男と女の性関係論についての問い

このQ&Aのポイント
  • 男と女の性関係論についての問いを考える
  • アウグスティヌスとパウロの意見をまとめる
  • 性差から来る現象面における違いがあるが、男と女はともに人間の栄光である
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男と女(その三)

 聖書でパウロがいわゆる男尊女卑にあたる性関係論を展開したかのように受け留められているくだりを取り上げて アウグスティヌスが《男と女》を論じている文章をまづ掲げます。  問いは 単純に言えば これを批判またはさらに展開 してくださいです。  ▼ (アウグスティヌス:性差について) ~~~~~~~~  使徒(パウロ)は       男は神の似像(にすがた)であり 栄光であるから      頭に蔽いを被ってはならない。     しかし女は男の栄光である。                         (コリント前書11:7)  と 男は神の似像であり したがって女には被るように勧めるその蔽いを頭から取り去るように語っている[・・・]。   しかし[・・・]『創世記』で     神は人間を創られた。神の似像によって人間を創られた。     彼らを男と女に創られ そして彼らを祝福された。                         (創世記1:27-28)  と書かれていることに どうして矛盾しないのか[・・・]。  [・・・]思うに[・・・]次の理由による。  女はその男と共に人間のこの実体全体が一つの似像となるように神の似像である。  しかし女はかのじょ自身だけの場合 男の助け手として考えられるから 神の似像ではない。  ところが男は自分自身だけで 女と結合して一つのものになったときと同じように 十全かつ完全な神の似像である。・・・        (アウグスティヌス:三位一体論 12・7 中澤宣夫訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 名誉のために 平等を説いているところも 載せます。  ▲ (パウロ:両性の平等) ~~~~~~~~~~~~~   あなたがたはみなキリストに在る信仰をとおして神の子らである。   [・・・]もはや 男も女もない。   あなたがたはすべてキリスト・イエスにおいて一つのものである。                  (パウロ:ガラテア書 3:26-28)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 逆に言えば 《信仰において 共に一つのものであるときにこそ 男と女は 差異はなく 平等である》が そうでないときには(=女がひとりでいるときには) 女は神の栄光であるところの男の栄光であって いわば霊的に一つになる必要があるとなるのでしょうか。  ちなみに 共産主義も 《婦人の共有》といったことを打ち出していたようですが これも 《婦人の〈霊的な〉共有》といったところでしょうか。    ところで このパウロ≒アウグスティヌスの命題について あたらしい解釈を得ましたので これを問います。  つまり次のように読み直すなら 現代人も――したがっていつの時代の人間も――納得が行くのではないか。    (α)  ひとは神の似像(にすがた)であり 栄光であるから       頭に蔽いを被ってはならない。        しかし男とそして女とは――それぞれその性差から       来る現象面におけるちがいがあることには何らかかわら       ず―― ともに人間の栄光である。  ☆ 《あたまにベールをかぶる》というのは ひとつに《真実を伏せて公表しないこと》だと捉えます。  《権威と権力にさからってはいけないと思うこと》であり 《たとえ学問じょう重要でありじっさいにも公益があっても自分のをふくめた面子にこだわりその真実が相手に失礼になると思えば 明らかにすることを控えること》だと捉えます。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.3

