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次の《対話》を解釈し解説してください。

 ◆ 【Q:真の唯物論は宇宙の公理から始まる】 ~~~~~          宇宙の公理  第1公理 宇宙は存在する  第2公理 宇宙と宇宙の法則は一体である  第3公理 宇宙における全ての現象は宇宙の法則に支配される  第4公理 宇宙の法則は唯一絶対である  第5公理 宇宙の法則は永遠不変である  第6公理 宇宙の法則は永遠不滅である     投稿日時 - 2014-12-13 16:02:07  ☆☆ (ANo.6:bragelonne) ~~~~~~~~~   こんにちは。阿呆に講義します。   ◆ 第2公理 宇宙と宇宙の法則は一体である   ☆ しかるに これらふたつのものは 次のように規定されます。:     ◆ 第1公理 宇宙は存在する   ◆ 第4公理 宇宙の法則は唯一絶対である   ☆ すなわち 《存在する》のは 経験事象でしょうか? 人間が理性や感性の能力で知覚・認識することが出来る経験現象のことですか?   もしそうなら 経験的で《相対的なものごと》です。   つまり 《絶対》ではありません。   ところが この経験的にして相対的な存在である宇宙は 絶対である宇宙の法則と一体である。ことになります。   投稿日時 - 2014-12-13 18:40:58  ◆ (お礼) ~~~~~~~~~~~~~~  真理のためならたとえ相手がアホであっても導いてあげなさいという心優しきアルケーの教えに従いアホのお相手をします。  宇宙の法則に絶対も相対もありません。  絶対とか相対ってのは人間の考えることである。  宇宙の法則は永遠無限の存在であり、人間が存在する遥か以前から絶対的に存在したものである(第5公理、第6公理)。  公理という言葉の意味もよく考えて。    投稿日時 - 2014-12-13 19:20:11  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なお引用は 全文です。

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回答No.7

> ☆ これは 明らかに宇宙が経験現象であることを語っています。それとも この経験世界が 相対ではなく 《絶対》だとあなたは言いたいのですか? あなたの主張は認めましょう。 第3公理 宇宙における全ての現象は宇宙の法則に支配される において、宇宙におけるすべての現象が相対であり、あなたの《絶対》ではないということは。 しかし、私が解釈したものは第一の回答にあるように、相対概念、全体・部分の相対性を失って、宇宙有限説では最大、宇宙無限説では無限大である全体については部分にはなりえない。そこに絶対性を認めたのです。あなたが受け入れるかどうかは別としてそういう解釈を自分の見解に則って提示しました。 すなわち、何が言いたいかというと、あなたのここでいう相対は現象なのです。現象するものがすべて相対ということです。その現象の相対である宇宙は、まだ未知の部分もり、人間が現象として捉えていない部分もあるのだから、そういう全体については相対であるとは私は言いません。絶対です。 そして、これで「相手が「宇宙は相対である」とはっきり言っている」ということにはならないと思います。そうあなたが解釈したということです。あなたの解釈ならそうですが、違う解釈をもつ私にははっきり言っているとは思えません。主観の相違を認めず、自分の解釈だけで見ているのですよ。分かりましたか。 >このひとつの事を取り上げただけでも いかにむなしいやり取りであるか 分かるというものです。 それはあなたが原因でしょう。 >☆ この《お礼欄》だけでも 世界一おかしい。 世界一おかしいというのは絶対的ないいかたですよね。あなたは絶対論者ですか。私は相対論者です。 > ☆ そしてこの《絶対である 宇宙の法則》は 《存在し現象する宇宙》と《一体である》と言っています。気が触れたのでなければ 決して言えるものではありません。 他人様を簡単に気が触れたなどというものではありません。あなたの認識と異なっているだけじゃないですか。あなたも人の道も相対世界の中で考察しているのではないのですか。人間尺度論で解消しませんか。 > しかもこのように議論をみちびいて来ながら アルケー教徒なのかどうかは知りませんが その教祖の考えにしたがって次のように述べる。: そういう宗教的な捉え方はやめてください。人の道の思想は私の思想と親和的な部分があるのです。 > ☆ つまり 《「宇宙は絶対である」と考えていると思います》ところのその《宇宙は存在し現象する》と言っているのです。 これは上に解説したとおりです。 現象が相対的で、宇宙全体が絶対的であるということは、私には可能なんです。 > こんな議論をしなければならないとは われながれ恥づかしくなって来ました。 私はやましいところがありません。少し意地悪でしたが。 >日本人の歴史において 最大の恥ぢとなる事件でしょうね。 そんな大袈裟なものではないでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 宇宙も いかんせん 移ろいゆくものです。知らんの?  やはり  ☆☆ >日本人の歴史において 最大の恥ぢとなる事件でしょうね。    ご回答をありがとうございます。

その他の回答 (11)

