• 締切済み

《〈無限〉は実証不可能》とは いつ実証されたか?

 1. ここで《無限》とは 《非経験の場》とよぶべき概念です。そしてこれは ただ言葉としてそのように想定したというものです。  2. この相対的ですべてはうつろいゆく有限の経験世界において その因果関係や有無の規定からいっさい自由な場――つまり従って《非経験の場》――のことを 《絶対》または《無限》と呼びます。  3. 無限は 二で割っても三で割っても その商は やはり無限です。  4. この非経験の場――それを人間がその精神に受け留めるなら 言わばわが心なる《非思考の庭》という想定となる――としての《無限》は 実証されているか? もしくは 実証が不可能であると証明されているか?  こういう問いです。  ○ 参考:《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    精神の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   * 《心の明け》というのは わが心に窓があって それを開ければさらに世界が広がるといったことでは必ずしもなく――なぜなら 《非思考》なる事柄について 心の伸びがあると言っても その《伸び》すら思考し得ない・分からないゆえ―― したがってその意味するところは 差し詰め《心が閉じられていない》ということであり そのことはあんがい重要であると考えられます。  相手の言っていることを聞かないという場合が しばしば見られるからです。話の筋のハグラカシ これに長けているのでしょうか 日本人は。  また《無限》とは けっきょく《神》のことを言っているのですが。・・・

みんなの回答

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.2

何かが無限であることを証明することはできるが、ここでは、何が無限であることを証明したいのだろうか。 しかし、その何かが無限であることを実験的に実証するのは難しいだろう。時間というものがあるからです。 (ちなみにヒラメキとは経験であるが、それを非経験というのはなぜだろう。何をひらめくかはさておいて、つまり見神体験など、特殊な精神作用のことを指しているのかはさておいて、ヒラメキ自体は経験事象であると思うが。)

bragelonne
質問者

お礼

 あ_ほなさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ここでは、何が無限であることを証明したいのだろうか。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~  2. ・・・・因果関係や有無の規定からいっさい自由な場――つまり従って《非経験の場》――のことを 《絶対》または《無限》と呼びます。  3. 無限は 二で割っても三で割っても その商は やはり無限です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ (ちなみにヒラメキとは経験であるが、それを非経験というのはなぜだろう。  ☆ まづ《非経験の場》は 想定です。そしてしかも《非経験》というからには 経験世界を超えているというその場を設定しています。  言いかえると ヒラメキは 経験存在である人間の経験行為ですが そこに得られた対象(または中身)は これまた経験事象ですが それがどこから来たかと問うときには――仮説として―― 非経験の場との接触からである。と想定しています。  したがって この《非経験の場》を――そういう雲をつかむような何ものかを――わが心に受け容れたときには その場所を わが心なる《非思考の庭》ということにしています。ふつうに言えば 《信仰》のことです。  つまり 仮説としては ヒラメキは――非経験の場との接触をつうじて――非思考の庭に起きることであると捉えています。その情報源は 人間にも自分にも分からないからです。(分かるか分からないかが分からない)。  ★ 何をひらめくかはさておいて、つまり見神体験など、特殊な精神作用のことを指しているのかはさておいて、ヒラメキ自体は経験事象であると思うが。)  ☆ 《見神体験》 これもじつは 非経験の場との接触という仮説においてヒラメキ以上の体験があったという場合の それとしては実に経験行為だと見ます。  言いかえると おそらく決してその内容を人びととのあいだに共同化することは出来ないであろうけれど その人の主観の内では そういう体験がありうる。こう捉えています。  もっと言えば この見神体験は じつは やがて《真理がすべてにおいてすべてである》という最終の見神体験を予感させるものである。と捉えているものです。予行演習のようなものだと。  こんなところでしょうか。

