霊能力とは何か?考えをまとめる

このQ&Aのポイント
  • 霊能力についての考察を通じて、それは思考法としての明晰な分析が可能であり、実際には自然な思考の一部であることを示唆しています。
  • 霊視とは映像の内観によって他者の人物像を鑑定する能力であり、言語的思考よりも自由度が高く、新たな視点や発想を生み出すことができます。
  • 霊能力は心の世界や観念の世界を見る能力であり、死者や霊的な存在を介在させる必要はなく、明晰で直視的な思考が可能です。
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霊視という能力について考えをまとめました その2

前置きが長くなるが読んでくれ。 昨晩全く同じ質問をして削除されてしまった。 この質問は哲学で言語が思考であるという定説からより総括的な知性的活動に関する質問であり。 そのほかにも内観するビジョンと言えば心理学では多分取り上げているからそうした事の情報収集であり、学問研究の範疇を超えたそれ以外の回答は差し控えてくれないか。 霊能力者なら私を霊視してくださいとか。 私幽霊好きですとか。 そう言うオカルトは特にやめてくれ。 それからこういう思考をする私は、社会で少数派だよね。 私は霊能力気質を周囲にひた隠しにしていて、思考法の性質から、 直感が優れている。 先見性が高い。 こういう風に目されていて、それだけでどうしてそんなに凄いんですかと驚かれる。 それは説明しにくいことだったんだが、今回の質問本文をプリンのアウトすると丁度A4、2ページになる。 ちょうどいい内容なので、少数者として周囲に理解してもらう目的での活用を考えていて、そのために作文した論理が、読みやすいか、判りやすいか、これも関心があり簡単な読後感の投稿だけでうれしい。 私には人生に関わって、そうした少数者としての人生相談でもあるんだ。 もう一つ私は普段棺桶に片足突っ込んだようなことは考えていなくて、哲学する時には必ず酒が入っている。その酒が悪酔いになる様な回答をしてくると私自身が質問を荒らして台無しになるんだ。また削除されたらいやだから少しは気を使ってくれ。 以下が本文だ。 霊能力というと単なる迷信という考え方があるが、自己の思考法としてここまで明晰に分析できていれば、内容に関して一定の理解が出来るのではないだろうか。 思考法と哲学は共通項が多いので、作文として引用する機会が多いから、内容をアップデートするため改めてかくよ。 自分を理解すると言うのはなかなか難しくて、何故なら自分自身に疑問を持つことは、それ自体が自己に対する否定的な考え方だからだ。 ろくな結果にならないんだ。 哲学と言えば自虐的な考えに挑戦した大先生も多い。 私は考える、これは自然なことでその思考を他者と比較することは言葉を通して断片的にしかできない。 そこで思考と言えば、いつの間にか言葉の事だと言う定説が出来ているがそれについては異論がある。 発想方や直感とかかわって、ビジョン、イメージ、こういう言葉が引用されているね。 だから多くの人にとって実際は、映像を心で内観することが思考に組み込まれているのだろう。 霊視というあやふやな表現の正体は、普通に日常語でビジョンと言われるこの映像の内観だ。 私はこのビジョンの達人で、言語で補足しなくても映像だけで思考が成立する。 たとえばメモが撮りたくてボールペンを探そうとするだろう。 ボールペンの映像が見える。 いつもの鉛筆立てが見える。 前回ボールペンを使った場所が見える。 どっちにしようかと思いながらも足が前回ボールペンを使った場所に向かう。 足を進める間、ボールペンを片づけておけばよかったなと、ボールペンを片づける映像が見える。 そしてボールペンをみつける。 ちょっとそこら辺をかたずける。 こうした行動の一連の流れに、私には言葉による認識がない。 無音のまま映像だけで意味のある思考の形態が成立している。 もちろん、言語的にも思考しないわけではないから、映像と言語を組み合わせたり、2チャンネル化して映像と言語でそれぞれ別に考えたりも出来る。 言葉で自己を確認していない私は、言葉も映像もない無の境地と言われる瞑想状態も可能だ。 霊視というのは、ボールペンを探す様なこの知性的行いの延長で、誰か他者を想起してその人物像を内観で鑑定することだ。 そもそも映像の内観を伴う思考法は、言語的思考より自由度が高くて、言葉で気がつかない様な異なる視点の新発想ができる。 これが、「当たってる」と驚かれるんだ。 これらは本来知性の働きの一部だ。 私は科学万能というほとんど宗教みたいな迷信を持ち合わせていないので、、他者の人物像を鑑定することは、心を見ることだととらえている。 精神世界という言い方も出来る観念世界を見ているんだ。 知性の一部である以上、本来は理性的事柄だ。 世の中の霊能力者は人物像を鑑定する際に、 貴方の守護霊様のお姿を拝見するに、、、 貴方のご先祖様は、、、、 こんな言い回しを前提にして始めるよね。 これは重大な矛盾点があって、精神世界という生きた心に死者を割り込ませることなんだ。 こうした死者を前提に論理とっかかりにして、内観した映像を言語的思考に翻訳するといった形態が一般的だ。 ボールペンの話のように、映像だけで思考が完結するほどの私は、こうした翻訳のプロセスがなく、より明晰に直視している。 内観した人物像を思ったまま口に出すだけで面倒なことはしない。 言葉ってのは、思考の全容ではなく一部だが、言葉にすることで思考は形になるとは言えるね。 霊視能力を言葉で分析したこの論理は果たして了解できることか意見してくれ。 質問としては私が独自に進めている哲学研究に関する助言だ。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.1

