運動部は治外法権なんでしょうか?

このQ&Aのポイント
  • 運動部の組織について、権利主張と義務不履行、体罰の問題があるのか疑問です。
  • 運動部の組織は厳しいが鍛えられるという意見もありますが、暴力やいじめの存在はどうなのでしょうか。
  • 組織によっては運動能力や特定の気質を持つ者が主流となり、他のタイプは排除される可能性があります。
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運動部は治外法権なんでしょうか?

 最初に質問させて戴く組織について、  批判非難するつもりではないと云う事を断っておきます     やたら権利ばかり主張し、義務を果たさない者とか、皆忙しくしているのに、   残業が嫌とかその様な事は可笑しいと思いますし、   学校でも明らかに生徒が悪い場合や、口で云っても聞かない場合までも   体罰と云う事は可笑しいと思いますし、や立たせる事や走らせる位事までも体罰   と云うのは可笑しいと思いますし、体罰が禁止ならそれに代わる罰則は有っても   良いと云うのが私の考えです。   唯、かなり誇張されているかと思いますが、昔どおくまんと云う方の  漫画「嗚呼花の応援団」と云う漫画が有りましたが、あのような世界が現実ならば   私はとてもついていけないと思いました。   そこにはそこの優しさや意義があると思いますが、   小学校から大学まで体育会系に居られた方の話では、   「真面目にやるが絶対服従等出来ない人間が一番扱いにくい    理屈の正しさで判断するから」   「普通に云っても聞かない人間の方が この人と思うと聞くので    統制され鍛えられるので強く成れる それを今人権 体罰とか云ったから    おかしくなった」と云っておられました   私は、元来運動音痴と云う事と暴力が日常の組織は引いてしまうので入りませんでしたが  別に基本的な事は聞いており、非行などの問題も起こしませんでしたが、超えられない軟  弱者なんですね?  そう思う時点で駄目なんですね?   正しいとは思いませんが、 「普通に云っても聞かない人間の方が この人と思うと聞く  ので、統制され鍛えられる」と云う同級生は部外者や後輩に「鍛えてやっている」   と同じことを行っておりました。   桜宮高校始め体罰の問題も正しくは無いが、この様な感覚だと顧問は非難されず、   表面上は纏まると云う事なんでしょうか?   彼は怖い教師や先輩から「最近たるんどる」と殴られると「嗚呼、俺を鍛えて下さって   なんと有難いお方だろう」と思い 普通の教師の当たり前の叱責に反抗したり、   弱い者苛めを行ったりしても、怖い教師の存在があるので大荒れにはならず、纏まり、   忍耐と処世術を身に着けたと云う事だったのです   (全てがこうだとはもうしません    唯組織によって彼らの様な気質の者が多くなるとそれが主流に成っている様に思えます。  彼が居た組織も運動能力に優れているものは偶然にもその様な気質の者が多かったので、  そうでない者は退部するか幽霊部員状態に成っておりました   この様な組織では彼らの様な気質が主流で 私の様なタイプは本質的に欠落した者とみな  されるのでしょうか?)        

noname#250543
noname#250543

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noname#210533
noname#210533
回答No.2