回答No.12

bragellone さん おはようございます。 私は、アルケー教というのは、さっぱりわかりません。この間、ちょっと興味があって回答し、なにか、まともなお礼が来るかと思ったら、「肉食妻帯坊主をどう思うか」という、回答とはまったく関係ないお礼が来て、がっかっりしました。 でも、お礼せずに、情報だけ、かっさらっていく投稿者もいますから、kurnal さんに言わせれば「人権侵害しないでね」でしょう。 ところで本論(脱線?)ですが、アルケー教は、多くの公理を提示してますが、哲学体系として成り立つかが疑問。 私は原書をまだ読んでないので、なんとも言えませんが、ドイツ観念論哲学の一人のフィヒテは「知識学」で下記のようなことを言っているようです。 「知識学とは学問一般の学問であり、他のすべての学問の基礎を与えるような、根本学である。学問とは、ばらばらの知識の集まりでなく、体系的形式を持っており、学問における、すべての命題は、唯一の原則において連関し、ひとつの全体に合一されていなければならない、学問においては、少なくとも一個の命題が確実であって、これが他の命題に、その確実性を伝えるのでなければならない。」 つまり、確実な命題は、学問の哲学体系的結合を可能にするものとして、それに先立って成立しなければ、ならないという、「第一哲学」というもの。 bragelline さんはフィヒテの考えはもう古く、フィヒテの原書を読むのは時間の無駄でしょうか?お礼にて助言くだされば幸いです。 アルケー教さんは、フィヒテに関心がないのなら、NHKのEテレの午後2時20分から10分間放送されている、「高校講座 ロンリの力」を観て欲しい。ほとんど放送は終わってますが・・・。来年再放送? 9/2 9/9 ロンリのちから (9)類比論法 9/16 9/23 ロンリのちから (10)合意形成 9/30 10/7 ロンリのちから (1)三段論法 10/14 10/21 ロンリのちから (2)誤った前提・危険な飛躍 10/28 11/4 ロンリのちから (3)逆さまのロンリ 11/11 11/18 ロンリのちから (4)接続表現・ことばをつなぐ 11/25 12/2 ロンリのちから (5)水掛け論・理由を言う 12/9 12/16 ロンリのちから (6)暗黙のロンリ 12/23 ロンリのちから   (7)仮説形成 では、お礼をお待ち申し上げております。

bragelonne
質問者

お礼

 ううーん。わたしの抽斗(ファイル)が少ないことがバレルかな。  お早うございます。ご回答をありがとうございます。  フィヒテは たしか苦学したんですよね。努力のひと。  《ロンリのちから》が 主要な主題なんですか? つまり《学問一般の学問たる知識学》というのは。  でも毎回の表題を見ると 見方を変えて言えば《コミュニケーション論》でもあるようですね。たしかに古代ローマの昔から 弁論ということが 重んじられて来ています。  じつは わたしは この《交通》論をテーマにしています。《かかはり(関係性)》とじっさいに対面するばあいの《まじはり(交通)》といった切り口で マジハリからあとの具体的な問題が コミュニケーション論でしょうし カカハリに先立つ人間観ないし存在論を基礎にしなくてはならないと見ています。いまは 存在論のさらにマボロシの基礎である信仰論ないし神学論争が多いですが。  《ロンリのちから》関係では 昔からは演繹法と帰納法そして わたしが採っている仮説法(アブダクション)がどうだこうだとやっていました。そして 詭弁術がどうだといった議論をも参照したことがありましたが けっきょくこれまでおこなって来たのは 自己流ですね。無手勝流でしょうか。  1. 必ず結論を出す。出せないなら 理由を述べる。  2. むろん結論をみちびいた論理の筋を明らかにする。  3. この思索の過程について 自分のであれ他人のであれ 徹底的に吟味・検証する。批判は 自由。互いに自由な批判を旨とする。  4. 内容などが判然としないとき 自分には不利に相手には有利に解釈する。  5. あとは 排中律だけでしょうか。自己同一性をまもる。  といったような経験をとおしてつくって来た方法でやって来ました。  うちは まだ地デジにしていなくて BS放送しか見られないのですが  ★ フィヒテの原書を読むのは時間の無駄でしょうか?  ☆ こちらのほうは どうでしょうか。  まづ学ぶことに無駄はないでしょうね。  わたしが交通論を問い求めているのは きわめて単純な・そしてただひとつの動機からです。  人と人とが理解し合えるようにです。  人並みに――学校で・そして時には家庭でも――相互理解を得ることに苦労したということだと思うのですが そして社会に出れば ますますむつかしくなっていることにおどろき そのままずっとこの主題で来たことになります。  つまり言いたいことは わたしの場合は このライフワークともなったテーマがあって いろんな先人の成果を勉強しています。  つまり フィヒテを読むときにも どういう魂胆でそうするか。これは 重要なのではないでしょうか。フィヒテが好きだからでもいいわけで そのような動機のほうが大事であり また効果があるように思うのですが どうでしょう。  でも原書を読もうというまでになったのでしたら やり始めてもよいかも知れません。途中で もしむしろほかのテーマが舞い込んできたとすれば そのときに考えればよいでしょうし。  ★ つまり、確実な命題は、学問の哲学体系的結合を可能にするものとして、それに先立って成立しなければ、ならないという、「第一哲学」というもの。  ☆ ですから このこと自体は それを明らかにした時点で なるほどそういうことであるわいと誰もが思う内容であるわけです。  それでもなお それをみちびいたフィヒテのさらに奥に迫って行こうというのであれば そうするでしょうし。あるいはドイツ語で確認したいといった目的もあるでしょうし。さらには いやいや第一哲学は まだまだ基本を言ったまでだ 学問は ただ理論体系を築いたというだけでは実践的ではないところがある。そのあたりのことを詳しく詰めておきたいのだ。という場合もあるかも知れません。  ただし 単純に趣味で フィヒテをやるのだという場合もありますね そう言えば。  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~   ◆ 第1公理 宇宙は存在する   ◆ 第4公理 宇宙の法則は唯一絶対である   《経験的にして相対的な存在である宇宙》は 《絶対である宇宙の法則》と一体である。ことになります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と批判したら ねむねこさんからは 《宇宙》と言っているのは そこに《経験世界としての宇宙》とそして《その経験宇宙を超えた非経験の場としてのメタ宇宙》とがふくまれるという解釈が出されました。  だから 目に見えて存在するのは 経験宇宙であり 絶対である《宇宙の法則》と一体であるのは《メタ宇宙》のほうであると。  あとのほうは もはや二つのものではなく 《メタ宇宙》と《宇宙の法則》とは 同じひとつのもの――すなわち神のこと――であるのですが それにしても 《解釈》の可能性は はなはだ広く大きいようであります。しかも 解釈は 自由です。  言いかえると このいまの《第一公理》は 宇宙を経験宇宙とメタ宇宙(=宇宙の法則)とに分けて説明していないからには まだダメということになります。  そういった問題ですよね 《学問一般の学問たる 第一哲学》というのは?  フィヒテをしっかりと読んでいたなら 結論を出したところですが 諸般の事情より こんなかたちになるでしょうかね いまのわたしの段階では。

