アホvs哲学者

このQ&Aのポイント
  • 愚か者にとっては屁でもないのですが、哲学者たちは異を唱えています。
  • 痴愚に囚われ、過ちを犯し、幻想を抱き、無知の闇に沈んでいることこそが、悲惨そのものであると主張しています。
  • アホと哲学者、どちらが幸福なのかについての論争が繰り広げられています。
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アホvs哲学者

愚か者にとっては屁でもないのです。......恥だの、不名誉だの、侮辱だの、悪口だのといつたものは、それを感じる人間にだけ痛みをもたらすもので、感じない者にとっては不幸でもなんでもないのですから。......でも、どうやら哲学者のお歴々が異を唱える声が聞こえるようです。痴愚に囚われ、過ちを犯し、幻想を抱き、無知の闇に沈んでいることこそが、悲惨そのものである、とおっしゃっているようですね。とんでもない、それが人間であるってことですよ。 (エラスムス『痴愚神礼賛』31,32 沓掛良彦訳 中公文庫82ページ) *** *** *** *** *** 痴愚の女神が、アホの効能について語つてゐる文章です。 アホと哲学者は、どちらが幸福ですか。

noname#214841
noname#214841

質問者が選んだベストアンサー

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noname#208229
noname#208229
回答No.1

何も考えないアホは幸せですね。

noname#214841
質問者

お礼

はじめまして。アホのplapotaと申します。質問文の書物は、学生時代からの愛読書です。 >何も考えないアホは幸せですね。 アホは、アホ呼ばはりされても、「はいアホです。」と返事をすればよいので、幸せです。では、自分は偉いのだ、おれさまが馬鹿な奴らに教へてやるのだ、といふ態度をとることは幸福なのでせうか。少なくとも、このQ&Aサイトにおいては、後者の姿勢のほうが多く見られます。 御回答ありがたうございました。

noname#214841
質問者

補足

デルポイにてアポロンの神託がありましたので、回答番号1をベストアンサーにします。

その他の回答 (19)

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9728/12102)
回答No.20

またまた楽しい「お礼コメント」をありがとうございました。 >オペラなどもギリシャ古典劇からつくられたものですが、モーツァルト『フィガロ』『魔笛』などはおもしろいのですけれど、ギリシャ悲劇そのものを題材にしたものには、なじめません。 ⇒確かに『フィガロ』『魔笛』や『理髪師』は面白いですね。ただ、本場のヨーロッパで見るとしんどいことがあって、それは終ってからの拍手の長さです! アリアのアンコールあり、カーテンコールあり、スタンドオーべーションあり…で、(評価しないわけではありませんが)いいかげん疲れます。 ギリシャものでは、悲劇でなく喜劇はいかがでしょうか。例えば、アリストパネスの『女の平和』などは、相変わらず戦争の多い現代でも十分通用する時事的な側面も具えているし、ちょっとみだらで楽しいオペラに仕立てられるのではないでしょうか。スペインにはオペレッタに似た歌劇「サルスエラ」がありますが、少なくともこれにはぴったりの題材になると思っています。 >笑はない者がアホだ、といふのは徳島県人みたいです。 ⇒「」阿波踊りでしたか。「同じアホなら笑わにゃそんそん」ですね。あれは素晴らしい民謡ですね! >「プラトンに登場するアルキビアデスが引いている諺では、真実が語られるのは酒と子供の口によってである、とされております。」(第36章92ページ) ⇒アルキビアデスというと、あの寝返りが得意な政治家ですね。哲人の教えを受けたにしては、すごい変わり身(松下村塾の門を叩いた面々などとはえらい違い)ですね。ただ、当時は、いわばそれが必要悪で、俊敏に立ち回らなければ生きていけなかった、ということかも知れませんね。「支配者が正義の何たるかを決める」(トラシュマコス)時代だったわけですからね。 「補足コメント」もありがとうございました。 >エラスムスの引用したアルキビアデスの話がすぐには探せなかつたのですが、やつと見つかりました。 >「酒が(これに子供がつかなくてもよしついてもよし)正直なもの」 >(プラトン『饗宴』217 久保勉訳 岩波文庫 140ページ) ⇒酒は、催眠術と同じで、前頭葉(大脳の新しい皮質部分)の働きを抑えて、余計な画策をしなくさせるそうですからね。古今東西の文学作品で、登場人物が「偽らざる心情」を吐露する場面ではよく酒が関わりますね。 驚いたことに、「シンポジウム」と言えば極めて真剣な場面を思い浮かべますが、語源のギリシャ語symposionは「一緒に酒(ぶどう酒)を飲むこと」だそうで。これも、「本音で話し合える」ということなんでしょうか…!? どうも、お邪魔しました。

