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秀吉の「中国大返し」は真実か?

 本能寺の変で、主君織田信長が明智光秀に討たれたことを秀吉は知り、ただちに備中(岡山)から摂津(大阪)へ引き返し、主君の仇を取ったとされます。  有名な「中国大返し」ですが、岡山→大阪の150キロ を、2万の軍勢が馬・徒歩・船に分かれて実質4日間で走破したとされます。  しかし、私はこのことが不思議でなりません。  人間だけなら可能かもしれませんが、いくさのための移動ですから、大量の武器・弾薬・食料(米俵)の 輸送も伴います。荷造りの準備も必要だったはずです。  なぜ400年以上も前に、大軍が長距離を迅速に移動できたのでしょうか? (もし、秀吉が事前に本能寺の変を知っていて、撤退の用意を行っていたのならば、話は別ですが・・・)  ついでながら、もうひとつ。  なぜ、信長はほとんど無防備の状態で本能寺に泊まったのでしょうか?  油断?慢心?  理解できません。  歴史に詳しい方、どうぞお教えください。お願いします。  

  • 歴史
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  • ss79
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回答No.9

信長が少数の護衛で本能寺に宿泊したのが不可解という事ですが、 1.信長は光秀の保守的な考え、旧来の組織を編重する思想は気に入らなかったのですが、その能力は評価していました。 従って勢力範囲の近畿地方の親衛隊として残置していたのです。 これは光秀の領地が近江、丹波にあった事も影響しています。 他の軍団がそれぞれ第一線に赴いていたのですから秀吉から中国救援の要請を受けて差し向けられる事が出来るのは光秀の軍団だけでした。 2.光秀との間に感情問題はありましたが、中国出陣に先立ち近江、丹波の領地を召し上げ、伯耆、岩見を斬りとり与える事にしたのは信長としては既定の方針でした。 しかし光秀としては永年営々として経営してきた本拠地を取り上げられるという事が我慢出来なかったのです。 しかも交換に与えられるのはまだ敵地で不安もありました。 しかも信長には朝廷も眼中にない変革の夢がありその思想が光秀には理解を超えていました。 3.信長としては、光秀を信頼していたからこそ、その出陣を待たずに京都に出てきたのです。 普通なら光秀軍団の中国へ向かってからでもよかった筈です。 近畿にはまだ筒井や光秀に代わる知識人の細川藤孝など群小の部隊はいました。 大阪には丹羽長秀の軍団が四国侵攻の準備中でした。 4.従って光秀の反乱という意識はいささかも脳中に浮かばなかったのです。

ryuudan
質問者

お礼

>「信長としては、光秀を信頼していたからこそ、その出陣を待たずに京都に出てきたのです。 普通なら光秀軍団の中国へ向かってからでもよかった筈です」 →納得です。ありがとうございました。

その他の回答 (8)

  • toro321
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回答No.8

即ち、フルマラソンを4日連続で行い、すぐにいくさができるでしょうか?オリンピック選手でさえ、1回マラソンを走った後は最低3ヶ月は休むそうです。  しかも、当時は砂利だらけの悪路、シューズもなくワラジか裸足。  これを4日間も続ければ足はマメだらけになり、いくさどころではなかったのでは 旧日本陸軍の秋季大演習では、3~4日で250kmぐらい行軍したそうです。 もちろん、完全装備(約30kg)です。 毎年やってたそうですから、150kmぐらいなら軽いんじゃないでしょうかね?

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.7

1番です。 >姫路から摂津まで、大量の物資をいかに迅速に輸送したのでしょうか? 姫路からであれば、簡単に運べるでしょう。 軍が岡山を発つ前に手配しておけば。 それに堺には、四国遠征軍の物資が有るはずですし、摂津の池田常興が見方になっている以上、摂津での物資は徴収する必要はありません。 また、必要とする物資も、1日分程度ですから、それほどの量にはなりません。 秀吉の姫路での休憩は、兵を休ませるという意味ではなく、自分の出した遣いの回答を待ったのだと思います。 だれが味方し、だれが敵対するかを見極め、光秀軍が想像以上に強大になっているようであれば、そこで方針を転換する必要があるために。 同様な行動は、後の「賤ヶ岳の戦い」において行っています。 「美濃返し」と言います。 この時も、57キロを夜間7時間で踏破しています。 「中国返し」の教訓を生かした戦法であると考えられます。 >即ち、フルマラソンを4日連続で行い、すぐにいくさができるでしょうか?オリンピック選手でさえ、1回マラソンを走った後は最低3ヶ月は休むそうです。 マラソンは、42キロを歩くのではありません。 走るのです。 その辺を勘違いされていると思います。