回答No.11

☆ わたしの持論が 論証されて来るだけぢゃないですか。 ◇ですよ。 ですから、あそこで「ブラゲロは、ペルソナや、非思考・非経験といった概念を使って、これらを明確に区別した上で、理論を展開しているよ」といった趣旨のことを書いたんですよ。 「あなた様も、少しは見習ったどうですか?」 ということを暗に仄めかした。 彼がこの仄めかしを読み取れたかどうかは、知りませんけれど。 で、 場もメタ《宇宙》も、宇宙の法則も、結局のところは、神の補助線に過ぎません。 彼は、この補助線を、彼の言葉でいうところの《アルケ~》と同一視、混同しているんです。

bragelonne
質問者

お礼

 分かりました。と言えばいいのですかねぇ。  ご回答をありがとうございます。    ◇ 場もメタ《宇宙》も、宇宙の法則も、結局のところは、神の補助線に過ぎません。 / 彼は、この補助線を、彼の言葉でいうところの《アルケ~》と同一視、混同しているんです。  ☆ あともなどす氏が 《絶対》や《無限》の概念をあいまいにしか捉えていなかった。だとすると 《阿呆》とか《気が触れた》とかと言う前に かの道氏も どこか概念認識が未熟であるとすれば その事柄についておしえてやればよいかも知れません。  でも よほどのことは おしえてあるのですが。数年をかけて。    自分の思いや考えに合わない内容の議論に遭うと どこかでショートを起こすのではないか。とも見ているのですが ともかく特異な現象だと見られます。