noname#214841
質問者

お礼

いつも広範な視野にもとづいた内容をありがたうございます。哲学は、そして人生はかうあるべきだと思ひます。 >本場のヨーロッパで見るとしんどいことがあって、それは終ってからの拍手の長さです! 私は日本から出たことがありません。一度本場のオペラを見たいとは思つてゐます。もちろん『フィガロ』です。扉を開いたやうな序曲、幕開けの愉快な二重唱、初めから引き込まれてしまひます。 >アリストパネスの『女の平和』などは、相変わらず戦争の多い現代でも十分通用する時事的な側面も具えているし、ちょっとみだらで楽しいオペラに仕立てられるのではないでしょうか。 アリストパネスでは『蛙』『蜂』が好きです。『女の平和』などのペロポンネソス戦争を題材にした喜劇も、御指摘のとほり臨場感があります。私の場合は知識不足で、笑ふまでに手間がかかります。パロディのネタ元がわからず、註を参照しなければなりませんが、註にも記載されてゐないものは、自分で探さなければなりません。エラスムスのアルキビアデスの引用と同じです。 >酒は、催眠術と同じで、前頭葉(大脳の新しい皮質部分)の働きを抑えて、余計な画策をしなくさせる 酒の中には真実がある、といふのが、ギリシャローマでは諺になつてゐたやうです。今もワインを飲みながら書いてゐます。シンポジウムは「共に飲む」ですから、訳せば「飲み会」でせうか。「飲む」といへば「酒」なのは、東西共通のやうです。 >歌劇「サルスエラ」 サルスエラといふのは初見です。これから調べてみます。

noname#208196
noname#208196
回答No.19

粘着してくるやつはいまだにいます。 ある程度、傾向があるようです。 たぶんその教えてgooの人物は私がよく言及する人物とは別だと思います。 すると、 曹洞宗の学者、曹洞宗の禅僧、そしてその教えてgooで質問した人物 これで少なくても私は曹洞宗の関係者三人から揶揄されていることになります。 べつにもともと曹洞宗については反発もなにもないのですが 曹洞宗の学者が粘着質で、何を書いても、書かなくても嫌みを書いてくるので異常なんですよ。 どこで揶揄されているかというと曹洞宗の学者とか禅僧のブログです。 記事を更新するたびに私への嫌みになっているのです。 okwaveを見て、なぜか私の書き込みを材料に批判の記事を書くのが日課になってしまっているのでしょう。 それはどう考えても異常だと思うのですが。

noname#214841
質問者

お礼

>私がよく言及する人物とは別だと思います。 それなら、よろしいのですけれど。 >どこで揶揄されているかというと曹洞宗の学者とか禅僧のブログです。 どのブログなのですか。 我が家は、浄土真宗なのですが、それさへも詳しくありません。ましてや曹洞宗のことなど意味不明です。道元『正法眼蔵』を部分的に読んだ程度です。 >それはどう考えても異常だと思うのですが。 私とアホ仲間になれるかもしれません。 御回答ありがたうございました。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9728/12102)
回答No.18

「お礼コメント」をありがとうございました。 いつも、楽しくてしかもためになるご質問やコメントをしてくださり、心の癒しをいただいてます。 >御指摘のとほり、エラスムスの著作はよく売れて、人気者だつたやうです。一般には人文主義者とかいはれてゐるやうです。 ⇒ルネサンス人、特に初期のルネサンス人は、古代ギリシャに思いを馳せて、「過ぎし日々はなべてよかりき」が合言葉だったとか。神に生かされるのでなく、自分で生きることを模索したんでしょうね。それも「よき生」を生きることを:「一瞬が永遠なのである」(ピコ・デラ・ミランドール)。 >今日のアホの方が、ちょっとだけアホでなくなったんだよね 私の場合は、常にアホです。 ⇒もしかしたら、それこそが「常に哲学している」証拠かも知れませんね。 白居易「対酒」は詠って、謡って、謳ってます。 蝸牛角上争何事 石火光中寄此身 隋富隋貧且歓楽 不開口笑是痴人 >>司教をやんわり批判しているようなくだり >回答番号4のコメントにも書いたのですが、Nakay702さんの読み方が正しいと思ひます。周囲が大げさに取り上げすぎです。笑つてすませるやうな文章にほかなりません。 ⇒そうかも知れませんね。あるいは、「ほとんど一体のことを対比し過ぎている」かも知れませんね。いや、しゃしゃり出てしまいました。すみません。 遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけむ 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ動(ゆる)がるれ (『和漢朗詠集』、今様の部) 以上、気まぐれお遊びの第三弾をお送りいたします。

noname#214841
質問者

お礼

アホ質問への重ねての御回答、ありがたうございます。 >自分で生きることを模索したんでしょうね。 さうあるべき、と存じます。オペラなどもギリシャ古典劇からつくられたものですが、モーツァルト『フィガロ』『魔笛』などはおもしろいのですけれど、ギリシャ悲劇そのものを題材にしたものには、なじめません。以前、リヒャルト・シュトラウス『エレクトラ』がわからない、とクラシック音楽専門家のTさんに言ふと、あの音楽は難解なので、plapotaには向かない、とおつしやつてゐました。納得しました。かはりに『ばらの騎士』をすすめられ、楽しく聴きました。 >白居易「対酒」 人それぞれ自分なりに、といふところに共感を覚えます。笑はない者がアホだ、といふのは徳島県人みたいです。酒と漢詩のとりあはせといへば、ねこさんの李白ですが、最近投稿をやめてしまひました。寂しく感じてゐます。 「プラトンに登場するアルキビアデスが引いている諺では、真実が語られるのは酒と子供の口によってである、とされております。」 (第36章92ページ) >気まぐれお遊びの第三弾をお送りいたします。 Nakay702さんらしい御回答に感謝してをります。

noname#214841
質問者

補足

エラスムスの引用したアルキビアデスの話がすぐには探せなかつたのですが、やつと見つかりました。 「酒が(これに子供がつかなくてもよしついてもよし)正直なもの」 (プラトン『饗宴』217 久保勉訳 岩波文庫 140ページ)

