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明治時代に、集会条例が出されて、軍人・教員・生徒の政治活動を禁止されたのはなぜですか?

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  • fumkum
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回答No.1

こんにちは 最初に集会条例を確認しておくと、第七条は次のような文言です。 政治ニ関スル事項ヲ講談論議スル集会ニ、陸海軍人、常備予備後備ノ名籍ニ在ル者、警察官、官立公立私立学校ノ教員生徒、農業工芸ノ見習生ハ、之ニ臨会シ又ハ其社ニ加入スルコトヲ得ス。 この「陸海軍人、常備予備後備ノ名籍ニ在ル者、警察官、官立公立私立学校ノ教員生徒、農業工芸ノ見習生」について考えるには、明治初期の反政府運動、特に自由民権運動について考えなければなりません。 明治時代の初めに新政府に反抗する二つの勢力があり、第一が農民、第二が不平士族と呼ばれるグループでした。この内、戊辰戦争に新政府側として転戦した士族の中には、攘夷などの考えが取り入れられず、不平を抱く者がでました。これらの不平士族を背景に、征韓論の議論が激化し、結果征韓論に敗れた勢力は明治六年の政変で下野し、一つは武力により政府に反抗する勢力、今一つは自由民権運動に活路を見出そうとした勢力です。つまり、新政府に反抗する勢力は三つになったわけです。 この内、農民は、明治五年の学制頒布、明治六年の徴兵令公布、同年の地租改正条例公布による負担の増加に農民が一揆をおこした(*血税一揆)。特に地租の基準となる地価を、過去の高米価も含めた平均値で算出する計画であることへの反発が大きく、明治9年には大規模な一揆が発生しました(*地租改正反対一揆)。農民の一揆が発生する中、士族の反乱もおこり、政府は農民の負担の軽減をはかり、明治10年には地租を3%から2,5%に下げることにしました。そのため、農民の不満もいくぶん減殺され、明治10年をピークとして数年は一揆の発生は少沈静化します。 士族の反乱は明治7年の佐賀の乱に始まり、明治9年に廃刀令と秩禄処分が行われると、士族の反乱も連続し、神風連(敬神党)の乱、秋月の乱、萩の乱と続き、それぞれ短期間に鎮圧された後、明治10年には士族反乱最大の西南戦争がおこり、この鎮圧により、士族の反乱はおこらなくなります。 このように明治10年を境として農民一揆と士族反乱が沈静化すると、政府に不満を持つ勢力は不平士族を中心に自由民権運動に結集するようになります。明治六年の政変後の動きをみると次のようになります。 明治7年に板垣退助・後藤象二郎らは日本最初の政党である愛国公党を東京で結成すると共に、政府の藩閥官僚による有司専制を批判して民選議院設立の建白書を左院に提出し、弊害を除くために、天下の公論に基づく政治のために国会の開設を求めます。しかし、政府はこれを無視します。板垣は同年の愛国公党の解散後土佐で立志社という政社(せいしゃ)を作ります。翌明治7年に大阪で立志社を中心として政社の愛国社が結成されます。これに対して政府は、明治8年に大久保利通が下野していた木戸孝允と板垣と三者で大阪で会合(大阪会議)し、木戸・板垣の政権復帰と、漸次立憲政体樹立の詔の発布となり、融和的な姿勢に転じます。明治9年になると、元老院で憲法草案の起草が始まり、さらに西南戦争後の明治11年には地方三新法と呼ばれる郡区町村編成法・府県会規則・地方税規則を制定し、地方の府・県会で民意を取り入れられる(全面的でなく官僚専制のもとで)地方制度の制度設計を行います。その一方で、新聞紙条例・讒謗律を発布して、政治運動や新聞等の報道機関による政府攻撃を厳しく取締ります。硬軟両様の政府側の動きに対して、引き続く士族の反乱に参加する者もあって、自由民権運動は沈滞化します。 この間、西南戦争中に立志社の片岡健吉らが国会開設・条約改正・地租軽減を求める立志社建白書を提出します。