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11114)
回答No.6

秀吉は、後の四国遠征、九州討伐、関東出兵でも当時の常識を覆すような大軍を動員しています。それが可能だったのは、優れた兵站(補給)能力を持っていたからです。かつて、秀吉が三日で城の補修をしたり一夜城を建てたりした話が有名ですが、秀吉はこういった効率よく作業を進めるような能力に大変秀でた人でした。そして石田三成はその兵站管理者として大変有能な官僚だったのです。 中国大返しではss79さんも書き込まれているように、石田三成が後方業務を担当しました。このとき羽柴軍はとにかく大阪に集結することを最優先しました。装備はとにかく後回し。三成は、街道の村々に炊き出しをさせて食料と水を用意しました。そのため、羽柴軍の将兵はとにかく体ひとつで大阪を目指せばよかったのです。なぜ装備は後回しにして人員だけを集結させたかというと、その政治的効果を狙ってのことです。本能寺の変の報に接し、大阪は大混乱です。そのとき「秀吉の軍が続々と大阪に集結している」と聞けば「秀吉に味方しよう」という人が増えます。 とはいえ、戦争をするのですから、武器がなければ実際の戦闘になれば負けてしまいます。武器などは別に集めて海上輸送させました(船を使えば大量輸送が可能なため)。 しかしこういった作業を仕切るのは並大抵の能力では勤まりません。それはいかに石田三成が優れた官僚だったかということです。 また、信長がなぜ無防備ともいってもよい状態にいたか。現代の小泉首相も東京から大阪に移動するときには別に自衛隊の護衛を伴いません。既に当時の近畿地方は織田家の完全な支配下にあったので過剰に警戒する必要はなかったのです。もし信長の身に危険があった場合に駆けつける立場にいたのが明智光秀だったのです。

ryuudan
質問者

お礼

回答いただきありがとうございました。

ryuudan
質問者

補足

>「秀吉は、後の四国遠征、九州討伐、関東出兵でも当時の常識を覆すような大軍を動員しています」 →たしかにこれらは大軍の派遣でした。しかし、いずれも大いくさにはならず、相手はあっさりと降参しています。そして、「中国大返し」のような迅速さも必要ありませんでした。 >「それはいかに石田三成が優れた官僚だったかということです」 →三成の官僚としての優秀さは疑問の余地がありません。  ただし「中国大返し」に限って言えば、神業のような短時間での撤収作業ができたのは、何か訳ありと思ってしまうのです・・・。

noname#113190
noname#113190
回答No.5

信長の軍制ですが、各方面に軍団を派遣し、綻びそうなところには遊軍をあてると言う形で、各軍団が防衛線になっていますから、内側は無防備です。 万一どこからか敵が侵入してきても、近辺にには明智軍団がいますから、少ない家臣に守らせつつ、明智軍団の到着を待てばよいということです。 そして信長自身は、織田家の隠居(当主は織田信忠)の身分ですから、直営軍はそれほどいないので、実質的にはこの時期は明智軍が親衛隊ということです。 信長としては、晴天の霹靂で、予想もしないことと思います。 尚、光秀の反乱自体、今に至るも原因は憶測の域を出ておらず、実は秀吉の陰謀に乗せられたとかノイローゼから思わず口走って、引っ込みが付かなくなって実行したという説まで出ています。 こんな状況ですから、信長もまさかと思ったのでしょう。

ryuudan
質問者

お礼

回答いただきありがとうございました。

回答No.4

中国大返しの際、秀吉が行ったとされるものは、「実戦部隊と兵站部隊の切り離し」です。 実戦部隊も、装備を外し、別の輸送手段(馬車等)を使い、疲労の激しいものも馬車に載せて休憩させる処置を取り、また、食べ物も、途中途中の残置部隊に用意させて、走ることのみに集中させたそうです。 また、兵士たちも、足軽に至るまで、秀吉が天下に一番近いことを知っており、欲望が更に足を速めさせたことは想像に難くありません。 そう考えれば、乗り物の無かった時代、転戦を重ねた秀吉配下の軍勢が、150km以上の距離を4日で走破するのはたやすいことでしょう。 >なぜ、信長はほとんど無防備の状態で本能寺に泊まったのでしょうか? 京都周辺は、統治して長い安全な後方地域であり、また、大軍を用意しておく地積や兵站にも限界かあるので、自身の周囲は畢竟少数に止まったのでしょう。

