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神が全知全能の造物主だと誰が言ったんですか?
purizunaの回答
- purizuna
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こんにちは、プリズナーです。 深夜ですみません。 yuniko99さんの回答を拝見して、「聖書」を用いられておられるようなので少し寄り道します。 元々、「神」という名詞は文字を残せる時代になって現れたもののようです。。 現在のキリスト教の旧約聖書の最古の原書には「神」ではなく固有名詞(どのような名前かは解読されていない)にて記されていて、解らないので、共通認識として「神」とし、わからないでは民衆の心が掴めないので「キリスト」さんが神の代理として担ぎ上げられたのだと私は認識しております。 ですから「神」と呼んでいるのは一般的にはキリスト教の世界に限るということのようですが、我々日本人は、どこの宗教の「主」も「神」として認識しているから始末がつかないのだと感じます。 分かりきっていると思いますが、仏教には「神」は存在しません。 「仏」=「仏陀」=「人間」。 ですから「仏教」は正確にはシュウキョウではなく、仏陀の哲学に基づくオシエが正しいと私は思っています。 また、新約聖書は、ローマ時代に編成(編集が正しいかもしれません)され、結局のところ時の権力者達の都合のよい分だけを積み上げて出来たものですから、「神」の言葉や教えではなく弟子と呼ばれる者達と時の権力者の主観が多く含まれた道徳的物語の本というのが私の見解です。 ちなみに聖書は勉強ついでに全文写本し英語訳と比較してみました。 それで気付いたのですが、日本語訳聖書は英語訳聖書と比べるとニュアンスが違うし、韓国人の方に伺った韓国語訳もやはり少しニュアンスが違います。 ですから、原語訳→ギリシャ語訳→ラテン訳→英語訳→日本訳と翻訳される間にどれだけの誤訳と、訳した人物の主観的感性が入り込んでいるのかわからないわけです。 こうなると、「神」の存在を示す根拠が無いという結論になってしまうので、私は「神」はいないと判断し、結果、「無神論者」を装う事になった次第なのです。 ここで前回の続きに戻りますが、 (2) 《かみ》を《信じる》とは? ――《非知なる非経験の場》を心に受け容れること―― 「かみ」を信じていないので不問、もしくはbragelonneさんの哲学的意見に同意。 (3)、(4)も同じ 以降は継続して考察中なのでまたということに致します。
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ええっとですね。まづは ご回答をありがとうございます。 少しく認識が異なるものを持っていますので 書きます。 旧約ヘブル語聖書では やはり《神》〔という日本語に当たる語〕が使われています。 ▽ (創世記 1:1) 初めに、神(ハー・エローヒーム)は天地を創造された。 http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Gen&c=1&t=KJV#s=t_conc_1001 ☆ あとで アドナイ(わが主)やあるいは《エフイェー(わたしは有る)》などなどの呼び名や名前そのものも出て来ますが 《かみ》に当たる語は初めから使われていると思うのですが。 セム民族のあいだでは 神は エルでした。これをもう一音 子音を増やして エル →(ヘブル語) エローホ →(アラブ語) イラーハ としました。さらに定冠詞を添えますので ヘブル語 エローホ ⇒ ハー・エローヒーム アラブ語 イラーハ ⇒ アル・イラーハ > アリラーハ> アッラーハ となったようです。ヘブル語は 複数形を用いているものです。 定冠詞は ハル( hal )だったようで へブル語は 末尾の《 -l (L) 》を落として ハーとなり アラブ語では 語頭の子音( h- )を落として アルとしたようです。アッラーハは the God と言っています。 キリストは ヘブル語のメシア(マッシーアハ)を意訳したものです。 もともと王に就く者に 祝福の意味で 膏(あぶら)を塗ったようです。《膏塗られた者》であり 神の恩寵を受けているといった意味があるのでしょう。 これが 救世主の意味に用いられ イエスもその名で呼ばれ のちに――復活したと言い伝えられましたので―― 神の意味にももちいられるようになった。のだと思います。 ブディズムにおいて ゴータマ・ブッダが いわゆる無神論に立つというのは おそらくおっしゃるのと同じように理解しています。ただし後世において ブディストたちは すでに有神論に立ったごとく 神を たとえばアミターバ・ブッダ(阿弥陀仏)として立てたと考えます。 ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~ A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空・シューニャター・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(=有神論) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) / マハーワイローチャナ(大日如来) 仏:如来蔵・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) G. ユダヤイズム:霊霊一如 霊:ヤハヱ―;(エローホ=神) 霊:われ H. イスラーム:霊霊一如 霊:アッラーフ(イラーハ=神) 霊:われ この《梵我一如》なる信仰の類型は 《非思考の庭》にて成っているという想定です。どうでしょうか。 このように神とわれ(人)との――霊における―― 一体が どの名の神の信仰にも当てはまると 潜勢的に言ったのは イエス・キリストだと捉えています。(わたしが このように図式化しました)。 シュウキョウは この信仰を言葉にし概念として捉えさらにそこからオシエをみちびき出した。しかも 集団として成り立った。ものと思います。 聖書の翻訳の問題は やはりおっしゃるように ありますし 大きいでしょうね。 でも いまでは ヘブル語やギリシャ語の原典から訳されてはいます。 ちなみに翻訳の問題がからむ問題を 次の質問で取り上げています。 【Q:ひとは 神の霊が去っても 心のすなほにて起ち上がる】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8931399.html 詭弁を弄しますが ★ 「かみ」を信じていない ☆ というのは 《神を信じないとして神にかかわっている》 つまり《神を信じないと信じている》 つまり《無い神を受け容れ信じている》のだというのが 信仰という動態の中身だと思っています。 無い神を信じる場合には 神についてはもうそのあとでは 持ち出すこともない 神はどうでもよい。ということになる思想(つまり 生活態度)なのだとわたしは捉えています。 こういう見方をする人は ほとんどほかに誰もいないと思いますので 突拍子もない説だと言って 批判を受け続けています。 この質問は そろそろ締めようかと思っていました。 もし締めた場合にも ほかに質問を挙げていると思いますので そちらへご投稿くださればよいと思います。 * ヤハヱ―(ヤフヱフ Yahweh )は エフイェー(われは有る)と同じ語源で 使役形として《かれ(神)が〔万物を〕有らしめる》と言っているという解釈があります。定説はまだないようです。