  • ways
  • ベストアンサー率31% (79/253)
回答No.17

アホにはアホの幸せがあり、哲学者には哲学者の幸せがあります。哲学者のそれは、あらゆる人が理解できる幸せで、アホのそれは、アホにしか分からない価値観ですが、でもアホも満たされることがあるんです。決して、共感しあえない、共有できない幸せの価値観です。哲学者はどちらかというと、建設的なことを好み、アホは幸せ壊しをします。創造と破壊なので、お互いに「あいつは間違っている」と言い合うことになります。会えば、考えの違いで、いつも喧嘩になります。それで、アホは哲学者に合わせてやり返す機会をうかがったりします。幸せ壊し屋さんは、嘘をつくし、物も盗みます。

noname#214841
質問者

お礼

waysさんから回答をいただくのは、美術カテゴリでの質問以来でせうか。 >アホにはアホの幸せがあり、哲学者には哲学者の幸せがあります。 御指摘のとほりと存じます。人それぞれです。 >哲学者のそれは、あらゆる人が理解できる幸せで、アホのそれは、アホにしか分からない価値観です このあたりの御意見がわかりかねるのですが、わたしの場合は哲学者の主張のほうが理解が困難です。以前も、ジョン・スチュアート・ミル『功利主義論』に登場する「満足した豚」と「不満足なソクラテス」の対比について、私としては、どう見ても「満足した豚」が素敵です。ミルの頭はをかしいのではないかと感じます。 >アホは幸せ壊しをします。 はい、自己チューなので、他人はどうでもよいことです。 >幸せ壊し屋さんは、嘘をつくし、物も盗みます。 はい、言ひたい放題で、パクリ専門です。 今後とも、御指導よろしくお願ひいたします。

noname#208196
noname#208196
回答No.16

私に粘着してくるやつがいるので、気持ち悪いとか言っても、 平気で付きまとってくる人の精神構造がどうなっているのだろうと思っていたのですが アホだということでしょうか。

noname#214841
質問者

お礼

粘着者がまだゐるのですか。以前、曹洞宗関連の人について記載なさつてゐましたが、以下の質問者とは無関係なのですか。「私はだれでせう。」といふ画像が添付されてゐて、ずつと気になつてゐます。 https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8948043.html

noname#208724
noname#208724
回答No.15

補足をいただきましたので。私はどちらかというと、本を読まないほうなんですが、彼はもっと読まなさそうなので、そこが気に入っています。たとえば 「本を読む者は、その本がもつ毒と一緒に読みこんでいる。」というのを思いついたので、ここから話をすすめますが 私が回答しているほとんどの内容は、ゴミと化した古い原稿やネットから拾ってきた物を私の言葉で調理してから回答しています。ようは解毒の法を持っているからゴマカシが利くのですが、彼の場合はより強力な解毒、いや、彼自身の毒を以て、情報の毒を消しているのではないかと考えているところです。頼もしい人だと思いますし、いづれはハイデガーを超えると信じています。また逆に、読書家のなかには、解毒の法を持たずに、あるいは読書を続けることによって、解毒の法を失ってしまう読書家が増えているのかもしれません。むしろそれは国家にとって憂うべき事態です。ここは日本なのですから。 私は読書家ではないので、ハイデガーは晃洋書房の哲学書概説シリーズXI本体1300円というのを1冊読んだだけで回答していますし、ニーチェに至っては角川文庫若き人々への言葉 本体476円というケチな本を1冊読んだだけで回答しています。Plapotaさんのいわれる受け売りというのは、それは私の比ではありませんよ、私は90パーセントよそ様の原稿を使っていますから。だから私はエセ研究家であり、ネット学者なんですよ、おはずかしい話ですよね。それでも退会させられることもなく受け入れてもらえるOKWave は、多様性の中に新しい日本の価値を生み出している、すばらしいサイトであると思います。ところで、土屋賢二さんは面白そうな人ですね、こんど書店へ行くときの楽しみが増えました。

noname#214841
質問者

お礼

追加回答ありがたうございます。 >本を読む者は、その本がもつ毒と一緒に読みこんでいる。 名言ですね。 毒があるからこそ、おもしろいのではありませんか。私の場合は、解説書はあまり読みません。ニーチェなら『ツァラトゥストラ』『この人を見よ』は読みますが、解説したものは、ニーチェの思想といふよりも、解説者の見解を読むことになるので、なるべく遠ざけます。 >頼もしい人だと思いますし、いづれはハイデガーを超えると信じています。 私も期待してゐます。garizo-cojpさんにも。 >読書を続けることによって、解毒の法を失ってしまう読書家が増えているのかもしれません。 コントロールされてしまふのでせうか。私はすぐに流されます。 >OKWave は、多様性の中に新しい日本の価値を生み出している、すばらしいサイトであると思います。 回答番号13の方も参加なさつてゐるのですが、社長と話ができるのがおもしろいところです。 http://okwave.jp/oodakedo/1124.html