回答No.10

☆☆ という規定からすれば 《宇宙》は この地球から捉えている経験世界のことを言っています。 ◇おそらく、 この《宇宙》は、単に経験事象のそれだけではなく、メタ《宇宙》のようなものも意味するのでしょう。 ですから、 あっちの回答で、「言葉を使い分けるなりして、区別しなさいよ」という趣旨の内容を書いたんですよ。 で、 このメタ《宇宙》を、宇宙の法則と呼ぶのならば、これは表現の違いに過ぎないので、それはそれでいいと思います。 また、 このメタ《宇宙》や《宇宙の法則》は、いわゆる存在ではないので空間的な制約を受けず、宇宙に遍満し、さらにあらゆる個物の中に内在するということも可能になるのでしょうね。 物理学の用語の真似をして、《場》という概念を導入してもいい。 現象の背後には《場》があり、《場》と物質などが相互に関係しあって経験できる現象が発生するのだ、みたいなことも言えるのでしょうね。 そして、どちらも単独では存在しえない、なんて言えば、お洒落じゃないですか(笑い)。 この時、宇宙の法則とやらは、この関係、あるいは、関係の規則のようなものになるんじゃないですか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ おそらく、/ この《宇宙》は、単に経験事象のそれだけではなく、メタ《宇宙》のようなものも意味するのでしょう。  ☆ もしそうであるなら これは  ◇ 言葉を使い分けるなりして、区別しな  ☆ いと何にもなりません。 経験世界としての宇宙とそして《メタ〈宇宙〉のようなもの》とをいっしょにすることは まづあり得ません。  しかも この  ◇ メタ《宇宙》のようなもの  ☆ にしてからが 判然としません。けれども 想像による観念としてあるものにしても それがじっさいに経験世界につらなるものであるにしても だとしたら いくら《メタ》と言おうと けっきょく経験事象です。  《絶対》としてのメタ宇宙が 《現象する存在》であるとは 考えられません。  すなわち  ◇ このメタ《宇宙》を、宇宙の法則と呼ぶのならば、これは表現の違いに過ぎないので、それはそれでいいと思います。  ☆ このことも まだあいまいです。経験則なら 《絶対》ではありません。そうではなく 《非経験の場》だというのであれば まづ初めにそう言わねばならないでしょうし もうひとつに 絶対であってよいのですが 《経験世界をもふくむ宇宙》と一体であるとは言い得ません。  絶対としての宇宙をそこから切り離すのなら その《絶対としての宇宙(メタ宇宙)》と《絶対としての宇宙の法則》とが一体であるのは 当然です。一体であると言うよりは まったくの同じものです。  そのように区別した上で 絶対と相対世界とが交わるということを 次で言っておられるようです。:  ◇ このメタ《宇宙》や《宇宙の法則》は、いわゆる存在ではないので空間的な制約を受けず、宇宙に遍満し、さらにあらゆる個物の中に内在するということも可能になるのでしょうね。  ☆ いわゆる《神の遍在》のことですが しかしながら まだ困難な問題があります。神の遍在は じつは・じつに いわゆる《非在》としてあまねく存在するという理論です。ここまではよいのですが それは 《一体》ではないでしょうね。  つまり 《遍在するブラフマンの霊(=メタ宇宙=宇宙の法則)》と《経験世界としての宇宙》とは 《一体》ではないでしょう。《経験世界としての宇宙――とくにミクロコスモスとしての人の心――に想定された霊我=アートマン――》と 想定じょう《一体》なのであって 経験事象としては 無理です。  ブッダターは 経験事象ではありません。《存在し現象する宇宙》と一体だというのは きわめてあぶない表現だと言わねばならないでしょう。この神〔の霊〕を感じるというのは その人の主観内面におさめられていなければなりません。きわめて危険な表現をすでに使っています。  ◇ このメタ《宇宙》や《宇宙の法則》は、いわゆる存在ではないので空間的な制約を受けず、宇宙に遍満し、さらにあらゆる個物の中に内在するということも可能になるのでしょうね。  ☆ 想定じょう神の霊としてです。アートマンとしてです。自性清浄心としてです。  ということは 《非経験の場=メタ宇宙=宇宙の法則》が そもそも霊としての次元なわけです。そして 人間にもアートマンとしての霊の次元があるという想定です。つまり 初めから神の霊が想定されたというのと何ら変わりありません。  ですから  ◆ 第3公理 宇宙における全ての現象は宇宙の法則に支配される  ☆ これは・これも 霊の次元での話です。そんな簡単にこんなことが言えるわけではありません。つまり 《現象》は経験現象ですし 《宇宙の法則》はやはり非経験の場でありつづけます。この両者の関係つまり《支配関係》は 人間に分かるわけがありません。分かったというのは 非経験の場と経験世界とを区別したという最初の前提内容だけです。絶対的なへだたりがある。ゆえに 何となく《支配と被支配の関係》ではないかと推理するだけのことです。  ですから もし《メタ宇宙=宇宙の法則》を想定し 経験宇宙と区別したのなら 前者はあたかも神であって 絶対であるゆえに そのチカラが経験宇宙ないし人間に絶対的に――霊として――及ぶという推理が得られるかも知れないという話になっています。  ここまで明らかにして述べなければ 何にもなりません。特に《神は感じるものである》と言っているときには そうであるからにはです。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  物理学の用語の真似をして、《場》という概念を導入してもいい。  現象の背後には《場》があり、《場》と物質などが相互に関係しあって経験できる現象が発生するのだ、みたいなことも言えるのでしょうね。  そして、どちらも単独では存在しえない、なんて言えば、お洒落じゃないですか(笑い)。  この時、宇宙の法則とやらは、この関係、あるいは、関係の規則のようなものになるんじゃないですか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これは 経験事象ですか? それとも アートマンなる霊我にかかわる話でしょうか?  《場》は 絶対であり神の霊の次元なのですから 経験事象ではないはずです。(経験事象であるか無いかが 人間には分からないあり方である。はずです)。  わたしの持論が 論証されて来るだけぢゃないですか。

回答No.9

================  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~   第1公理 宇宙は存在する  第3公理 宇宙における全ての現象は宇宙の法則に支配される  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という規定からすれば 《宇宙》は この地球から捉えている経験世界のことを言っています。  ゆえに:  ■ 定義1「宇宙とは絶対的全体性を持つものである」  ☆ は成り立たない。のでは? ================ このネムネコさんへの返信ですが、あなたの見解をもとにしては違和感があると思います。私の見解で定義したのですから。第一回等の後半部分は適当に書いていますのでつっこまれても困ります。

bragelonne
質問者

お礼

 ここまで 日本人の思考力と恥ぢの意識とが 地に落ちたとは知らなんだ。  ご回答をありがとうございました。

回答No.8

定義1は、こっちの方がいいのかな。  「x=宇宙」ならば「xは絶対的全体性を持つ」 まっ、いずれにせよ、 xの外縁を定めなければいけないし、 定義1で「宇宙は存在する」を既に言っていることには変わりないでしょうがね。

bragelonne
質問者

お礼

 ですね。  ご回答ありがとうございます。  宇宙には果てが無いと見るなら 《絶対》なんだそうですけれど――あともなどす氏ですが。

回答No.6

述語論理ですと、  ☆定義1「宇宙とは絶対的全体性を持つものである」 は、量記号は省きますけれど  「xは宇宙である」 def= 「xは絶対的全体性を持つ」 みたいになりますかね~。 定義1の宇宙は主語のように見えるけれど、 実は、宇宙は述語(関数)。 さらに、 「xは何処にあるんかいな~? 何の要素なんかいな~?」 という話になる。 それに、それだけではなく、 「宇宙である」という関数や関係が存在することを暗黙のうちに含んでいることになるんじゃないですかね~。 関数や関係も、その親玉の集合のようなものがあって、「宇宙である」という関数、関係はその一要素ということになるじゃないかな~。 もう既に、この時点で危ない予感が・・・。 そして、 火事場見物の野次馬は、さらに火事が大きくなるように油を注いで、そそくさと逃走を図るのであった(笑い)。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~   第1公理 宇宙は存在する  第3公理 宇宙における全ての現象は宇宙の法則に支配される  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という規定からすれば 《宇宙》は この地球から捉えている経験世界のことを言っています。  ゆえに:  ■ 定義1「宇宙とは絶対的全体性を持つものである」  ☆ は成り立たない。のでは?

