三法師を膝に抱えた秀吉の行動について誰も責めなかった理由

このQ&Aのポイント
  • 秀吉の天下取りへの歩みについて関心を持ち、自分なりにスッキリ理解できてきたが、三法師を膝に抱えた行動についてモヤモヤしている。
  • 本能寺の変後、秀吉が山崎の戦いで勝利し、信長の後継者と決まった三法師を織田家臣団に挨拶させた。
  • しかし、なぜ誰もその非礼な振る舞いに対して咎めなかったのか疑問であり、TPOを考えれば越権行為だと感じている。何故このような行動が許されたのか分からずモヤモヤしている。
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三法師を膝に抱えた秀吉を、なぜ誰も責めなかったのか

秀吉の天下取りへの歩みについて関心を持ち、 だいぶ自分なりにスッキリ理解できてきたのですが、 どうしてもモヤモヤしており、教えてください。 本能寺の変→山崎の戦いの後、 信長の後継者と決まった三法師を秀吉が膝に抱えて 織田家臣団に挨拶させたとのことですが、 その非礼無礼な振る舞いについて、 なぜ誰も「 その場で 」咎めなかったのでしょうか。 たとえ三法師が秀吉に懐いていたからといっても、 TPOを考えれば、少なくともこの時点での秀吉では、 反秀吉派に責められる越権行為だと思うのです。 誰も「その場で」非難することなく、三法師にだけでなく この時点での秀吉にまで一同で挨拶してしまったのは なぜでしょうか。 このことがどうにも理解できずにモヤモヤしています。 たとえば柴田勝家が「その場で」叱責・追及・断罪していれば、 織田家臣団に囲まれた中で秀吉は非を認めざるを得ず、 最悪切腹とまではいかずとも窮地に立たされたと考えます。 そもそもこのエピソードが作り話であったなら、 スッキリするのですが。 詳しい方がいらっしゃましたら、 教えていただけますと幸いです。 どうぞ宜しくお願い致します。

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質問者が選んだベストアンサー

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  • 1paku
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回答No.4

信孝さんが後で後見人と言っても、形式的なものでしょう。 結果として、もう一人の信雄さんと兄弟仲良く路線が消滅しました。 信孝、信雄、どちらかが先に、三法師を担げば歴史が変わってた可能性があります。 あの時、二人とも会議の席で中座する余裕はなかったはずです。 会議の席上、中座してまで三法師を連れてきた秀吉が巧すぎました。 自分の提案に賛成してもらえるよう根回しまでしていたみたいです。 秀吉は、信長の子供を一人、養子という形で預かってますし、この人は光秀討伐から信長の葬儀まで秀吉と行動をしていますから、形式上の貢献度は信長の血縁者の中ではトップです。  他の家臣たちは、秀吉が彼を担ぎ出す予想をしていたはず。  結果として、三法師が盲点になりました。  形として、秀吉の大幅譲歩の提案ですから、他の家臣たちも秀吉に勝ったと思ったでしょうね。 秀吉は、まだ下っ端の台所奉行の時に、毒見という口実で信長と全く同じ料理を食べていたりと、ずうずうしくて無礼なことをしても、叱られないという稀有な雰囲気の人間です。  会議の駆け引きでは、他の武将たちは太刀打ちできなかったでしょう。  

ssnagoya
質問者

お礼

再び、教えていただきまして、ありがとうございます。 >他の家臣たちは、秀吉が彼を担ぎ出す予想をしていたはず。 そうですね。私もそう思います。 >結果として、三法師が盲点になりました。 ただ、この点について私は違う意見です。 このとき清州城には三法師が居たはずですので、 そこで会議が開かれるということは、 三法師が盲点だったとは考えにくいです。 >ずうずうしくて無礼なことをしても、 >叱られないという稀有な雰囲気の人間 そういう能力も含めて、天下取りに向かっていったのは 理解できるのですが、この重要な場での振る舞いをも、 何のお咎めもなく乗り切ってしまったということでしょうか。 信長の後継者と決まった三法師を秀吉が膝に抱えて 家臣団にお披露目したとしても、 誰も「 その場で 」咎めなかったということは、 すでに反秀吉派は負けていたということでしょうか。 しかし、その後、反秀吉派を制圧していくのに、 それほど簡単には進めていないと思うのです... やはり、そもそもこのエピソードが作り話だった と考えるのが自然なのかも知れません。

その他の回答 (3)

