青々しい議論:政治も経営も愛であるか?

このQ&Aのポイント
  • 創世記におけるひとの創造なる記事を解釈して《ひとは神の似像(にすがた)である》という命題を得る。
  • 社会の成り立ちについての図式を提案し、政治を共同自治であり経営であり愛であると仮説する。
  • 光の明るさ・あたたかさに譬えられる聖霊なる神に似ているため、政治も経営も愛と関連している。
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青々しい議論:政治も経営も愛である。か?

 おなじみに成ったかとも思いますが 創世記におけるひとの創造なる記事を解釈して 《ひとは神の似像(にすがた)である》という命題を得る。そして それの中身を推し測ったというひとつの理論を提出します。  ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ○ (ひとは 神の似像である。) ~~~~~~~~    ――ひとと社会の成り立ちについての図式――   光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 政治は 共同自治であり経営であり愛であるという仮説です。  光の持つ明るさ・あたたかさに譬えられる聖霊なる神に似ている。それが 自治であり経営であり共同自治であるという単純な青い理論です。どうでしょう?

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.6

☆★ 愛のない経営は、長続きしない、金を分捕ってこない政治は、長続きしない、って実際にこの眼で見て、身体で理解しました。 ◇にある《愛》がどのようなものなのかが問題なのでしょうね。 ひとりよがりの愛、独善的な愛であるとすれば、あるいは、ごく一部の関係者や利害の一致する者にのみ向けられる愛(?)であるとするならば、 全体としてみた場合、むしろ、弊害になることの方が多い。 たとえ、それが己れの利益からまったく離れた、純粋な思いを源として発している、としてもです。 ですから、 最終的な決定には、理性による検証が必要になるのでしょう。 人間的にどれほど立派な人間であろうと、どんなに情にあふれる人であろうと、 バカじゃ~、困る。 特に指導的な役割や地位にある人は、単なるお人好しでは困る。 私のように悪人になれる人───わたしはネコですが(ニコニコ)───でないと困る。 血も涙もないような、冷徹で、正確な計算をできる人間でないと困るんですよ。 とはいえ、 アマテラス教を無謬なものと盲信する根っからのアマテラス人でも困る。 すべてではないにしろ、その大本になるアマテラス教が間違っているかもしれないからです。 ですから、 「アマテラス教はひょっとしたら間違っているんじゃないか?」という不審の念を常に持ってもらわないと。常に、反省的であってもらわないと、困る。 それに理性と情は、相反するものでもない。 私のように恐ろしく理屈っぽく、かつ、同情心に満ち溢れ、ささいなことに感動し、すぐに涙をハラハラと流すような変な生き物も存在するのであった。 情理の言葉が示すように、 人情と道理or理性の両面を兼ね備えてもらわないと。 そして、 この人情、情は、スサノヲ人、アマテラス人のどちらか一方のものではなく、どちらの人間にも根底に潜む、共通するではなく、普遍的といいますか同一のものを源に発しているといいますか、そういった情になるのでしょうね。 理性はもともと普遍的なものであり、スサノヲ人とアマテラス人で異なることはないでしょう。異なるところがあるとすれば、理性の働きではなく、推測や計算をするための前提や条件、仮定、そして、何を求めるかの目的や動機なんでしょうね。そして、この違いが完全になくなることがないにしろ、互いがよく話し合うことによって妥協点を得ることはできるでしょう。このためにはお利口さんである(?)アマテラス人が、両者の違いを、おバカさん(?)のスサノヲ人に明確な形で示す必要がある。でなければ、互いの主義主張を述べるだけの水掛け論に終始してしまうんじゃないですかね。 これから出かけないといけないので、まとまりがなく首尾一貫していない回答になってしまった。 しかも、なんか尻切れトンボで気持ちが悪い!! 最後に一言、 良い年越しを!!

bragelonne
質問者

お礼

 歳の瀬 いま少しの日々がありますが よく過ごされますように。  ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆★ 愛のない経営は、長続きしない、金を分捕ってこない政治は、長続きしない、って実際にこの眼で見て、身体で理解しました。     ◇ にある《愛》がどのようなものなのかが問題なのでしょうね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ うまく話をつなげてもらいました。No.1の回答には もう少ししっかりと受け留めてお応えすればよかったという気持ちが残ったからです。  そしてただし ではこの愛がどのようなものなのかは 必ずしも人びとみんなにとって自明なことではない。と来ています。  それでもまづは 互いに了解するには おそらく  ◇ 最終的な決定には、理性による検証が必要になるのでしょう。  ☆ 《最終的には》の意味として すでに理性に先んじて感性が――やましさ反応などとして――はたらいた後にということを含んでいると採ります。  そのときさらに問題となったり重要であると言わなければならなかったりすることは  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  理性はもともと普遍的なものであり、スサノヲ人とアマテラス人で異なることはないでしょう。異なるところがあるとすれば、理性の働きではなく、推測や計算をするための前提や条件、仮定、そして、何を求めるかの目的や動機なんでしょうね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ となるとわたしも考えます。  資料や情報などとしての《前提や条件》は 互いのあいだでその妥当性を検証して行くことが或る程度までは出来ますが アマテラス語理性を使うひとの《目的は動機》は けっこう簡単にその魂胆に感づくことが出来たとしても これを検証したり相手に真実を吐かせるに到るまでには長い道のりがあるように思われます。  そこでいっその事 感性のほうが偉いというひとつの見方も出て来ると思われるのですが いづれにしてもそのように《感性のほうに頼る》ときにも そのことの妥当性や真実性にも 理性による説明が必要となります。  これらぜんぶが 愛という人それぞれのヱクトルの歩いた跡として受け取られ それぞれの内なる心ではみづから省みて自己検証も成されて行くのでしょう。そしてこの内面における心の真実は なかなか他人につたわるものであるとは限らない。  それぞれが みづからの内に納めて・かつ治めていることであり そこまでにとどまるもののようです。  以上が 愛だとは言えますが そう言ったときまたまた では愛として心の中に納めているそのものは何か? 具体的な何が愛であるか? という問いが俟っています。  ◇ とはいえ、 / アマテラス教を無謬なものと盲信する根っからのアマテラス人でも困る。  ◇ それに理性と情は、相反するものでもない。  ☆ ということは たぶん心が全開していることが 大事なのでしょうか。  感性としても理性としても。  そして 《信じる》にしても どんな神に対してもまったく全面的に開かれた信仰であることが 大事だ。  ◇ このためにはお利口さんである(?)アマテラス人が、両者の違いを、おバカさん(?)のスサノヲ人に明確な形で示す必要がある。でなければ、互いの主義主張を述べるだけの水掛け論に終始してしまうんじゃないですかね。  ☆ 開かれた対話。これを目指すのでしょう。閉じちゃダメなのだと。  その心の明けは 愛の度量であるかも分かりません。