回答No.5

>★ 気が触れていると言うあなたに悪意かあるという意味に受け取ります。  ☆ もう五年も六年も同じマチガイの指摘を続けて来ました。神ないし信仰についての勘違いとマチガイであり 指摘は百回を超えるでしょう。これで 相手に悪意がないのならば 気が触れているとしか言いようがありません。 おそらく、あなたの間違いの指摘を多くの人がしてるのでしょう。あなたはその人たちのマチガイの指摘をしているつもりでも。 このことは質問の趣旨に関係するのですか。 > ☆ もしそのことがマチガイでなければ 一たん質問趣旨についての回答を寄せたそのあとのことです。《宇宙は絶対ではなく 相対である》とわたし(=ぶらじゅろんぬ)もその相手である質問者も はっきりと述べているのですから まづその事実を前提として話をすすめ それが一たんけりがついたなら そのあとにそうすべきことです。 第一の回答で、あなたの勘違いだ。と解釈を述べたではありませんか。 読み直しました。「宇宙は存在する」の存在性について絶対か相対かと問われ、相対だとみなした。そのあと宇宙の存在性を相対的としている。 だが、場合わけしたもう一方、宇宙の存在の絶対性は、棚に上げられたままじゃないか。これを無視している。宇宙の存在の相対であることを疑いもせず受け入れてしまっている。 どこにもないでしょう。相手が宇宙は相対であるとはっきり述べているところは。見てみなさい。  ◆ (お礼) ~~~~~~~~~~~~~~  真理のためならたとえ相手がアホであっても導いてあげなさいという心優しきアルケーの教えに従いアホのお相手をします。  宇宙の法則に絶対も相対もありません。  絶対とか相対ってのは人間の考えることである。  宇宙の法則は永遠無限の存在であり、人間が存在する遥か以前から絶対的に存在したものである(第5公理、第6公理)。  公理という言葉の意味もよく考えて。    投稿日時 - 2014-12-13 19:20:11  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 絶対と相対の議論はあなたがしかけて、相手もあなたが思っているように、宇宙は相対だと言っていると錯覚しているのですよ。 なぜ、「まづその事実を前提として話をすすめ・・」と言いながら、「《宇宙は絶対ではなく 相対である》とわたし(=ぶらじゅろんぬ)もその相手である質問者も はっきりと述べているのです」と事実と反することを言うのですか。自己矛盾でしょ。 相手ははっきり述べてはないけれど、 第2公理 宇宙と宇宙の法則は一体である 第4公理 宇宙の法則は唯一絶対である から考えるに、「宇宙は絶対である」と考えていると思いますが。これでもあなたは、相手が「宇宙は相対である」とはっきり言っていると言い続けますか。 このあと >気が触れかかっているとしか見られません。 書かれていますが・・・・・。まっ、どちらにせよこれはほおっておきます。 ================= > ★ 「宇宙が絶対である」と直接あなたが言ったことがこれまでに一度もないのなら謝ります。ですが、本当のところはどうなんですか。  ☆ 言った・言わないの問題ですらないのです。質問の趣旨から まづすべきこととして外れて行っている。こういう問題です。あやまるのは そういう問題をないがしろにしたことについてです。そのあと わたしがもしそういうことを言ったとなお思うのなら 原告が実証すべき問題です。 ================= 質問の趣旨にそって、第一の回答で、あなたの勘違いだ。と解釈を述べたではありませんか。 ================= >☆ 宇宙が絶対であると いつわたしが言ったのですか? 言いがかりもはなはだしい。 ================= 前の返信で、こうあり、あなたが「宇宙が絶対である」と言ったということを否定されたようなので次のようになりました。 =================  ★ 「宇宙は絶対でない」のですか。あなたの判断がどちらであるか明言しないなら。これも屁理屈の一種でしょう。  ☆ ざけんな。趣旨説明を読んでからにしろ。 ================= 恫喝ですか。 質問の趣旨にそって、第一の回答で、あなたの勘違いだ。と解釈を述べたではありませんか。 絶対と相対の議論はあなたがしかけて、相手もあなたが思っているように、宇宙は相対だと言っていると錯覚している。つまりあなたの見解が人の道の見解とことなるのは、あなたの勘違いだという解釈です。私の解釈ですから私の見解に基づいていますが。 ========================== > ★ 絶対たる無限が、数でないのにどうやって割るというのですか。  ☆ ここまでの阿呆だと知らなかったわたしはわるい。  無限が数であると どうして決まっているのか? ========================== 「無限が数であると 決まっているのか」とは言っていない。 数である場合とない場合に分けている。 あなたが言う絶対たる無限は(おそらく)数でないだろう。 その場合に、割ることができないだろう。数でなく割るということは部分に分割するということ。だからあなたのいう絶対たる無限は、部分に分けられないであろうから、割ることができないと自分は思った。それを割るとはどういうことか。