  • lv48
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回答No.3

そもそもこのエピソードが作り話です。 秀吉は信長の四男(於次)秀勝を信長の葬儀の喪主としています。 織田家の跡取りは秀勝と天下に知らしめたので、三法師は用無しです。 http://okwave.jp/qa/q8596335.html 山崎の戦いで織田信孝を差し置くだけの力をすでに秀吉が持っていた。ここが重要。 秀吉の下剋上と信長の衰退は松永の謀反のころから始まっていたはずです。 松永の謀反はまさに、信長は足利義輝と同じ口先だけでもはや力なしと判断しての事でしょう。 荒木、明智も同じです。松永、荒木、明智、謀反の三連発。 これほど力を失った事実を無視して、物語は最後まで信長を覇王として描きますが、源義経と同じ判官びいきのおとぎ話です。 信長公記は秀吉が編纂させた物。 自分は偉大な信長の後継者で、ライバル家康は大した事ないという内容です。 最近の検証でおかしなところが沢山出てきています。 ならば、真実は信長は小物で秀吉の傀儡。家康は強大だったとも考えられます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%85%AC%E8%A8%98 信長記はさらに脚色したフィクションです。

ssnagoya
質問者

お礼

教えていただきまして、ありがとうございます。 信長衰退説にも関心がありますが、 本能寺の変のときに「強大だった家康」を 信長の意向で呼び寄せていた点や、 柴田勝家や滝川一益などの織田家臣団の 各方面軍の実力を考えますと、 合点がいかないところもあります。 "すでに力を失っていた信長"が死亡した以上、 その血筋や織田家を神輿として担ぐ必要が見出せません。 ましてや「信長は小物で秀吉の傀儡」だったのあれば なおさらそう考えて、モヤモヤします。 また、 >力をすでに秀吉が持っていた とのことですが、 秀吉がそのような状態になるまでには、 もう少し後だと理解していましたので、 質問のとおり、モヤモヤしておりました。 「信長は小物で秀吉の傀儡」はともかくも、 もし、この時点ですでに秀吉が 圧倒的な力を持っていたのであれば、 その後の柴田勝家"ごとき"を潰すために 丹羽長秀を調略する必要も無いでしょうし、 織田信孝"ごとき"を潰すために 三法師を持ち出す必要も無く、 いけいけどんどん蹴散らしていくと思うのですが... >そもそもこのエピソードが作り話です。 そうであれば、スッキリします。

  • jkpawapuro
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回答No.2

柴田勝家がその場で叱責したところで、他の家老が誰も勝家につかないのだから勝家が三法師に対して無礼であるとして追い出されるのが関の山ですよ。 一人では何もできません。

ssnagoya
質問者

お礼

教えていただきまして、ありがとうございます。 >柴田勝家がその場で叱責したところで... ということは、この時点で秀吉はすでに 信長の後継者のお披露目という大切な場で その後継者を膝に抱くのが当たり前で、 織田家臣団の誰からも文句を言われない状態だった ということなのでしょうか。 秀吉がそのような状態になるまでには、 もう少し後だと理解していましたので、 質問のとおり、モヤモヤしておりました。 >他の家老が誰も勝家につかない... この状態になるのも、もう少し後だと理解していました。

  • 1paku
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回答No.1

三法師は赤ん坊ですから、誰がかついていなければいけません。 体育会系の無骨な男ばかりの会議に、女性の乳母というのも無理もありますし、無名の世話役がでしゃばるのも、無理があります。  消去法として、秀吉の膝の上しかないでしょう。 水戸黄門で、ご老公に対して平伏したら、同時に両脇にいる助さん格さん、もしかすると八兵衛にまで平伏することになるのと同じ状況です。  その瞬間は、三法師に対して平伏したのであって、同時に秀吉に対してというのは後から思うこと。 秀吉のその場の雰囲気を創る能力がフルに発揮されたはず。 二男、三男のどっちが後継者という討議が平行線のまま延々と続いて、いいかげん会議止めようよって皆が思ってる時、第三の正論っぽい選択を出したら、つい、みんな賛成に回るでしょう。

ssnagoya
質問者

お礼

教えていただきまして、ありがとうございます。 >消去法として、秀吉の膝の上しかないでしょう。 とのことですが、実際に後見人となったのは織田信孝ですので、 このときも三法師が幼少という理由で誰かの膝が必要であれば、 織田信孝の膝の上が筋だと思うのです。 私がモヤモヤしているのは、 光秀を討ち取った功績を秀吉にあげられただけでも 他のライバルは焦っていたはずで、 信長の死の直後というデリケートで微妙な時期に、 臣下へのお披露目という重要な場で、 信長の跡継ぎを膝の上に抱く行為というのは、 この時点での秀吉にとってはまだまだ相応しくなく、 それよりも調子に乗りすぎた非礼な行為として、 咎めるチャンスだったのでは...と考えています。 「 その場で 」反秀吉派が非難することなく 受け入れたのがモヤモヤします。 三法師を膝に抱く秀吉にまでも臣下の礼を取ったことには ならないのは理解できますが、この時期のこの場で、 この時点での秀吉に三法師を抱かせたまま挨拶することを 受け入れたことに理解できずにいます。 >秀吉のその場の雰囲気を創る能力がフルに発揮されたはず。 そのとおりだと思います。 だからこそ、調子に乗った秀吉を叩く絶好のチャンスだった と思うのですが...

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