永遠なる神と限りある人間の関係を考える

このQ&Aのポイント
  • 永遠に生きるわけではあり得ない人間がなぜ「永遠」という言葉を持っているのか疑問が残る。
  • 永遠については分かっていないのは死なない人間だけであり、その概念を理解することは困難である。
  • 人間は永遠を理解することはできず、その代わりに「神」という概念に当てはめているのではないかと考えられる。
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永遠なる神を限りある人間がどうして知りうるか?

 1. 永遠に生きるわけではあり得ないわれわれ人間は どうして 《永遠》という言葉を持っているのか?   2. 永遠については 分かっていないのぢゃないか? 分かったというのは 死なない人間だけであるはずだ。  3. 定義し得れば 分かったことになるのか? 仮りにあたまで分かったとしてもそれをほんとうに《分かった》とは言わないゆえにこそ その永遠を《神》に当てはめているのではないのか 人間は?   4. なら何で神は 人間の精神や観念であるのか?   5. 何で神を人間がつくった言葉であり概念だと言うのか?    6. 言葉じたいは 人間がつくったのかも分からないが 永遠を一体どうやって人間がつくったというのか?

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noname#221368
noname#221368
回答No.5

 以下に述べる事は、神や無限に対する論理構造の一種の雛形と思って読んでもらえる事を望みます(雛形になれば良いのですが・・・)。ちなみに#2さんへのお礼を読んでから書いてます。  以前、無限集合論と対角線論法などについてずいぶんやりとりしたと思いますが、ここでも言う事は同じです。  無限の定義は「有限ではない事」です。このように定義する事は簡単です。しかしこの定義は数学の定義の中では、異例のものです。通常の数学的定義は、理論の前提条件に由来する範疇制限の範囲内で、対象を一意に定めなければ役に立ちません。ところが無限の定義は、対象を何一つ確定させません。一,二,・・・,沢山と言ってるのと同じです。  従ってあなたの言うように、 >定義し得れば 分かったことになるのか? 仮りにあたまで分かったとしてもそれをほんとうに《分かった》とは言わないゆえにこそ その永遠を《神》に当てはめているのではないのか 人間は?  であり、無限はあたまですら分かっていないはずです(了解していない)。なので論理操作をする時には、常にそこで有限の論理を無限に押し付けます。そして見たことないから、無限の存在証明(存在論)は到底不可能なので、無限公理の独断を持ちだします。  しかし認識論的(?)に言うと、無限は人間の精神や観念であり、無限は人間がつくった言葉であり概念だという事になると思います。  これと、 >・・・永遠を一体どうやって人間がつくったというのか? という問題は別だと思います。つまりつくれないから、無限公理があります。これは理論の中で、存在論を諦めたという事です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。こちらへ来てくれましたか。  ええっとですね。互いの立ち場は あたかもコインのウラオモテになりますかねぇ。  すなわち  ★ つまり〔永遠=無限はそれを〕つくれないから、無限公理があります。これは理論の中で、存在論を諦めたという事です。  ☆ これに対して 存在論をあきらめない作業仮説を持ちます。  ○ 神は 非知である ~~~~~~~~~~~   経験事象      可知       既知       未知      不可知 (知り得ないと知ったこと)      非経験の場 (経験事象ではないナゾを想定)      非知 (知り得るか知り得ないかが 知り得ないナゾ)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわちこのとき ひとは――誰れであっても例外なく また否応なく――この《非知》とはカカハリを持つに到ります。避けることは出来ません。  ところが これは《認識論》であるだけではない。ことになります。ここまででは:  ★ しかし認識論的(?)に言うと、無限は人間の精神や観念であり、無限は人間がつくった言葉であり概念だという事になると思います。  ☆ ところが 非知と認識したその概念があたまの中に生じただけではなく いま・ここなる《わたし》の存在にとって そのような存在が有るか無いか それが分からず決められないというナゾがわが心に居つきます。  つまりナゾなる存在(=非在。また非在ゆえに 遍在)が永遠の同伴者とならざるを得ないからです。  もちろんそれが意識としてある状態というのは 非知そのものではありません。せいぜい 非知の依り代(=補助線)ではあります。ですから この非知の意識は 神=非知ではありません。わが信念としての《義》ではあります。  信念に成り得ますが 神ではありません。信念が 大いなる推進力になることさえありますが それは 人間の持てるチカラによる仕事量であるにとどまります。  《義無きをもって義とす》なる天然(自然法爾)の阿呆状態であれば 神が霊としてやどる。と妄想されています。  ですから もしそのトンデモ議論にもとづくならば 《存在論》に成っていると見ています。  ★ ちなみに#2さんへのお礼を読んでから書いてます。  ☆ ですから このNo.2さんへのお応えとして 無限=永遠として捉えられる神の想定の議論は このようにその《想定する》というひと言で済むと思っていて 話を引っ張らずに済ましました。  ★ 無限公理  ☆ というのが 補助線としての《無限=永遠=神》のことでしょう。《義》なのでしょう。

その他の回答 (12)

