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ヒラメキは どこから来るのか?

 直感また直観と呼ばれるヒラメキは:  (あ) それまでの・あくまで人間の人間によるいとなみとしての思惟や行動が蓄積された記憶の中からであるか。  (い) いや 経験事象――世界を知覚し認識し加工する感性や理性にかかわる領域――を超えた場とチカラがかかわっているとしか考えられないか。  言いかえると:    (あ) 経験世界における出来事であるに過ぎないか。  (い) いや 経験世界を超えたところから〔と思われる〕か。  

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回答No.13

あなたの回答にいちいち反論するのは面倒くさいので、いくつか気が付いたことを参考までに回答します。 「重力について」 物体に重さがあり、それが落下することは古代から観察によって知られていました。 問題は、なぜ落下するのか、なんです。 それが分からない。 古代ギリシャには世界は4つの層からなり、下から土、その上に水、その上に空気、その上に炎、からなるものと思われていました。 そして大地の上には恒星天球というドーム状の天蓋が覆っており、その天球の真ん中には太陽があり、その周りを星々が取り囲み、そのドームは1日に1回地球の上を回転していると思われていました。 そして恒星天球の上は神々の住む世界だと考えられていました。 天上の世界と地上の世界は別世界で、その運動は天の世界は永遠の運動、地上の世界は静止しているのが本来で、運動は例外で、物体は強制力なしには動かないとみられていました。 そして石のように重い物体は本来のトポス(場所)が大地にあるから、上に投げられた石は本来のトポスに帰ろうとして落下し、地上に至って静止し、羽根のように軽い物体は本来のトポスが空気にあるから、上昇しようとすると考えられていました。 上に投げられた物体は空気の中の「媒質」によって、物体に次々に運動を伝えて、リレーしてゆくものと考えられ、放物線を描くが、その勢いが衰えるので、円を描いて地上に落下してゆくと考えられていました。 したがって、アリストテレスは「真空」の存在を否定しました。 「真空」では物体は運動ができない、と。 このアリストテレスの「自然学」の運動論は自然の観察と一致し、それをうまく説明するものだったので、17世紀まで基本的に正しいものとして信じられてきました。 17世紀の「科学革命」と言われるものは、このアリストテレスの天体論と「自然学」の運動論をひっくり返したので、ガリレオが「神の作った自然という書物は数学の言語によって書かれている」と言ったようにルネサンスの数学思想を自然に適用して、それまでの自然観・天体観をひっくり返すものでした。 しかし、ガリレオも、ケプラーも、運動というものは円運動が基本と考えていて、しかもガリレオも、デカルトも「真空」というものを否定していて、「真空」の存在が発見されたのは彼らの後のボイルとかパスカルを待たねばなりませんでした。 デカルトは哲学者である前に、何よりも数学者・自然学者であり、しかも彼は解析幾何学の創始者です。 デカルトは世界を質的な心と空間的な身体とに分離し、空間から質的なものを排除することで、アリストテレスのいう四層からなる空間を否定し、地上の空間も天上の空間も、差別のない一様なものと考え、みずからの解析幾何学を適用して自然のメカニズムを解明してゆきました。 アリストテレスは地上の空間と天上の空間は別で、別の法則によって運行していると考えていましたが、デカルトによって初めて、地上も、天上も、等しく数学的に考えられるものとしました。 こうしてデカルトはニュートンの古典力学の地ならしをしたわけです。 デカルトは言います、 「アリストテレスは物体は静止が本来だと言ったが、逆であって運動しているのが本来であり、静止は例外である。物体は、それを妨げるものがなければ永遠に直線的に運動を続ける」と。 こうしてデカルトはガリレオやケプラーが円運動が基本だというのを否定し、運動は直線運動が基本であり、円運動は直線運動に解析できるのであり、しかも物体は運動しているのが本来だということで、「慣性の法則」を発見しました。 デカルトは、それを実験によって知ったのではなく、数学によって、それを証明したのでした。 「慣性の法則」は「真空」がないと実験できませんが、ガリレオも、デカルトも「真空」の存在を否定していたので、実験ができませんでした。 ガリレオは有名な「ピサの斜塔」から石と羽根を同時に手を放して実験し、「落体の法則」を発見しましたが、しかし、なぜ重いものが落下するのかについては分かりませんでした。 それが解明されるには17世紀の末のニュートンを待たねばなりませんでした。 単に物体が重いと分かっていただけでは、重力の発見にはつながらなかったのです。 それを発見するには「飛躍」が必要でした。 「ヒラメキはどこから来るのか?」 この問題は、これまでさんざん述べてきましたように、私は唯物論、あなたは唯心論・観念論で、まったく考え方が違うので、議論にはならないと思います。 「どこから来るのか?」という問いは、ワナであって、あなたはそこから「非経験の庭」とか「非経験の場」というのに議論を持って行きたいという企みがミエミエで、私はそのワナにはまりたくありません。 たぶんあなたも、私も思考というものが実体的に存在するものではなく、「機能」だということでは、共通していると思いますが、私は思考が何の「機能」かといえば、脳の「機能」だと考えています。 そして脳は神経・ニューロンと化学物質・シナプスの膨大なニューラル・ネットワークと考え、心というのは刺激・インプットと反応・アウトプットを中継し、変換する装置だと考えていますので、脳にはどこにも理性だとか、精神だとか、私というものは存在しないと思っています。 心とは、その脳の活動に伴う随伴現象とか、派生体です。 デカルトの心身二元論は、すでに同時代のドイツの皇女エリザベートからの書簡の質問で、心と身体が相互作用するためには接点とか接触面がある必要がありますが、いったい非・物質である心と物質である身体がどのようにして接点があり、接触しているのでしょうか、と問われ、困惑したデカルトは脳の前頭葉の松果腺で心と身体は接触しています、と答え失笑を買いました。 さらに、18世紀末に、カントの「純粋理性批判」の弁証論の「実体論的誤謬推理の批判」で、デカルトの心が実体だとする考えが完膚なきまでに論破されると、以後、デカルトの心身二元論は維持できなくなり、今では誰ひとり、デカルトの心身二元論を正しいという哲学者はいなくなりました。 現代のアメリカの「心の哲学」のデネット、チャーマーズという哲学者にとって、心というのは脳という物質的なものに基盤を置く、「機能」だと考えられています。 脳状態に対応する心的状態があり、それが心だと考えられています。 これが現在の私の心に対する考えであり、それが正しいものと考えています。 だから最初に申しあげたように精神というものは存在せず、それは概念の構成物だと申し上げております。 しかも心にしても、それは存在するものではなく、脳にもなく、どこにもあらず、「どこにも由来する」ものではないと思っています。 それは「ヒラメキ」も同じです。 あなたの「ヒラメキはどこに由来するか?」という質問はワナだから、私はあなたのワナにはまりたくありません。