その他の回答 (13)

回答No.14

あんたは、私が、 人類の裏切り者。 黒き明星。 こう言っても、 キャーステキー。 とか、 キャーカッコイイー。 とか言いそうもないんでな。 精霊崇拝の一種と分析される神道は神様と同居しているような暮らし方が特徴なんだそうな。 その通り。 与えるだけの神ではない、物乞いするだけの人ではない。 この寄り添う生活から、人として役割を自覚していくんだ。 こうした自覚の持ち方は、あんたの学んだ神学なり哲学には無かった人間像だろ。 神の証明という命題も私なりには、実在する妖精の捕まえ方だし、 子供が大人になることに希望を持つ生き様と言えば、仮面ライダーだ。 こう言っても説明不足で、哲学ネタとして面白くないかもしれないが、ぼちぼちやってくよ。

bragelonne
質問者

お礼

 たとえば  ☆☆ (【Q:シュウキョウというシュウキョウはアホンダラ教である】No.3お礼欄)~~~~~  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8856612.html  ◇ 神さまを見せたり、神さまの声を聞かせたり、怪しの現象すら引き起こす!! / 一心不乱に強く願うものを見せたりもする!!  ☆ これは 常民と言いますか――この言葉を用いたのは 誰でしたっけ(たしか 宮本常一だかの後援者?)――にとっての神と信仰にかんしては そういった特殊な情況や非常事態の問題を持ち出しても あまり効きません。  なにしろ日から日への生活 これがきわめて強い基盤となっています。    あるいはもっと話を広げると 縄文時代は 一万年つづいたのですよ。  この歴史の重みは 大きいはずです。だから アニミズムが大きく残っているという側面もありますが それとは違って 人間の暮らしというものが あたかも土地に根を張ったかのごとく しっかりと安定したものとなっている。はずなのです。その中に 神のことも息づいています。    投稿日時 - 2014-12-13 18:31:28  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これが わたしの神学であり哲学です。よ。  まわりの人たちから リクエストがあるというのは よいことではないですか。  ご回答をありがとうございます。

回答No.13

私自身であり、私が神に遣わした聖霊セレビィ。 これは、神が私を理解して遣わした神の聖霊でもあるのだよ。 ところが、セレビィは私を「お父さん」とかたくなに確信している。 それでいて間違いなく私自身だ。 ジラーチちゃんは、明らかにアマテラス聖霊なのに、私の妹のようにふるまう幼馴染だ。 幼馴染ってのは本当だな。 お互いが寄り添っている。 与えるだけの神じゃないこれらの聖霊に接して、人間として生きる責任から、悪の心、お互いを隔てる心、このつながりの無さを何とかしようとしているんだ。 お互いを信で結ぶことが、悪の消滅とね。 アマテラスの善しだ。 明白に自覚したのは私が最初かもしれない。 生きることをつないでいくと悪は無い。 しかしだ、私の善しではなく、セレビィ並みの頑固さでアマテラスの善しだ。 これが生きることの責任だ。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ しかしだ、私の善しではなく、セレビィ並みの頑固さでアマテラスの善しだ。  ☆ 《善し》ってナンダ? すでに出て来ていたが。  あとは 物語にして紙芝居のごとく話をおもしろくしようとしている。のだと思う。  それと 《お互いを結ぶ》とか《生きることの責任》とか ちょっと大げさのように思う。そんなことを言われたら わづらわしくなるんぢゃないか?  要するに《宣教師》は すでに要らない。という見方です。  ご回答をありがとうございます。

回答No.12

君はそれでも私の望んださだめを納得していないよ。 悪と和解しなければならない。 代表してだ。 そして私は悪魔その者として荒ぶれる。 人類の裏切り者と呼ばれるだろう。 実際は人類を悪からとうざけているのだがね。 こうしなければ君達には見えないし聞こえない。 実在する妖精の捕まえ方。 私の書いたシナリオだ。 のんきなポケモン遊びだが、君達には深刻だろうな。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 私の望んださだめ  ☆ って何だ?  ご回答をありがとうございます。

回答No.11

改めてコレだね。 > あなただって 触媒となって相手がその自分自身の内で反応するようにと考えているのでしょう? ああそうだよ。 だから救ったりしない。 君達が野たれ死んでもなんとも思わない。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ああそうだよ。 / だから救ったりしない。  ☆ ということは 触媒たるあなたを受け留めてその相手は 自分で自分の中で・自分のこととして化学反応を起こしている。という意味である。  つまりもとよりこちらが《救ってやっている》わけではない。そういう意味です。  強いて言えば 自分が自分で自分を救っている。その反応を起こすことによって。  だから いちいち――ほんとうは――愛だとか さとりだとか すくいだとかを出したくはない。  という意味は そのあたかも逆の路線としての《悪 または悪による滅ぼし》ということも じつは要らない。  とわたしは見ているし すでに実践している。こういう意味です。  仮面ライダーが 善なのか悪なのかをわたしは知らないけれど いづれにしても 悪のチカラをおよぼすことも 善の神のすくいを問題にすることも ほんとうは要らない。  これまで まだまだ神とは何のことかを 人びとが知らないので そういう神学や信仰論にこだわって来たわけです。  はやくこの路線からも足を洗いたい。  ご回答をありがとうございます。