  • stmim
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回答No.13

3度回答いたします。 >☆☆ 6. 言葉じたいは 人間がつくったのかも分からないが 永遠を一体どうやって人間がつくったというのか? 「永遠という概念」は人間がつくりました。「永遠という存在そのもの(実体)」は人間はつくっていません。 改めて考えてみますと「永遠という存在そのもの」は存在しないと思います。 宇宙が誕生してからの時間がどこまで経過しても、それは有限で測定可能な時間でしかないですよね。 決して永遠にならないですよね。 そうしてみると永遠もドラゴンや妖精と同じように人間の頭の中だけに存在しているものと思います。 つまり「永遠」とは概念だけ存在していて、実体は存在しないものと思います。 >言いかえると 《永遠》は 言葉≒概念として人間が発見したとしても その中身については分からないはずだ 中身が分からないのにこれを人間がつくったというのは どういうことか? です。 永遠の中身を知らなくても永遠の概念はつくれます。知らなくても想像力で「永遠という概念」はつくれるということだと思います。本当の「実体としての永遠」が存在したと仮定して、その実体と人間がつくった概念としての永遠がかなり違っている可能性はあると思います。 それは想像なのでしかたないと思います。実体としてのドラゴンや妖精が存在したと仮定して、それが人間の概念としてのドラゴンや妖精と違っている可能性があるというのと同じと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 「永遠という概念」は人間がつくりました。  ☆ 少なくとも表現がややこしいと考えます。  つまり それはすでにあった永遠なるものを人間は発見して それに言葉を与えた。のではないかと問い返されるはずです。  ★ 「永遠という存在そのもの(実体)」は人間はつくっていません。  ☆ それは確かに《実体》だとすれば 人間の手に負えないものですけれど。  ★ 改めて考えてみますと「永遠という存在そのもの」は存在しないと思います。  ☆ これは あっちの《神は人間がつくった》論のほうにも書きましたが もし《実体》だとすれば その永遠ないし神は 存在するか存在しないかが 人間には分からないナゾ(すなわち 非知)だと考えられます。  神は存在するとも 存在しないとも どちらの表現においても受け容れることが出来ますから。  ★ 宇宙が誕生してからの時間がどこまで経過しても、それは有限で測定可能な時間でしかないですよね。 / 決して永遠にならないですよね。  ☆ ええ。それは 相対性の世界です。  ★ そうしてみると永遠もドラゴンや妖精と同じように人間の頭の中だけに存在しているものと思います。  ☆ いえいえ。これは こうだと思います。    つまり 言葉として概念として・そして感覚との対応から離れた観念としても それら三つは 人間のあたまの中に持たれており その限りで《存在》しています。そのことには マチガイなかったことです。  それでも 永遠は ほかの二つとは異なる。という問題だと思います。  ★ つまり「永遠」とは概念だけ存在していて、実体は存在しないものと思います。  ☆ これは すでに応答しています。  神だとすれば 有る・無いのどちらにも表現されうるというその捉え方のもとにあるはずです。ですから ドラゴンや妖精とは まるっきり違うものであることが明らかになります。  ★ 本当の「実体としての永遠」が存在したと仮定して、その実体と人間がつくった概念としての永遠がかなり違っている可能性はあると思います。  ☆ という見方もできるということが 先ほどの《神は 有るとも無いともいづれにも表現されうる》という捉え方へとみちびきます。それは 《非知なるナゾ》だからです。そういう解明を持ちます。  ★ 実体としてのドラゴンや妖精が存在したと仮定して  ☆ いえ これは 仮定することも出来ません。空想であると決まっています。  あるいはつまり万が一そのような生物(?)がじっさいにいたとしましょう。だとしたら それまで《未知》だったとなるだけです。それで済みます。いまの段階では 空想であり存在しないということが 既知です。  ところが 《永遠》は 神として捉えた場合には 《非知》なのです。  ぎゃくに言うかたちで説明するなら こうです。  もし永遠が何であるかが分かったとします。先ほどのドラゴンなどと同じように それまで知られていなかったけれども はっきり知られたとします。だとしたら そのままドラゴンらの場合と同じです。既知だとされていたのが マチガイであったのであり それは未知だったものがやっと既知となったことを意味します。  つまり 永遠がそのように 未知だったが既知となったとしますと それは 取りも直さず《非知》ではなかったということです。つまりは 神〔の属性〕ではなかったとはっきり知られたものとなることを意味します。  ほんとうはどうであるかを別として いづれの場合にしても はっきりするというのなら 《非知》ではないと分かります。つまり 神とは その永遠が 別だとなります。  けれども ほんとうは 永遠も神と同じく いつまでも・どこまで行っても 知り得るか知り得ないかは 知り得ない非知なるナゾでありつづけるはずです。  よって 永遠は 人間がつくったものではない。となりますまいか。

回答No.12

君自身、散々迷惑を受けた、神とは宇宙だとか言うアホは、宇宙を3次元しか認識できていない。 同じ宇宙に4次元を認識できる私だよ。 この人類進化は、ときわたりセレビィの私が案内しているんだ。 4次元の認識とは、4次元の自覚だ。 君達は旧人類として緩やかに滅び、新たな自覚の元、新人類と交代する。 君が生き延び、存命中に自覚できれば、新人類の祝福がある。 あんたに関しては、常に研さんしているので私は見所を感じているよ。 そうなれば、君は永遠を、自らであると自覚できるよ。 私と言う先駆者がいる。 間違いなくだ。 これに君はさまよっているが、進化のために、まるっきり死のうとするくらいでちょうどいい。 それに取り組む準備体操を真剣に検討したまえ。 セレビィが励まし、ジラーチちゃんが保証する。 君を助けてこそ、私の善き計らいの成功例だ。 頑張ってくれたまえ。 君だけが、今のところ私のときわたりの生き証人候補だ。 実在する悪の結社はもう捨てた。 やつらは、もうくたばっちまっても私には関わりのない事だ。 私の黒魔術はやつらの呪術に対する対抗として編み出したものだ。 流行りの妖怪ウォッチも、私には言いたい事がある。 人知の法で実現していることだが、実在する妖精には、まだ悪魔を名乗り神の法で調整する必要のある事柄だ。 私はケラケラと面白がっているよ。 やつらは2000億払うか。 値切ってV字開脚するか。 この値切り交渉の進ちょくを面白おかしく聞かせてやるよ。 これがそのまま、滅びゆく旧人類の華だ。 この趣旨なら、もう聞かなくて良いとは言わせないよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ううーん。  だから 人間(現実)が変わる。という成功事例を語ってくれたまえ。  後ろ向きの調停などではなく。  旧人類を変えてみてくれたまえ。  ご回答をありがとう。

回答No.11

あんた曰く、 > 私にしかわからないように話している。 違うんだよ。 君の事が判っているから、君に話しかけている。 これを神様自ら、私に対して話しかけるから。ときわたりセレビィ/ジラーチちゃん、この幼馴染関係だよ。 あんたも死に取り組むことから始めればちょうどいい気がするが、キーワードは「ときわたり」今を忠実に自覚する時間認識知性への昇華だ。 君も古い話をこねくり回すことから初めて、自己を自覚しようとしているんだ。 そうは言っても、 君達は観念上で、ファイト一発死んでみる必要がある。 これが現状では推薦する標語だ。 私は成功例だ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとう。  そんなに死の話が なつかしいのかい?  それとも それほど重要だと まじで考えているわけ?  そうだとしても その種の話は なかなかしづらいはずだ。言葉で表現しづらいはずだ。  《成功例》だとしても そうそうたやすく 人との話し合いに持ち出すことは何とも言えないように思う。  この霧を振り払うことができますか?