bragelonne
質問者

お礼

 ふうむ。講義に向いていますね。  ご回答をありがとうございます。  講義だとかあるいは これこれはそもそもどういう謂われがあって一般にどう捉えられているのか――つまり 百科事典の解説ですね――には とんとわたしは向いていません。百科事典を講義と同じ列に持って来ると 嫌な顔をするかも分かりませんが まぁ そういう対比です。  デカルトって そんなに偉かったなぁ?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   「ヒラメキはどこから来るのか?」  この問題は、これまでさんざん述べてきましたように、私は唯物論、あなたは唯心論・観念論で、まったく考え方が違うので、議論にはならないと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ わたしは 実存思想ですよ。本質には実存が先立つと思っていますから。唯物論も唯心論もそういう本質論の系譜は採りません。  ★ 「どこから来るのか?」という問いは、ワナであって、あなたはそこから「非経験の庭」とか「非経験の場」というのに議論を持って行きたいという企みがミエミエで、私はそのワナにはまりたくありません。  ☆ まぁ 質問趣旨を書いてから 確かに誘導尋問みたいだとは思いましたが でもよく考えてみると ねらいは そうでもないんですよ。  やはり《ヒラメキを すべて人間の努力と能力の範囲内に閉じ込める》思想 これはおかしいと言いたかった。   《人間のみ主義》の思想に異を唱えることです。《飛躍》などは一切ないという考え方を 根底からゆるがすこと。これが ねらいです。  心の場所は どこか? これは どうでもよいと思いますね。言いかえると 存在の全部 人格の全体です。そして それが《わたし》でもあります。  (わたしは 心か? 心は わたしか?――いえいえ。そうではなく 《存在・人格》が《わたし》です。そこに《心》は――どうしても場所を決めろというのなら―― 場所を持つのだと言っています)。  (《わたしなる存在 人格なるわたし》に 心は場所を持つと言いましたが そのハタラキを起こしているのは とうぜんのごとく 脳の神経組織でしょう。しかし そのように一つの部位に特定して 心の場所だとはあまり見たくはないですね。だって わたしなる――心的現象をともなって動く――存在は やはり身と心との全体として捉えてなんぼの世界だと思うからです)。  デカルトが ニュートンの力学を準備したのですか? これが引っかかっています。

bragelonne
質問者

補足

 《飛躍》に一票と行きましょうか。

その他の回答 (12)

  • kyo-mogu
  • ベストアンサー率22% (3398/15359)
回答No.12

ひらめきは、突然頭の中でノックしてやってきます。でもせっかちなので気がつかないとどこかへいっていまわれるかたです。  常に気付けるようにしていないと入ってくれません。  でも、入ったとしても、我が儘なので直ぐに帰っていますので、迎え入れるように勉強してないと無理でしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ でも、入ったとしても、我が儘なので直ぐに帰っていますので、迎え入れるように勉強してないと無理でしょう。  ☆ この段階は――ノックがあって迎え入れて入った時点からあとは―― 思考の問題になっているでしょうね。  《迎え入れる》ためにも 思考しますが 直感たるヒラメキは何らかのかたちでイメージを得させてくれています。そのイメージが消えてしまったときには もう仕方がありません。いかに研ぎ澄ました知能であっても 消えてしまえば 仕方がないと思われます。  ですから 迎え入れることができたかどうかがまだあやふやな場合でも そのイメージの正体についてやはり《考える》。つまり考えて どういう意義があるものなのかをやはり考える。  ですから 直感としてのノックがあった そしてこれをイメージとして捉えた。ここまでが ヒラメキとしての領域でしょうね。あとは 思考つまり人間の側がおこなう努力の問題になるのだと。  ★ ひらめきは、突然頭の中でノックしてやってきます。  ☆ 《突然》ということは 予期せぬかたちで でしょうね。それ以前までに思考を重ねてさまざまに展開して来たその思考 この人為や人知とは 一たんとしてでも切れているでしょうね。  《ふと 思わず》 どこからかノックがあった。――ですから これは 言わばあらぬところから・ナゾとしてやって来たというのが ふつうの受け留め方なのではないか。こう思われ それを問うています。  ありがとうございました。  

回答No.11

ここで「仮説的推論・アブダクション」について、それがどういうものか説明しておきましょう。 ふつう推論と呼ばれるものには演繹と帰納の二つが知られています。 たとえば次のような推論です、まず、演繹から、 人間がリンゴを食べると赤くなる。 ソクラテスは人間である。 よって、ソクラテスがリンゴを食べると赤くなる。 つぎに帰納、 ソクラテスはリンゴを食べて赤くなった。 プラトンはリンゴを食べて赤くなった。 よって、人間がリンゴを食べると赤くなる。 これに対してアブダクションは、 ソクラテスはリンゴを食べて赤くなった。 プラトンはリンゴを食べて赤くなった。 リンゴには人間を赤くする<色素>が含まれている。 演繹・帰納・仮説推論・アブダクションのうち、厳密に必然的といえる推論は演繹だけで、帰納は経験に基づいた推論で、蓋然的な知識しかもたらさない。 一方、仮説推論・アブダクションは一見すると帰納と似ているけど、<色素>という未知の存在を予測しているという点で、帰納とは決定的に違う。 観測された事実からは<色素>の存在を予測させる要因はどう見ても含まれない。 これは推論する者が想像力を用いて、<仮説>を創造して「ヒラメイタ」ものである。 帰納はたくさんの事実から一般化した結論を導き出すものだけど、さらにその原因を説明する<仮説>を構築するような推論が仮説推論・アブダクションと言われる。 リンゴが落ちたという観察からは、「重力」は演繹できない。 また、帰納は、このリンゴが落ちた、あのリンゴが落ちた、そこから一般的にリンゴは木から落ちるものだという一般的なことしか出てこない。「重力」の発見にはつながらない。 しかし、仮説推論・アブダクションは観測の事実からの「ヒラメキ」による、飛躍であり、そこに帰納との決定的な違いがある。 仮説推論・アブダクションは特別なことではなく、誰でも普通にやっていることで、理性だとか精神を必要とせず、結果から原因を推測するもので、たとえば体がだるくて熱があったりすると、私たちは風邪を引いたのがその原因だろうと考える。 それが仮説推論・アブダクションで、あなたでも日常的にやっていること。 そして現代の科学の方法でもある。 仮説を立てて、それを実験によって検証する、それが仮説推論・アブダクション。