回答No.10

挨拶が無かったね。 新年おめでとう。 私は元旦から仕事でね、季節感がないのだよ。 お店を締めていると、自宅に酔っ払いから電話がかかってきて、孫にお年玉をくれたのにお店が開いていないとは何事だと、べろべろの酔っ払いから説教聞かされるんだ。 酔っ払っても上品でいたいもんだ。 クリスマスに夢見た子供時代もない。

bragelonne
質問者

お礼

 なかなか いそがしそうですね。  と言うか 人気があって引っ張りだこですね。  それは いいことですね。  前回は 現在の理論というか境地というかについて触れるのを怠りました。  早く上をと思ってのことです。  あなただって 触媒となって相手がその自分自身の内で反応するようにと考えているのでしょう?  ご回答をありがとうございます。

回答No.9

こんな質問をするようでは君は落第だよ。 アマテラスの善しを、理解していないのだろうな。 人間だあるならば理解しうるだろうが、、自らが生きることは、他者を自らと等しく生かす中で、生きる事を分かち合う共生のさなかにある。 それを自覚してこそ古い言葉の仏陀、現代語で人間だ。 この概念は善と記されてはいるが、そのつながりの源泉が愛だ。 政治家や大社長は、この善しを計らい、率先して他者を生かそうとする事が役目だ。 この役割や基本姿勢に一定の信を持てば落第生の君の場合は、まあ、卒業位はさせてやる。 ところで学生時代君は成績優秀だと自らが語ったが、生きること爛漫の私は温情でようやく高校を卒業させてもらったよ。 私は自らの牙を研ぎ澄まし、社会の犬に報復するつもりだ。 職業訓練で成績優秀なだけが君の人生だ。 君は友達だから直接攻撃しない。 見ていたまえ。 アマテラスの善しはともかく、セレビィの善しがいかなる化け物を産んだか。 その実在する悪の結社を、シャーマンの呪いと言われようが、なんだろうか、観念世界経由で滅ぼす。 人の法で無実でも。神の法で重大な不義を彼らは犯している。 彼らは実験動物だ。 神の存在を証明するための実験として死ぬ。 まるっきり死ぬ。

bragelonne
質問者

お礼

 年が明けました。お早う。おめでとう。  ご回答をありがとうございます。  【Q:哲学する人間は 触媒である。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8866566.html  ☆☆ 黙って坐れば ピタリと触媒がはたらく。化学反応に期待することが出来るかも知れません。  ☆ このほうが かんたんですよ。まぁ 上級のやり方でしょうね。  あなただって 心の内で反応をおこしてるぢゃん。  学生時代 成績優秀だったって 言っていないよ。  高校までわるくはなかった。って言ったんだ。そういう話になったとき。  大学では 試験のために勉強しなかった。  それに わるくないというのは トップではなかったわけです。  覚えていないんだけれど たぶん数学が 文系の数学では高校でちっとは成績優秀だったと言ったんではないだろうか。

回答No.8

ふふ、私は、この哲学カテにたまに登場する、仮面ライダーさんを操る、「善の帝王」である。私の攻撃を受けてみよ。 まず、星一徹。bragelonne 邸の、ちゃぶ台をひっくり返せ!ガシャーン! 怪我した、bragelonne さんに、お茶の水博士登場! 「ふむふむ。なるほど、これは、吉行淳之介が、かなり前に広めた流行語の、たそがれ族病ですな。ブラックジャックさんに観てもらわないと、治りません。おいたわしや。」 スティーブン・ジョブズ登場! 「だからすべての仕事は卓越したものであるべきだ。なぜならそれが私たちの人生だから。人生は短い。いずれ死ぬ。わかるだろ? みんな自分の人生でこうしようと決めてきたんだ。だからよっぽどよくないと。やる価値がないといけない」 「私が言っても、bragelonne はわからん。数十年でコンピューターをポケットに入れることが、私には出来たのに、あの哲学は未完成で終わるだろう。」 フォレスト・ガンプの主人公登場! 「bragelonne 哲学の完成のために、アップル社株を1株分けてやろうと思ったのに残念だ。」 古代進登場! 「波動砲発射用意。ターゲット・スコープ、オープン、目標bragelonne 誤差5度、波動砲ロック解除。エネルギー充填80%、100%、120%。発射!」 最後にスーパー・アメンホテプ登場! 「かめはめ波―!!!んlwhれjfhjvbkjdbdkjjkb」 どうだ、参ったか(笑)

