• ベストアンサー

生きるべきか 死すべきか それが問題だ。

ながらうべきか 死すべきか という訳もあるが、それはいいとして 前回の質問を簡単にしてみました。 人類は皆死んで生命も皆滅びるのか? それとも人類は存在を求めて 狭き門を見出すのか? どっちだと思いますか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.2

僕はSFが好きなので、人類の遥か未来では宇宙に生活圏を拡大していると思います。宇宙が消滅する頃には、何段階もの飛躍が人類に起こっていて、その時には、かつて人類だったものが隆盛しているだろうと思います。現生人類が、進化の最終形態と言うのでは無いでしょうから。 近しい未来に、人類の品種改良によって、新人類が誕生すると思っています。病気に強く、長生きで、協調性が高く、しかも能力のある人類です。まあ、ちょっとした夢想ですが。

yuniko99
質問者

お礼

良いですねえ いい感じですねえ。そういう未来が待ってるといいですねえ。 少し希望が持てます どうも大変ありがとうございます。

その他の回答 (7)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.8

yuniko99様、こんばんは。 人類ではなく、人間を目的とするべきで。 (人類?を目的とした瞬間、人間は、可笑しい、のかな)

  • ootemon
  • ベストアンサー率13% (559/4276)
回答No.7

けっこう大きな災害や戦争が起こっても人類も動物も 生き残ってますよね。 これから太陽フレアが広がったりオゾン層がなくなったりしても 人類はそれに適した技術を開発して生き残るんじゃないでしょうか。

yuniko99
質問者

お礼

そうですね そうあってほしいものです。 何処までも生きて どこまでも進化して 変化しても存在して行ってほしいものです。 宇宙の果てまで行って欲しいものです。 どうもありがとうございます。

回答No.6

たとえば、誰でも最期は死に尽きるけど、それだから 生きる意味がない=今死ぬべきだ、と言うのだろうか? 人が生きる目的は、後に残る物や名声ではなく、今、 生きている喜びのため=それを人生の通算において 最大化する事にある。 それは、「認識する事で宇宙は生じている」という 量子的世界像において通用する唯一の考えだ。 その『認識する』上で、先入化する時間性=異なる プランク定数h(潜在的認識可能性)の時系列化に於て 時間性は自己の階層現象性(進化の痕跡)として自己 の内奥に潜在し、その「異なる認識可能性の時系列化」 の射影として、環境における他人は派生する。 そうした「自我成立の必要(相補)としての環境性」 において、物理的な量子的相補性、自然との物質循環、 他人との交配や社会性における愛といった、物質的 自己(肉体)と精神的自己(宇宙)の間の相互作用は 必然となる。 そうした「自己の必要としての環境の自覚化(博愛)」 において、最大の認識において自律的に生き、最大限 の協働を為す時、真の生きる目的である「人生を通算 した精神的充足量の最大化」は可能になる。 人類の未来の如何は、二次的な問題だ(あなたが死ねば、 あなたにとっての宇宙(充足のもと)は消滅する)。

yuniko99
質問者

お礼

>人類の未来の如何は、二次的な問題だ(あなたが死ねば、 >あなたにとっての宇宙(充足のもと)は消滅する)。 人類の未来って一瞬一瞬未来になって行っています。現在は過去になっています 未来になった時 存在していなければ過去のものとなるのです。 今在るものが全てです。 私が死ねば私が無くなる訳ですから 当然私にとっての宇宙は無くなりますが 貴方の宇宙は無くならないでしょう?他の人もそうだと思います 先端物理学は殆どが仮説ですから そこから結論を求めると大きな間違いが生まれます 出来るだけ色んな見方から結論を出し 比べてみて真相に近づくべきです。 宇宙と人間の小宇宙は全く違うものです。 どうもありがとうございます。

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.5

生き物の遺伝子情報は簡単に死を選べないようになっているのです。生きるべきであって、死ぬべきではないのです。生きていたいのであって、死にたいのではないはずです。死にたくないとの気持ちが、人を苦しめるのです。苦しみから逃れようとして、死んだ方が良いとも考えてしまうのです。そして死ぬべきだなどと愚かな考えに至ってしまうのです。 人類は多様な遺伝子情報を多くの人達が分散して保有しています。その多様性が人類の宝です。人類生存の危機を迎えても、生存の狭き門をくぐりぬける少数の人類がいるはずです。その者たちが新人類を作ってゆくと思います。

yuniko99
質問者

お礼

成る程どうも大変ありがとうございます。 どこまで行けるでしょうねえ。

  • hhasegawa
  • ベストアンサー率14% (56/385)
回答No.4

どちらになるかそれは後世の人類の所業によるところだと 思います。 もし、全人類が滅びる直前にひとつできることがあるとすれば 今の人類が生きてきた証は残すべきだと思います。

yuniko99
質問者

お礼

そうですね 人類の生きた証は残るでしょうね 問題は何時まで残るか、それとも最後は消えてなくなるか という事でしょうねえ。 どうもありがとうございます。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.3

宇宙に進出しますよ。 宇宙は広大ですから、人間がどう暴れようと 当分の間は大丈夫。 そして、数千年後、宇宙人と化した人類が 會合するのです。 とべとべ、それが問題だ。 to be to be ・・・・。

yuniko99
質問者

お礼

そういう事もあるかもしれませんねえ しかし 地球に残った人類と宇宙に飛び出した人類は どちらがより強くい進化するのでしょうねえ 数の問題もありますが 悪状況ほど人間も強くなりますからねえ。 飛べですね ありがとうございます。

回答No.1

>どっちだと思いますか? 質問が二者択一になっておりまへんがな。 人類は存在を求め、個体数を劇的に減らしながら一定期間、存える(ながらえる)が、それでも最後は滅亡し、その後、一定期間は他の生物が人類無き後のニッチを埋めると考えるのが生物学、古生物学の教えるところであります。

yuniko99
質問者

お礼

最後は滅亡ですか・・・生物・・・ どうもありがとうございます。

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