どうやってそれを割るというのか。 ========================== > ★ 数だとしたら、全体に一致しない部分の存在は明白です。たとえば自然数は無限にありますが、一桁の自然数はその部分です。  ☆ その無限は いま想定している無限――真無限――ではありません。 ========================== 当然そうなるだろう。あなたの無限は、この無限でないとわかった。 ========================= 円周率は 3と4とのあいだにおさまるからには いくら限りなく数値がつづくと言っても 有限であり相対なのです。その場合の限りなく続くというのは 可能無限のことです。宇宙もそうです。(推量ですが)。 ========================= 数学はあまり得意ではないが、円周率が、2と3の間にあるというような小学生レベルの間違いをする私ではないよ。という皮肉です。 > 真無限は 人間がそのアタマで(想像において)これを二つに割ろうとした場合 仮りに割れたとしても その半分づつの部分は いづれもじつは初めの全体である無限にひとしいのです。そういうふうに想定を交えて定義されています。 全体を自然数として、自然数の無限、偶数の無限、奇数の無限、をみたとき、偶数や奇数は自然数の部分であり、だからといって無限が半分の無限かというと、全体の無限と同じ無限。濃度が等しいということくらいは分かる。真無限というのか実無限というのか知らないが。 で、あなたの真無限が、あなの無限ですか。全体と部分が一致するのはこの真無限においてだと。しかし「無限が数であると どうして決まっているのか?」だと。どういうことなのか分からん。 > ★ そしてあなたの《絶対》を知らなかったら阿呆呼ばわりですか。  ☆ 絶対という概念認識が出来ていないと言っています。絶対そのものを知ることが出来るわけないぢゃないですか。 あなたはこう言った、 >☆ ここがマチガイである。《絶対》ということを知らない阿呆である。ということでしょう。 ここであなたは「《絶対》ということを知らない・・・」と言ったが、それは「絶対という概念認識ができていない」ということだ。そして「絶対そのものは知ることができない」 こういうことだろう。で、あなたの絶対についても概念認識が出来ていなければ阿呆呼ばわり。 やれやれ。他人の概念認識がどうであるかはなかなか分からんものです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ どこにもないでしょう。相手が宇宙は相対であるとはっきり述べているところは。見てみなさい。  ☆ 開いた口が塞がらないけれど 応えなくてはならない。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~  第1公理 宇宙は存在する  第3公理 宇宙における全ての現象は宇宙の法則に支配される  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 明らかに宇宙が経験現象であることを語っています。それとも この経験世界が 相対ではなく 《絶対》だとあなたは言いたいのですか?  このひとつの事を取り上げただけでも いかにむなしいやり取りであるか 分かるというものです。    このふたつの《公理》といっしょに次の文章を読んでみてください。  ◆ (お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~  宇宙の法則に絶対も相対もありません。  絶対とか相対ってのは人間の考えることである。  宇宙の法則は永遠無限の存在であり、人間が存在する遥か以前から絶対的に存在したものである(第5公理、第6公理)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《お礼欄》だけでも 世界一おかしい。  ◆ 宇宙の法則に絶対も相対もありません。  ◆ 宇宙の法則は永遠無限の存在であり、人間が存在する遥か以前から絶対的に存在したものである  ☆ そしてこの《絶対である 宇宙の法則》は 《存在し現象する宇宙》と《一体である》と言っています。気が触れたのでなければ 決して言えるものではありません。  しかもこのように議論をみちびいて来ながら アルケー教徒なのかどうかは知りませんが その教祖の考えにしたがって次のように述べる。:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  相手(=教祖)ははっきり述べてはないけれど、   第2公理 宇宙と宇宙の法則は一体である   第4公理 宇宙の法則は唯一絶対である  から考えるに、「宇宙は絶対である」と考えていると思いますが。これでもあなたは、相手が「宇宙は相対である」とはっきり言っていると言い続けますか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり 《「宇宙は絶対である」と考えていると思います》ところのその《宇宙は存在し現象する》と言っているのです。  こんな議論をしなければならないとは われながれ恥づかしくなって来ました。  日本人の歴史において 最大の恥ぢとなる事件でしょうね。