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.14

楽天家でも歳を取るし、病気にもなる。気難し屋でも天啓に恵まれることがあるかもしれない。 アホでも自分を急かさずにいるならば、その道は平らかだろう。 知恵者でも、その知恵をひけらかすならば、争論は絶えない。 しかし往々にして、本当のアホは自分が賢いと思って、大手を振って大通りを歩くものだし、実に知恵ある人は自分が知らない事を知っていて、その振る舞いは謙虚なものです。 人生の帰結を比べるならば、言うまでもなく。(四角な意見で〆てすみません。アホの名利は明るいこと、賢のそれは静かであること、二つが合体すれば最高だな、などと想像しました。)

noname#214841
質問者

お礼

御回答ありがたうございます。a_honaさんの文章は、OKWaveでもgooでも拝見してをります。最近は、ゆにこさんとのやりとりを興味深く感じてゐます。 >二つが合体すれば最高だな 御指摘のとほりと存じます。人間といふのは、多面的で複雑なものだとおもひます。さまざまな状況に対応するためにも、多種多様な要素を身につけることが大切なのでせう。 私の場合は、アホで通すしかありません。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9728/12102)
回答No.13

「お礼コメント」をありがとうございました。 >エラスムスは新約聖書の校訂者として有名で、ひとむかし前のウエストコット・ホート、現代のネストレ・アラントとともに、はづせないテキストですが、『痴愚神礼讃』を読んでからは見方が変りま した。主著は『対話集』らしいのですが、少し読んだだけでやめました。 ⇒当時の大都会(ロンドン、オックスフォード、パリなど)で売られた本の1~2割がエラスムスの著作であったとか。特に、『痴愚神礼讃』は1511年の発刊以来大人気で、25年間で39版も数えたそうですね。 ルネサンス期に新しい神観・人間観・世界観・自然観が出てきましたが、代表的人物をそれぞれに1人ずつあげるとすれば、ルター・エラスムス・デカルト・ガリレイでしょうか。つまり、エラスムスは(ペトラルカらとともに)新しい人間観を提唱した第一人者ですね。この動きが、やがて近現代の啓蒙思想や産業革命へとつながっていくのでしょうね。 >>「シェーッ!」ときたものですから、教室中に大爆笑の渦が起こったのでした。 >この人は大物ですね。「場」を的確にとらへてゐます。アホと哲学との間には境界がありません。 ⇒こういう連中は、人間味があって面白いです。よく共感し合います。以前、一緒に飲みながらこんなことで共感し合いました。「われら、確かにアホだけど、だけど昨日アホだったアホと、今日アホであるアホは違うんだよね。今日のアホの方が、ちょっとだけアホでなくなったんだよね。だよね!…」。 ある時、酔っ払って渋谷駅前のハチ公にからんでました! 「お前、なんでこんなとこに立ってるんだ? 早くオウチへ帰りな。待ってたってもうオヤジさん、帰ってこないんだよ! だから、もう、帰りな。ねっ、帰りな、帰りな…。」 ところでこの男、楽しいホモ・ルーデンス(遊戯人)ですが、それでいて、よきホモ・ソシオロジクス(役割人間)として、応用能力抜群、今は大企業のお偉いさんになってます。 >エラスムスはアホの効能として、こんなことも書いてゐます。 >「公然と王侯方を罵りながらも喜んでお耳を傾けていただき、同じことばを智者たちが口にしたなら死刑になりそうなことでも、阿呆の口を衝いて出ますと、信じがたいほど喜んでいただけるのです。」(第36章93ページ) ⇒なるほど! さすが、新しい人間観、人間学の大家の慧眼ぶり、というとこですね。ご教示ありがとうございました。 だいぶ昔ですが、私も、中央公論の『世界の名著』17(渡辺一夫編)で読んだ記憶がありますが、内容はほとんど忘れました。(57話あたりの、司教をやんわり批判しているようなくだりが、かすかに記憶にある程度です。)

noname#214841
質問者

お礼

さきほど帰宅したばかりで、お礼が遅くなりました。追加回答をありがたうございます。 御指摘のとほり、エラスムスの著作はよく売れて、人気者だつたやうです。一般には人文主義者とかいはれてゐるやうです。 >今日のアホの方が、ちょっとだけアホでなくなったんだよね 私の場合は、常にアホです。 >早くオウチへ帰りな。待ってたってもうオヤジさん、帰ってこないんだよ! ほほゑましい風景です。私は、渋谷へは仕事で一度行つたことがあるだけです。 >よきホモ・ソシオロジクス(役割人間)として、応用能力抜群、今は大企業のお偉いさんになってます。 安心しました。やはり大物です。 >司教をやんわり批判しているようなくだり 回答番号4のコメントにも書いたのですが、Nakay702さんの読み方が正しいと思ひます。周囲が大げさに取り上げすぎです。笑つてすませるやうな文章にほかなりません。