回答No.10

一つ君を含めた「猿」について気が付いたことがある。 アマテラスの善しとは、 神が人に対してよく計らう事だ。 それを学んだとして、主体性を自覚して善く出来るかい。 教えだから、習慣だからと世間体ばかりで、心がこもらないまま善くしてないかい。 その心の無さが、一面で不本意ゆえの悪しだ。 これが君の論理における善の欠損の内訳だ。 神様にとっては、このような悪しは、ジラーチちゃんの保証書付きで、まんざらでもない。 良いようにしようと失敗して善の欠損だ。 私の言葉に感謝したまえ。 人の悪は神がみとっている。 私への秘密の暗号はV字開脚だ。 ケラケラ。 私は黒き明星。 神を代弁してない。 自らが確信していることだ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとう。  ★ アマテラスの善しとは、 / 神が人に対してよく計らう事だ。  ★ 人の悪は神がみとっている。  ☆ こういうふうに神を持ち出して語っているけれど それは  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  私は黒き明星。  〔だから〕 神を代弁してない。  自らが確信していることだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということだろうか。  《みづからの確信》の中に《神がおさまっている》ということなのか。  神は ただ言葉として使うと便利だから使っているのみということなのか。  そこんところは はっきりしないなぁ。

  • stmim
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回答No.9

再び回答します。 人間はそれが本当に存在するかどうかわからないものの概念をつくりだすことができます。 ですから、永遠を本当に体験として知っていなくても、その概念を持つことができます。 ドラゴンでも妖精でも、そんなものを本当は人間は知らないし、存在しないけど、概念はつくれます。 ですから、永遠の話を神と結びつける必要はないと思います。 それに、神が永遠かどうかはわからないですよね。 神と永遠がかならず結びついているかどうかは不明ですよね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ドラゴンでも妖精でも、そんなものを本当は人間は知らないし、存在しないけど、概念はつくれます。 / ですから、永遠の話を神と結びつける必要はないと思います。  ☆ 問題は ふたつの側面があります。   《ドラゴンや妖精》は どこまで人間に分かるか? 《永遠》は 時間の無限だとすでに規定されている。   《永遠》は ともかく神に当てはめられていると考えられるが ドラゴンや妖精は そうではない。    やや論理的な精確さを欠いていますが これらふたつの側面における違いはあると考えます。  ☆☆  3. 定義し得れば 分かったことになるのか? 仮りにあたまで分かったとしてもそれをほんとうに《分かった》とは言わないゆえにこそ その永遠を《神》に当てはめているのではないのか 人間は?  ☆ というように 《神》に当てはめられるということ・つまり神の属性として捉えられているということ ここに焦点は当てられていますし その焦点を外しては 質問を成さないとも考えています。  ここからすでにひとつの結論段階に飛びますと:  ☆☆ 6. 言葉じたいは 人間がつくったのかも分からないが 永遠を一体どうやって人間がつくったというのか?  ☆ という問いに行き着きます。すなわち 《神は人間がつくった》という視点ないし論点も じつは絡んでいます。だから この論点については 別に質問を挙げました。必要だと考えたからです。  ということは この質問でのねらいは この(6)の問いにあります。  もし《神は人間がつくった》説は 別とするならば 少なくとも《永遠》は 《ドラゴンや妖精》などの・想像の産物とは違っているのに どうして・どうやって人間がつくったということになるのか? これを問うているはずす。  言いかえると 《永遠》は 言葉≒概念として人間が発見したとしても その中身については分からないはずだ 中身が分からないのにこれを人間がつくったというのは どういうことか? です。

回答No.8

一言で言うと、つながっているからさ。 神との絆だ。 個人的悩みだが、精霊はそろいもそろって私をお父さんと呼び、甘えたつもりでケラケラと地獄へご招待だ。 戦場への落下傘降下なのだがね、最近は地獄の王直々のもてなしもまんざらではない。 君達は、相変わらず悪を毛嫌いするから、私の様な度胸が無い。 不可知に恐怖した人類史は、君もどこかしかで聞きかじっているだろう。 臆病者は、生きようとする意思さえかなぐり捨てて、逃げるのさ。 生をもたらす神の前からね。 彼らの恐怖は、神を悪魔に染めた。 男のくせに処女の様に臆病だ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ☆☆ 永遠なる神を限りある人間がどうして知りうるか? / 1. 永遠に生きるわけではあり得ないわれわれ人間は どうして 《永遠》という言葉を持っているのか?   ★ 一言で言うと、つながっているからさ。 / 神との絆だ。  ☆ これは まぁ そうなんだけれど 《そういう想定だ》とつけ添えるのが ふつうだと思う。  ★ 君達は、相変わらず悪を毛嫌いするから、私の様な度胸が無い。  ☆ これは どうかなぁ。  善の欠けとしての悪はこれを とことん 嫌い批判しつづけるのがよいと思う。  つまりまだ こういう議論の段階をさまようています。