bragelonne
質問者

お礼

 ちがうよ。――まづは ご回答をありがとうございます。  アブダクション(仮説法)がちゃいます。  たとえば   1. 結論( Result ): 一口にリンゴと言ったって それはいろいろだ。〔だからたぶん世界にはもっといろんな種類があるのだろう〕。  2. 大前提( Rule ): 食べるものには たとえば外見と中身の味とがある。  3. 小前提( Case ): 王林と呼ばれるリンゴは薄緑色だが ふじは赤い。シナノゴールドという黄色もある。また王林は甘いが ふじは酸っぱい。シナノゴールドは 特徴が分からない。  ちなみに  ディダクション(演繹法): ルール→ケース→リザルト  インダクション(帰納法): ケース→リザルト→ルール  もっとも  ★ 仮説推論・アブダクション  ☆ と言って《推論》とことわっているので そこから違いが出て来ている。ただし アブダクションとは言っている。    ★ 観測された事実からは<色素>の存在を予測させる要因はどう見ても含まれない。これは〔* 仮説推論・アブダクションの場合にあっては〕推論する者が想像力を用いて、<仮説>を創造して「ヒラメイタ」ものである。  ☆ どうでしょうかね。この場合 すでに《赤い色》は観測しているわけです。そこからの問題になっているとは言えるのですが どんなもんでしょうかね。  これは みなさんに判定してもらいましょうか。  赤い色を観測しているという段階から 色素というものをみちびき出すのは 仮説でありヒラメキである。かどうか?  ★ リンゴが落ちたという観察からは、「重力」は演繹できない。  ☆ モノには《重さ》があるということは 分かるようになるし すでに分かっているとは思われますが。というイヂワルは言っておくべきでしょうね。  ★ しかし、仮説推論・アブダクションは観測の事実からの「ヒラメキ」による、飛躍であり、そこに帰納との決定的な違いがある。  ☆ さて このヒラメキは どこから来たのか?  次にお答えがあるようです。  ★ 仮説推論・アブダクションは特別なことではなく、誰でも普通にやっていることで、理性だとか精神を必要とせず、結果から原因を推測するもので、たとえば体がだるくて熱があったりすると、私たちは風邪を引いたのがその原因だろうと考える。  ☆ ここには マチガイだと思われる部分があります。  1. ヒラメキに《理性だとか精神を必要とせず》は そのまま趣旨説明の口調から質問者がすでに持っていると分かる結論です。わたしも そのように捉えます。  2. (つまり ヒラメキは 《非思考の庭――信仰の動態――》からやってくるというのが 具体的な結論ですが この庭は 思考の緑野(つまり理性を擁する精神)や感性の原野――心と身――からは別建てに成っているはずですから。はずというのは そもそも信仰の対象が 神という想定に成るものだからです)。  3. 推論は《誰でも普通にやっていること》であるでしょうが ヒラメキを得ることは まづ人間が意図して意識して頭で考えることによってではありません。意図や意識や思考をつまり理性や精神を超えたところで起こるものです。    4. 一度得られたヒラメキから今度は思考をとおして得られたあたらしい知見 これは その知見として思考の問題と領域におさまったあとでは 《誰でもふつうにその概念や理論内容を認識し言わば加工している》とは確かに そのとおりだと言えることです。  5. 熱がある→風邪が原因ではないか。この仮説による推論は 大きくは直感としてヒラメキに入るかも分かりませんが ふつうは そうは言わないでしょう。ふつうは 風邪は何が原因なのかについて ヒラメキを俟って研究することがある。といったことでしょう。  ★ 仮説を立てて、それを実験によって検証する、それが仮説推論・アブダクション。  ☆ なおイヂワルをしましょう。  仮説を立てるときに けっきょく(あ) ヒラメキによるか (い) 演繹法によるか (う) 帰納法によるか があることでしょう。  こまかい発想というものは さらに演繹や帰納の過程でも現われるかも分かりません。その発想ということは だいたいヒラメキの部類でしょう。

回答No.10

全く知らない事を「ひらめく」事はない。 どのように新しく感じるものも、その抽象的要素において 既成のものの寄せ集めだ。 どこまで深く掘り下げた「抽象」化であるかによって、 創造性の大きさに違いはあるが。 具体的な対象経験の蓄積において、属性を分解し抽象化して 再構成する事で、「新しい具体的なもの」は創造される。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  仮りにヒラメキというものが  ★ 既成のものの寄せ集め  ☆ でしかなかったとしましょう。  だとしたら・だとしても その《寄せ集め》の仕方は それまでになかったことなのでしょう。  これとあれとを寄せ集めるという発想は なかったことなのでしょう。  ★ 属性を分解し抽象化し〔たもの――記憶としてあるものごと――をヒラメキにおいて寄せ集めそれらを〕 再構成する事  ☆ はすでに思考の領域に入って来ています。ヒラメキから離れて来ています。