回答No.12

 No.4です。  だまっていると ぜんぶ受け容れたことになるかとおそれて ひと言です。    つまり ここでは エラスムスが主題のひとつになっているようです。  一度読んで分からなかった。次の指摘を受けて二度目に読んだけれど ピンと来なかったあわれなぶらじゅろんぬですが けっきょく痴愚神を持ち出したり自分をそれに当てはめたりというのは 広い意味のユートピア論であるのではないかというひとつの見方です。  ◆ (ri_rong 氏:【Q:ロマン主義について】~~~~~~~~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5124232.html    (No.7お礼欄) エラスムスが『痴愚神礼賛』の序文に、主人公モリア(Moria)の名前をトーマス・モア(More)から思い付いたと書いているんですが、モアはこの後に『ユートピア』を仕上げますよね。   (No.10お礼欄)  〔* 映画『マトリクス』の〕あらすじとしては――恵まれた暮らしにうつつを抜かす現代人の精神世界は、いかに制度に囚われ、縛られていることか。その奴隷の世界から魂を救済し、永遠の楽園へと誘うのが救世主ネオである。   (No.6お礼欄) 映画は、現象と独立した概念の世界を描いたものだと思いますが、その世界はねずみ色に荒廃し、用意された繭のなかで制度が個人を飼っている映像がありました。モーフィアスは制度の目をかいくぐって、船を操る船長の名前です   (No.10お礼欄) 『ユートピア』じゃないか? と思うわけですよ。  モーフィアスは、そのかたちを提供する役柄です。言ってみれば、痴愚神であるエラスムス、あるいはモアになるのでしょう。西欧ではすでに、『マトリクス』を中世末期に考えているんです。  No.11に良い回答をもらっていますが、「二つの世界を繋いだ途端に、そこには一つの世界しか存在しえなくなる」わけです。つまり、表象(言語)と表象されるものとを、常に同一の状態に置こうとする傾向(中世的な言語感覚)があって、それに対して無警戒なんですね。  たぶん、実際に映画をご覧になると、なんだかずいぶん薄っぺらい感じがするなぁと思われる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 異端の見方を投じることが わたしの役目だと思いますので。  つまり 重ねての回答になりますが:  ★ アホ vs 哲学者  ☆ といった二項をすでに互いに相い対立すると見なした時点で はっきり言えばアウトだと思います。アポロンとディオニュソスといったようなあり得ない双対ではないのですが それでも 冗談交じりのお遊びじみているでしょうね。《無知の知》がお好みでないなら せいぜい《学識ある無知 docta ignorantia 》といった程度で禁欲したほうがよいのと違いますか?

noname#214841
質問者

お礼

以前の哲学カテゴリでもエラスムスが登場してゐたのですね。もう6年前ですか。映画「マトリクス」は『不思議の国のアリス』との関連で注目はするのですが、『痴愚神礼讃』とのつながりは初見です。やはりヨーロッパ文化の流れは絶大です。 >二項をすでに互いに相い対立すると見なした時点で はっきり言えばアウト さうですね。回答者のみなさんも、多くがそのやうな御意見です。私はただのアホですけれど。 御回答ありがたうございました。

noname#208229
noname#208229
回答No.11

自分のすばらしい考えを他の人にも知ってもらいたい これには無理があると思います。 すばらしい考えのすばらしさが、どこがすばらしいのかが相手にはわかってないから。 まだすばらしさに気が付かないアホならいい すばらしい考えを理解できない場合喧嘩腰な会話になってしまうのかもしれない。 喧嘩腰になった場合 相手にすばらしい考えを理解させることは非常に大変なことと思います。 だったら始めからすばらしい考えを知ってもらいたいとさえ思わない方が良いのかも。

noname#214841
質問者

お礼

追加のご回答をありがたうございます。 >これには無理があると思います。 御指摘のとほりと存じます。自分の幸福が相手にも幸福であるとは限りません。 禁欲的な智慧の利点を極めた人がゐれば、それをアホの私に説くよりも、現金、有価証券、貴金属の類を私に譲渡して、理論の正しさを実証してくれるほうが、双方の幸福に寄与します。もちろん、喧嘩にはなりません。 >始めからすばらしい考えを知ってもらいたいとさえ思わない方が良いのかも。 さうですね。おつしやるとほりです。人それぞれ価値観に相違があります。