bragelonne
質問者

補足

 ☆☆(お礼欄) つまりまだ こういう議論の段階をさまようています。  ☆ これは わたしのことです。わたしが さまようています。

  • stmim
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回答No.7

永遠性というのはいくつもある神の特性のひとつですよね。 神の特性のひとつである永遠性をもし理解できないとしても、他の特性がわかれば神を一部でも知ったことなります。 例えば、未知の深海魚が捕獲されたとします。捕獲されただけだと、どんな生態を持っているのかということまではわかりませんが、どんな姿をしているのかは理解できます。特性のうち、どれか1つでも知ることができれば、それは知ったことになります。1つの特性である永遠性というのをもし理解できなくても、知ることはできるでしょう。 神の代わりに岩石で考えてみます。岩石は古いものでは何億年も前にできたものがあります。人類が誕生するはるか以前です。ちょっと想像するのが難しいくらいの昔です。しかし、岩石の形、色、固さ、成分などは調べることができます。もし、岩石が永遠の昔にできたとしても同じことです。ですから神がもし永遠の命をもっていたとしても、そのことは神を知る妨げにはならないと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 神の特性のひとつである永遠性をもし理解できないとしても、他の特性がわかれば神を一部でも知ったことなります。  ☆ これは おっしゃるようなことが通りますが この質問は いくらか微妙にそこからずれています。  つまり 永遠という属性にかんして特別に問うている。つまり 無限であるとか 少し違いますが 不可変性であるとか そういったたぐいの属性から言わば切り込んでいくかたちなので やや微妙に違うと言えば違うはずです。    言いかえると 仮りに神について:  ★ 1つの特性である永遠性というのをもし理解できなくても、知ることはできるでしょう。  ☆ という捉え方が分かる人であるなら もうこの質問は要らないことになるでしょう。というような事情にあるかも分かりません。    岩石のたとえは ほかの特性が出ていないようにも見受けられましたが いづれにしましても 同じ事情であるかと考えます。  ☆☆  6. 言葉じたいは 人間がつくったのかも分からないが 永遠を一体どうやって人間がつくったというのか?  ☆ こういった切り口は 神のほかの属性とは 少しく違った問い方になっているかと思うのです。    

  • hekiyu
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回答No.6

1永遠に生きるわけではあり得ないわれわれ人間は どうして  《永遠》という言葉を持っているのか?   ↑ 永遠に生きることが無い人間だからです。 そういう人間だから永遠に憧れたのでしょう。   2.永遠については 分かっていないのぢゃないか?  分かったというのは 死なない人間だけであるはずだ。       ↑ 永遠というのは概念です。つまり存在するのは人間の 脳の中だけです。 それは「無」も同じです。 現実の宇宙には無は存在しません。しかし人間の脳内には 存在します。 3.定義し得れば 分かったことになるのか?  仮りにあたまで分かったとしてもそれをほんとうに《分かった》とは言わないゆえにこそ  その永遠を《神》に当てはめているのではないのか 人間は?      ↑ 言葉を手にした人間は、その言葉に振り回されるように なりました。 その反省から言語哲学が登場したわけです。 同じ過ちを、また、繰り返そうというのですか?   4.なら何で神は 人間の精神や観念であるのか?       ↑ 神は人間の頭が創り出したものだからです。 5.何で神を人間がつくった言葉であり概念だと言うのか?       ↑ 人間以外の生物は神を持っていない からです。    6.言葉じたいは 人間がつくったのかも分からないが   永遠を一体どうやって人間がつくったというのか?      ↑ 永遠も言葉が創り出した概念に過ぎないからです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  1.  ★ そういう(永遠に生きることが無い)人間だから永遠に憧れたのでしょう。  ☆ そういう憧れが人間にはあったということですね。  あやまってかあるいは然るべくしてか そういう願いがあったし あり続けているということですね。つまり 不老不死を欲しそのことを――観念として・つまり実際からは離れて――想像してみるということですね。  すなわちこの観念というのは:  2.  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  永遠というのは概念です。つまり存在するのは人間の  脳の中だけです。  それは「無」も同じです。  現実の宇宙には無は存在しません。しかし人間の脳内には  存在します。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということでしょうね。  3.  ★ 同じ過ちを、また、繰り返そうというのですか?  ☆ そうです。  4.なら何で神は 人間の精神や観念であるのか?       ↑  ★ 神は人間の頭が創り出したものだからです。  ☆ ここは ちょっと待ったですね。《神》と《永遠》とを何の条件や但し書きも無しに 同じものとしてしまっていませんか? そのままだと 同じあやまちをまた繰り返すのではないでしょうか?  5.何で神を人間がつくった言葉であり概念だと言うのか?       ↑  ★ 人間以外の生物は神を持っていない / からです。  ☆ いくつかのツッコミがあります。  (あ) 動物や植物が 《神を 言葉として概念として 持たないこと》と《神のもとにあること》とは別でしょう。  (い) 初めに議論を起こしたところを振り返ってみてください。  (う) わたしの理解では 次のようでした。:       a. 不老不死なる永遠は 人間とは無縁である。    b. けれどもそれを人間は欲する気持ちや思いがある。    c. よってこの永遠をあたまの中に観念として持った。    d. この永遠にちなんで《神》をも想定するというおろかさをも実行した。    (え) したがって こうなるのではないでしょうか。:    e. 神は 永遠と同じく言葉に表わした概念であり観念であると同時に その永遠というあこがれを人の内に起こす或る種のチカラとして ひとはその言葉を持つと同時に《想定した》そのナゾである。    f. この意味での神なら 動物たちにとっても――かれらが言葉を持たずとも――その神なるチカラが自分たちやその周りの環境自然の内にじゅうぶんはたらいている。と人間は見ることでしょう。非科学的にでも・つまり おろかにも気が狂ってでも。    g. 何故なら 動物たちは 草や茸が毒を持つものかどうかを 学問や知識としての学習習慣としての知らなくても その身のはたらきで知って食べ分けるから。言葉による物分かりでなくても 言わば身分け(見る分けをも含めて 身の感覚で知り分ける)が起きている。  (お) すなわち こうであるなら:    h.  かれら(動物たち)は 言葉として神を持たないとしても そこからただちに    ★ 人間以外の生物は神を持っていない    ☆ という見方だけで 世界を捉えることはむつかしい。のではないでしょうか?    i. 生物は この世界にあって 神という言葉を持つ持たないにかかわらず 永遠にちなんで想定した神なる場ないしそのチカラのもとに生きている。   どうでしょう?    6.言葉じたいは 人間がつくったのかも分からないが   永遠を一体どうやって人間がつくったというのか?      ↑  ★ 永遠も言葉が創り出した概念に過ぎないからです。  ☆ 《あこがれを持った》ことが 先ではなかったのですか? どうして人間はその憧れを持つに到ったのか? ここに問題を解く鍵があるのではないでしょうか。