回答No.9

あなたは、トンチンカンというけど、仮説的推論というのはアナロジーなんで、重力と磁力が同じものでなくても、比例関係にあるものとして推論するのだから、何だってかまわないんです。 前の二項と、あとの二項が類似していればいいんです。 その内容は問わないんだから、磁力であろうと重力であろうと。 そしてあなたはヒラメキがどこに由来するのか? と言っていますが、その質問はあなたにお返しします。 私が、「あなたの言う理性とか精神はどこに由来するのですか?」という質問に答えなかったように。 理性や精神は脳に由来するのですか?と。 それにあなたは答えてくれましたか? 答えられませんよね? だって脳は神経・ニューロンと化学物質・シナプスの膨大なネット・ワークで、その脳には理性も精神も存在しないのですから。 その脳のどこに理性だとか精神があるんですか? あなたはそれに答えてくれませんでした。 それと同じです。 あなたはヒラメキが、精神、そして究極には神に由来すると言いたのでしょうが、私はあなたのようなキリスト教徒ではないから、その誘導尋問には引っ掛かりません。 精神という言葉は戦前に「日本精神」とか、「大和魂」なんて言われて、「日本精神」とか「大和魂」があればアメリカの物量を敗れると言いましたが、日本は物の見事に敗北し、以来、精神だとか大和魂なんて言う人はいなくなりました。 それなのに、あなたが精神・精神と連呼しているところを見ると、まったく時代錯誤か、戦前の「亡霊」がよみがえってきたような悪夢の再来のように私には思えます。 ヒラメキガどこに由来するのか、と聞く前に、精神とやらがどこに由来するのか、答えてくれませんか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 「あなたの言う理性とか精神はどこに由来するのですか?」  ☆ 誤解があったようです。  わたしは 精神や心が どこかの場所に これこれこういうものとしてありますと言ったことはありません。    ハタラキだと言っています。記憶も知解も意志もみな ハタラキです。しかも 神経組織等の身と一体だと言っています。見落としたのではないのですか?  どこに由来するかって言っても そういう身と心とから成る自然本性として生まれてくるとしか答えられないでしょう。  神が創造し 生まれるときにもその神のチカラが作用しているとでも言って欲しいのですか?  そんなことは 分からないでしょう。《非知》なる神をいったい何だと思っているのですか?    神が人間に分かるとでも思っているのですか? よほどおめでたいと言わざるを得ません。もっとわたしの言っていることをしっかり把握してください。    わたしは 水による洗礼は受けていません。どこの教会にも属していません。そういう意味でクリスチャンではありません。  宗教組織は要らないと言っています。組織宗教は 信仰の自殺行為である。オシエというのは 信仰という蝉の抜け殻であると。    あと 《精神は 神ではない》と口を酸っぱくして言っているではないですか。  国民精神総動員が そんなに好きなのですか?  ★ ヒラメキガどこに由来するのか、と聞く前に、精神とやらがどこに由来するのか、答えてくれませんか?  ☆ 誤解というより きちんとわたしの言ったことを読んでいないのでしょう もう。

回答No.8

今回は下手に回答すると営業妨害だと考えるよ。 N4さんの回答だが、 そう言う事は彼が自分で質問を打ち立てて宣戦布告すりゃいいんだ。 思想にも信教にも自由があるのに哲学には無いのですか? こんなかんじでだ。 私は自由を与えられた者は所詮自由ではないと考える。 したがって私の回答は、哲学に君達の場合は自由は無い。

bragelonne
質問者

お礼

 《営業》をやってんの? 《営業》なの?  ご回答をありがとう。  ええ。それで 何だっけ。  いちばん下手な回答は:   まあまあまあ やっこさんも 考え直して いまいちど投稿しようと思い投稿して来たのだから。  まぁ 自由 自由だとか 神の目的だとか 理想だとか 煩悩から解脱したとか したいとか 能書きを言う者にかぎって 中身がうすい。んぢゃよ。  あんたも 言わないことに限るぜ。

回答No.7

あなたは前の質問に対する私の回答に対して、経験の蓄積は何も新しいものを生み出さない、それを生み出すのは理性とか精神だというようなことを言っていましたが、たしかに演繹的推論は分析的推論ですから、主語にあるもの以上の知見をもたらしませんから、あなたの言うとおりでしょう。 しかし、推論には帰納法的推論のほかに、チャールズ・パースのいう仮説的推論・アブダクションというものもあります。 そして帰納法的推論は経験の蓄積から、それを比較考量して一つの結論を導き出すのですから、経験の中に無かった新しいものを見出します。 また、パースのいう仮説的推論は、発見術と言われるように、ニュートンがリンゴが木から落ちるのを見て、万有引力の法則を「ヒラメイタ」のも、この仮説的推論・アブダクションに基づいたものでした。 この仮説的推論は帰納法的推論と違って、四項関係に基づき、既知のものから未知なものを推論する方法です。 山本義隆の「磁力と重力の発見」という本によれば、16世紀のギルバートの「磁力について」という論文に刺激を受けて、ニュートンはそこから万有引力の法則を発見したと言っています。 すでに、磁石が金属、中でも鉄を引き付ける力があることは知られていました。 だけど、ギルバートは、それがなぜなのかは分かりませんでした。 仮説的推論は四項関係といいましたが、磁石と鉄の二項と、地球とリンゴの二項を、磁石が鉄を引き付けることから、地球がリンゴを引き付ける、と推論したのです。 だけどリンゴは鉄ではないことから、地球はすべての物体を引き付けるのではないか、と推論し、そこからニュートンは万有、つまりすべての物を引き付ける力が地球にあることを発見し、それを万有引力と名づけたのです。 この仮説的推論は、一名、連想法といい、新しいものを発見する方法で、私たちが日常的にやっていることですから、あなたの言うように「新しいものを生み出すのは理性とか精神」によるものではありません。 デカルトの発見した「慣性の法則」も、またボイルの発見した法則も、科学的発見と言われるものは帰納法や仮説的推論によって発見されたもので、特別なものではなく、私たちの経験の延長にあるものです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 仮説的推論は四項関係といいましたが、磁石と鉄の二項と、地球とリンゴの二項を、磁石が鉄を引き付けることから、地球がリンゴを引き付ける、と推論したのです。  ☆ とんちんかんなことを言います。  磁力と重力とは違うのではないのですか?  もし別のものだとすれば そのヒラメキは 適当な事例ではないと考えます。  それに 仮説法・アブダクションは すでに得た命題や理論を論文において説明し証明していく手続きの問題ではないのですか?   ヒラメキは その《すでに得られた命題》をみちびいた直観のことです。  《磁石と鉄の二項と、地球とリンゴの二項》に互いに相似形を見たというのは 推論の問題ではないのですか?   もっと細かく言うなら それぞれの二項一組を互いに引き合わせるという発想 これは ヒラメキであるでしょう。しかし そこに磁場か何か知りませんが 同じチカラのはたらく関係があるだろうというのは すでに思考としての推論だと思うのです。  その発想は ヒラメキであるとして ではその直感は どこから来たのか? という問いであるはずです。  どうでしょう。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10466/32910)
回答No.6