まず、霊視という単語を改めビジョンとか、イメージという単語を使うと分かりやすい。 あと、ボールペンを探す行為のどこら辺が知性的なのか理解しかねる。 おそらく普通の人は、ボールペンを探すのにビジョンもイメージも言語も使わない。 他者のイメージを語ったり想起したりすることは日常的にあり得ることだけれど、そのイメージが実像と どれだけ離れているか、或いは当たっているかは、あまり重要ではない気がする。茶飲み話のようなものだから。でも一応、当たっていると言われるならば、質問者の観察眼や洞察力は優れているのかもしれない。 質問冒頭の、自己理解は自己否定と 連関があるという話は参考になった。 こんなところだろうか。

Flareon
質問者

お礼

読後感としては丁寧だね。 ありがとサン。

Flareon
質問者

補足

考察のメモだよ。 悪まで研究課題なんでな。 一人で進めるよ。 ビジョンを断片的にしか認識できない。 これは、 ビジョンを断片的にしか認識できないほどの理性的欠如がある。 いじめるようだがこう言い変えてもいい。 この原因を考察中で、結論はおそらく、観念世界を「あの世」つまり死者の国としてとうざける恐怖感があるからだ。 霊感の持ち主はこれを逆手にとって、ビジョンを認識するための、理性的資質を死者のイメージでこりかためているからその前提条件の範疇で認識の幅が広がり解釈できるんだ。 それだけだと偏見のある論理を前提にしたゆがんだ解釈だ。 観念世界をイメージという言い回しをすれば、コレは精神世界であり無意識の研究と絡んでくる。 あの世は信じない。 こう言えばまるで合理的な現代人のように聞こえるね。 ところが同時に観念世界を拒絶することであって、理解する事への拒絶がそのまま認識の不全につながっている。 つまり抜きがたい死への恐怖が、多くの人にとって理性的欠落をもたらしている。 私はかねてから言っていたね。 君達は観念世界で、ファイト一発死んでみる必要がある。 こんな風にね。 タネ明かしをすれば、これが言いたかったんだよ。 理解することで克服するのはこのような段階があり、だからこそ死と向き合う事が必要だ。 私の死への案内は、十分に君達を救いに導く親切だ。 名目上はな。 私はこの意地悪な親切を楽しんでいるんだ。

その他の回答 (4)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.5

Flareon様、こんばんは。 >「知性の一部である以上、本来は理性的事柄だ。」 そうなの? それだと、「理性」>>「知性」ということ?

Flareon
質問者

お礼

知らんよ。 思うまま書いたことだ。

  • sssv
  • ベストアンサー率14% (7/49)
回答No.4

キュアブルーム様、明けましておめでとうございます、今年もよろしくお願いします。

Flareon
質問者

お礼

あんた、誰だっけ。 なんてな、うそだよ。

  • hiak123
  • ベストアンサー率16% (14/87)
回答No.3

私は知っているのでこう言いましょう。 霊感というものは純真、誠実から知らずに得られるものである。 また、苦労というものがとてつもなく多い。 私良ければ良し心情からも得られる。また、苦労というものがとてつもなく多い。この手の苦労、 苦しみは人は正気の人からは悲しみしか感ずることはできない。知性上においても悲しみしか感ずることはできない。 神は欲すれば与えられる。そんなことは無いとあなた方は言うだろう。 霊感も悟りも何の役にも立たない。 日々を注意をして暮らす。これ以上の知恵は無い。 私は知っている。おのずから注意を払う。これ以上の知恵は無い。 私が霊感も悟りも知っているとあなた方は信じないであろうと知っている。 なぜ、あからさまにこう言うのでしょうか。あなたが少しは悪意が有っても純真、誠実だったで有ると知っているからです。それ以上は知りません。 あなたがた馬鹿には分からないことを言う。日々注意を払いなさい。 もうひとつ言おう。現実は厳しい。馬鹿には耐えられない。 希望がある。分別を知りなさい。馬鹿ゆえんの分別はやめなさい。

