? あたかも大地に潜む守護霊といったイメージなのですが いったいどういうものなのでしょう? イデアの世俗版?  ◆ (そのお礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~  それとフッサールの「生活世界」がちょっと説明が曖昧だという点は、私の説明が下手なせいで、フッサールの責任ではありません。 メルロー・ポンティは「知覚の現象学」の中で、フッサールの「生活世界」を「現象野」と言い換えていますが、私たちは世界の中の対象を関心とか知覚によって捉えていますが、それはほんの一部で、知覚的世界はそれを意識していないけれども、もっと広大なもので、その広大なものの中から、関心を持つものだけをピック・アップして、それを構成して世界と称していますが、それは世界のほんの一部です。 そして私たちは生きる上で、そうした目に見えない「生活世界」を受動的に、非・志向的に、これをフッサールは「志向性」に代えて、日本語訳では「能作」といっていますが、「能作」によって受け入れて、その中で生きているのです。 フッサールはそれを「経験と判断」といいう本で、前・述語的判断と言っています。 前・述語的とは、私たちが判断する前に既に判断してしまっているということです。 後期フッサールは純粋意識による構成的現象学から、発生的現象学に転換しました。 晩年にフッサールは膨大な遺稿を残して死にましたが、メルロー・ポンティはそのフッサールの遺稿を研究して、のちに「知覚の現象学」とか「見えるものと見えないもの」という本を書きましたが、フッサールによれば「生活世界」は17世紀のガリレオの数学的自然科学によって世界は数学の「理念の衣」で覆われてしまい、私たちには見えなくなってしまったのです。 それを見えるようにするには「現象学的還元」という方法を必要としました。 メルロー・ポンティが「見えるものと見えないもの」という場合の「見えないもの」とはそのフッサールのいう「生活世界」のこと、メルローでいえば「現象野」のことでした。 あなたはヘーゲルも「生活世界」を視野に入れていました、といいますが、私はヘーゲルが自然的な意識、自然的世界から、「現象学的還元」を経た、現象学的意識、現象学的世界に転換しているとは思いません。 ヘーゲルは、この世界の存在と私の存在をデカルトと同じように懐疑的に見ていたとは思いません。 ヘーゲル哲学は世界の存在と私の存在を自明なものとして、それを基礎に世界を概念的に構成しただけです。 「生活世界」というのは確かに曖昧ですが、でもそれを見出すのは至難の業なのです。 なんと言っても、「現象学的還元」の方法を理解する人が少ないというのでは、なおさらです。 フッサールは大学で1学期を費やして学生に「現象学的還元」がどういうものか説明しましたが、誰ひとりそれを理解する人がいなくて、1学期が終わる頃には学生がほとんどいなくなったと言われます。 フッサールはそれを「現象学の理念」という小冊子で、説明していますが、それを私は昔読んで、初めて「現象学的還元」というものが何であるかを教わり、目が覚める思いを味わいました。 メルローは、現象学的還元という反・自然的な考えに思考を集中するのは、そんなに長続きしないと言いましたが、確かに数分しか続けられませんでした。 それほど難しいんです。 ただ、それによって開かれてくる世界は驚くべきものです。 私はそこから、世界はなぜ存在しているのか? とか、世界は存在しないのではないか? とか、私って存在するのか、もしかしたら存在しないのではないか? 私って誰? という疑問に襲われました。 私にとってフッサールの「現象学的還元」を知ったこと、それが哲学の出発点でした。 あなたは世界が存在していると思いますか? そして私というものが存在すると思いますか? 私はもしかしたら存在しないのではないか、と思っているんです。 フッサールの「現象学的還元」によって、考えるようになって。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というやり取りを継いでの質問です。  ご回答をありがとうございます。    でも この辺までは調べて考えましたというとき あとは丸投げでも質問してよいでしょうよ。

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    フッサールのいう「生活世界」は、「内在」なのですか、あるいは「超越」なのですか? つまり、生活世界は、「超越論的自我の中にあるもの」なのですか、それとも「超越論的自我 の外にあるもの」ですか? 生活世界が、人間の純粋意識の領域の外にある、つまり超越的なものとすると、フッサールは 外界=客観的世界の実在定立の判断をさしひかえる判断停止(エポケー)を解除して、外界の実在性 を一定限度で容認したということなのでしょうか? ご回答お願いします。