noname#208724
noname#208724
回答No.4

そうですそのとおり有限、相対、経験です。 仮想宇宙論(家庭料理編) 私たちの永遠は、有限、相対、経験、に基づいています。そして非経験を神とします。それでもそのうちに非経験の一部を経験し、認識、確定すれば、その神は消えますが、すべての神が消えるわけではありません。神が生きるも死ぬも相対的な立場にある人間との関係に依拠していますが、かといって人間がすべてを認識できるかといえばそうではない。 かつてあの物理の巨人アインシュタインは言いました。 「神はサイコロを振らない。」 「わが宇宙は永遠に不変です。」 しかしそれはことごとく的を外れていました。彼は神の存在を相対的なものではなく決定的に認識できるものだと勘違いしていたからです。 この過去の反省から、いまの物理では神は私たちの内なる認識に相対して存在することになりました。つまり私たちの内に外の神が居たわけですから、神と人間は共存していることになります。よって人間が意識的に干渉しない限り、どっちにでも転ぶ可能性がある存在が神であり、物理的に当たる八卦と、当たらぬ八卦が同時に存在しても不思議ではない。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 私たちの永遠は、有限、相対、経験、に基づいています。  ☆ それは 分かりません。そういう見方も出来るかも知れませんが――つまり 有限の世界から無限の世界を想像において望み見るといった見方・すなわちそのような《永遠》の立て方も 出来るかも知れませんが―― それだけではないはずなのです。  もし《永遠》が《非知》として想定されたとする場合には むしろ《永遠》にもとづいてこの経験世界があるといった見方も 出来なくはないでしょう。  どちらとも決まらない。と思います。  ★ そして非経験を神とします。  ☆ ええ。  ★ それでもそのうちに非経験の一部を経験し、認識、確定すれば、  ☆ これは さだまった議論は出来ない問題だと思います。  すなわち 《非経験》は 《経験するものに非ず》なのですから そこを《非経験の一部を経験し》と言う場合には それ相当の条件をつけて議論に持ち出す必要があります。  ★ その神は消えますが、  ☆ それは――つまり 非経験の場なる神に〔むしろ神のほうからの動きだと言うべきですがその動きに〕わたしが触れ得たとすれば それは―― その想定じょうわたしは神と一体である状態になったと わが主観の内にあっては 感じるかも分かりません。だから そのように自己表出して 他人にも自己表現するかも知れません。  かんたんに言って ただしその《神体験》は わたしの主観の問題にとどまります。外にでかけるわけには行きません。表現の自由で 他人にしゃべることは出来ますが(そしてそれ相応に互いに対話も出来るかも知れませんが) その主観内容が 共有されうることは出来ませんし 普遍的であるとは定まりません。なぜなら 神体験と非知なる神(あるいは霊)とは ふたつの互いに別のことですから。  ★ すべての神が消えるわけではありません。  ☆ 言ってみれば 神はすでに・つねに《消えて》います。《隠れたる神 デウス・アブスコンディトゥス》にとどまります。それゆえ もしそうとすれば 《遍在》なのです。  ★ 神が生きるも死ぬも相対的な立場にある人間との関係に依拠していますが、  ☆ ですから その場合の神は あくまで《精神において想像によってかたちづくった概念また観念としての神》です。  この観念の神は そのようにつくられた時からすでに《死んで》います。あくまで《観念》であり観念でしかありません。お人形の神です。おもちゃの神です。  まぁ 譲歩すれば 《わたし》の信念〔と成った観念や理念〕として《わたし》の主観に関する限りで《生きて》いるかも分かりません。というのも その信念がワタシをしてじんるいにとって有益で偉大な仕事を成さしめる場合があるからです。  ★ かといって人間がすべてを認識できるかといえばそうではない。  ☆ これは 神体験の有る無しにかかわらず はじめからそうです。  ★ 彼(アインシュタイン)は神の存在を相対的なものではなく決定的に認識できるものだと勘違いしていたからです。  ☆ ですから 既知でも未知でもなくまた不可知でもないのが 神です。知り得るか知り得ないかが 人間には知り得ないナゾとして定義され想定されるのが 神です。非経験の場です。これをわが心に受け容れたときには 心に《非思考の庭》が成ります。これが 信仰の動態です。なかば文学的なレトリックのごとくに神が・その霊がやどるといった表現で伝えられて来たそれです。  ★ いまの物理では神は私たちの内なる認識に相対して存在することになりました。  ☆ これは どうでしょう? その文字どおりの内容としては 違いますね。《相対的》だと 《非知》ではないからです。  ★ つまり私たちの内に外の神が居たわけですから、  ☆ 《外の神》というのは すでに触れた《観念の神》が しばしば組織宗教としてあるいは文明として《普及》したときには 社会の成り立ちとしてのその共同自治がいわゆるお二階さんたる為政者によって社会力学的におこなわれることにおいて《外なる神――観念の神であるだけではなく 外から上からおしつけられたいわば社会という関所をとおる手形のようなシルシである外の神――》であった。というに過ぎないでしょう。  ★ 神と人間は共存していることになります。  ☆ これは ひと言で言えば 《クウキ教》ですね。(ヨーロッパ社会では 組織的な権限の関係によって制約を受ける規則≒クウキ でしょうか)。    その場その情況――そして さらにウラへ回れば けっきょくボスの意向〔を体得したその場の人間〕――としてのクウキのもとに観念の神と人間とが共存している。ということでしょう。おままごと ですね。観念の神は おもちゃの神でもあります。これが よく効くようです。人間社会にとって。  ★ よって人間が意識的に干渉しない限り、どっちにでも転ぶ可能性がある存在が神であり、物理的に当たる八卦と、当たらぬ八卦が同時に存在しても不思議ではない。  ☆ それは 統計学の問題でしょう。あるいは さっき言った社会力学のもんだい。  その力学によれば けっきょく声の大きい者〔のいだく観念の神〕が あたかも悪貨が良貨を駆逐してのごとく たとえ思想内容として無効であっても 有力となって支配的となる。  クウキならば その複数のクウキ(派閥の主義主張など)が錯綜する力学の結果生じる情況というのは あたかも《自然において成る》ように見えるらしい。  どっちの派閥のほうにクウキがなびくかは あたかも賽が投げられた過程とその結果であるように映るのでしょうよ。