bragelonneさん こんばんは。お久しぶりです。 疲れ果てていてますが、you tubeで究極に眠れる音楽(α波)を聴きながら回答。 bragelonneさんの質問を読んでいると、私は、しばしば聖書を深読みしすぎていて、キリスト教の本質から脱線してしまうのではと思うことがあります。 展開を試みますが、今回の質問はパウロとアウグスティヌスの見解を元に考察して得られた考えを述べてますが、パウロもアウグスティヌスも人間です。キリスト教において、神、あるいは神の子とされるイエス・キリストについての福音書からの考察がない。 聖書の福音書の記述を読むと、イエスは、長い間出血に悩む女性を癒したり、キリストの足を高価なオリーブを塗って、涙して髪で拭いた娼婦と思われる女性の罪を信仰により許した記述があります。 キリストは男性だけでなく女性も平等に分け隔てなく救いをもたらしています。 復活したイエスの墓に遺体がないのを最初に見つけたのは、女性のマグダラのマリアであり、イエスの弟子のひとりの男性のトマスは、キリストの姿をこの目で見るまでは復活を信じないと言う記述であり、むしろ女性のほうが信仰心が厚かったのでは。 マグダラのマリアが娼婦だったなどとは聖書には一切書かれてませんが、キリスト教を題材とした西洋絵画において「悔悛するマグダラ・マリア」というテーマの絵画は多くの画家が描いてますが、ルーブル美術館が所蔵するジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「悔悛するマグダラ・マリア」を観ていると、新約の時代になって、慈悲深い神の回心による、過去の罪からの贖罪というのは男性・女性は問わず平等と思います。 bragelonneさんの哲学の基盤の神学者であるアウグスティヌスの「告白録」を読むと、アウグスティヌスの回心に至る壮絶な話であり、キリスト教への帰依は、アウグスティヌスの母であるモニカが熱心なキリスト教徒であったことが不可欠であり、私は「告白録」に母性愛を感じ共感します。 母モニカがいなかったらキリスト教における三位一体説は生まれなかった。 日本のキリスト教文学において、内村鑑三は旧約的な厳しい父性的な神に対し、遠藤周作は新約的な母性的な神がテーマであると思います。 私は遠藤周作の方が好きですね。人格形成において男性というものは永遠にマザコンであり、女性はファザコンではないかと思っています。 キリスト教の要諦の愛ですが、友情等の同性間でも成り立つのかもしれませんが、やはり男女間の恋愛において一番強く現れるのではないでしょうか? 人間における愛というものにおいて男と女という異性は必要と思います。 哲学的・科学的な見解に視点を変えると、動物においてオスとメスがいることは子供という子孫を生殖(SEX)において作ることは必須であり、生物学的には遺伝子の交配において、種の多様性を作り出し、環境変化が起っても絶滅しないようにしているのではなどと考えられていますが、植物においてはイチョウなどの裸子植物は雄株・雌株がありますが、普通目にする花は、雄しべと雌しべをもつ雌雄同体です。 なぜ動物が雌雄異体で植物が雌雄同体かは、すでにアリストテレスが疑問に思い動物発生論(A23.730b33-731a1)で見解を述べてます。 哲学的思考に一元論と二元論的思考がありますが、何かの哲学書に、西洋において二元論的思考が生まれたのは、聖書の創世記で神が世界を天と大地を分けたからだとありましたが、もしかしたら人間において、男と女が存在することが二元論的思考の源になったのかもしれないとも私は考えています。 長文になり澄みません。回答できるのが今度いつになるかわからないので、私の見解をまとめておきました。、bragelonneさんの見解をお礼にていただけると幸いです。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ bragelonneさんの質問を読んでいると、私は、しばしば聖書を深読みしすぎていて、キリスト教の本質から脱線してしまうのではと思うことがあります。  ☆ 一般に 脱線しない読みが 多すぎると思いますし 深読みも浅読みもなく何も自分の心では読もうと(解釈しようと)しないのではないかと まづ 思います。  お早うございます あめんほてぷさん。ご回答をありがとうございます。  あと クリスチアニズムのおしえからは わたしは自由であると 初めにお伝えてしておいたほうがよいとも思います。  あるいは アウグスティヌスは おそらくパウロと同じように イエスの弟子から受け継ぐところのバプテスマをキリスト者の要件としている。この条件づけからも自由な――つまり水による洗礼は 要らないという――立ち場でわたしは 発言していることも 明らかにします。  ★ キリスト教において、神、あるいは神の子とされるイエス・キリストについての福音書からの考察がない。  ☆ これは 異なことをおっしゃる。聖書からしか何ごとも考察していないのではないかと思うのですが。パウロは 自身の書簡が 聖書になっています。  ★ キリストは男性だけでなく女性も平等に分け隔てなく救いをもたらしています。  ☆ この命題について 私見を挟んだり意味内容をゆがめたりは 微塵もしていないのですが。次が 大前提です。:  ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   名誉のために 平等を説いているところも 載せます。   ▲ (パウロ:両性の平等) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    あなたがたはみなキリストに在る信仰をとおして神の子らである。    [・・・]もはや 男も女もない。    あなたがたはすべてキリスト・イエスにおいて一つのものである。              (パウロ:ガラテア書 3:26-28)    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ★ 母モニカがいなかったらキリスト教における三位一体説は生まれなかった。  ☆ 三位一体なる神学は アウグスティヌスより先に何人かの説として明らかにされました。  これを おそらく誰のどの三位一体論よりも広く深く理論づけたのは アウグスティヌスであったと捉えます。  母モニカについては その信仰をどう思うとかということは いっさいありません。そのまま受け取ります。  ただし聖書の解釈――つまりその意味での信徒一人ひとりの異言ではなく預言としての解釈――については アウグスティヌスは モニカとは違うところがあったと見ます。必ずしも具体的にではなく 『告白』では夢の中で母モニカとは別の物指しの上にわたしはいたというようなことをアウグスティヌスは語っていたのではないでしょうか。  そして 前段で確認したように キリストにあっては男も女もないということ どちらもひとしく歴史の共同相続人であるということ。これは ゆるぎません。  ★ 日本のキリスト教文学において、内村鑑三は旧約的な厳しい父性的な神に対し、遠藤周作は新約的な母性的な神がテーマであると思います。  ☆ 《文学》ですからねぇ。内村にしても 広い意味で。  母性を重んじるオモムキは 聖母マリアをたたえ それに寄りすがるまでのエートスを見せるヨーロッパ人の姿をも見せつけられていますので これについての考察をも一緒におこなっておくべきだったでしょうね。  内村は 例の不敬事件では けっきょくのところクリスチアニズムについての解釈が 独り善がりであったのではないかとわたしはうたがっています。あるいはつまり 信仰は オシエの問題ではないということ。オシエを守ることやそれに忠実に従うことが 信仰ではないということ。(理性やおのれの人間としての考えで 信仰を得たのではなく 思考には信仰が先立つということ)。これを 内村は分からなかった。と考えます。  かんたんに中身に触れるなら 単純に言って偶像崇拝の問題にかかわっているように考えられます。:   ▲ (ヰキぺ:内村鑑三不敬事件) ~~~~~~~~~~~  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%9D%91%E9%91%91%E4%B8%89%E4%B8%8D%E6%95%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6  天皇晨筆の御名に対して最敬礼をおこなわなかったことが同僚教師や生徒によって非難され、それが社会問題化したものである。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけなのだが  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とありますが 要するに《踏み絵》と同じで 偶像は偶像だということを知らなかったと考えられます。知っていても おこないは別であったと。  偶像は偶像つまり仮りに現象として成っている事物であり これを崇拝しても何の問題にもならない。要するに 偶像は神ではない。  もし 偶像崇拝を禁止するオシエに違反するというのなら その禁止命令としてのオシエも 観念としての偶像なのであり オシエを無条件に守ることは 偶像崇拝にしか成らない。  ★ 人間における愛というものにおいて男と女という異性は必要と思います。  ☆ これは 意外とだと思うのですが 大きな論点を成しますね。  微妙に違う視点を挙げて 対話・議論にくわわります。  すなわち ひと言で言ってこうです。: 人の意志行為は 自由意志による判断とその決意の実行が 他の人間のそれらとマジハリを持つとき 存在の次元にまで降りて行ったところでの《関係性――共生性――の絶対》に突き当たり これが見据えられて来ます。無視することができなくなります。    この《関係(カカハリ)の絶対性》は 一人ひとり《わたし》の自治(自己経営)の相互のカカハリとして成り立っていますが さらにそこに別のかたちでのキヅナを形成するヨスガもが与えられている。すなわち 両性が互いに生涯の連れ合いになるということ――つまり 婚姻ということ――。  互いの自己経営の交わる構造的・社会的な共生は そのような共同自治なる関係性として 愛ですが この人間としての愛は 両性のあいだにおける性関係としての・ツイ関係としての愛によっても確かなものとする道が与えられている。――のだと捉えます。それが 男と女とが互いにその異性の存在をも――生殖および社会的共生のキヅナにとって――必要とするという意味だと考えます。  (わたしの勝手な見解ですが わたし自身は アウグスティヌスの請け売りでありその展開であると言い張ります)。  ★ 二元論的思考  ☆ ことごとく反論をしてしまいますが 思考や経験事象には 《二元》はありません。ふたつの対立する事柄があると言うに過ぎません。男女は 二元ではありません。言うならば ヒトという一元のもとに性差としての別の特徴を持った同じひとつの種が存在するのみです。  善悪も 二元ではありません。悪は存在しません。善の損傷また欠如を 悪と呼ぶだけのことです。悪は 善のうちにしか起こりません。つまり 現象としては 対立する二項となっています。  聖俗・浄穢・貴賤等々も 互いに相対的な対照させあうためのふたつの項目であるに過ぎません。  身と心 あるいは精神と身体 これらも感性がどう動くかや理性がどう考えるかを超えて――つまりそれらの独自の動きをも超えて―― 《身と心という自然本性から成る人間としてのわたし》が 言うなれば一元として 知解し判断しその意志決定を実行して生きる。これだけのことです。    質問で扱った問題は フェミニズムが 両性の存在を それこそあたかも二元論として捉え その互いの対立についてのみ目を向けているしそれを議論に取り上げている。といったわるい傾向があるのではないか? と問うものです。  生物学ないしアリストテレスの議論について言い及び得ず すみません。  