  • フッサール現象学とヘーゲル現象学の違いについて

    現象学という言葉をカントの同時代のランベルトが言い始めたことは中島義道がすでに言っていますが、その現象学というのをヘーゲルが用い、フッサールが用いたからといって、どちらの現象学も同じでないのは、蝦夷富士や伯耆富士があるからといって同じ富士山といえないのと同じ、またカント哲学とヘーゲル哲学といって、同じ哲学と称するから同じではないように、同じ現象学でないのは、いわば当然で、質問するまでもありません。 ヘーゲルにとって現象学とは、意識の経験の学、とみずから言っているように精神が自覚的に感覚できる個別的なものから、その対立を克服して概念の階段を上昇し、最後に絶対知に至り、その絶対知にすべてを包括し、世界を絶対精神の発出として理解するもの。 これは古代ギリシャのプラトンの「実在論・リアリズム」の近代の復刻版であり、プラトンは天に永遠の「イデア」があり、それこそが真の実在であり、地上の諸々の存在、個物は真の実在ではなく、仮象だと言いましたが、ヘーゲルにとって個物だとか個人は実在ではなく抽象的なものであり、真の実在であり、具体的なものといったら、全体的なもの、精神でした。 ヘーゲルは言います、 「理性的なものこそ現実的なものであり、現実的なものは理性的なものである」と。 つまり概念こそが真の実在であり、現実的なものであり、感覚されるものは仮象であり、抽象的なものであるということ。 こうしてヘーゲルは私たちのいう具体的なものと抽象的なものの関係をひっくり返しました。 ヘーゲルにとって個人よりも国家の方が実在で、個人はその国家のための、国家を導くための否定的媒介に過ぎない。 これがヘーゲルのいう現象学です。 それに対してフッサールは意識を自然的意識と現象学的意識に分け、現象学をやるためにはその自然的意識を棚上げにして現象学的意識に転換しなければならないという。 それが「現象学的還元」で、現象学は外的世界の存在に「カッコ」を施し、それが存在するという判断を停止します。 つまり、外的世界が存在するという私たちの信念を「宙づり」にします。 もしかしたら外的世界なんて存在しないかもしれない。 また、同じく「現象学的還元」で、私の存在についても「カッコ」を施します。 もしかしたら、私なんて存在しないかもしれない。 フッサールはデカルトと同じように普遍的懐疑で、世界の存在、そして私の存在に対する私たちの信念を停止します。 これをフッサールは「中和性変様」といっています。 何を中和するかといえば、私たちの世界が存在する、という信念、また私が私が存在するという信念、それをプラスの信念とすれば、それにマイナスの信念を対抗させて、中和することです。 マイナスの信念というのは世界が存在しない、私が存在しないという信念。 こうして、フッサールに言わせれば、純粋意識が最後に残るという。 これはデカルトの「コギト」です。 意識といっても、普通の意識ではなく、いわば作用だけの意識。 そしてフッサールに言わせれば意識の本質は「志向性」にあり、意識は何ものかの意識であると言われる。 現象学とは、この純粋意識の「志向性」によって、世界を再構成しようというもののこと。 ヘーゲルにとって意識とは自然的意識でしたが、フッサールにとって同じ意識という言葉でも、中身がまったく異なり、現象学的還元を経た現象学的な意識でした。 ヘーゲルにとって意識とは人間が有するものでしたが、フッサールにとって、人間以前にあるもの、むしろ人間はその意識によって構成されるものでした。 ヘーゲルにとって現象とはカントと同じ意味で、時間・空間の中にある物の現象であり、現われでしたが、フッサールにとって現象とは物に限らず、霊でも魂でも、神でもいい、単に私の意識に現われるものならば、時間空間の中にあっても無くてもいい、すべてを含みました。 ヘーゲルにとって精神を除くものが意識の対象である現象で、精神そのものは現象ではありませんでしたが、フッサールにとっては精神だろうと神だろうと、私の意識に与えられるもの、現われるものはすべて現象でした。 ヘーゲルは世界と私の存在を疑いませんでしたが、フッサールはデカルトと同じようにすべてを疑いました。 「コギト」という、世界がそこから開けてくる視点の存在しか認めませんでした。 ところが初期のフッサールは純粋意識による世界の構成ということを唱えていましたが、後期になると、その初期のデカルトの道を放棄するようになります。 例えばゲシュタルト心理学で、地と図ということが言われますが、大きな地図があったとして意識というのはその地図の小さな点でしかないのを知り、地図というもっと広大な世界があることを発見しました。 つまり意識は氷山のほんの一角に過ぎない、その下には意識されたない広大な世界があることに気が付いたのです。 それをフッサールは「生活世界」といいました。 私たちは意識的に世界を構成する前に、その広大な「生活世界」があり、それを受動的に受容し、その上で、自発的に考えたり、行動しているのに気が付いたのです。 この世界の存在に気が付いたこと、このことは古代ギリシャ以来、中世を経て忘れ去られていたコスモスとしての世界を2500年ぶりに再発見したことを意味します。 フッサールの現象学の最大の功績は、世界の存在、「生活世界」が私たちの人生の根底にあって、私たちがそれに生かされていることを発見したことにあります。 フッサールは「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」の付録として付け加えられた「幾何学の起源」において、17世紀の科学革命のガリレオによって数学的自然科学が創始されて以来、世界は数学の「理念の衣」によって、おおわれてしまい、人生を、物事を数学によって考えるようになり、その人生の基盤にある「生活世界」が見えなくなってしまったと言います。 フッサールに言わせれば、ガリレオは発見の天才かもしれないが、同時に隠蔽の天才でもある、といいます。 こうしてフッサールの現象学は最終的に私たちの目から見えなくなってしまった「生活世界」を現象学によって再発見し、存在の、生の、生き生きとした活力を再び取り戻すことに目標が、テロスが据えられました。 フッサールはデカルトからカントを経て、ヘーゲルまでの近代哲学の自我中心・意識中心・主体性を中心とする世界観を転換し、戦後フランスのポスト・モダンとハイデガーの存在論にいたる道を切り開いた哲学者だということができます。 どうですか、同じ現象学でも、フッサールのいう現象学と、ヘーゲルのいう現象学が、月とすっぽんのように違うのが分かると思います。 皆さんの感想と忌憚のない批判を募ります。