noname#208724
noname#208724
回答No.3

1.2.6.昔の人はいつか空が落ちてきて、この世界はつぶれて死んでしまうと思っていたかもしれません。しかし現代では数学が発展して、宇宙の膨張がもしかしたら永遠に膨張と収縮を繰り返す、ただの振動かもしれないと考え、それを数式化して永遠の宇宙を願ったからではないでしょうか。それはまずゼロの概念をもたらし、ついでマイナスの概念を作りました。4歩すすんで8歩さがる。又はすすんで過去に近づく。 An = (-2) ^ n この振動の式に仮の項を、どりゃーっと追加すれば永遠になります。 3.おっしゃる通り当てはめているだけです。 4.5.神は死んだか?。否、火鍋の中に神の意とした相補性として生きている。鍋の左半分と右半分が補い合って、ほど良い味に成っていることが、家庭料理研究における私の知りえた最新の宇宙理論です。光の速さは真空中での最高速であり、私たちの認識によってそれは私たちの間で確定された。神は私たちが認識したものだけを確定させて見せる。神は認識の深遠なところに入り口を隠したのだ。しかし悲しいかな私たちの認識によって認識の深遠を認識したと認識することは証明不可能である。あたかもそれは料理を盛られた皿が、その料理を食べることができないのと同義であろう。つまり今のところは、わからないということの骨子がわかったのである。 以上。464字 無学ながら家庭料理研究の一環としてコメントしました。

bragelonne
質問者

お礼

 振動の式はよく分かりませんでした。  ご回答をありがとうございます。  無限について 経験世界における限り無さのことをおっしゃっているように思います。  ★ 光の速さは真空中での最高速であり、  ☆ これは 経験事象としての可能無限だと考えられます。  ★ 私たちの認識によってそれは私たちの間で確定された。  ☆ 相対性としてですね。  ★ 神は私たちが認識したものだけを確定させて見せる。  ☆ 経験世界における事実の認識というのは 神と関係ないと考えます。  ★ 神は認識の深遠なところに入り口を隠したのだ。  ☆ それは 文学的表現ですね。表現の綾でしかないと考えます。    ★ しかし悲しいかな私たちの認識によって認識の深遠を認識したと認識することは証明不可能である。  ☆ 相対世界の中での比較は それとして出来るでしょうね。  つまり いかに深遠なものであっても それは 有限・相対・経験の世界での出来事です。

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     神を想定する手続きについて述べつつ 神は何でないかを次のように明らかにした文章をたたき台とします。  批判・修正・評言などなど 自由なご見解をお示しくださればありがたいです。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《信じる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《信じる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の領域に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神の作用にとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。この非経験の場が 非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。これをそのまま受け取ったというその行為を《信じる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。  8. どちらも互いに同等の《信じる》行為である。非思考の場のナゾを 思考の場でその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の場は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス ブラフマン アミターユス マハーワ゛イローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。  10. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  11. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  12. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて思考の場に降りて来ている。この仮りの代理の場をとおして 非思考の場を望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。  13. だから《おしえ》は 思考の場に属しており それが非思考の場の神だということはあり得ない。なのに教義を信じるという言い方をする間違いが見られる。    14.エトセトラ。エトセトラ。  15. まとめて 神は何でないか?   A. 神は 人間の精神ではない。   ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。   B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと    ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。     つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。

  • 神について何故ひとは哲学しないのか?

     せめて神についての勘違いをただしておくことまでは出来るのではないか?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは いっぱんに教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力    にかかわっている。      これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般をけっきょくは    信じるというおかしなことになる。  C. オシエを信じるという間違い。   ――オシエは 人間の言葉で表わされている。ゆえに人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。      やはり 精神主義的な人間信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っている間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。想像力の    産物であるに過ぎない。人間のつくった神でしかなく いわゆる近代人の    《人間の能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見られるのではないか。理念や観念としての偶像(つまりアイドル)がそこら中に見られます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても神の知恵についての仮りの表現でありそれとして観念の偶像であるのですから その偶像は偶像(仮りの表彰)として――扱えばまだしもいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。        *  同じく神は 何でないか? について考えます。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《しんじる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《しんじる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の場に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神のハタラキにとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。あるいは そこにやどる。  この非経験の場が わが心なる非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。  これをそのまま受け容れたというその行為を《しんじる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。どちらも《しんじる》である。  8. 神は存在すると見ても存在しないと捉えても どちらも互いに同等の《信じる》行為である。  非思考の庭なるナゾを 思考の緑野においてその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の庭は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. ○ (ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《心の明け》というのは 心がいろんな名のあらゆる神に対してあるいは《無い神》に対しても閉じられていないことである。  10. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス アッラーフ ブラフマン アミターバ マハーワイローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。全体としての一である。  と言うより 神が人間のつけたその名によってそれぞれ違っているということがあり得ない。  11. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  12. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  13. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。  物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて非思考の庭から思考の緑野に降りて出て来ている。この仮りの代理の場をとおして 神のナゾを望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。    14. だからオシエは 思考の緑野に属しており それが非思考の庭の神だということはあり得ない。なのに教義や宗教を信じるという言い方をする間違いが見られる。    15.エトセトラ。エトセトラ。  16. まとめて 神は何でないかまでは人間が明らかにしうるのではないだろうか。  さらなる探究へと 思いっきり自由なご批判をあおぎます。