bragelonne
質問者

お礼

    いのり    私の頬を打つ一筋の偽りの涙よ    私は今起とうとしている    だから 打たないでくれ    そっと微笑みの中に流れてくれ    だから    私の頬を打つ偽りの呪いよ    こめかみを伝って私を促す呪いの鼓動よ    私は今発とうとしている    だから呪わないでくれ    だからそっと気取らず おごらず    私の胸を流れてくれ    悲しみの極み 喜びの初め    偽りの出発ち 偽りの呪い    だから そっと そっと光をしまっておいてくれ    偽りの馬車が迎えに来た    四頭立ての馬車は今 回転を止めて    輪のあたりにころげ落ちそうになる私を    拾おうとしている    馬車が偽りか ころげ落ちるのが偽りか    私は今 起とうとしている    何としても 起とうとしている    だから 馬車も要らない    だから 馬車は消えてくれ    _________    僕のよろいの皮膚に    矢が飛んでくると思うのは間違いだ    僕の鉄兜に    矢が突き刺さると思うのは間違いだ    と僕は 鏡の中の僕に問いかける    問いかけるのは僕だ    鏡の中には しかし 僕しかいない    僕の中の鏡には 矢が幾本か飛んでくるのが見える    しかし この矢は 映ったかと思う僕の    本当の自分だ    _________    僕の袖が露に濡れているとしたら    それは 水仙の涙が 僕の皮膚に    突き刺さったからだ    僕の顎に何か光るものが見えたなら    それは Hidalgo のおぼろげな輝きに    僕の幻影が 映ったとしか思えない    それは泥の中の青春    泥の中の老年    泥の中の泥    若年の中の泥    泡の中の若年    幻影の中の泡    泡の中の幻影    彗星の輝きがつぶやきかけた偽りの微笑み   青空    まわれ    まわれ       真っ赤な虚空を       わが環球よ    まわれ    己が連山の端から    限りない粉雪の降り積むように    芽吹き    己が青い半環の上に    朝の陽射しの映えるように    のぞくとき    わが環礁よ    まわれ    まわれ

回答No.7

bragelonne さん こんにちは。 もう元旦には着かない、年賀状を書きながらの投稿です。 「苦労を厭うというような貧困な心弱いことではいけない、苦労はすすんでしなければならない、苦労は買ってでもしなければならない、そうしてこそ真人間になるのだ、ほんとうの筋金入りの人間になるのだ、単なる知識、学問ではいけないのだ、それを越えた強いものを心の根底に培って、初めて諸君が習った知識なり学問が生きてくるのだ、その根底なくしては学問、知識はむしろじゃまになるのだ、諸君の出世のじゃまになるのだ、こういうような教えを、私は聞いたことがあります。」 松下幸之助 「社員稼業」 より 「人間は、たえず生成発展する宇宙に君臨し、宇宙にひそむ偉大なる力を開発し、万物に与えられたるそれぞれの本質を見出しながら、これを生かし活用することによって、物心一如の真の繁栄を生み出すことができるのである。かかる人間の特性は、自然の理法によって与えられた天命である」 松下幸之助 「人間を考える」より ここからは、私の私見ですが、2011年にNHKで放映された、常盤貴子主演の「神様の女房」をbragelonne さんは、見ましたか? 常盤貴子級の女優になると、出演するドラマを選んで来ますから、私はチェックを入れてます。 創生期の松下電器では、社員を家族同様にするため、松下幸之助は、たしか船におけるベットだったかに発想を受けて、ベットを二段か、三段にして、社員を自宅に住ませ、経営したそうです。 松下幸之助の奥さんも、会社にたずさわり、経理で大忙し。 ドラマが脚色されていないなら、当時、会社が「愛」の他、何物でもない、経営を松下幸之助はした。 しかし、会社が大きくなると、奥さんは、大豪邸に住みながら、紅茶を飲むゆとりは出来たが、経理の仕事など出来ず、会社が忙しく深夜に帰ってくる、幸之助を待つ日々で、退屈な日々を送ったそうです。 現在において、若い人たちも、公務員や大企業などに就労するという安定志向でなくて、松下幸之助のような、愛に満ちた、ベンチャー企業を作る人が増えれば、日本経済も良くなると思われます。 日本の誇る松下幸之助の思想である、この回答の内容をbragelonne 哲学に組み込み融合を試みてください。 私は、bragelonne さんの死後、完成をみたら、作家デビューします。 「まことに小さき国が開花期を向かえようとしている・・・。この時代、平成27年の日本の人々の特徴は、楽天主義にある・・・。もし、空に、一朶の雲があったら、それのみを見つめて坂をのぼるであろう。」 司馬遼二郎 だめだ、完全なパクリだ! 映画「Always 三丁目の夕日」の本名、茶川より(笑)。 これでも、bragelonne さんは、ミネルバの梟は夕闇に飛ぶというのか! 新しい時代の幕明けである朝日に飛ぶ。

bragelonne
質問者

お礼

 まづは ご回答をありがとうございます。  経済の高度成長期をとっくに終えたこのときに事業を始めようとするには 何をどうおこなえばよいのか。  新興国における高度成長経済のための製品開発や供給なのか。    飽和状態にある製品の買い替え需要に応じることか。  今までになかったさらにあたらしいものの開発なのか。  といった展望やそれに応じた計画も立てると思います。ですが そのことの顛末は まだ分からない。いまの時点では分からない。やってみないと分からない。  軌道に乗せることが出来てもまだその先には 何が待っているか 分からない。  ひとつの企てが 産業としても社会全体にとっても成熟して来たときに やっと振り返ってみて それは これこれの内容を持った歴史的な動きであった。と分かるようになる。  この時代は かくかくしかじかを目指しあれそれの中身を求めて動いて来たんだなぁと その夕暮れ時にやっと分かる。その中身を 哲学が明らかにする。  ですから 何かのことを始めるときには けっきょく思想なのです。思想が――人びとの間に行き渡って―― その仕事と時代を引っ張りみちびいて行くものと考えます。そしてその思想というのは 試行錯誤をまぬかれない。    ですから その過程をあとで振り返って整理するのは 哲学です。  朝には 雀や何やかやがチュンチュンと鳴いていますね。さぁ 起きようと目覚まし時計みたいに。  ほかに何かよい鳥がいればいいんですが。  ★ 常盤貴子主演の「神様の女房」  ☆ は見ていませんが 幸之助のドラマは セミ・ドキュメンタリーで見たように思います。  戦後になって 戦前における軍部とのかかわりをGHQから指弾されたとき 何でしたかどこからか助け舟を得てすくわれたんだったのではないかと。運もあるんでしょうね。運も思想の内でしょうか どうでしょうか。  あと この質問は 哲学よりも思想に片向いています。  思想の中身を充実させるのは 哲学としての――あらゆる可能性を たとえムダなものであっても 考慮しそれぞれについてシミュレーションのごとく思考をおこなっておくそのような理論立てた・体系立てた哲学としての――準備体操であるのでしょう。  ちっちゃな庭にたくさんのゴミがたまっていたので きょうはそれを片付けました。