回答No.1

こんにちは。 いきなり、 難解で悪評高き、数学の《イプシロン・デルタ論法》!! http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%97%E3%82%B7%E3%83%AD%E3%83%B3-%E3%83%87%E3%83%AB%E3%82%BF%E8%AB%96%E6%B3%95 ここの歴史的背景をご覧になってください。《無限大》や《無限小》をめぐる、歴史上名高き数学者たちの、悪戦苦闘の歴史がここに端的に記されています。 そして、「関数値の収束」を、すこしだけ、ご覧になってください。 数式は、絵として鑑賞なさってください。 でも、これを読んで誤解しないでくださいよ~。 《無限大》や《無限小》という考え方のままだと、その漠然としたイメージから、とんでもない間違いを犯すことがあるので、それをより精密化させただけです。表面上、その言葉が出てこないようにしただけなんで。 悪くいうと、 《無限》という呪文を、《∀・any・任意に》と《∃・exist・存在する》という新たなオマジナイにすり替えている(笑い)。 ∀∃が見えない、全然見えてこない、そして、理系数学を学ぶ学生は涙する。。。 己れの能力の低さ、無力さに打ち拉がれる。絶望する。悲嘆にくれる。 数学の世界の無限、実数の世界の無限ですら、それほど難しく、深遠なんですわ。 ☆☆☆☆☆☆ ☆1. ここで《無限》とは 《非経験の場》とよぶべき概念です。そしてこれは ただ言葉としてそのように想定したというものです。 ◇数学でいうところの《無限》は、あくまで、観念、概念の範疇です。これを越えるものでは、決してありません。 ☆4. この非経験の場――それを人間がその精神に受け留めるなら 言わばわが心なる《非思考の庭》という想定となる――としての《無限》は 実証されているか? ◇実証されるも何も、一般的な数学では、アプリオリに、その存在を仮定します。この存在を否定すると、長さや面積、体積すら、定義できません。どうしても必要なんです、《無限》回の操作を行える、という仮定が。。。 ただ、表面上は、無限という言葉が出てこないようにします。そして、《無限に○○に近づく》なんて言葉を使うと、《曖昧だ》《不正確な表現だ》といいます。 それだけ、《無限》という言葉を使うときには慎重なんですよ、数学では。 ☆もしくは 実証が不可能であると証明されているか? ◇できません。その存在証明もその存在否定の証明もできないから、無限やそれに類するものを公理として組み込みます。それが可能になります。それを信じるか信じないかは、その人次第です。 で、結局、 無限は、その存在を《信じる・信じな》、《仮定する・仮定しない》の話になってしまいます。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ◇ 関数値の収束  ☆ って言っても そのほかここ(ε-δ 論法)で扱っているのは ぜんぶ可能無限ですよね。経験世界における無限ですよね。  一定のさだまった数値へと限りなく近づくという経験事象ではないですか? おおきく有限という範囲における可能無限だと思います。  ☆☆(趣旨説明欄) 3. 無限は 二で割っても三で割っても その商は やはり無限です。  ☆ によって例示される《無限》ではないと考えられます。  ◇ 数学でいうところの《無限》は、あくまで、観念、概念の範疇です。これを越えるものでは、決してありません。  ☆ ええ。つまり《これを越えるものはない》というさだまった値――つまり有限――を扱っていると思われます。  (4)のコメントも 同じようだと思います。  最後の  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ もしくは 実証が不可能であると証明されているか?   ◇ できません。その存在証明もその存在否定の証明もできないから、無限やそれに類するものを公理として組み込みます。それが可能になります。それを信じるか信じないかは、その人次第です。  で、結局、  無限は、その存在を《信じる・信じない》、《仮定する・仮定しない》の話になってしまいます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここは この質問で想定している無限のこととも読めますが でもその反面では やはり数学の中で取り扱われているのではないかとも思われます。どちらとも採れます。  最後の結論は いただきますが あいまいな情況にはあります。  そんな受け留めになりましたが。・・・

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     神は 《非知》である。  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________       ↓          ↓     ・・・・・・・・・にんげん・・・・・・・・・・・・・   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》は 信仰(非思考)をオシエ(思考)に代えた。要らぬ思考や想像は 削ぎ落されて行くことでしょう。  オシエを信じる=つまり 思考物を非思考とする。これは ゆるされない。そこ(オシエ)では 想像の産物としての神が・つまり おもちゃの神が 取り憑かれたかのように観念において思い込まされている。  《信仰:非思考の庭なる動態》 これは 世界では 名前の違う《神》が持たれているので その形態も名称が違って来ているようだけれど 中身は 類型的にみないっしょである。次のごとく:  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ・ブッダ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  ☆ これらは 《思考》ではないというところが ミソである。  すなわち中で  《B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)》のごとく  《神を信じない》という向きにあっては それでもその場合には《信じないと信じている》のであり 《〈無い神〉を信じている(つまり 心に受け容れている)》ということだ。  以上のたたき台について その成否を問います。どうぞ思いっきり自由なご見解をお寄せください。    