ryuudan
質問者

お礼

回答いただきありがとうございました。

ryuudan
質問者

補足

「欲望」だけでは、物理的に説明し切れないような気がします。

  • eqw-102
  • ベストアンサー率24% (93/381)
回答No.3

人間の足は、歩くと時速4キロです。 1日に8時間歩くとして、32キロが限界です。 所が、軍隊には、 道足(歩き) 早足(時速6キロ) 駆け足(時速8キロ以上) こう言う行軍があります。 駆け足となると、ジョギング程度の速度を維持しながら、 小銃、背嚢の重さに耐えなければなりません。 特に、機銃、山岳砲の部品を背負う人間は大変です。 旧陸軍で、1日に100キロの移動をした記録があります。 (十数時間の強行軍で可能。) つまり、150キロは、1日半で走破可能な訳です。 これから比較すると、 いかに戦国の歩兵の機動力が悪いかお分かりでしょう。 重い鎧。効率の悪い大八車。 4倍のタイムロスです。 しかし、 到着=合戦ですから、 勝つ為の速度もありますね。 >なぜ、信長はほとんど無防備の状態で本能寺に泊まったのでしょうか? 助言者が既にいなかった。 助言を聞き入れる器を持たなかった。 人の裏を見抜く「策師」がいなかった。 また、「策師」を必要としなかった。 弱小大名ならば、 大大名と謁見しても、 「こう言っていたが、そちはどう思った?」 「絶対信用してはなりませぬ。」 こう言う警戒を絶えず怠りません。 また、気性を読み、動きを読む努力をします。 >また、「策師」を必要としなかった。 他国の戦力や、武将の能力など気にせずに力で押し通せるので楽です。 しかし、 力で押し通す「策」ですので、 謀略を仕掛けるには、 「もってこいの相手でもあった訳です。」 相手には、 正真正銘の、大うつけ、おめでたい程の馬鹿。 こう見えたはずです。 恩賞として、天下をくれる 「お館さま。」^_^;

ryuudan
質問者

お礼

詳しい回答をありがとうございます。  さて、秀吉軍は1日あたり「早足(時速6キロ)」として7時間行軍したとします。  つまり、1日で42キロで4日間連続です。 (実際には3日目に1日休息したそうですが)  即ち、フルマラソンを4日連続で行い、すぐにいくさができるでしょうか?オリンピック選手でさえ、1回マラソンを走った後は最低3ヶ月は休むそうです。  しかも、当時は砂利だらけの悪路、シューズもなくワラジか裸足。  これを4日間も続ければ足はマメだらけになり、いくさどころではなかったのでは?  また、武器、弾薬、食料を海上輸送したとしても、何百艘の船をごく短時間でどうやって手配できたのか、非常にミステリーです。  本能寺の無防備はやはり過信だったということでしょうか?  権力に登りつめるほど助言者を遠ざけて、やがて裸の王様になってしまう。  これは、秀吉も同じでした。

  • ss79
  • ベストアンサー率33% (258/765)
回答No.2

中国大返しは大変な大仕事ではあったでしょうが 1.後世疑う人もあるように秀吉は事前に知っていた説があります。 しかも毛利との間には停戦条約の交渉中で締結寸前でしたから多少の撤兵準備は可能であったのではと思われます。 2.急退却は味方の勢力範囲ですから食料などは途中準備補給することは可能です。 当座の腰兵糧だけで十分です。 3.装備といっても各兵士が携行するのが普通の時代ですから特に問題視される事はないでしょうし、しかも明智軍との戦いが目前ですから兵士らも覚悟していたでしょう。 4.幸いにも毛利軍の追撃がなかったので急退却の落後兵も遅れるだけで姫路城に到着後の休息中に参集できました。 5.海上輸送の手配は石田三成などが手配にあたったといいます。 これもそれまでの城攻めの間の補給の間に交渉の道がついていました。 従って覚悟次第ですが十分可能だったと思います。 信長が僅かな護衛で本能寺に宿泊したのはやはり油断でしょう。 光秀の心中を読みぞこなったのでしょう。 信長は敵や反乱に対し過酷でしたから部下は戦々恐々としていました。  光秀もあそこまで追いつめられなければ反乱しなかったとおもわれます。

ryuudan
質問者

お礼

回答いただきありがとうございました。 >「後世疑う人もあるように秀吉は事前に知っていた説があります。」 →どうしても、このように考えざるを得ません。 >「信長が僅かな護衛で本能寺に宿泊したのはやはり油断でしょう。」 →残念ながら、私には不可解なのです。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.1

自信はありませんが、秀吉の中国大返しは、可能だと思います。 早馬を自分の本拠地である姫路や、摂津の池田恒興や、界の丹羽長秀などに送り、自分に味方するように要請したり、物資の手配を依頼します。 この時姫路には、補給物資が大量に有ったと思われます。 明智軍が支援に来るための物資が。 これらの物資が当てになるならば、秀吉軍の必要とする物資は、岡山から姫路までの分があれば良い訳です。 軍主力が行った後で、前線の物資はゆっくり回収すればよいのです。 >信長はほとんど無防備の状態で本能寺に泊まったのでしょうか? これについては、色々議論されていますが、光秀が裏切るとは信長は思っていませんから、光秀軍が、京都ちかくに駐留しているために、光秀軍が護衛となると考えていたのではないでしょうか。 また、京都近隣に、直接信長の敵となる勢力は有りませんでしたから、油断というより、護衛の必要性を感じていなかったのではないでしょうか。 最大戦力を前線に投入するために、安全な場所に軍を遊ばせておく余裕もなかったでしょうし。

ryuudan
質問者

お礼

回答いただきありがとうございます。 >「この時姫路には、補給物資が大量に有ったと思われます。」 →姫路から摂津まで、大量の物資をいかに迅速に輸送したのでしょうか?  海上輸送の場合は何百艘の船が必要でしょうが、本能寺の変後に1~2日で準備できるでしょうか?  本能寺の変を、事前に察知していて撤収準備をしていたならば可能でしょうけれども・・・。

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