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「中国大返し」で姫路城に戻った秀吉は。
- 天正10年(1582年)当時、「枚」で数える「金」とはどういう物ですか。
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補足
ご回答ありがとうございます。 『川角太閤記』ですか!! わざわざ調べて下さって真にありがとうございます。 質問には、「作家の創作でしょうか」と書きましたが…もとより私は、 「金銀は、銀が七百五十貫、金が八百枚あまり金蔵にあった。」の一節を作家・司馬遼太郎の創作だとは思っていませんでした。(歴史を書くときの氏の真摯な姿勢からして) 『豊鑑』『惟任退治記(天正記)』は読みましたが、姫路(姫地と書いてました)のことは素っ気無いですね。 しかし、読んだおかげで「軍兵をくれ明る日に着もあり」というところから「軍兵」という言葉を知りました。 >この金配りが、『川角太閤記』の創作であった可能性もあるとは思いますが、後に秀吉が聚楽第で諸大名に盛大に金配りをした史実を踏まえつつ、秀吉の豪快さ、弔い合戦にかける意気込み、天下取への乾坤一擲のバクチ、そのような秀吉の姿を見事に表すエピソードとして、用いたのではないかと思います。 ふと思いついて、吉川英治の『新書太閤記』はどうなっているのか調べてみますと、司馬遼太郎と同じでした。 次から次へと疑問が出てきて困っています。 「枚」については明日「お礼欄」に記入します。