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     神は ひとつである。――次の趣旨説明にてその当否・成否を問います。  (あ) 神は どんな名前の神を持って来ても・あるいは《無い神》を持って来ても すべて全体として ひとつである。  それよりほかにあり得ない。  (い) 人間にとって 神だという存在――または 非存在――が 同じひとつでないことのほうがおかしい。  (う) ただし オシエは互いに違っている。  (え) 《信じる(その神を心に受け容れる)》と《考える(因果関係や排中律にしたがって経験合理性にもとづき推論する)》とは 別である。  (お) 神は 《信じる・つまり 思考に非ず》として受け容れるものである。  (か) 《考え》て理解できる内容の神なら それは 人間の思考や想像によってつくられたものである。  (き) ただし 《信じる神》について その信仰――非思考の庭なる動態――にもとづき その定義や説明をほどこすことは有り得る。  (く) ということは この神についての定義や説明あるいはさらに神学であっても そのような文章表現やシルシなどはすべて 神を指し示そうとするための補助線である。  (け) ちなみに かみという言葉・文字・発音も 神について知るための補助線である。  (こ)  もしこの補助線としての説明書きを 神であると錯覚したなら それは 《思考や想像の産物》としての神が出来上がる。そのように人間がこしらえた神であるとなる。  (さ) このような観念の神は その作った時点ですでに 死んでいる。つまり思考の問題であり 観念にとどまる。そこに 言わばいのちは ない。――信念とは成りうるところの思い込みがある。有限の移ろいゆかざるを得ない果敢無い《いのち》はあるかも知れない。  (し) ○ 《信じる》と《考える》との区別 ~~~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (す) 《非思考の庭》においていだかれるのが 神である。名前は いかようにもつけられる。  (せ) 《思考の緑野あるいは感性の原野》において持たれる神は ただの観念の神である。人間がつくった神である。人間に理解でき認識しうるものであるなら わざわざ神という謂われはない。必要がない。せいぜい アイドルと呼ぶがいい。  (そ) したがって 《非思考の庭》においていだかれる神を イワシノアタマと名づけるなら それが 神である。イワシノアタマという言葉は ただの補助線に過ぎない。  (た) もし実際の鰯の頭を――ということは 感性や思考の対象となる事物としての魚であるものを――神としたなら それは 偶像としての神であり もしさらにこの鰯の頭を自分のあたまの中に想像し思い込み神としたなら それは 観念の神である。人間のつくった神である。

  • 神について何故ひとは哲学しないのか?

     せめて神についての勘違いをただしておくことまでは出来るのではないか?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは いっぱんに教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力    にかかわっている。      これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般をけっきょくは    信じるというおかしなことになる。  C. オシエを信じるという間違い。   ――オシエは 人間の言葉で表わされている。ゆえに人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。      やはり 精神主義的な人間信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っている間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。想像力の    産物であるに過ぎない。人間のつくった神でしかなく いわゆる近代人の    《人間の能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見られるのではないか。理念や観念としての偶像(つまりアイドル)がそこら中に見られます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても神の知恵についての仮りの表現でありそれとして観念の偶像であるのですから その偶像は偶像(仮りの表彰)として――扱えばまだしもいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。        *  同じく神は 何でないか? について考えます。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《しんじる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《しんじる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の場に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神のハタラキにとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。あるいは そこにやどる。  この非経験の場が わが心なる非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。  これをそのまま受け容れたというその行為を《しんじる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。どちらも《しんじる》である。  8. 神は存在すると見ても存在しないと捉えても どちらも互いに同等の《信じる》行為である。  非思考の庭なるナゾを 思考の緑野においてその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の庭は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. ○ (ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《心の明け》というのは 心がいろんな名のあらゆる神に対してあるいは《無い神》に対しても閉じられていないことである。  10. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス アッラーフ ブラフマン アミターバ マハーワイローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。全体としての一である。  と言うより 神が人間のつけたその名によってそれぞれ違っているということがあり得ない。  11. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  12. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  13. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。  物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて非思考の庭から思考の緑野に降りて出て来ている。この仮りの代理の場をとおして 神のナゾを望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。    14. だからオシエは 思考の緑野に属しており それが非思考の庭の神だということはあり得ない。なのに教義や宗教を信じるという言い方をする間違いが見られる。    15.エトセトラ。エトセトラ。  16. まとめて 神は何でないかまでは人間が明らかにしうるのではないだろうか。  さらなる探究へと 思いっきり自由なご批判をあおぎます。