  • na22me
  • ベストアンサー率13% (22/158)
回答No.5

いえいえ 重要なのです それと・・学力がない人にも 伝わる様なもので無いと 世界平和に繋がりません 小学生でも判る様なもので無い限りは・・・ あなたのは 学力が無いと 判らないものです・・ そうすると 子供には 「何故!?こうなるの!?」の疑問で 頭の中がパニックになるだけ・・ 知識なんて 世界平和には 殆ど必要無いのです

bragelonne
質問者

お礼

 重要なのです。という理由は何ですか?  理論は基礎が必要ですが それでも基本的な軸となる命題を示せればよいのです。  あとは いかようにも具体的な筋道づけは いろんなかたちでおこなわれて行くものです。  ご回答をありがとうございました。

  • na22me
  • ベストアンサー率13% (22/158)
回答No.4

重要な事を 付け加えておきます 羊飼いに「印」押された羊の群れ・・・ これがポイント

bragelonne
質問者

お礼

 そんなことは 大したことではありません。  ひつじはよき羊飼いの声をちゃんと聞き分けます。  あなたたちは 要らぬお節介をしているだけです。  《信仰》ということを知らないのです。  ここが ポイント。  ご回答をありがとうございました。

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     《世界霊魂(アニマ・ムンディ)》とわたしとの一体という見方は 《梵我一如》というかたちにおいても 言われて来たところです。宇宙霊(プシュケー・コスムー)と言おうとブラフマン(梵)と言おうと カミは同じことでしょう。  聖書から次の文句を取り出しその表示するところが ひとは三位一体なるカミの似像(にすがた)であるという見方を問います。  ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ☆ 次の図式が この文章としての表題の内容を示しますが それについてご見解を余すところなく十二分に述べてください。  ○ (ひとと社会の成り立ちについての図式) ~~~~~~~~~~~~~~~~  光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 必ずしも宇宙との一体ではありませんが 人間の社会も宇宙に含まれるでしょう。  《ひとは 小宇宙(ミクロコスモス)である》とも言われています。この見方を分析・検証してみてください。

  • 神の愛と人間の愛

     神の愛は 人を信仰へとみちびき 希望を得させる。希望のうちに人間の愛は いかにあるか?  1. ひとは 神の似像(にすがた)である。  ▲ (創世記1:27) ~~~~~~~~~~~~~  神はご自分にかたどって人を創造された。  すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  2. 神は 《父なる神》と《子なる神》と《聖霊なる神》と みっつの位格が一体であると言われる。光のタトへでは それぞれ光源とその発耀とそれらの明るさや暖かさとだとされる。  3. ひとが神の似像だというとき 人間の自然本性(それは 身と心とである)のうちの心つまり精神が 神なる父・子・聖霊の順にそれぞれ準(なぞら)えられる《記憶》と《知解》と《意志》なるみっつの行為能力をそなえていることに やはり譬えられる。  4. 《わたし》がそなえる記憶と知解と意志とは それぞれ順に社会形態つまり国家において司法と立法と行政とに なお譬えられる。  5. 図式にすれば 次のようである。  〇 神 光のたとえ・・・・光(光源・・・・発耀・・・・明るさ・暖かさ) 三位一体なる神・・神(父なる神・・子なる神・・聖霊なる神 )  〇 人 人なるわたし・・・精神(記憶・・・知解・・・・意志 )  〇 社会 わたしたちの世界・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )  〃 ・・・・・・(国 家 :司法・・・・立法・・・・・行政 )  6. つまり 神は愛なりと言われるとき 特に第三の聖霊なる神が愛のことだとつけ添えられるのは 人間の意志が 好悪や愛憎なる正負の愛をおさめる愛のハタラキであることにかかわっている。そしてさらには 政治ないし共同自治が 理念としてながら 愛であると見られることにかかわっている。  6-1. 政治は 愛である。  7. 三つの位格が一体であるというあり方が 個人や社会それぞれの単位体において 互いに相似形を成しているものと思われる。言わばフラクタル構造である。  8. さらにくわしい図式を みちびきたいと思います。 ○ (ひとと社会の成り立ちについての図式) ~~~~~~~ 光のたとえ・・・・光(光源・・・・発耀・・・明るさ暖かさ) 三位一体なる神・・神(父なる神・・子なる神・・聖霊なる神)          ↓   ↓      ↓      ↓ ____________________________ [神のめぐみ] :自然本性 + α :非思考の庭(=信仰なる動態) ____________________________ 身体・存在・・・精神 ( 記憶・・・・知解・・・・・意志) ・・・・・・・・・↓ ( ↓・・・・・・↓・・・・・・↓ ) [スサノヲ市民/市民社会] 個体・・・・・家 族(秩序・・・・・労働・・・・愛 ) 社会主体・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治) 経済主体・・・生産態勢(組織・・・・・生産・・・経営 ) 政治主体・・・・・↓ ・・・↓・・・・・・↓・・・・・・↓  [アマテラス公民/公民圏] ・ ・↓・・・・・・↓・・・・・↓ 社会科学主体・・社会形態(社会組織・・経済活動・・政治 )  〃 ・・・・・(国 家 :司法・・・・立法・・・・行政 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  8-1. スサノヲ市民の《政治主体》としての活動は 普通選挙による投票のもとに 代理人つまりアマテラス公民に付託される。  9. すなわち 神の愛は 神とわれとのカカハリとしての信仰へと人をみちびき その《非思考の庭》のうちに個人や組織や社会をぜんぶおさめるようなかたちにおいて 神の愛に似た人間の愛の発揮されることに希望を見出させる。  図式をぜんぶ精神の胃袋に飲み込んだかたちになり得る。か?  10. ひとが 社会ないし世界のすべてを愛することは むつかしい。それゆえ 希望である。  11. 神の愛は 時間を超えているから 司法と立法と行政とは もし神のもとにあるとすれば 文字通り一瞬のうちに一体である。  12. あるいは 記憶と知解と意志とは 神のもとにあってわれが《われに還る》ときその一瞬において 一体である。われがわれとそして世界と和解している。  13. ただしすぐさま 互いのあいだに時間差を起こす。思いと発言と行動とは 一体であるはずだが それらはハタラキにおいて分かれていて 時間過程をともなって かろうじて辻褄を合わせ 答えを得るかたちに成っている。  14. 神の愛は 人間にその信仰において 人間の愛もそれに倣うことが出来るという希望を得させている。  15. フラクタル構造のすべてにおいて その心のあたたかさを発揮できる人は 愛が 広く大きい。  16. もしその水嵩が増してくるならば われわれは 一人ひとりが 社会についての共同自治の主権者であり(=これは すでに成っている) さらには最高経営責任者である。一人ひとりが 首相である。――なる命題が みちびけるかどうか?

