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想像の翼を広げる

Tastenkastenの回答

回答No.2

こんばんは。 「想像の翼(the wings of imagination)」という言葉は、モンゴメリの「赤毛のアン」の本文中に出てきます。 ・・・she had an uncomfortable feeling that while this odd child's body might be there at the table her spirit was far away in some remote airy cloudland, borne aloft on the wings of imagination. ・・・この奇妙なこどもは、体は食卓にあっても魂は想像の翼に乗って、遠い雲の世界に行っているのではないかという、気味のわるい気持ちにおそわれた。 (村岡花子訳 新潮文庫 52ページ) モンゴメリの作品には、古典文学の引用もありますが、「想像の翼」という言い方は、シェークスピアの「ヘンリー五世」、第3幕のプロローグに出てきます。 Thus with imagined wing our swift scene flies In motion of no less celerity Than that of thought. この箇所の、現代英語訳が次のようになっています。 And so, on the wings of imagination and at the speed of thought, our scene flies swiftly on. かくして想像の翼に乗ってわれわれの迅速な舞台は、 思考の速度よりもなおはやい運行で飛んでゆく。 (大山俊一訳 筑摩書房 シェークスピア全集 第4巻) 今のところ、これが一番古い用例のようです。なお、似たような言い方で、on the wings of inspiration(霊感の翼に乗って)という言い方もよく見受けます。「ソクラテスの弁明」にそういう言葉があると書かれている書物があったのですが、調べたところ、そのような表現にはなっていませんでした。インターネット上には、ほかにもOn the Wings of Freedom、On The Wings Of Love、On the Wings of Dreamsなどがあり、「on the wings of~(~の翼に乗って)」という英語の用法が広く使われているようなので、それが入ってきたものと考えられます。

statecollege
質問者

お礼

たいへん貴重な情報ありがとうございます。NHK朝ドラでは、花(花子)が「赤毛のアン」に出会う前、小学校の代用教員をしているときに「想像の翼」という言葉を使っています。もちろん、これはドラマなので、脚本家が「赤毛のアン」で使われている、モンゴメリーお気に入りの言葉を先取りして用いたということでしょう!五味川純平の小説は村岡花子訳の「赤毛のアン」より後の出版なので、そこからこの表現を学んだ可能性はありますね。語源がシェイクスピアにあるとすれば、別のところからこの表現を知った可能性はもちろんありますが。。。ちなみに、この五味川純平の小説は出版されたのは戦後ですが、戦前の昭和を対象にした小説で、ある情景を描く言葉として出てくるのです。(戦前の人々の会話の中に出てくるわけではありません。)

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