  • 神について

     1. 哲学として現実の問題をあつかいたいと思うとき この主題があいまいであると なかなか話が前へすすまないという事態になります。そこで:  2. 神について最小限必要なことがらを共有しておくことは 大事だろうと考えます。  2-1. ただしこれは 《神についての説明》の共有であって 《神そのもの》のではありません。神とわれとの関係は その人自身の主観の内面にとどまります。  3. たとえば次のような説明があります。  ▲ (アウグスティヌス:神のかんたんな定義) ~~~~~   物体のように 場所と時間によって可変的な本性が存在する。   また魂のように決して場所によらないで ただ時間によってのみ可変的な本性が存在する。   さらに場所によっても 時間によっても 変えられ得ない本性が存在する。これが神である。   (『書簡集』18・2  390年頃)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    4. ここから 次のように整理します。《物体》は 《感性》の問題であり 《魂》は 《理性ないし思考》のそれであり 《神》は 《非思考すなわち 信じる》の問題であると捉えます。  ○ 《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~    非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  5. あるいはつまり われわれ人間は 神をもひとつの概念として捉え その概念(ないし言葉)をとおして神を思うということがあるとしますと そのときわれわれの思いは とうぜんのことながら 永遠につづくわけではありません。  5-1. すなわち 人間の思いは――神という言葉を補助線として 何とか神を望み見ようとするときその思いは――かなしいかな・いかんせん 断続的であり 変化してしまうことがあります。  5-2. ところが 神は――と言って推測をたくましくするなら―― そういう思いの切断や変化 こういったことは起こらないと考えられます。  5-3. すなわち 神は うつろいゆくものではない。人間は変わりゆき やがて朽ちざるを得ないのですが 神は そうではない。  6. 最小限必要なこととして 以上のような説明内容は 一般にも共有され得ましょうか どうでしょうか。これを 問います。

  • ブディズムは ブッダターの提示と親鸞のみだ

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第七章 ブディズムの効用は おそらく親鸞のしめした《信》の理論のみ  1. まづ ほかに ブッダター(仏性)の――非思考の庭にとっての――理論があります。けれどもブッダターがすべての人にやどるというこの想定は すでにブラフマニズムが 《アートマン(霊我)》として打ち出している。  2. あと 《空》観がよく引き合いに出される。けれどもこれは けっきょく相対と絶対との――有限と無限との――区別を言ったまで。ひとは 時間的存在だ――時空間としての世界‐内‐存在である――と明らかにしたまでである。  3. それらのメリットは 親鸞の《非知――非思考の庭――》としての《信》の理論におさめられて行く。  ○ 親鸞: 義無きをもって義とす。:非知としてのアミターバ・ブッダ      【Q:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7894579.html  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場⇒非思考の庭)  ~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  4. 非知なる非経験の場は ブラフマニズムにおける神ブラフマンなどのように 全体に対応するひとつの神としておおよそどの民族にあっても持たれている。  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモ。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  4-1. つまり ゴータマ氏は ブラフマニズムの非思考の庭のあり方を踏襲し その霊なる神の名前を裏返したのみである。だから 後世の人たちは ブッダターを立てた。これは アートマンのことである。  ☆ 不要およびマチガイを削り 加えるべき認識を加えるようにしてご教授ください。全体についての自由なご批判をも歓迎します。