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     徹底的に批判しきっておきたいと考えます。  ニーチェの亡霊をもほうむっておきたい。  すでに 批判がなされています。ところが 次のヰキぺの記事においても どこかまだ その《永劫回帰》なる考えにしても なんらかの思想性があるかに思われるというような評価さえが残っている。  質問者は 次のくだりをめぐって 批判を明らかな結論が得られるようにおこない切りたい。  ご見解をお寄せください。  ▲ (ヰキぺ:永劫回帰) ~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%8A%AB%E5%9B%9E%E5%B8%B0  § 3 永劫回帰批判  ・・・  ( a ) 永劫回帰は科学的に確定される現象や政治思想としてではなく、あくまでも実存主義の構えの柱の一つであり、個人の心的現象内によって発生しうるものなのかもしれない。    ( b ) ニーチェは、個人幻想の枠内ならば、人間は因果律も時間軸も超えられることを叫び、個人幻想の絶対的自由を主張したかったとも解釈しうる。これについて、永井均は永劫回帰は思想と言うよりも、ある日突然ニーチェを襲った体験である点を強調している。  ( c ) 永井均はニーチェ哲学とは徹底した「問い」であると指摘している。確かにニーチェ哲学は狂気をはらんでいるが、それは無知や短絡的思考からくる狂気ではない。一般人なら適当なところでやめてしまう疑問を問い続けた結果であり、哲学的思索を徹底したがゆえに発生する狂気なのである。  ~~~~~~~~~~~~  (あ) 次の命題は 意味がない。   ▲ ( b ) 個人幻想の枠内ならば、人間は因果律も時間軸も超えられることを叫び  つまり 《人間は いかようにもその想像力の翼をはばたかせて自由に空想を成しうる》と一般論を言っているに過ぎない。ゆえ。  (い) つまりそれを   ▲ ( b ) 個人幻想の絶対的自由を主張したかったとも解釈しうる。  と解釈するのは ばかばかしい。想像力の自由さ・ゆたかさは 特に主張をするものではない。     (う) これをもって   ▲ ( a ) 実存主義の構えの柱の一つであり  という気が知れない。想像力があれば 《実存主義の構えの柱の一つ》になれるのか? ならすべての人が 実存主義者だ。  (え)  ▲ ( a ) 科学的に確定される現象や政治思想としてではなく、・・・個人の心的現象内によって発生しうるものなのかもしれない。   ☆ 《心的現象として発生したもの》なら 思想だというのだろうか? 何らかの気持ちをいだいたという心的現象が そのまま《実存主義の構えの柱》になれるのか? ちゃんちゃらおかしい。  (お) ▲ ( c ) ニーチェ哲学は狂気をはらんでいるが、それは無知や短絡的思考からくる狂気ではない。一般人なら適当なところでやめてしまう疑問を問い続けた結果であり、哲学的思索を徹底したがゆえに発生する狂気なのである。  ☆ ここには このように《発生する狂気》が 何らかの思想的な意義を持つと言わんばかりである。んなばかな!  ▲ 一般人なら適当なところでやめてしまう疑問  ☆ というのは 無意味と知ったからやめるのではないだろうか?  (か) すなわち 永劫回帰については 次の説明がある。  ▲ (同上ヰキぺ) ~~~~~~  § 1 概要  ( d ) 「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち、無限の時間の中で有限の物質を組み合わせたものが世界であるならば、現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。  ニーチェにおいて、この世界の円環的構造は、たんに存在論的なものにとどまらず、自由意志の問題と結びつけられる。  ~~~~~~~~~~~~  このどこが 《ニーチェ哲学》というように《哲学》なのか?  どこが 《哲学的思索》なのか?  (き) ▲ 「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち  ☆ この前提がおかしい。のではないか? なんで時間が無限なのか?  (く) ▲ 現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。  ☆ という内容についての次の説明が どういう考えから出て来たものか 解明していただきたい。  ▲ ~~~~~~~~~~~  § 1 概要  永劫回帰は生への強い肯定の思想であると同時に、「一回性の連続」という概念を念頭に置かねばならない。つまり、転生思想のように前世→現世→来世と‘生まれ変わる’ものでは決して無く、人生とはカセットテープのように仮に生まれ変わったとしても‘その年その時その瞬間まで、まったく同じで再び繰り返す’というものである。   仮に2006年、あなたはブルーの服を着て、白いズボンを履いて14:45に目黒駅前の明治学院行きバス停でタバコを一服していたとしよう。命尽きて生まれ変わっていたとしても、2006年、あなたはブルーの服を着て、白いズボンを履いて14:45に目黒駅前の明治学院行きバス停でタバコを一服している。リセットしてカセットテープを巻き戻しただけの状態になる。  これが「一回性の連続」である。それを永遠に繰り返す。  故に、己の人生に「否」(いな)と言わず、「然り」(しかり)と言う為、強い人生への肯定が必要なのである。  ツァラトストラは自ら育てた闇に食われて死して逝く幻影を見る。最高へは常に最深から。超人は神々の黄昏に力強く現れる。闇を知り、闇を破し、死してなお生への強い「然り」を繰り返す。今、ここにある瞬間の己に強く頷く態度、それこそが超人への道であり、永劫回帰の根幹である。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ この哲学の貧困について その由来が知りたいと思いますので ご見解をのべておしえてください。  その内容こそが ニヒルではないか?