  • 質問は、神が人間を創造したのか、いや、人間が神を捏

    造したのか? 今さらこうした二者択一的な質問をしたいのではありません。 本当に質問したいのは、その質問にある構造上の問題です。 だから信仰の話とは無関係です。 また、神の定義や想像力も必要ありません。 問題は 神が人間を創造したのか、人間が神を捏造したのか、 という形式の質問はできるのに、 神が人間を捏造したのか? と問うことが質問上の意味をなさないからです。 あたりまえですよね。 神が人間を捏造したと仮定したら、もはや人間はこの世にいない。 現に人間がいるから、その『仮定』自体が自動的に棄却されてしまう。 棄却されることによって『創造』という仮定がでてくるんです。 『神が人間を創造したのか?』 こんなふうに。 これって、構造上、インチキですよね。 先程の二者択一的質問に、『神が人間を創造した』『人間が神を捏造した』 とありますが、 人間だけには選択の自由が二つあるのに(※創造と捏造) 神には選択の自由が一つしかない。 つまり神は『人間を創造した』という選択しかない。 この時点で、この質問が公平な質問ではないことが明瞭なんです。 そこから芋づる式に『人間と神は公平ではない』とかなどという 論理が導けるのは、想像力ではなく、こうした構造があることから当然の結論です。 この構造について質問したいのですが 構造上あきらかなように、 歴史の古くから神が流行るのは当然ですし、 この構造が示唆してる決定的なことは、 これみよがしに私を信じなさい、と誘導してる構造そのもです。 この構造に公平性をもたせるなら、 どうしても『神が人間を捏造した』という現実に反する仮定 が必要不可欠であるにもかかわらず、 肝心のその『仮定』自体が人間に欠如している。 欠如してるがゆえに、『人間は不完全だが、神は全知全能だ』 とする結論も必然的にでてくる。 構造自体に公平性が欠如してるにもかかわらず、 人間が現にいるという事実によって『公平性』という 観念が構造のなかからもみ消され、 『信じるも信じないのもあなたの自由だ』 などという構造があたかも含まれているように見せかけている 構造が構造に含まれている。 選択の自由が与えられていない構造によってうみだされた 質問が質問として成立しないことは理性によって明瞭であるにも かかわらず、『人間が現にいる』という否定しきれない事実によって 構造が成立し、例の仮定を棄却できる最終的根拠はなんですか?

  • 神は ひとつである。

     神は ひとつである。――次の趣旨説明にてその当否・成否を問います。  (あ) 神は どんな名前の神を持って来ても・あるいは《無い神》を持って来ても すべて全体として ひとつである。  それよりほかにあり得ない。  (い) 人間にとって 神だという存在――または 非存在――が 同じひとつでないことのほうがおかしい。  (う) ただし オシエは互いに違っている。  (え) 《信じる(その神を心に受け容れる)》と《考える(因果関係や排中律にしたがって経験合理性にもとづき推論する)》とは 別である。  (お) 神は 《信じる・つまり 思考に非ず》として受け容れるものである。  (か) 《考え》て理解できる内容の神なら それは 人間の思考や想像によってつくられたものである。  (き) ただし 《信じる神》について その信仰――非思考の庭なる動態――にもとづき その定義や説明をほどこすことは有り得る。  (く) ということは この神についての定義や説明あるいはさらに神学であっても そのような文章表現やシルシなどはすべて 神を指し示そうとするための補助線である。  (け) ちなみに かみという言葉・文字・発音も 神について知るための補助線である。  (こ)  もしこの補助線としての説明書きを 神であると錯覚したなら それは 《思考や想像の産物》としての神が出来上がる。そのように人間がこしらえた神であるとなる。  (さ) このような観念の神は その作った時点ですでに 死んでいる。つまり思考の問題であり 観念にとどまる。そこに 言わばいのちは ない。――信念とは成りうるところの思い込みがある。有限の移ろいゆかざるを得ない果敢無い《いのち》はあるかも知れない。  (し) ○ 《信じる》と《考える》との区別 ~~~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (す) 《非思考の庭》においていだかれるのが 神である。名前は いかようにもつけられる。  (せ) 《思考の緑野あるいは感性の原野》において持たれる神は ただの観念の神である。人間がつくった神である。人間に理解でき認識しうるものであるなら わざわざ神という謂われはない。必要がない。せいぜい アイドルと呼ぶがいい。  (そ) したがって 《非思考の庭》においていだかれる神を イワシノアタマと名づけるなら それが 神である。イワシノアタマという言葉は ただの補助線に過ぎない。  (た) もし実際の鰯の頭を――ということは 感性や思考の対象となる事物としての魚であるものを――神としたなら それは 偶像としての神であり もしさらにこの鰯の頭を自分のあたまの中に想像し思い込み神としたなら それは 観念の神である。人間のつくった神である。

  • 神について

     1. 哲学として現実の問題をあつかいたいと思うとき この主題があいまいであると なかなか話が前へすすまないという事態になります。そこで:  2. 神について最小限必要なことがらを共有しておくことは 大事だろうと考えます。  2-1. ただしこれは 《神についての説明》の共有であって 《神そのもの》のではありません。神とわれとの関係は その人自身の主観の内面にとどまります。  3. たとえば次のような説明があります。  ▲ (アウグスティヌス:神のかんたんな定義) ~~~~~   物体のように 場所と時間によって可変的な本性が存在する。   また魂のように決して場所によらないで ただ時間によってのみ可変的な本性が存在する。   さらに場所によっても 時間によっても 変えられ得ない本性が存在する。これが神である。   (『書簡集』18・2  390年頃)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    4. ここから 次のように整理します。《物体》は 《感性》の問題であり 《魂》は 《理性ないし思考》のそれであり 《神》は 《非思考すなわち 信じる》の問題であると捉えます。  ○ 《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  5. あるいはつまり われわれ人間は 神をもひとつの概念として捉え その概念(ないし言葉)をとおして神を思うということがあるとしますと そのときわれわれの思いは とうぜんのことながら 永遠につづくわけではありません。  5-1. すなわち 人間の思いは――神という言葉を補助線として 何とか神を望み見ようとするときその思いは――かなしいかな・いかんせん 断続的であり 変化してしまうことがあります。  5-2. ところが 神は――と言って推測をたくましくするなら―― そういう思いの切断や変化 こういったことは起こらないと考えられます。  5-3. すなわち 神は うつろいゆくものではない。人間は変わりゆき やがて朽ちざるを得ないのですが 神は そうではない。  6. 最小限必要なこととして 以上のような説明内容は 一般にも共有され得ましょうか どうでしょうか。これを 問います。