#1さんがおっしゃることがごもっともだと思うけれど、なんでこんなに支持されないんですかね・笑? フェルマーの最終定理というやつがありましたが、これを主婦が解くなんてことは絶対にありません。アインシュタインが相対性理論を構築できたのも、圧倒的な物理学の知識がベースとしてあったからです。だから、ベースとなる知識がない分野において天才的ひらめきは生まれないと思います。 しかし、その分野の知識があればあるほどひらめきが生まれるわけでもありません。知識はあるけれど新しい発想ができないのがオタクの特徴です。 ひらめきは、その人のその専門外の知識や経験が専門分野の知識や経験と衝突したときに生まれるのではないでしょうかね。だからよくひらめきはぼーっとしていたときに浮かんだとかテレビを見てるときにふと思いついたとかいいますよね。会議室で煮詰まっているときとか、カンヅメで勉強しているときには生まれません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  No.1のご回答については そのお礼欄にてやり取りをすでにしています。どうぞご覧ください。  ★ だから、ベースとなる知識がない分野において天才的ひらめきは生まれないと思います。  ☆ そうでしょうが 焦点は そこにはありません。  つまり 《ベース》がなければ いくらヒラメイても その意味が分からないぢゃないですか。ですから そのことは分かっているはずです。  ★ ひらめきは、その人のその専門外の知識や経験が専門分野の知識や経験と衝突したときに生まれるのではないでしょうかね。  ☆ つまり  ★ 専門外の知識や経験が専門分野の知識や経験と衝突したときに生まれる  ☆ そのヒラメキの内容は すでにそれまでの歴史の中で得られていた知識や発想であったのか? これです。

  • Key_A
  • ベストアンサー率9% (55/603)
回答No.5

質問者の毎度の投稿がヒラメキによるのかどうか知らないが、 鳩山元首相と同じような臭いがします。彼をもっとよく知る事が 質問者の言う哲学かもしれません。

bragelonne
質問者

お礼

 趣旨説明を読んでいますか?  ご投稿をお世話様でした。

回答No.4

これまで私はヤフーの知恵袋にもっぱら回答してきましたが、最近、このOKウェイブに回答するようになって気が付いたのは、このOKウェイブに常時住み着いている人はほんの少数、たぶん20名くらいではないか、ということです。 たった20名くらいの狭いサークルのために、わざわざOKウェイブを開設しているんだから、ご苦労さんなことだなあ、と思っています。 たぶん、あなたがこのOKウェイブの「牢名主」なんではありませんか? うっかり反論しようものなら、他の20人のメンバーから総攻撃を受ける、最近そのことが分かって、このOKウェイブに回答するのが嫌になって、ふたたびヤフーの知恵袋に戻ろうと思っていますが、そっちも、せいぜい常時回答しているのは30人位、OKウェイブとそんなに変わらない。 そんな少人数だったら、自分でブログを開設してやればいいと思うのに、どうしてOKウェイブなんかで質問したりしているんですかね? まったく分かりません。 そんなヒマがあったら、本を読んでいた方がよっぽどまし。 なんで好き好んで、こんな狭いサークルのような場所で、まるで仲間同士で雑談みたいなことをやっているんですかね? ヤフーもそうだけど、哲学の専門家などぜんぜん入って来ないし、みんなヤフーの知恵袋なんて言うとシロウトが「群盲象をなでる」のタトエではないけど、ああでもない、こうでもないとバカなことを言っているところと思い嘲笑しています。 忙しい時間を費やしてマジに回答するところではありません。 あなたはいったい何が楽しくて、こんなところで議論しているのですか? しかも、シンパばっかりで、互いに、そうだそうだと、うなずき合っている。 いったい、このOKウエイブって場所は何なんですかね? ヒマ人のヒマつぶし? 私はヤフーの知恵袋で人から教わったことは一つもありません。 それはこのOKウェイブでも同じです。 ここは「愚者の天国」。 「キチガイどもの楽園]。 早々におさらばした方がましです。

bragelonne
質問者

お礼

 ということをわざわざ投稿したんですか?  よほど暇人なのですね。  ご苦労さまでした。

  • pigunosuke
  • ベストアンサー率19% (1063/5528)
回答No.3

きっとヒラメ筋ですよ http://www.musculature.biz/40/44/post_194/

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。  (い)のほうの《経験を超えたところ》という見方にしても それは 何か・どこか特定の場を言うわけではないでしょうから 身と心との一体となった身における神経組織のハタラキがかかわっているでしょうね。  その前に・神経細胞に伝わる以前には どこから来ますか? もうそれ以上さかのぼったみなもとは ないですか?