回答No.4

> ☆ 《西から上がっていないから 気が触れている》と言っています。言葉による表現にかんしてその意味するところというのは 論理だけでの問題ではないと知るべきです。 気が触れていると言うあなたに悪意かあるという意味に受け取ります。 >☆ 屁理屈だという論証が出来ていません。 論証は必要ありません。屁理屈だと私が思った事実。あなたを屁理屈をよく言う人だという印象を私がもっているという事実を言明したのです。 >☆ 宇宙が絶対であると いつわたしが言ったのですか? 言いがかりもはなはだしい。 宇宙の公理について、そういう議論領域で絶対の話をしていれば、宇宙にその絶対を適用して解釈するのは妥当なことでしょう。 「宇宙が絶対である」と直接あなたが言ったことがこれまでに一度もないのなら謝ります。ですが、本当のところはどうなんですか。 「宇宙は絶対でない」のですか。あなたの判断がどちらであるか明言しないなら。これも屁理屈の一種でしょう。 >☆ 絶対たる無限を 二で割ったり三で割ったりすると 商はやはり無限なのです。これが どうして人によって違う想定なのですか? いちゃもんをつけるのなら もっとましな話にしなさい。 絶対たる無限が、数でないのにどうやって割るというのですか。 数だとしたら、全体に一致しない部分の存在は明白です。たとえば自然数は無限にありますが、一桁の自然数はその部分です。 、 >======================= ☆ どうして次のように言えないのですか?  ★ 同意できません。「《絶対》ということを知らない」と、どうしてあなたがいえるのですか。 ======================= あなたの非知と、あなたの《絶対》は別なんですね。あなたはそう言いたいのかもしれない。あなたの《絶対》は補助線思考だと。その補助線思考は非知なる設定のもとに生じているのでしょう。 そしてあなたは、あなたの《絶対》がり知り得るものだと思っている。自分が知っているのだから他人にも知り得る。そしてあなたの《絶対》を知らなかったら阿呆呼ばわりですか。 あなたの《絶対》はどうして他人に受け入れられないか考えたらどうです。私が阿呆だからですか。私が気が触れているからですか。 >★☆ いい加減にして下さい。 オウム返しですか。 >これぢゃ 哲カテは 阿呆と気ちがいの遊園地であると 外から見ても中から見ても なるおそれが出て来ました。 ・・・・・・諸悪の根源はあなたでしよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 気が触れていると言うあなたに悪意かあるという意味に受け取ります。  ☆ もう五年も六年も同じマチガイの指摘を続けて来ました。神ないし信仰についての勘違いとマチガイであり 指摘は百回を超えるでしょう。これで 相手に悪意がないのならば 気が触れているとしか言いようがありません。  ★ 宇宙の公理について、そういう議論領域で絶対の話をしていれば、宇宙にその絶対を適用して解釈するのは妥当なことでしょう。  ☆ もしそのことがマチガイでなければ 一たん質問趣旨についての回答を寄せたそのあとのことです。《宇宙は絶対ではなく 相対である》とわたし(=ぶらじゅろんぬ)もその相手である質問者も はっきりと述べているのですから まづその事実を前提として話をすすめ それが一たんけりがついたなら そのあとにそうすべきことです。  気が触れかかっているとしか見られません。  ★ 「宇宙が絶対である」と直接あなたが言ったことがこれまでに一度もないのなら謝ります。ですが、本当のところはどうなんですか。  ☆ 言った・言わないの問題ですらないのです。質問の趣旨から まづすべきこととして外れて行っている。こういう問題です。あやまるのは そういう問題をないがしろにしたことについてです。そのあと わたしがもしそういうことを言ったとなお思うのなら 原告が実証すべき問題です。  ★ 「宇宙は絶対でない」のですか。あなたの判断がどちらであるか明言しないなら。これも屁理屈の一種でしょう。  ☆ ざけんな。趣旨説明を読んでからにしろ。    ★ 絶対たる無限が、数でないのにどうやって割るというのですか。  ☆ ここまでの阿呆だと知らなかったわたしはわるい。  無限が数であると どうして決まっているのか?  ★ 数だとしたら、全体に一致しない部分の存在は明白です。たとえば自然数は無限にありますが、一桁の自然数はその部分です。  ☆ その無限は いま想定している無限――真無限――ではありません。  円周率は 3と4とのあいだにおさまるからには いくら限りなく数値がつづくと言っても 有限であり相対なのです。その場合の限りなく続くというのは 可能無限のことです。宇宙もそうです。(推量ですが)。  真無限は 人間がそのアタマで(想像において)これを二つに割ろうとした場合 仮りに割れたとしても その半分づつの部分は いづれもじつは初めの全体である無限にひとしいのです。そういうふうに想定を交えて定義されています。  ★ あなたの非知と、あなたの《絶対》は別なんですね。・・・あなたは、あなたの《絶対》がり知り得るものだと思っている。  ☆ どこをどう読めば そんな受け取り方になるのか? つき合い切れません。  ★ そしてあなたの《絶対》を知らなかったら阿呆呼ばわりですか。  ☆ 絶対という概念認識が出来ていないと言っています。絶対そのものを知ることが出来るわけないぢゃないですか。

回答No.3

>気が触れたのでないなら お天道様は〔日本で〕西から上がります。 この対偶をとれば、あなたは「お天道様は〔日本で〕西から上がらないなら、気が触れたのである」と言ってるのですよ。東から登ると気が触れているのですか? 円周率が、3と4の間にあると思う自分は気が触れていますか? >☆ とうとうあなたにも阿呆かと言わなければなりません。 どうもこれが言いたかったらしい。巻き込んで阿呆よばわりするのが目的なのか。そのためには屁理屈をもこねる。第三者から見れば同類でしょう。しかし気は確かです。 >《絶対》あるいは《無限》は 《全体》と《部分》とが同じであるのです。部分と部分とも同じであり それぞれ全体とひとしい。のです。 それがあなたの想定ですか。相対概念を用いて、《全体》と《部分》が同じである《絶対》ですか。宇宙全体が地球という部分と同じであるような《絶対》と言っていることになるんですよ。受け入れがたい《絶対》です。 あなたの想定はあなたの想定。わたしの想定はわたしの想定。だから問題ないのですよ。どちらも想定上の話です。 ただ、気持ち悪いことはいいかげん止めて欲しい。そう思っています。 >☆ ここがマチガイである。《絶対》ということを知らない阿呆である。ということでしょう。 同意できません。「《絶対》ということを知らない」と、どうしてあなたがいえるのですか。非知とか言っておきながら。 いい加減にして下さい。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ この対偶をとれば、あなたは「お天道様は〔日本で〕西から上がらないなら、気が触れたのである」と言ってるのですよ。  ☆ 《西から上がっていないから 気が触れている》と言っています。言葉による表現にかんしてその意味するところというのは 論理だけでの問題ではないと知るべきです。    ★ そのためには屁理屈をもこねる。  ☆ 屁理屈だという論証が出来ていません。  ★ 宇宙全体が地球という部分と同じであるような《絶対》と言っていることになるんですよ。受け入れがたい《絶対》です。  ☆ 宇宙が絶対であると いつわたしが言ったのですか? 言いがかりもはなはだしい。  ★ あなたの想定はあなたの想定。  ☆ 絶対たる無限を 二で割ったり三で割ったりすると 商はやはり無限なのです。これが どうして人によって違う想定なのですか? いちゃもんをつけるのなら もっとましな話にしなさい。  ☆ どうして次のように言えないのですか?  ★ 同意できません。「《絶対》ということを知らない」と、どうしてあなたがいえるのですか。  ★☆ いい加減にして下さい。  これぢゃ 哲カテは 阿呆と気ちがいの遊園地であると 外から見ても中から見ても なるおそれが出て来ました。  