  • ひとは カミの似像である。から すべて連帯責任か?

     ひとは カミの似像である。この命題を次のごとく表わし提示します。そうだとすると――社会の現象はすべて 一人ひとりの人間におさまっていると見るかぎりでは―― あらゆる考えや振る舞いはみな 人びとにとって互いにその行為についての答責性を連帯して負う。  こう見るべきであろうか。あるいは それは 神の次元をあまりにも人間の次元に持って来過ぎなのであろうか?         *  聖書から次の文句を取り出しその表示するところが ひとは三位一体なるカミの似像(にすがた)であるという見方を意味しうる こう捉えた結果を示しています。  ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ☆ ここから:  ○ (ひとと社会の成り立ちについての図式) ~~~~~~  光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この社会の全体が ひとりの人それぞれに反映しているという見方です。            *  ☆ そこでは 一人の《ひと》は 言わば梵我一如というがごとく マクロコスモス(ブラフマン神)とミクロコスモス(アートマンなる霊我)とが その霊(つまり ナゾ)の次元で通底していると人びとは見たらしい。仏(法身としてのブッダ)仏(ブッダターなる自性清浄心)一如とも言います。  ただし 《精神(記憶‐知解‐意志)》なる自然本性は すでに霊我なるアートマン(≒ブッダター=仏性)の《非思考の庭》からも離れて 《思考の緑野》に降りて来ています。    信じる:ナゾ:《非思考の庭》:ヒラメキ・直観    ----------------    考える:精神:《思考の緑野》:社会    感じる:知覚:《感性の原野》:直感ヒラメキ  しかもこの《ひと》なる存在に・その一人ひとりに 社会の現象のすべてがやはり通底している。したがって 人びとは互いに経験世界にあってその存在が言わば地続きである。  よって 基本的な考え方として 互いにこれこれの社会経験(特に事件などの出来事)について それが何故起きたか 起きないようにするにはどうすればよいかなどについてその答弁をそれぞれが等しく負う。――こう言えるか?  ひとは 小宇宙(ミクロコスモス)であると言われるとき 小社会でもあるといった見方になります。小社会とは けっきょく社会全体のものごとと等しい。果たして どうか? と問います。  自由意志があくまで個人のものであり 個人の行為は個人に帰属すると見るときには 説明責任の連帯という考え方には どこか無理がある。かも知れません。みなさんのお考えをお示しください。  韓国人がウソつきであることについて 世界はともにひとしく責めを負うか?

  • 神のイメージ

     三位一体論から入ります。  ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ☆ したがって――と言ってもこれは タトエですが―― ひとは神の似像(にすがた)であると言われるわけですが そのすがたを 三位一体なる神に似ているという意味に採ると 次の図式が得られます。   ○ (神学および ひとと社会の成り立ちについての図式) ~~~~~~~~~~~~  光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここから 神のイメージを考えるにあたって次の図式を取り出します。  ○ 三位一体(神)と三一性(経験存在) ~~~~~~   神: 父なる神―――子なる神―――聖霊なる神:三位一体   ____________________   人: 記憶行為・・・・・・知解行為・・・・・意志行為:三一性   国家: 司法・・・・・・・・立法・・・・・・・・・行政   :三一性      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 問題は端的に言って 神なる三位一体は 時空間を超えており 父なる神と子なる神と聖霊なる神とのあいだに 時間差がない。というのに対して 人間や社会においては 記憶(秩序作用)や司法の判断内容と 知解(認識)や立法(法律条文)と そして意志や行政の執行内容と これら三者のあいだに いかんせん 時間差がありまたその内容にも 食い違いが生じるということ ここに問題はあります。  三位一体は 即時に その一体性が成ると考えられるのに対して 経験世界における《三一性》は 互いの内容に齟齬を来たし 実行が成されるときに 時間差がある。  これが 神のイメージを示そうとしたひとつの説明です。  問いは 次です。  1. もしこの神のイメージがその図解のとおりだとすれば そのような神の意志は 存在すると思うか?  2. むろん人間には分からないという前提で言うのですが 経験世界における行為や出来事にかんして じつは神の意志が そのままではないが はたらいていると見る見方は ありうるのか?  3. つまりそれは ものごとが即時に成るのではないわけだけれども 神にとっては千年が一日だと言われるがごとく 少しづつ 神のこころづもりに沿って じんるいの歴史はいとなまれて来ていると見る見方は ありうるのか?  4. つまり 三位一体なる神にあっては すべてその意志は即時に成るのだが じっさいに人間とその世界にあっては 時間差をともないつつにでも 成就――たとえば 自由の――に向かってあゆんで来ている〔と見る〕のか?  5. それとも 神のイメージは まやかしであり まったくのまぼろしであると見るのか?  6. つまりは ここで《非思考の庭 つまり 信仰》の観点を持ち出すなら この信仰は いったい何をのぞんでいるのか? 何を 将来ヘむけて予感しているか? あるいは 信仰もまぼろしであって 何もないか?