失礼。笑っちゃいけないんでしょうけど、どおくまんは 私たちの世代には懐かしい漫画ですし、殴られて 「嗚呼、俺を鍛えて下さってなんと有難いお方だろう」に 至っては、完全に北朝鮮の恐怖政治やマインドコントロール そのままだなー、と思ってしまって、何が可笑しかったのか、 笑ってしまいました。 一歩引いてみると、何か喜劇的な風景にも見えたからかも 知れません。 んん、失敬。 さて、あなたが本質的欠落マンだなんて、爪の垢ほども 思いませんね。 気弱そうだな、とは思うけれど、仰ってることは これといっておかしいところなんてありませんよ。 ご質問には、「そうです、治外法権です」と答えさせて 頂きますが、あなたが現在、治外法権に置かれている、と いう前提で書きますね。 あなたには、別にご自分の居心地のいい組織(?)に 移る自由はあるはずです。 色々気ぶっせいなことはあるかも知れませんが、 「僕は、行く。」とはっきりした意思を持って 行きたい場所を探し、行こうとするかどうかの 個人的意識の問題ですから、これについては 述べません。 あなたの意志で、その治外法権に在籍するしかない、 それを前提にするなら、(運動部に入っておられる訳では なさそうですが) 高倉 健 の、生き方を学ばれると良いと思います。 俳優としてでも結構ですし、長年 日本中を沸かせて来た 「健さん!」という銀幕のキャラクターを、でも構いません。 大半の人々は、強くなんかありませんし、確固とした 「自分の生き方」を意識して創り上げているわけでも ありません。 他ならぬ「健さん」も、です。 嫌なやつがいる。 言葉にはなかなか出来ないけれど、いつも酷い思いを させられている。 人は、色んな理由で、それを堪えます。 堪えて堪えて堪えて堪えて。 卑屈な笑顔で阿諛追従を述べて、我が身の保身に汲々と することだって珍しくありません。 良く見ると、健さんも侮辱されながら力なく、「笑み」の ような表情を浮かべ、ようとしているシーンが何度となく 出てきます。 「自分、不器用ですから。」 ボソッ、と呟く健さんに、ヤクザが鳥肌を立てて うっとりとスクリーンを見つめていた横顔を、見たことも あります。(鳥肌は、気のせい、かも。) 屈辱にじっと堪えて、色んな事のために堪えて、 卑屈であると思いながらも笑おうとして、でも 不器用で笑顔になりきらない。 現実の高倉健は、結構おしゃべりだったそうですが、 映画の健さんはひたすら、無口です。 さて、話を戻して、治外法権の中の暴君達は、寡黙で しょうか、それとも軽口ばかり叩いているでしょうか。 多分、後者ではないかと思います。 第三者の目から見ると、他人を侮辱して卑しく笑い、 イジメや暴行を楽しそうに行い、良く喋る者は、 本人が思っているように、強くて自由でカッコ良く、 なんて風には見えません。 くだらない、バカ。 にしか見えません。 で、弄られている卑屈な笑顔で困っている者や、 半泣きでやられっぱなしの者を「哀れだな」とは 思っても、かわいそうだ、何とかして助けなくちゃ、とは 思わない人の方が多いものです。 何故なら 「なんでやり返さないんだよ」という気持ちで、どうしても 見てしまうからです。 それが出来る位なら、と苛められている者は言うでしょう。 そうではなくて、味方は中々いない、という話をしています。 ところが、ひたすら無口に堪えている、健さんのような 人物だと、周りの目も違ってきます。 惨めな「卑屈」、 ではなく、 孤独な「忍耐」、 に見えるからです。 そして、不思議なことに、それが定着して行く過程で イジメや理不尽な暴力もレベルダウンしていきます。 卑屈な者は、いたぶってもいい。 そういう、「お前オモチャ、俺は正義の味方ね」という ごっことして楽しんでいるから苛めたり、正論ぶって 暴力をふるえるんです。 叩いても殴っても蹴っても、泣きもせず誤りもせず、 卑屈に笑うこともなく、ただひたすら顔をしかめても 耐え続ける人間。 まず、苛めてる方からすると、面白くありません。 奴隷のように扱って、人格を否定してオモチャにして、 ヒイヒイ言わせて自分は強くてこいつよりはるかに 上の存在なんだ、と悦に入れるから痛めつけるので、 これでは自分の方がはるかに上どころか、ひょっと すると、ものすごくこいつは強いのか?などと 不安になるからです。 だから、暴力をエスカレートさせて、何とかして 屈服させようとする。 