  • 俺は仮面ライダーだ。文句あっか。

    悪を哲学する試みです。 よろしくお願いします。 悪魔とは神が人間の不義にあらぶれることにより使わす精霊で、すなわち神からのメッセンジャーだ。 悪魔は人をとがめる。 君達は聖霊を悪魔と呼び神に逆らい、それゆえに神の子を悪魔と辱めている。 悪魔は神の正義を宿しており君達は成す術がない。 人が悪魔と戦う唯一の武器は、悪魔すらも愛する行為だ。 愛すれば理解が及び、私はそのように悪魔を理解する。 しかしだ悪魔を愛し、悪魔を本来の聖霊に浄化する私の行いは、君達にとっては人類でありながら悪魔のために働く裏切り行為だ。 私はそのために君達に呪われ、アマテラスさん直々の改造手術を受けた仮面ライダーとなった。 君達は、自らの過ちをあくまでも押しとうそうとしているのだ、仮面ライダーの私だけが神の意志を理解した。 裏切り者ゆえだ。 私と悪魔の和解は君達を新たな地獄へと導くだろう。 君達は、私との和解ゆえ君達すらも愛する悪魔の愛に溺れ、滅びの宴に酔いしれる。 そのようにして君達は滅びるのだ。 裏切り者の仮面ライダーこそ、精霊のみを救い、君達の救いの願いをくじく暗黒の救世主だ。 君達が救われたいと懇願したのは君達の闇ゆえだ。 その闇が本物となる。 本物の地獄が始まる。 以上は仮面ライダーの話です。 善があえて刃お向ける戦う正義についてです。 ちゃんとした哲学にするとどのようになるかお聞かせください。

  • ばか VS あほ

    こんばんは。 ちょっと、つまらんことを悩みはじめたのですが・・・ 「ばかにつける薬は無い」といいますが、「あほにつける薬は無い」とはあまりいいませんよねぇ。 それに、西田敏行さんの映画も「釣りばか日誌」であって、「釣りあほ日誌」じゃないですよねぇ。 また「おばか」というが、「おあほ」と言いませんし・・・「ばか者」はあっても、「あほ者」はないし・・・ 「どあほ」ぐらいしかなくて・・・・ そんなことを考えていたら、、、、「ばか」のほうが「あほ」よりも強いのか?という疑問がわきました。。。 みなさんは、「ばか」と「あほ」は、どっちが強いと思いますか? また、その理由もあれば、教えてください。 バカが、アホな質問をしてすいません。・・・・逆か・・・アホがバカな質問をしてすいません。 どっちだろう???

  • パスカル『パンセ』のキリスト教推しについて

    私は文学部の大学生です。 パスカルの『パンセ』を読んだことのある方で、キリスト教徒でない人は、どんな感想を持ちましたか? 有名なので一度は読もうと思い、パスカル『パンセ』を前田陽一訳・中公文庫版で読みました。 前半の、キリスト教にあまり関係ない部分で面白いところもあったのですが、だんだんキリスト教推しが「超うざく」感じられました。 私は別に特定の宗教の信者ではありませんが、寺院にも神社にも割とよくお参りします。無神論者ではなくて、なんとなく八百万の神的なものを信じています。仏教にもそれなりに親しみがあります。自分はキリスト教徒ではないと思っているのに、クリスマスにはなぜかケーキを食べます。 パスカルは、哲学者のくせに、人間には原罪があるという根拠のないことを断言しています。 この本が、聖書やコーランなどだったら、最初からその宗教の本として、その宗教の枠組みの中で語られることに全く違和感はありません。 でも、『パンセ』は高校倫理で習う哲学書のくせに、キリスト教推しが気に食わないと感じました。 しかも、「自分の信じる宗教を勧めるだけならまだしも、他の宗教の攻撃するのやめろ」と感じ、パスカルにげんなりしました。(私は宗教アレルギーではありません。思想や考え方の一つと捉えています。ただ、よく見かける、宗教のいちばん嫌な点は、他者や他宗教をしばしば攻撃する点です。平和や幸福のための宗教なのに他を攻撃するなんてアホかと思っています。) もちろん、パスカルは神への信仰を説いた人だとは前情報として知っていたのですが、有名なこの本がこれほど宗教色が濃いとは思いませんでした。 日本人がこの本を読むなんて想定すらされていないのだから、哲学書として『パンセ』を読んだ私が悪かったのでしょうか? キリスト教徒でない方で、パスカル『パンセ』を読んだ方は、どのように感じましたか?