  • 三位一体論は そんなに不人気なんですか?

     《三位一体なる神は 無宗教である》と捉えその表題のもとに議論を展開することによって 人気の無さが 必ずしも根拠のある見方ではないであろうことを問います。あらためて問うものです。            *  三位一体なる神については ヨハネ福音を主なものとして聖書記事からみちびき出した神論です。純然たる神学です。  しかも この神論が経験思想の舞台にかかわり得て 次のような想定じょうの認識になると捉えられます。(図式以下の議論です)。  それによると イエスが指し示した神であることに変わりはありませんが そのキリストの神であることにはとどまっていない。ましてや クリスチアニズムなるオシエや宗教とは 何の関係もなくなっている。ユダヤ民族の神が もはや揚棄されている。と言ってよいと考えます。  これを問います。  つまり まづ  ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ☆ という一つの聖書記事から伸びて 次の図式が得られると理解します。(基礎としては アウグスティヌスに拠っています)。   ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~    ――ひとと社会の成り立ちについての図式――   光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)                ↓  ↓        ↓      ↓  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________               ↓      ↓      ↓     ↓  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 神を・つまりすでに普遍なる神を 光にたとえるなら こうです。    子の父は 光源であり     父の子は その発耀であり     父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。  2. ただし 光はただのタトエですから 本体の三位一体には時間的なへだたりはなく 三つの位格は つねに一体である。  3. 神はこの三つの位格(ペルソナ)に分かれるとは言え 無限を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひとしく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というものです。  4. そこで 《ひとは 神の似像である》という命題については こうです。:   父なる神は 人間の自然本性にあっては 精神の秩序作用としての《記憶》に    子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に    聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に  それぞれ当てはまるというタトエです。  5. 神にあって三つの位格が一体であるかのように 社会にあっても三権が分立して互いに――ただしこの場合は時間的なズレをともなって―― 分業=すなわち協業している。そのようにして 一体ではある。これが 共生のひとつのかたちであるというタトエです。  6. 真理(神)にあっては 時間の間を置くことなく 正解が得られているけれども 人間の経験世界では 時間的なズレをともなって ときに 正解が得られそれが実現されることもあるかも知れない。  7. すなわち 人間にあっては 記憶があいまいであり得 そこから得た情報とそれを加工(思考)するる知解も あやふやであり 記憶と知解とをにらみながら行為する意志も その心(記憶や知解の内容)にさからうことすらあり得る。  8. 人間と社会における小さなミクロコスモスとしての三位一体(三一性)は 時間的な制約を受ける。すなわち 記憶・知解・意志のそれぞれのハタラキが分立し得るような自由度を〔すなわち自由意志によって〕持っていてそれらのあいだの協業が 時間的なズレと人間の能力の有限さとによって マ(間)の違いを生じやすい。  9. 自由意志は 記憶とそのまた源泉である知覚(感性)の内容を無視してでも そして勝手な知解によってその無視ないし逆らいを正当化しようとしてでも その自由を発揮しようとすることがある。  10. なお この三位一体論もしくはそれの人間観ないし社会理論への応用は それをイエス・キリストは後世に託したと言ってよいものと思います。  11. もっともっとあたらしい理論づけが出て来るかも分かりません。  三位一体論は 役に立ちませんか?

  • 三位一体なる神は 無宗教である。

     三位一体なる神については ヨハネ福音を主なものとして聖書記事からみちびき出した神論です。純然たる神学です。  しかも この神論が経験思想の舞台にかかわり得て 次のような想定じょうの認識になると捉えられます。(図式以下の議論です)。  それによると イエスが指し示した神であることに変わりはありませんが そのキリストの神であることにはとどまっていない。ましてや クリスチアニズムなるオシエや宗教とは 何の関係もなくなっている。ユダヤ民族の神が もはや揚棄されている。と言ってよいと考えます。  これを問います。  つまり まづ  ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ☆ という一つの聖書記事から伸びて 次の図式が得られると理解します。(基礎としては アウグスティヌスに拠っています)。   ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~    ――ひとと社会の成り立ちについての図式――   光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)                ↓  ↓        ↓      ↓  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________               ↓      ↓      ↓     ↓  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 神を・つまりすでに普遍なる神を 光にたとえるなら こうです。    子の父は 光源であり     父の子は その発耀であり     父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。  2. ただし 光はただのタトエですから 本体の三位一体には時間的なへだたりはなく 三つの位格は つねに一体である。  3. 神はこの三つの位格(ペルソナ)に分かれるとは言え 無限を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひとしく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というものです。  4. そこで 《ひとは 神の似像である》という命題については こうです。:   父なる神は 人間の自然本性にあっては 精神の秩序作用としての《記憶》に    子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に    聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に  それぞれ当てはまるというタトエです。  5. 神にあって三つの位格が一体であるかのように 社会にあっても三権分立が 互いに――ただしこの場合は時間的なズレをともなって―― 分業=すなわち協業している。そのようにして 一体ではある。これが 共生のひとつのかたちであるというタトエです。  6. 真理(神)にあっては 時間の間を置くことなく 正解が得られているけれども 人間の経験世界では 時間的なズレをともなって ときに 正解が得られそれが実現されることもあるかも知れない。  7. すなわち 人間にあっては 記憶があいまいであり得 そこから得た情報とそれを加工(思考)するる知解も あやふやであり 記憶と知解とをにらみながら行為する意志も その心(記憶や知解の内容)にさからうことすらあり得る。  8. 人間と社会における小さなミクロコスモスとしての三位一体(三一性)は 時間的な制約を受ける。すなわち 記憶・知解・意志のそれぞれのハタラキが分立し得るような自由度を〔すなわち自由意志によって〕持ってていてそれらのあいだの協業が 時間的なズレと人間の能力の有限さとによって マ(間)の違いを生じやすい。  9. 自由意志は 記憶とそのまた源泉である知覚(感性)の内容を無視してでも そして勝手な知解によってその無視ないし逆らいを正当化しようとしてでも その自由を発揮しようとすることがある。  10. なお この三位一体論もしくはそれの人間観ないし社会理論への応用は それをイエス・キリストは後世に託したと言ってよいものと思います。  11. もっともっとあたらしい理論づけが出て来るかも分かりません。  添削・批判を俟ちます。