  • 私は神になりたい

    私は神になりたい 神になる前に人間になりたい、私が人間である確証がほしい…。 人間とはなんだろう… 物質(肉体)と非物質(精神・心)で別けて考えてみた。 もし、サル顔の人がいるとしよう、 彼は紛れもなく「人」だ。 もし、身体までも限りなくサルに似た人がいたとしよう、 彼もまた「人」であろう。 なら、サルの身体に人の精神が宿っているなら、 身体までも限りなくサルに似た人とどこが違うのだろう。 その反対に、 人に限りなく同じ形に作られた牛や馬がいるなら、 あなたはそれをなんと呼ぶのだろう。 なので、私は人の定義を肉体ではなく精神にあると決める。 となると、人の精神、人の心は何を持って人のだと言い切れるだろう。 我らは、いったん人として生まれたら、 虐殺や殺人のような酷いことをして“人でなし”と言われ様とも、 その罪人を本気で人ではない生物として認識したりはしない。 つまり、道徳や倫理や規範や常識などは 単なる人としての正しい道を示すだけに過ぎず、 それが人の非物質的な部分を定義してるわけではないはずだ。 ゆえに、 私は人の定義を探している。 その答えを得るために、 私は今、神様に会うための道を歩いている。 彼に会った時、私は気づくのであろう、 今私は彼と同じ道に立っていることを…。 今日この瞬間は、赤ちゃんのはいはいにも及ばない、 お母さんの羊水の中で目にも見えない程度の 小さな細胞ひとつのもがきのような動きに過ぎないかも知れないが、 かつで、月へ宇宙へ届くことを信じて夢見ていた先駆者のように、 私の道のりはここから始まる。 その道に辿り着くために、私の人生は、あまりにもはかなく短い。 しかし、 その続きの道は誰かによってきっと究められるはずだと信じる。 同じ道を探している同士を求む!! (宗教の勧誘とか、どこかの宗教に入りたいつもりはありませんのでご了承ください)

  • 神について勘違いが多いのは なぜでしょう?

    神について勘違いが多いのは なぜでしょう?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。その理由をおしえてください。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般を    けっきょくは信じるというおかしなこととなる。  C. 同じく 教義を信じるという間違い。   ――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義的な人間    信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思ってい   る間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人間の    能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見受けられます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか?

  • 《神は死んだ》ってそれは いつ・どのように?

     Q1: 《神は死んだ》って言うけれど いつ・どのように死んだの?  Q2: むしろきみたちこそが噂する《全知全能》だと言うのに死んぢゃったの?  A1: いやいや。それは われわれがナイフで刺しころしたと言うのだけれど それはとうぜん 比喩ですよ。  Q3: ん? 死んではいないの?  A2: いやいや。要するに 昔は 神という概念が――つまり 神はただの概念ですよ―― 人びとの頭や心を 縛っていた。この呪縛が溶けたっていうんですよ。神は死んだってことは。  Q4: ん? それは 聞き捨てならない。いくつか疑問が出て来る。  Q5: ただの概念に全知全能といった飾りをつけて 人びとの思いや振る舞いを――倫理的によい方向へ(?)――導いていたと言うの?  Q6: 《神が生きていた》時に では 人殺しが起きたとしたら 神がその人の心を導き得なかったわけだ。だとしたら 《呪縛》はすでに《死んでいた》のではないの?  A3: いや まあ。神をころしたのだから そのあとは われわれは一人ひとりが 自分の頭と心と意志で生きて行くって言ってるんですよ。言ってるんですが それでは 心細いとすれば 《超人》とかとも言ってるんです。  Q7: 《力への意志》? っていうことは この超人や積極的なニヒリズムなる《概念》が 神に代わってわれわれを導くってわけかい?  A4: いやいや。きみは 気が早りすぎる。ちゃんと説明するから。つまり だから 言ってるんだ。    《ひとは 我れに還る》のが 一番だ。けれども その自己   還帰を果たしたと思ったらすぐに 脱線する。    やがてこの脱線が重なり 積もり積もって来ると 何ものか   がその《われ》におとづれて来る。    《われを見失うなかれ。還るべき心のわれにしたがいなさい》   と。  と。つまりこれを永劫回帰と言ってるんだ。人びとは――それは自由だが――勝手に解釈している。  Q8: ん? それぢゃあ 神の概念・神の理念とおんなじぢゃないか。神を再生させたんだ!? (チャンチャン!)  Q9: だけど 神は 概念ぢゃないよ。概念なら 人間が活かしたり殺したりすることができる。つまり 神は 生きる(生まれる)・死ぬとは 関係ないという話に成らなくちゃダメぢゃないの?

  • 神にかんする勘違いが 多いのは なぜでしょう?

     これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。その理由をおしえてください。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――そうでなければ 精神を持つ人間が そのまま 神であること   になる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力に   かかわっている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力   の一般を けっきょくは信じるというおかしなこととなる。  C. 同じく 教義を信じるという間違い。   ――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=   精神的な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義   的な人間信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っ   ている間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人   間の能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見受けられます。  偶像は偶像として――つまり 信仰内容としてのおしえを取ってみても それは 仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって 偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか?

  • 神様のことが知りたい

    皆さんこんにちは。 私はキリスト教に関して、まったくの素人で、神様に ついて、どなたか教えていただければ幸いです。 1、神様の人間に対する役割とは、どんなものでしょうか? 人間を幸せにするために導いてくださっているのですか? 2、神様とは実物があるのでしょうか?それとも精神的な もの(心の中の偶像)なのでしょうか? 3、神様を見た事がなくて信仰されているかたも、神様の 存在を信じていると思うのですが、その神様が存在する、 という根拠はなんなのでしょうか? 4、神様は信仰者を救ってくださるのでしょうか? また仮に通り魔などにより理不尽に死んでしまった人は、 信仰心が足らなく、あるいは信仰心が全然ないために、 神様のご加護を受けられなかったということでしょうか? 以上、素人ゆえ失礼な質問をしているかもしれませんが、 通常、私のような素人が疑問に思っている代表的な事柄 だと思います。 何卒よろしくお願いいたします。