  • 現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。

     現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。  応用する以前のフッサールにおける概念として 詳しい説明をお願いできますか?  ほかの人からの評価についても 知りたいです。  というのも この点につきましては どうもフッサールのこの本質直観は その本質ないし純粋意識のほうへ 行きっぱなしであるかに思えます。  つまりは いま・ここなる《わたし》に還って来ないと なかなかつかみ難い概念ないし方法になるかに思われるからです。  いづれにしましても きちんとまなんでいませんので ご教授ください。

  • 現象学と最後の観察など

    お世話になります。 現象学について、いま一つ理解できません、質問も整理が出来ないようです。 個々に感じる疑問を羅列してみますが、誤解している点を指摘していただけると幸いです。 1)現象学は、感覚が絶対的なものではなく、したがって、認識を放棄して、現象を本質直観により現象学的還元を行い、人間にとっての有用性を、考察することとすると、 これは、遠回りして、物質と表象を分ける以前の、素朴な直観に、戻ったことになるのでしょうか。 2)個別諸科学も、最後の観察によって(コンピュータで解読された数値を読み、二重螺旋を顕微鏡・あるいは模型で確認する)その絶対性に、疑問が表れます、経験によらない知覚が無い以上、フッサールの言う「生活世界」の境界が、どのような意味を持つのか、理解できません。 3)我々の知覚が相対的で、生きるために与えられた器官だと言う事は、理解できるのですが、それでも私は尋ねてみたいものです「光は有るのかと」 不出来の質問で、ご迷惑をおかけしますが、宜しくお願いします。