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  • わが《固有の時》とヒラメキ

     《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?  1. 霊感・インスピレーションに限ったヒラメキについて 問います。   1‐1. 直感であり 直観です。イメージのようなものを得ることだと見ますが 後者は どちらかと言えば 概念をともなってすでに思考にもつながっているのかも分かりません。   1‐2. イメージだけの直感にしても しかるべき良い内容のものは やがて概念をやはりともなってそこから直観へと自己を渡しすでに世界観となるような広がりを得ることになるかも分かりません。   1‐3. おそらくこのときひとは おのれの《もっともわたくしなる庭》にあって おのが《固有の時》の中にあそんでいるのではないか?――孤独であって孤独ではない。孤独関係という世界が開けた。  2. これは――いま突飛なことへ思いが飛躍したままを言うのですが―― 量子相互作用なるユラギが 決してそれを認識しうることは出来ないところで起きているゆえなのか?  (この問いは あそびです)。  3. さてその昔 アブラハムなる男は 《父祖の土地を去って行け》というヒラメキを得て そのとおりに――どこへ向かうのかも分からずに――出かけたと言います。七十五歳にもなって。     3‐1. それは この地上における人間の生は 謂わば――精神の遍歴とも見られるような――巡礼の旅であるということが示されたのだと捉えられています。定住の生活においても そうだという意味だそうです。  4. そこで このとき起こったことは 次だと思われる。     4‐1. ヒラメキは おのれに分からないところからやって来る。夜中に盗人が襲うかのごとく。   4‐2. そのヒラメキを受け取りその中身を読み取って その指し示すところに従うのは 人間としてのおのれの成す意志行為である。   4‐3. すなわちこの《ヒラメキを受け容れた》というのは――それを《非思考において信じた》と言ってもよいと思われるのだけれど―― 最後の段階には 人間の意志行為が伴なわれており これはじつはすでに経験思考にもとづく経験行為である。   4‐4. ヒラメキを得て そこに《〈伝統〉を去り行く》という言葉による表現を得るなら すでに思考をおこなっており その思考の結果 取るか捨てるかの意志決定がおこなわれている。   4‐5. この意志決定において《行く》か《行かない》か いづれをえらぶかは 人間の自由意志による自由な――あるいはおのれの心の恣にする自由な――行為である。と言えるか?  5. あらためて 問いはこうです。   5‐1. ヒラメキを得てその指し示すコトを 受け容れるか拒むか これは 人間の側の意志行為だと考えられるが 果たして そのどちらをえらぶかは 人間の自由意志のよくするところだと言えるか?   5‐2. 言いかえると 《行く》をえらぶ場合も《行かない》と決める場合も すべて《わたし》の自由裁量に任せられているか?   5‐3. 言いかえると ヒラメキの指し示す行為を人間がどう受け容れるかは むしろヒラメキの側においてすでに決まっている。という見方も出て来るのではないか?   5‐4. あるいはその決まっていることは 人によってそれぞれである。だろうか?   5‐5. いえいえ まだまだ舌足らずです。《わたし》が《行く》をえらぼうと思ったとしたら それは ただただわたしの自由意志による選択行為だとのみ言えるものか?   5‐6. ヒラメキが帯びるところの・人に選択をうながすチカラのほうが 人間の自由意志による決定力よりも強い。のではないか?  6. あらためて 問いはこうです。わたしの自由意志は ヒラメキのちからに勝てない。のではないか?   6‐1.  あるいはつまり もともとわが自由意志なる心の声であるがゆえに ヒラメキが起きる。のだろうか?   6-2. 直感と直観とを分けたところで イメージ・ヒラメキと思考・ヒラメキとを捉えましたが これをさらに オソレ(畏れ)・ヒラメキとコギト・ヒラメキというふうに言いかえると 分かりやすいかも知れません。コギト・ヒラメキには 自由度が残されている。オソレ・ヒラメキにはひとはあらがうスベはない。か?  暑い中に思索をお願いするわけですが 思うぞんぶん飛躍をもたのしみつつご回答をお寄せください。

  • 知性 理性 感性の違いと

    知覚の扉という言葉に魅力を覚えます。なんか別世界みたいで。知性 理性 感性の違いと人間の能力としての順位はあるんでしょうか? また、知覚はこれら3つすべてのことをさすんでしょうか。

  • 《神を見た》は 共有できるものではない。

     たたき台をしるします。  (1) ひとは 何かの拍子に体験したことをめぐって 《神を見た》と言い表わすことがある。  (2) 《神》は じつは 非経験であり非思考――として人間が想定するところ――の場である。そういう《存在》としても 一般にひとは捉えている。  (《無い神》としてさえ それは《非思考の場》である限り 想定上の《存在》である)。  (3) つまりは この経験世界における《存在》なる言葉を 非経験の領域についても 概念として単純に延長させている。つまりは その存在を《見た》というのも 人間の経験行為を単純に拡大させて――想定じょう――表わしている。  (4) ことばとそれによる思考を超えたところのナゾを 存在と見なし捉えて それとのわれわれ人間との関係についてまで いわば想像力を及ぼそうとしている。  このナゾは 一般にどの言語でも《かみ》と呼んでいる。  しかもこの神を見たとか神の声を聞いたとかというふうに ひとは神体験を持ったと言いその表現にまで及ぶことがある。  (5) とは言うものの われわれ人間にも 超自然的な超経験的ないわゆる神秘体験というのも 起こるかに受けとめられている部分がある。  あるいは 単純な事例としては ひとはヒラメキを得ることがある。  これらは 実際の経験行為にからんで意味をもたらすことのある《神体験》だと見られる場合がある。  いかに神秘的だとは言え 神体験を全否定することは たぶんしりぞけられるであろう。    (6) けっきょく《神を見た》という命題は 《見た》という記号を介して表現され伝達されているに過ぎないのに 実際にも《見た・見ていない》というような経験行為のこととして受け取られてしまうマチガイを起こしやすい。  これは あくまで非経験(つまり 見ることも知ることも出来ない)の神を取り上げているのであるからには そのような見た・見ないという経験行為をうんぬんしても用を成さないと基本的には考えられることである。それなのに マチガイが起こる。  (7) 焦点は このような記号もしくはここでは《ことば》をつうじて それでは どれだけ《非記号》の世界が捉えうるかにある。  (8) 《神を見た》は その第一次的な知覚体験としては その体験者本人にとっても それの事実性は分からないはずであって ましてその体験の人びとによる共有は 無理であろうと考えられる。ほんとうに神であるかどうか これは 本人にも分からないと言わなければならない。ましてや ほかの人とのその体験の共有などということは 目指すものではないし 出来っこない。  と同時に 記号による仮りの表現――あるいは《想定》――の限りで 人びとにはその事実性にうたがいのかかる事柄であっても それぞれの主観にとっての《真実》という場が特殊にあるかに思われる。  (9) 人間にとって その世界における《現実》とは いわゆる科学的な《事実》――それも人間による認識を俟っての事実でしかないが――とおのおのの主観にとっての〔たとえ空想的なものごとであってもその虚構をも容れるところの〕《真実》とのふたつの領域から成る。と考えられまいか?  (10) 《主観真実》とは あやまちうる人間の認識および判断の力を前提とするかぎりで けっきょく――事実誤認のほかにも――《想像の世界ないし虚構》を容れている。虚構というかたちにおいてもその想像世界には《真実》と見なしうる場合があると認めることになる。  しかも主観真実は 大きく《事実》と並びそれとの総合としての《現実》に属すると認めることを意味する。  (11) これもそれも あれも何も この《現実=事実認識+主観真実》なる方程式は 神の問題としてはその現実性が おそらく《ひらめき(直感および直観 言いかえると インスピレーション)》の問題に帰着するのであろうと思われる。また そのヒラメキの信憑性にかかっているのであろう。  (12) もっとも簡単な信憑性の判定基準は けっきょく《直観ヒラメキ》として《イメージ直感》を解釈し言葉で表現した内容が 経験合理性から見て耐えうるものかどうかにある。  (13) 《神を見た。神と顔と顔を合わせて話をした》という第一次の知覚経験が信憑性を持つか否かは おそらくその検証が出来ない。  ただしその《神を見た》ことの間接的な解釈や説明ならそれは 人びとの思考しうる世界に降りて来ることになる。ゆえに ことばとしての記号を通じて 意外と人びとは互いに意志疎通をおこないうる。  (14) たとえば 《ひとは 神の背面(うしろすがた)を見るであろう》という命題は 案外受け容れられるのではないだろうか。  ――これは けっきょく《ひとは 神のことにかかわると思われるようなヒラメキ体験を持つことがある》と言っていることにほぼひとしい。つまり 自同律でしかないかも知れない。けれど その真実が真実であるかぎり 事実との総合において 現実をかたちづくるのではないかと見られる余地がある。  (15) ちなみに《空観としてのさとり》という場合も そのサトリという第一次の言わば非思考の状態を掲げるにとどまらず そこから得るヒラメキをめぐってその解釈と説明を添えるなら コミュニケーションの大通りに現われ出て人びとの世界とその現実をゆたかにしうるものと捉えられる。  (16) なお 共有しうるということは その共有したものごとをそのまま正しいとか妥当だとかと認めてしまったわけではない。――共有し得ないならば 話し合いの主題には成れないということだ。  (17) 《神を見た》なる命題は 一般の話し合いの主題には成らない。このことを 共有しておけば そのような知覚情報とは別の《ことばとしての記号の世界》でなら 哲学の問い求めは話がうんと進むものと思われる。    (18) よってひとは 《神を見た》とか《これこれが神である》といった第一次の知覚情報をもって 神の話をするなかれという交通規則を得ることができる。のではないか?  言いかえると 単純に言って 《神は人間の精神である》とか断定したり あるいはぎゃくに 《神は 人間の想像の産物でしかない》と言って否定したりするだけで説明のない神学は 論外の問題外であると。

