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人は死ぬときこのよーな風景に出会うのではないか
<あの世の風景> そこは無限の広がりをもつ空間であった。 ただただ灰色の世界が果てしなく無限に続いていることが分かった。 そこには風もなく、音もなく、途方もなく静かな世界であった。 味も匂いもしない世界であった。 目も耳も鼻も口も全てが無用の世界であった。 もちろん空気もないが呼吸する必要さえない世界であった。 そこは物影1つなく如何なるものも存在しない完全無の世界であることが直ぐに分かった。 そこには自分の姿さえなかった。 そこには時間は存在せず、如何なる変化も、如何なる動きもない完全に静止した世界であった。 それが空間なのか平面なのか点なのか考えることさえ無意味であると気付いた。 そこは途方もなく安定した世界であることが分かった。 そこは如何なる変化も、如何なる動きも受け付けない途方もなく安定した世界であった。 そこは完全なる無の世界であった。 そこにおいては生前の行いなどありとあらゆるものが全て無意味であることが分かった。 これこそ正真正銘のあの世であることが分かった。 それと同時に途方もない安堵感と幸福感に包まれた。 暫くすると眠くなってきた。 もー何も考える必要はないのである。 そして眠入った。 もー永遠に目覚めることはあるまい。
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>私はあの世は無いと思っています。 もちろんあの世というものはありません。 あの世は無だからです。 無の世界とは存在しない世界ということ。 我々は死んで消滅するとき、生から死に移るとき、その刹那において一切が存在しない世界を一瞬垣間見るのです。 それがつまり無の世界の風景なのです。 そしてこの無の世界を通り過ぎることにより、我々の生は終結し完全に消滅していくことを知るのです。