片岡らは政府への武力による反抗から、言論による反抗への方向転換を図る目的があったとされ、また、建白書は取り上げられなかったとはいえ、地租の引き下げは、建白書の影響であったとの評価もあります。 しかし、西南戦争の終結、地租の軽減後の明治11年に大阪で愛国社の再興大会が開かれ、自由民権運動に従来の士族だけでなく地方の地主・農民、都市部の商工業者、府県会議員などの間にも広がり、幅広い支持者、活動家を獲得し、政社、討論会・読書会などの学習結社などが設立され、運動の勢力が拡大します。翌年の明治13年に大阪で開かれた愛国社の大会で、その他の政社の代表なども加わり、国会期成同盟が結成され、また、国会開設請願書に署名し、政府に提出しました(不受理)。さらに国会期成同盟は東京で会議を開き、運動方針を巡り会議はまとまらず、その一部が板垣を担いで自由党を結成します。これに対して政府は集会条例を制定して政社の活動を抑えようとします。しかし、明治11年に大久保利通を暗殺により失った政府側は、指導部内部で対立抗争が起き、国会開設について、早期導入派の大倉重信を中心とするグループと、漸進的な導入派の伊藤博文を中心とするグループに分かれて対立します。明治14年に(北海道)開拓使官有物払下げ事件が表面化すると政府への非難は増大し、自由民権運動の伸張と共に政府への攻撃は激しさを増します。そこで政府は、大隈が反政府的な動きと関連ありとして罷免し、明治23年に国会を開設するとの国会開設の勅諭を出して(明治十四年の政変)、情勢の鎮静化を図ります。 長々と、明治六年の政変から明治十四年の政変までの動きを簡単に述べましたが、この中で、政社というものが登場します。この政社とは、明治時代に自由民権運動の中から、政治活動を目標に結成された政治団体で、立志社の設立以降、各地に設立され、特に明治12年・13年の国会開設運動の最盛期には全国各地に拡大し、多数の政社が結成されました。また、立志社に士族授産と新教育を目的に立志学舎が作られたように、教育機関を併設するものもあった。さらに、各地に討論会、読書会、学習会などの学習結社が作られ、国会開設運動などの政治活動の母体ともなっていきました。これらの政社・学習結社などが中心となり、反政府・国会開設・自由民権・条約改正などの(政談)演説会・討論会等が各地で開かれ、反政府・国会開設・自由民権・条約改正などの考え方を広めていきます。この演説会等の中心となる政社・学習結社などは士族出身者が多く、その士族授産のために、各種学校の教員となる者が多くいました。(政談)演説会・討論会・学習会等の弁士の多くはこれら士族であり、教員でもありました。さらに、参加者に学生・生徒・婦女子も多く参加していました。そのようなわけで、集会条例の「官立公立私立学校ノ教員生徒、農業工芸ノ見習生ハ、之ニ臨会シ又ハ其社ニ加入スルコトヲ得ス」としたのは、このような演説会等における教員・生徒・学生の存在の大きさに対する対抗策であったのです。 これに対して「陸海軍人、常備予備後備ノ名籍ニ在ル者、警察官」は、 1、政府の官吏の一員であり、なおかつ武力的裏付けであること。 2、職業軍人・警察官に士族出身者が多く、自由民権運動に参加する者と出身基盤を同じくする。 3、明治11年に竹橋事件が起こり、近衛兵の一部が反乱を起こし、皇居を砲撃し、大隈重信邸を銃撃、皇居と周辺地区の一部に放火、同じ近衛兵と銃撃戦を展開。その後、投降した事件が起きています。歴史上有名な事件ではないのですが、この影響は大きく、また政府首脳の驚愕も大きかったと言われています。そのため、軍人勅諭の制定になり、憲兵の創設に繋がります。この事件の影響で、軍人・警官に対する警戒感があった。 このようなわけで、「陸海軍人、常備予備後備ノ名籍ニ在ル者、警察官」の演説会等への参加、政社への加盟が禁止されたと考えられています。 以上、長くなりました。知っていらっしゃることも多いとは思いますが、参考まで。

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