Flareon
質問者

お礼

やあ、おめでとう。

Flareon
質問者

補足

考察メモだよ。 ボールペンの話がどこら辺が考えになってるか判らないという意見がった。 あの映像の流れは、意思を反映して、選択と結論を出しているだろ。 考えていることになるんだ。

  • miko-desi
  • ベストアンサー率19% (69/352)
回答No.2

霊感の能力もないし論理はわからないです。 けれども 宇宙にも人間にも本来の自然な「生体リズム」が備わっていて リズムが似ていると離れているもの同士で同調し合うことや ノイズキャンセルのように逆相に同期することは物理学的に証明されてますね。 バラバラのリズム間のものが結合力の限界になると突然 集団全体が同期して大きなリズムを示すようになる(コンサート会場の拍手など) これは「転移」が起こったんですね。 同期するのは霊感や直感より生体リズムが関係していると睨んでます!

Flareon
質問者

お礼

ありがとね。 そうか。

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    こんにちわ。先日私は、私の彼について電話による霊感霊視鑑定というのを 受けました。実は、私の彼は外国人です。そうしたら、その霊能者の方々(2人 別々の機会に観てもらいました)は’言葉がわからない’というので、 少しあせっていた様子。外国人だと、同じ言葉の通じる日本人に比べて 鑑定がしにくいのでしょうか?ご意見をお待ちしております。よろしくお願いします。

  • 愛についての概念研究

    きわめてめんどくさい。 やる気ない。 しかし私は、人から欲動をもたらされて突き動かされたりしない。 君たちが到達していない意思が私を突き動かす欲動になるのだ。 さて、ここまで読んで私が何を研究しているのか承知できる人向けの話題を投稿するよ。 たいていが男性として打ちのめされた哲学者だ。 廃人の野戦病院みたいな気分だよ。 おっちゃんがメンソレータムを塗ってあげるね。 過去研究で「絆」という言葉が「愛」という言葉の本質であると匂わせた。 今回は愛は絆を結ぶための触媒であるという考察だ。 人が自覚できる知性というのは言語が中心だ。 しかし、いい気分嫌な気分そうした事柄は思考に反映する。 思考と判断は、知覚された各要素を総合していて、言語的な思考のみを反映していない。 そして、他者と相互に理解しあう人間の成立過程で、現時点最強概念が絆だ。 血を交わしたに等しい関係のものを裏切ることは少ないだろう。 絆とは思考の総体が言語以外に及ぶ突破口で、五感を震わせるように他者と共鳴したなら、言葉は極めて補足的な文房具に過ぎない。 こうした他者への深い理解が可能だ。 愛の概念自体も哲学での取り扱いは、相互理解を容易にする概念であることだ。 愛の目標は、絆を結ぶこと。 今回はここらへんでいいだろう。 ここは学問カテゴリーの哲学ジャンルで、研究について読書感想文を募集しています。 私がさらに研究するための助けになります。

  • お告げは変化するものなのか

     よく江原さんがおこなっているような霊視鑑定を行ってもらった結果、頂いた答えというのは、不変のものなのでしょうか?天からのお告げは絶対なのでしょうか?   たとえば、Aさんが「将来起業家として成功するでしょうか?」というのを、霊視鑑定してもらったとき、答えが、「いいえ、起業しても収入に困るでしょう。どこかに勤めなさい」といわれたら、それはもう覆せないものなのでしょうか?手相とかは変わるといいますよね。たとえば、このとき(霊視鑑定してもらったとき)Aさんは人が悪く、コミュニケーション能力に欠ける人物だったとします。これでは通常、社会でうまくやっていけません。ところがAさんが何かをきっかけに、これらを克服することができたなら、「いいえ、起業しても収入に困るでしょう。どこかに勤めなさい」という答えも変わるものなのでしょうか? この点について、江原さんや木村さんのような真の霊能力者はこの点についてどこかで述べていたりして、それを知っている方がいらっしゃいましたら、ぜひその内容をおしえてください

  • 哲学で使われる言葉

    最近この哲学カテゴリにきて感じた疑問です… 言葉をわざわざ難しくするのが哲学なのでしょうか? それとも難しい言葉や表現を使わなくても話し合ったり議論しつくしたり、そこでの結果を求めることが目的なのでしょうか? このことを検索をしていましたら、難しい言葉を多用する人の心理には、「知性化」が働いている、という記事を見つけました。 難解な言葉を多用する人は、実は「知性化」が働いている。この知性化というのは「逃げたい」「バカにされることを恐れている。とのことでした。 また難解な言葉で述べる人は頭が悪いそうです。 哲学書を開くと難解な言葉ばかりですので、哲学者の方々は「知性化」されているということになります。これも哲学者の動機なのでしょうか… このカテゴリでは短文また長文で明確な表現をする人、短文また長文でややこしい言葉を多用する人に分かれていると思いました。 哲学で使われる言語表現はどうあるべきでしょうか?