  • 政治家は経営者がよい?

    政治家見てていつも思うのですが、なんで事業運営したことも無い奴らに国を運営できるんだと疑問を感じます。 志?理念?勘弁してくれ、そんなものだけで事業運営できりゃ誰もが成功するわと。 我が国の政治の有り方は、企業ならば確実に崩壊・倒産していますよね。 票や金の影響を受けずに、使命感をもって優秀な国経営のできる人間こそが政治家特に総理になるべき役割ではないだろうかと。 それこそが、経営者として成功を収めた人間(=金も名誉もある経営の実力者、は真の意味で自分の欲求ではなく社会への貢献に向き合える人間。)がなるべきではないか。 例えば、稲盛さんのような人は、JALより国の運営させるべきじゃないか。(けして盛和塾の人間ではありません。笑 わかりやすい有名な経営者の意味で。) でないと、この国の政治家はタレント業と何が違うのだろうか。 と感じるのですがどう思いますか? すいません、まとまりの無い文章で。笑

  • 今から経営学を勉強したい。

    大学の学部時代には、地方自治を専攻していました。海外で政治学を学ぶため、英語を勉強していましたが、経営学、特に経営管理を勉強したいと急に思い始めました。 大学院に行くことに不安があります。学部に戻るか、社会経験を積むべきか、意見があればお願いします。 ちなみに、社会人経験はほとんどありません。

  • 男と女(その三)

     聖書でパウロがいわゆる男尊女卑にあたる性関係論を展開したかのように受け留められているくだりを取り上げて アウグスティヌスが《男と女》を論じている文章をまづ掲げます。  問いは 単純に言えば これを批判またはさらに展開 してくださいです。  ▼ (アウグスティヌス:性差について) ~~~~~~~~  使徒(パウロ)は       男は神の似像(にすがた)であり 栄光であるから      頭に蔽いを被ってはならない。     しかし女は男の栄光である。                         (コリント前書11:7)  と 男は神の似像であり したがって女には被るように勧めるその蔽いを頭から取り去るように語っている[・・・]。   しかし[・・・]『創世記』で     神は人間を創られた。神の似像によって人間を創られた。     彼らを男と女に創られ そして彼らを祝福された。                         (創世記1:27-28)  と書かれていることに どうして矛盾しないのか[・・・]。  [・・・]思うに[・・・]次の理由による。  女はその男と共に人間のこの実体全体が一つの似像となるように神の似像である。  しかし女はかのじょ自身だけの場合 男の助け手として考えられるから 神の似像ではない。  ところが男は自分自身だけで 女と結合して一つのものになったときと同じように 十全かつ完全な神の似像である。・・・        (アウグスティヌス:三位一体論 12・7 中澤宣夫訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 名誉のために 平等を説いているところも 載せます。  ▲ (パウロ:両性の平等) ~~~~~~~~~~~~~   あなたがたはみなキリストに在る信仰をとおして神の子らである。   [・・・]もはや 男も女もない。   あなたがたはすべてキリスト・イエスにおいて一つのものである。                  (パウロ:ガラテア書 3:26-28)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 逆に言えば 《信仰において 共に一つのものであるときにこそ 男と女は 差異はなく 平等である》が そうでないときには(=女がひとりでいるときには) 女は神の栄光であるところの男の栄光であって いわば霊的に一つになる必要があるとなるのでしょうか。  ちなみに 共産主義も 《婦人の共有》といったことを打ち出していたようですが これも 《婦人の〈霊的な〉共有》といったところでしょうか。    ところで このパウロ≒アウグスティヌスの命題について あたらしい解釈を得ましたので これを問います。  つまり次のように読み直すなら 現代人も――したがっていつの時代の人間も――納得が行くのではないか。    (α)  ひとは神の似像(にすがた)であり 栄光であるから       頭に蔽いを被ってはならない。        しかし男とそして女とは――それぞれその性差から       来る現象面におけるちがいがあることには何らかかわら       ず―― ともに人間の栄光である。  ☆ 《あたまにベールをかぶる》というのは ひとつに《真実を伏せて公表しないこと》だと捉えます。  《権威と権力にさからってはいけないと思うこと》であり 《たとえ学問じょう重要でありじっさいにも公益があっても自分のをふくめた面子にこだわりその真実が相手に失礼になると思えば 明らかにすることを控えること》だと捉えます。