回答No.2

>経験的にして相対的な存在である宇宙 これが勘違い。 全体と部分の相対性ということを考えてみたらいい。 AはBの部分、BはCの部分、として、 AとBの議論領域では、AはBの部分なら、Bは全体。 BとCの議論領域では、BはCの部分なら、Bは部分。 相対的というのは、比べるものによって属性(ここでは全体性と部分性)が変じるということ。まさに経験現象界のものごとの様子を言う。大小の性質もまた同じ。絶対的に大きい人などいない。 ところが、(相対概念で述べられるような)相対的な物事には、たとえば大小の極というものが、議論領域を設定によって出現する。 自然数という議論領域では、1が極小(最小)となる。(最大はないけど) 宇宙といえば、それを部分とするようなものがない究極の全体であるから、部分にはなりえない。ここで相対性がくずれて絶対的全体となる。これは部分を持つ全体である。 一方、宇宙の法則は、(相対的な部分や全体の)部分をもたない絶対的全体である。あなたが言うところの《絶対》。 絶対的全体の、部分を持つ面と、部分をもたない面を二面とした一体的絶対的全体。このような存在を構想して「宇宙は存在する」という。 この宇宙の公理に難があると自分が思うのは、木造さんが指摘しているように公理が必要十分であるかという点。それと、概念の定義がかけている。 記号論理学の公理系に、定義した概念を(命題形式にして)ほうりこんで、いくつかの仮定を作る。公理として。それが宇宙論の公理系になるのだと思う。あとは推論していろいろな定理を導く。そうすればいいと思う。 あるいは存在論の公理系を確立して定理を導いた上で、宇宙論の推論にその定理を使うということができるのかもしれない。 定義1「宇宙とは絶対的全体性を持つものである」 公理「宇宙は存在する」 公理より「宇宙は存在する」。定義より、「宇宙は絶対的全体性をもつ」。存在論の定理から、絶対的全体性をもつ存在は可分的全体面と不可分的全体面を持つ。 ここで、宇宙現象、宇宙法則の定義をして、 定義2「宇宙現象とは宇宙の可分的全体面である」 定義3「宇宙法則とは宇宙の不可分的全体面である」 認識論の公理系なるものも準備しておけば、(存在論でもいいけど) 認識論の公理系の定理「絶対的なものは永遠である」と、定義3より、「宇宙法則は永遠不変である」、 存在論の定理「不可分的全体面は唯一なるものである」より、「宇宙法則は唯一である」などと推論される。 ・・・

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  成っていません。  ★ 宇宙といえば、それを部分とするようなものがない究極の全体であるから、部分にはなりえない。ここで相対性がくずれて絶対的全体となる。これは部分を持つ全体である。  ☆ これを《絶対的》というのは ただの文学的表現です。いくら《究極の全体であるから》と言っても 経験的な存在は 始めがあってやがて終わりもあるのです。これを《相対》なる存在と言うのです。  ★ 一方、宇宙の法則は、(相対的な部分や全体の)部分をもたない絶対的全体である。あなたが言うところの《絶対》。  ☆ いいえ。宇宙の法則はそもそもはっきりしていません。そのことは別としても いまの問題では この宇宙の法則ははっきりと《絶対である》として規定されているのです。  もうここで 《宇宙》と《宇宙の法則》とは 互いに別のものです。相対と絶対なのですから。それを ふたつは《一体である》(第2公理)と言っています。気が触れたのでないなら お天道様は〔日本で〕西から上がります。  ★ 絶対的全体の、部分を持つ面と、部分をもたない面を二面とした一体的絶対的全体。このような存在を構想して「宇宙は存在する」という。  ☆ とうとうあなたにも阿呆かと言わなければなりません。  《絶対》あるいは《無限》は 《全体》と《部分》とが同じであるのです。部分と部分とも同じであり それぞれ全体とひとしい。のです。  強いて言えば  ◆ ~~~~~~~~~~~~~  第4公理 宇宙の法則は唯一絶対である  第5公理 宇宙の法則は永遠不変である  第6公理 宇宙の法則は永遠不滅である  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここがマチガイである。《絶対》ということを知らない阿呆である。ということでしょう。  

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