  • 神は人間を何であると思っていると思うか?

     神は人間を何であると思っているとあなたは思いますか?  質問者のこたえは わたしにとって神は 信じているのであって・つまりは わが心なる《非思考の庭》に受け容れているのであって 何とも分からないというものです。   ○ わが心(身と心)の成り立ち    信仰:非思考の庭:ヒラメキ    -----------    哲学:思考の緑野:思考・想像    知覚:感性の原野:直感   ・ なお 《哲学》には シュウキョウのオシエが入ります。それは 信じるものではなく 考えるものです。

  • 純粋理性批判(Q11)

    純粋理性批判(Q11) goo辞書によると、「統覚=知覚表象などの意識内容を自己の意識として総合し統一する作用」となっています。 この統覚に関する中山訳の記述から4点、教えていただきたいことがあります。 1. 「すべての思考に先立って与えられうる像は直観と呼ばれる。だから直観に含まれるすべての多様なものは、この多様なものが発生する主体における<わたしは考える>ということと、必然的に結びついている。しかし、このような像が生まれるのは、人間の自発的な営みによってである。そして[感性は受動的な働きだけをすることを考えると]この像は、感性に属するものと考えることはできない」 そして、この像を統覚と呼ぶ、と続きます。 <質問1> 「すべての多様なもの」とは具体的に何を指しているでしょうか。 カントにおける直観とは感性によって得られるものと理解していますが、たとえば、赤いバラを見たときの「色・形状・匂い」などを指しているのでしょうか。そういったものとは別のものでしょうか。 <質問2> この解説によると統覚というのは悟性の役割とあまり変わらないような気がするのですが、どのような違いがあるでしょうか。 2. 「すなわち直観において与えられる多様なものを思い浮かべる自己統合の意識はどこでも同一のものとして維持されるが、この自己統合の意識にはさまざまな像の総合が含まれる。こうした総合が意識されることで、初めて自己統合の意識の同一性が可能となるのである」 <質問3> 「どこでも同一のものとして維持される」とはどういう意味でしょうか。 <質問4> 質問1にも関連するのかもしれませんが、総合の対象となる「像」とはなんでしょうか。また、 「こうした総合が意識されることで、初めて自己統合の意識の同一性が可能となるのである」の意味と意図がわかりません。   

  • 「直観」と「直感」の違い、その差って何ですか?

    frauさんという人が、どっちも同じだと言っています。 ふつう哲学では、「直観」という言葉は使いますが、「直感」という言葉はあまり使われません。 「直観」という言葉が哲学で使われるようになったのは、中世の聖アンセルムスからで、アンセルムスは、「直観」を二通りの意味で使っていました。 一つは、直観的認識は、現に目の前にあるものについての知識という意味。 もう一つは、いかなる直観的な認識も先行する認識に限定されていない、論証的な認識の反対という意味。 カントが「直観」という時、後者の意味に使っていました。 要するに推論によらない知識を「直観」と言っていました。 そしてカントは感覚を「感性的直観」といい、そして時間・空間を非感性的「純粋直観」と言って直観的に知られると言っていました。 それを批判したのが、パース。彼は言っています 「私たちは直観する能力を持っているかどうかを直観的に判定する能力を持っていない」、と。 また、「私たちは直観と直観以外の認識とを区別することができない」、と。 そしてパースはカントのいう感覚も、時間・空間も、直観によって知られるのではなく、推論によって知られるものだと言っています。 デカルトは「われ思う・コギト」を直観によって知られると言いましたが、パースによればそれも間違い、推論だと言っています。 「直観」という言葉はひじょうに便利な言葉です。 それを私は「知性(理性)で知った」と言えば「なぜ?」と聞かれますが、それを「直観で知った」と言ったら、「直観か、だったらそれ以上追及してもしようがないな」となります。 だから何でも、それを直観で知ったと言えば、人から批判されるのを防止できます。 改めて、お聞きします、「直観と直感の違い、その差って何ですか?」 そして、そもそも「直観」って何ですか?