その他の回答 (2)

noname#208350
noname#208350
回答No.2

それよりも 質問の趣旨をしっかりと捉えてくださるよう願っておきます」←≧(´▽`)≦アハハハ・・ だって もう 歴史的に 其処では無いだけですよ・・・ 出べそ云々や聖書なんて関係ない・・ 地球規模で考える時代なのです・・・ 地球に今 必要なのは 其処じゃ無い・・ 必要な事を考えれば すぐに判る時代なのに あなたは 其処まで辿り着いて無い・・

noname#208350
noname#208350
回答No.1

聖書は本ですよ・・・ しかも イエスの使徒によって書かれた書物・・ そして 2000年以上も前に書かれたもの・・日本語に訳すのにも 色々な人間が訳しています・・・ そんな書物なのだから 本来書いてある言葉と 訳した言葉が違う・・時もある・・かも知れない・・ まっ 聖書の目的は 「イエス再臨の為」だけ・・ イエスが再臨し 全て成し遂げた今となっては古書なだけです・・・

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 聖書は本ですよ・・・  ☆ ええ。書簡を書物としたものもあります。  ★ しかも イエスの使徒によって書かれた書物・・  ☆ でしょうね。  ★ そして 2000年以上も前に書かれたもの・・  ☆ ええっと 正確には まだ二千年は経っていないでしょうね。イエスが十字架じょうに去って行ったのが西暦三十年くらいだとしても そのあと書かれたのですから。  ★ 日本語に訳すのにも 色々な人間が訳しています・・・  ☆ それが どうかしましたか?  ★ そんな書物なのだから 本来書いてある言葉と 訳した言葉が違う・・時もある・・かも知れない・・  ☆ だから どうかしますか?  伝えられている文字をもとにして捉え さまざまな研究成果を捉え合わせながら あるいはまた翻訳ならまづその翻訳として捉えるという前提で――それはそれとして ひとつの思想を表わしているのですから―― 考え合って行けばよいのではないでしょうか。  翻訳もいくつもあるでしょうし その前にテクストの校訂もあるでしょうし いろんな解釈があり得ます。それぞれ互いを尊重しつつ 考え合って行って 何もおかしくない。のではないでしょうか。それとも これぞ決定版というものを出すことしか頭にありませんか?  ★ まっ 聖書の目的は 「イエス再臨の為」だけ・・  ☆ それも ひとつの解釈かも知れません。ただしその理由や根拠を明らかにするとなお よいでしょうね。つまり 互いに考え合って行くことができるようになります。  ★ イエスが再臨し 全て成し遂げた今となっては古書なだけです・・・  ☆ これこそ 独りよがりの解釈でしょうね。おまえのかあちゃんは出べそだが おれのかあちゃんは違うと言ったに過ぎません。  解釈にすら成っていませんよ。いちどかえりみてください。  それよりも 質問の趣旨をしっかりと捉えてくださるよう願っておきます。