  • フッサールの生活世界

    フッサールが唱える「生活世界」とはいったいどんな概念なのでしょうか。 どなたか一般ピーポーでも分かるように教えて下さい。m(__)m

  • それ 現実世界の自分に言えよ

    この質問 人を選ぶと思うので 不快に感じた方は回答しないでください 私は 現実世界で嫌いな人とは極力接しないようにしてるし 仕事で一緒の時は仕方ないから一緒にいます 例えば ネットの人生相談とかで 学校 職場に 嫌いな人がいます どう接すべきでしょうか? という質問あったとします すると回答者は 他人のアラ探しはいけない その人の良い所をみて付き合いなさい これ(嫌いな人との付き合い₎も人生の勉強だと思いなさい とか言う答えがすぐ出てくるのですが では あなたがネットの回答者ではなく現実世界の自分に戻った時 それらを実践してるかと言ったら まず してないと思うんです 駄目ですよ ほんとの自分はやりもしない事 他人に強要しちゃ  現実世界では あなただって嫌いな人とは 極力関わらないように 生活してるんでしょ 私もそうですよ ネットの質問の回答と現実世界の行動ってギャップがありませんか? 皆さんは どう思われますか? 他人に言った事 自分はキチッと実践してますか?

  • 存在の定義って何ですか?

    存在の定義とはなんですか? りんごが1個ある。あるから存在する。見えるから存在する。 「あ」という単語があります。意識の中では存在します。 「あちゃちぇ」という物体は存在しません。しかし意識の中で言葉という存在としてあります。 そんざい 0 【存在】 (名)スル (1)人や事物があること、いること。また、その人や事物。 「少数だが反対者も―する」「人類の―をおびやかすもの」「神の―を信ずる」「貴重な―」「気になる―」 (2)〔哲〕〔英 being; (ドイツ) Sein〕何かがあること、またあるもの。有。 (ア)実体・基体・本質・本性など、他のものに依存することなくそれ自体としてあり、非本来的・偶有的でなく、絶対的・必然的にあるもの。 (イ)現に事実として今ここにある事や物および人間の実存。現実存在。 (ウ)感覚や経験に現れるもの。現象。 (エ)判断において、主語と述語を結びつける繋辞(けいじ)。「 S は P である」の「ある」。 ------------------------------------------------------------------ いまいちパッとしません。存在の定義とはなんでしょう?簡単にいっていただけると嬉しいです。

  • 肉体が死んでも、魂というより意識は仮想世界(電脳世

    肉体が死んでも、魂というより意識は仮想世界(電脳世界)で生きられるという技術が実現できたら、人々の生活はどうなりますかね? 例えば…。 ・日常生活で不便に過ごしている障がい者が、仮想世界であれば健常者と同じように生活できる。 ・子どもが不慮の事故で無くなっても仮想世界で生きられる。家族が望めば、家族も仮想世界で子どもと一緒に生きる。家族は現実世界と仮想世界を出入りできる。 ・自殺願望者を仮想世界に引っ越すという形で救うことができる。 こんな感じですが、重い話をしてすみません! カテゴリわからないのですみません。

  • 現実世界がわからなくなりました

    現在大学3年生ですが、タイトル通り、現実世界がまるで夢のような感覚でもやもやしよくわからなくなりました。特別なことがあって急になったわけではなく、だんだんとそうなっていきました。 症状としては、外を歩いていても自分が誰だかわからなくなり、言語や視覚ははっきりしていますが周りの人間が機械のように思え、まるで感情が抜け落ちてしまったかのようです。ものに対してもワクワク感や芽生える感情がほぼなくなっている状態で、先日ディズニーランドに行きましたが冷静に目の前で何が起きているか判断するように自分がとても機械的で何も楽しくなくなりました。 メリットが一つあり、感情がなくなったせいか物事を冷静に的確に捉えられるよう になりました。とても合理的になりました。 しかし、やはり生きていて物事が薄い二次元のように見え、全く深さを感じなくなってしまったのがわかるのでとても辛いです。物や人を認識はできるが、それに対する感情がないのです。我に返った状態がずっと続いてるみたいです。 離人症に症状が似ていたので、他の質問者の回答を見たりすると、離人症と意識しない方がいいというのがありました。そのようにしてみましたがいつまで立ってもやはり現実感が感じられません。世界の全てを神様のように上から見ているかのようです。 このような症状の方が他にいましたらどのように今後生きていけばいいのか、現実感の取り戻し方などを教えていただきたいです。