  • カント『純粋理性批判』入門(黒崎 政男著)

    カントの理性、悟性、感性の概念が分からないと質問した時、「お勧めの入門書」をリクエストして読みました。 でも、これ私にはまだ難しかったです。 まず上記3要素の定義ですが、これはだいたい合っているのではないかと思います。 感性>感覚器官を通じた現実存在(仮に感官がそう認識するところの)の認知 悟性>(≒知性)概念的に考え悟ること 理性>総合的な考え(?) ちなみに古くは、 知性>インスピレーション、霊感、直観力、察知力、知識(人間の感官より上のもの)(?) で、どうもカントは実存在は不可知だとしておきながら、感性と悟性の合一によって世界は真だと言えると言っているようなのですが、このへんがチンプンカンプンで分かりません。 世界が感官で真かどうか分からないものであるのならば、感性を頼った思考もすべて真かどうか分からないのではないでしょうか? 何が「コペルニクス的転回」されて、「純粋(?)」「理性(?)」はどう「批判」されたのでしょうか?

  • 《アルケーの神》は 《信じる》のではないのか?

     1. アルケーの神とは 宇宙の法則であると言う。けれどもこの表現による規定は あくまで仮りのもの・すなわち《補助線》を引いただけのことではないか?  2. すなわち もし神が宇宙の法則であるとすれば 一方で たとえば山に登り 虹が出てきれいな自然を見ると それは アルケーの神の意志の現われだということらしい。  他方では ではもし雪崩に遭ったりクレバスに足をすべらせたりしたら それは 引力という宇宙の法則であるから やはりアルケーの神の意志の現われであると言えるか?  3. 言えまい。ならば 宇宙の法則だという説明は あくまで仮りのもの・単なる補助線だと捉えなくてはならない。本体は 分からない――つまり分かるから分からないかが 人間には分からない――と想定し規定するのが 哲学としてかなっている。  4. すなわち 《アルケーの神》は 《感じる》ものであって《信じる》ものではないと高らかに宣言しているようであるが 《感じる》のは 単なる補助線としての経験事象であるに過ぎない。のではないか?  《本体》については けっきょく《感じる》ではなくまた《考える》でもなく やはり《信じる》ということではないか?  5. 《信じる》というのは 《思考:考える》や《感性:感じる》をも超えたところのナゾの何ものかを それでもわが心に受け容れるということである。  受け容れるのは ふつうの経験事象としての人間の意志行為であり その対象は 何であるかが分からないナゾの何ものかである。これが 《信じる》という行為である。  6. かくのごとくして わが心なる《非思考の庭》における・雲をつかむようなコトが起きていると 人間という人間にかんして 普遍的に言える。のではないか?   ○ 参考:《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  7. なお この《信じる》をオシエにして組織をつくり その信仰の度合いを基準にして組織内外の人間を評価し さらにはこれらのよわく薄い信仰の者らをみちびくと言っているのは じつは・じつに《信仰》の自殺行為である。  教義化・組織化は 仮りの補助線を現実の神としてしまうおそれに満ち満ちている。そのヒエラルキアは 聖なるものでも何でもない。むしろ人間に対する支配欲によってみづからが支配され 信仰を利用して世界を心としての自殺行為にみちびく準犯罪行為である。  ご見解をどうぞ。

  • 宗教は 百害あって一利なし。

     (1) 宗教は 個人の信仰とはまったく別の社会現象である。  (2) そのオシエが もし《信じる》べきものであると言うのなら それは 精神錯乱に落ち入ることを意味する。  (3) オシエは 命題(人間の思考し判断したもの)としてあるからには 《考える》ものであって そのような思考ないし理性の問題であるものを どうして信じる(つまり 神として受け容れる)ことが出来ようか。  (4) 《信じる》と《考える》とを区別するべきである。   ○ オシエは 信じるものではない ~~~~~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (5) 《信じる》とは 神をわが心に受け容れることである。神は 非経験の場だから 《考える》ことも認識することも出来ない。わづかに信仰の何たるかを説明するために ヒラメキから得た知識を理論として形成するとき この説明理論は 神を知るための補助線となる。  (6) この補助線たる説明書きが オシエと見なされ得る。《神は愛である》なり《至高の善である》なりの取扱説明書を オシエとして さらにはこの思考内容ないし概念を神として 信じよと言うのが 宗教である。  (7) この宗教は 信仰としての蝉の 抜け殻である。百害あって一利なし。  これを問います。出来れば 確定させたいと考えます。

  • 《〈無限〉は実証不可能》とは いつ実証されたか?

     1. ここで《無限》とは 《非経験の場》とよぶべき概念です。そしてこれは ただ言葉としてそのように想定したというものです。  2. この相対的ですべてはうつろいゆく有限の経験世界において その因果関係や有無の規定からいっさい自由な場――つまり従って《非経験の場》――のことを 《絶対》または《無限》と呼びます。  3. 無限は 二で割っても三で割っても その商は やはり無限です。  4. この非経験の場――それを人間がその精神に受け留めるなら 言わばわが心なる《非思考の庭》という想定となる――としての《無限》は 実証されているか? もしくは 実証が不可能であると証明されているか?  こういう問いです。  ○ 参考:《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    精神の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   * 《心の明け》というのは わが心に窓があって それを開ければさらに世界が広がるといったことでは必ずしもなく――なぜなら 《非思考》なる事柄について 心の伸びがあると言っても その《伸び》すら思考し得ない・分からないゆえ―― したがってその意味するところは 差し詰め《心が閉じられていない》ということであり そのことはあんがい重要であると考えられます。  相手の言っていることを聞かないという場合が しばしば見られるからです。話の筋のハグラカシ これに長けているのでしょうか 日本人は。  また《無限》とは けっきょく《神》のことを言っているのですが。・・・