  • 組織宗教を 弾劾する。

     たたき台を述べて 表題について問います。     *  教祖と教義と教団とにもとづく組織は 教祖ないし教義を――そして時にはあろうことか 教団〔の存続〕を――《神》そのものとしてその会員に信奉するようにさせることがある。これは いかにその個人の自由意志によると言っても その結果も行為じたいも 無効である。  自由意志そのものを放棄する自由意志の発揮は 無効である。  組織宗教は すべからくすみやかに解散せざるべからず。    *  ▲ (K.マルクス:宗教批判) ~~~~  ( a ) 宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。  ( b ) 宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ( c ) それは人民の阿片(アヘン)である。  ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。  ( e ) 彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。  ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。        (『ヘーゲル法哲学批判序論』)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでは総じて言って 個人にとっての信仰――わが心に非思考の庭が成るということおよびその生きる動態――が忘れ去られている。  個人が信仰をいだく前にも後にも 《現実的悲惨》は われわれの前にある。それは われわれのものでさえある。けれども 信仰であるなら――これはマルクス自身も言うように―― たとえ《阿片》であっても痛み止めはそれとして必要であり 持たれてもおかしくない。そしてそこまでである 信仰をめぐる《超現実》の必然性と必要性とは。  〔そのあとさらに積極的な信仰の保持は 一人ひとりの信教・良心の自由の問題である。そういう人が互いに語り合うのなら 組織宗教にはならない〕。    だから( b )で 《追い詰められた者のためいき》は 信仰に行き着いたとしても 組織宗教には到らない。到り得ない。   ○ ( b )の修正: 超現実への想像は追いつめられた者の溜息であり、そこにともかく《信仰》を得たならその信仰とは 非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ☆ このように《個人にとっての・わがたましいの》問題である 信仰は。  その信仰から 瞑想を経て観想(テオーリア)を得て この観想から理論(テオリ=セオリ)を打ち出すとすると その命題が 組織宗教では教義とされる。教義は すでに信じるではなく 考えるの問題である。  人は人をころさないものだなぁという観想から 《汝 ころすなかれ》という教義をこしらえる。けれどもこの教えは 信仰の固定観念化である。偶像である。  教義をこしらえたからと言って その教祖にしたところで えらいわけではない。問題は 一人ひとりの内面における信仰としての心の伸びもしくは心の明けである。ところがこの個人の信仰は ついぞ 非思考なのであって 教義とは別物である。まして組織ないし集団の心をひとつにする手段にはなり得ない。その仮りの命題を持って来て その教義化によって信教と良心の自由を侵してはならないものである。  したがって  ▲ ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。  ☆ と言えたとしても 問題は すでに《教義ないし教祖を後光に持つ》というその組織宗教じたいについての批判が先である。後光でないものを後光としている。信仰から来る後光だと仮りにしても 後光の源をすでに忘れており ないがしろにしている。なぜなら 組織会員一人ひとりの信仰を 集団の教義ないし規則に従うようにする動きを必然的にもたらすからである。  この逆立ちは 個人の信仰の自殺行為である。  個人の信仰の宗教化(教義化)およびそれにもとづく組織化 つまり組織宗教というものは すでにその存在じたいにおいて 信仰の自殺行為である。  自由意志の放棄・従って人間の存在そのものの放棄 これらをおこなったところで成り立つ代物である。  仮りに信仰をも批判する人がいて  ▲ ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教  ☆ というくだりを 次のように言いかえたとしよう。  ○ ( d )の修正: 個人の幻想的幸福としての信仰  ☆ だからいけないという論法で信仰をも批判したとしてみる。どうなるか?  幻想ないし超現実を想像しない人間がいるか? まづこのように反論する。  つぎにもしたとえ《信仰は 幻想的幸福》でしかないとしたとしても 問題は 人びとどうしのかかわり(関係)とまじわり(交通)にある。共生の問題でもある。互いに言葉をとおして意思疎通を図っているのなら 問題はない。コミュニケーションが取れていれば 何も問題はない。蛸壺に閉じこもるのでなければ 話し合いをつうじて互いに幻想も現実に合ったものとして行ける。  信仰は 教義化をせずその観想――おしえのようなものになりうるが――を他人に押しつけない。語り合うまでである。そこで心から同意する内容があれば 自分で摂取するだけである。信仰ゆえに対話する。幻想的幸福は 練られて行くであろう。  よって 組織宗教は要らない。要らないだけではなく 信仰および自由意志を侵害する悪癖に満ちている。ゆえに ここに弾劾する。

  • 踊る阿呆に見る阿呆

    じゃ、見もしない奴は何なんですか? 利口者ですか?ド阿呆ですか?

  • AKBに踊る阿呆と見る阿呆、どっちが阿呆?

    毎日毎日AKBの話題ばかりです。ついには一般のニュースや一般新聞でも報道するようになってしまいました。 選抜総選挙!!   あなたの一票が彼女たちの運命を決める!!!!!! CDを買えば選挙の投票ハガキがついてきます! 一人何票投票してもOK!!! サヨナラあっちゃん!  危険防止のため、パレードは中止!  あっちゃん一色に染まった秋葉原は厳戒態勢! なーんてさも大げさにファンとの交流、連携をうたっていますが 所詮、全部ファンから金を巻き上げるための商売です。 「AKBは僕たちファンが支えているんだ!!!」 とファンは熱狂していますが、秋元康の手のひらの上で踊らされている、いや転がされている、いや有り金を搾り取られていることに気づいていません。 ファンが支えているのは秋元康とその取り巻きの収入であって、AKBも、そのファンたちも、彼らのフトコロを潤すための道具、金づるに過ぎません。 こんなAKB(他のグループ含む)フィーバーに踊る阿呆と、それに参加せずに冷ややかに見る阿呆、どっちが阿呆でしょうか?

  • 質問するアホウに回答するアホウ 同じアホなら・・・

    1.質問せにゃ損 2.回答せにゃ損 3.ボケにゃ損 4.ツッコまにゃ損 5.他 どれでしょう? ※お礼はシンプルに「ありがとうございました」 (おまけにコピペ) のみです。  回答もサクッとお願いします。

  • アホ 対 アホ

    の場合 どう決着がつくのでありましょうか

  • アホはどれだけ頭を使ってもアホなのでしょうか?

    アホはどれだけ頭を使ってもアホなのでしょうか? 会社などでよく言われるのです。アホは余計なことは考えるな!ということでしょうか? 仕事には人それぞれのやり方があります。 アホはどれだけ頭使ってもアホという人間は自分のやり方が一番正しいと思っていて、それと違う方法でしている人間はすべてアホに見えているという人間なのでしょうか?