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     イエスの生前にはかれがキリストであるとは誰も分からなかった。  この見方について問います。そうなのか? です。  1. イエスの生前には かれが自分は神の子でありみづからも神であると語っていたにもかかわらず 弟子たちを初めとして誰も そのことに気づかなかった。言葉では聞いていたとしても 理解できなかった。  2. 弟子たちは やっと・つまりイエスが十字架上に去ったそのあと そのイエスの語った言葉は腑に落ちたのだ。そこで すべてを知りました。  3. つまりそれまでは ただ立派な人間が迫害に遭って一命を落としてしまったくらいに思っていただけです。(いわんや 反対派においてをや)。  4. イエスの言行録がほどなく集められて行った。またすでに並行して パウロの書簡が書かれるようになっている。  5. すなわち そのようにイエスという人間が キリストと呼ばれる神であったということを伝えるために 言行録が編まれて行った。むろん すべてが聖書記者の信じ思うところにしたがって書かれたものだ。  6. ただしつまりは 神のことばは 人間の言葉では表わし得ない。そもそも 神語を人間語にそのまま写すのは無理。翻訳や解釈が とうぜん伴なわれている。  7. しかもそんなことは――つまりどういう編集方針であって その結果実際の語録がどこまで忠実に反映されているかなどなどのことは―― ほとんど問題にならない。全体として――パウロの書簡をも含めて 聖書全体として―― イエスが どうしてキリストであるかを捉えるために読めばよい。  8. 《法律(律法)》がモーセによってもたらされたのに対して キリスト・イエスは 《まこと と めぐみ》をもたらしたと言われます(ヨハネ福音のはじめ)。  9. 人間にとっては 人間語であらわされたイエスの言葉に 大うそがある。人間のことを神だといった。しかもそのような大嘘をとおしてでも 神とは 全体としてひとつであること また名が違っても――アッラーフ(’aLLaaH )と言い エローヒーム( 'eLoHim )と言い 名が同じ(イラーフ=エローハ ’LH )であっても ヤハヱーと言い違っていても――神はおなじひとつであるというマコトを告げた。  10. また 《わたしは 道であり まことであり いのちである》と言って その生命のチカラが 泉の水のごとく内から湧き出るように元気づけた。めぐみである。  11. さらには 《めぐみの上にめぐみ》をも与えた。よみがえり・復活。たぶん 現代人にとっては 平均寿命が 二百歳にでもなれば もう《永遠のいのち》であるはずだ。  12. というように オシエが――ローマ教会等々によって――どのように説かれようが それらにはお構いなく 神が示され 尽きせぬ元気があたえられ続けるなら それでよいわけである。  13. なおこの《生前には誰もキリストのことが分からなかった》については 次の聖句を参照するよう言われることがあります。  ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~    21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 去って行ったあとの《背面は見える》というわけのようである。去って行くまでは みな誰もに覆いがかけられていたのだと。  くわしいかたちで・あるいはヒラメキのようなかたちで 何かありましたらご教授ください。

  • 聖母マリアの処女懐胎の話を直視すればどうでしょう?

     1. 神は人間の精神だと言う人にかぎって このけがれなき身ごもりをあたかも信じているのではないでしょうか?  2. 母マリアは 遠くダヰデの血筋に連なる男であるヨセフとの性交によって子イエスをもうけた( a )のであるが それは同時に神なる聖霊によって身ごもったというかたち( b )です 物語のうえでは。後者のキリストにかんする側面が いわゆる処女懐胎です。人格( a )と神格( b )の両方の側面が 同時に一体として あります。  3. ▲ (パウロ:ローマ書1:3-4)  ~~~   御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ( a )、   聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた( b )のです。   この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。  ~~~~~~~~~~~~~   ( a )は 事実であり ( b )は こういう想定であり 物語です。であるのですから そのコトじたいを《信仰の対象とする》謂われはないし またぎゃくに頭ごなしに突っぱねる必要も何もない。のではないでしょうか?  4. ここのところが どうしても・いつまで経っても 広くは知られるようにはならない。どうしてなのか?――という質問です。  5. たしかに 《情欲のない生殖》という命題はかかげられています(アウグスティヌス)。あるいは  ▲ (旧約聖書・雅歌3:5)~~~~~  エルサレムの娘たちよ、  わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、  あなたがたに誓い、お願いする、  愛のおのずから起こるときまでは、  ことさらに呼び起こすことも、  さますこともしないように。  ~~~~~~~~~~~  というような思想をも聞きます。けれども《処女懐胎》ということを殊さら推し出すという考えは どこか病的ではありませんか? 《けがれ無き》なることをかかげるということは あまりにも現状がひどいということを意味していませんか? ひどくなくても 自分たちのあたまの中が ぐちゃぐちゃなのでは?    6. つまり 神は 人間の精神であるという精神錯乱に落ち入っているのではありませんか? 観念の中でだけ 神や 無垢やを後生大事にあがめている。これは 不健全でしょう。  7. 日本人はもともと万葉のむかしから そんなあたまで立って逆立ちしたまま往来を歩くなどということから 無理なく自由だったのではないでしょうか? どこでどうくるったのでしょう?