このままでは、余計ひどい目に会うばかりです。 舐められているからです。 でも、弱い者を痛めつけていい気になる人間というのは いつの時代でもどこの世界でも、虎の威を狩る狐です。 群れをなすから気が大きくなりますが、単独で喧嘩を しかけると、普段見たこともないようなおびえた顔や 狼狽をすることがよくあります。 強がって動作が派手になり、その割には落ち着きなく ソワソワして、目線もキョロキョロ、声も甲高くなり、 震えていることもあります。 それをごまかそうとして でかい声で恫喝をしたりします。 これに、目を逸らさずにゆっくり近寄って行って、 いきなり鳩尾を殴るなり、股間を蹴り上げるなりすると、 あっけないほどダウンすることも、実は結構あるものです。 耐えているばかりではなくて、ある危険水位を超えた時、 やられても、一矢報いてやる。 そう、覚悟を決めて守りから攻めに移る時を挟んで、 潮が引くように苛めはレベルダウンしていく。 喧嘩は場慣れ、の部分もかなりありますから、この経験を した人間は、見た目の恫喝と、裏側の弱さを目の当たりに 学ぶ訳です。 喧嘩が強い人は私の周囲にもおりますが、 元々強かった人よりも、元々苛められっ子だったとか、 自分は弱いと思って耐えてきたような人の方が、はるかに 強い人に成長しています。 空手家になっても、あなたのように心優しいままの ファイターも大勢いるようですから、そういう人に 友達になってもらって、強くなった心について、 聴いてみたいと思いませんか? ま、それはそれとして、申し上げたかったのは、 今現在のあなたがとても弱いからといって、十年後の あなたも弱いままだとは、限らないですよ、という ことなんです。 弱いから、強くなりたいと願う。 弱いから、強いものにあこがれる。 嫌な人から逃げても構わないと思いますが、時には 逃げられない暮らしもあるでしょう。 逃げても逃げられないなら、自分の弱さと向かい合うしか ありません。 嫌なやつは、こちらから向かい合わなくても向こうから やってくるからです。 健さんの、弱さと強さについて先ほど少しばかり書いて みました。 大人になればなるほど、強さと弱さとは、とても一言で 言えるような単純なものではなくなります。 でも、耐える中で自分の強さ、自分が侵されずに毅然と しているために必要な力は何か、を考えることは大切な 訓練だともいえます。 もちろん、うつ病になって自殺するほど苦しんでは 本末転倒ですが。 強いは、弱い。 弱いは、強い。 自分の中に、細くても良いので、曲がらない芯を 持とうと思って生きられたらよろしいかと思います。 ただ、嫌だなと思うばかりで俯いて歩くのと、 歯を食いしばっても目標を探して前を睨みながら 歩くのでは、数年後、数十年後に全く違った軌跡を たどると思うからです。 ちょっと説教臭かったかも知れませんが、あなたは もっと自信を持つべきだと思いますよ。

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回答No.1

H.G.ウェルズが描いた「盲人の国」に行けば、両目が普通に見える健常者は障害者です。 自分で考え、自分の裁量で動くようなクリエイターが命令に従ってのみ動くような軍隊組織でうまくやっていけるとは思いませんし、体育会系がクリエイター組織でうまくやっていけるとも思えません。軍隊は規律と懲罰によって組織を立て、クリエイターは信頼と調和によって組織を動かしていますから。 あなたが現在軍隊的な組織にいらっしゃるなら、体育会系気質と相容れないあなたはその組織では欠陥品でしょうね。でも、あくまでもマッチングの問題です。クリエイティブな仕事をする組織に転職なさったほうがあなたを活かせそうです。 余談ですが、体罰が当たり前にあった時代の人間なので、そういう世界もわかりますが、個人的には殴って言うことを聞く、聞かせるというのは動物に芸を仕込むのと同じだと思います。それはただ動物が怖がって言うことを聞いているだけです。そこに自発性や創造性は生まれません。規律と懲罰によって人を動かす組織もそれと同じだと思います。 あなたは人間です。人を動物扱いしかできないような組織から、人間扱いする組織に行ったほうが良いと思います。

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