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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:『聖書』は 日本人には要らないか?)

聖書は日本人には要らないか?

このQ&Aのポイント
  • 『聖書』は日本人に必要なのか、その意義を考えてみましょう。
  • 『聖書』とクリスチャン信仰の違いや、教会との関係も考えるべきです。
  • あなたは『聖書』をどのように位置づけていますか?その考えも伝えてください。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.18

バトルをちょっと眺めてみたよ。 あんたのもの言いは、そろばんではじいた様な以前の言い回しと違って、最近は心の潤いがある。 相手をいやす潤いでもある。 以前の瞬間湯沸かし器は、あんたの一人よがりだったが、当時そんな事を言えば沸騰どころか爆発していただろうな。 日蓮はあんたの反省でもあるのかもしれないな。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そのままをありがたく受け留めていくのがよいのでしょう。  ただそれでは先行きに遅れた形で いやじつはこうこうであったとコトワリを入れなければならなくなる・そういうおそれがあるとすれば ひとこと 次のように言わば台所事情についてしるしておきます。  まだまだ 世の中の状態についての怒りはむしろ高まって来ているということです。  にゅうとらるという方が提起してわたしが自分の方式で引き継いだ主題として この《怒り》があります。あなたも参加しています。    ○ 【Q:《〈怒り〉をめぐるにゅうとらるの定理》】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8717498.html  ○(趣旨説明欄) (あ) 《怒り》は その当の出来事に遭って まづとにもかくにも自分を元気づけるチカラの現われではないか。むしろ瞬間的な心的現象である。  ☆ このように怒りは 根に持たない。《瞬間湯沸かし器》であり むしろそうでなくてはならない。そのあと:  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~  (い) そのとき怒り以外にともなわれる感情をあたかも鼓舞するかのように現われるチカラなのではないか。  すなわち 悲しみをかみしめるということにだって ある種の怒りのような元気づけのチカラが作用しているのではあるまいか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というようなそのあとの経過になると思われます。  怒りを根に持つ場合には 恨み辛みになる。世に言うルサンチマンなのでしょう。    心にもし潤いがあるとすれば この怒りのおかげでしょう。

bragelonne
質問者

補足

 今回は単純に褒めてもらったので BA です。

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その他の回答 (18)

回答No.8

要らないわけがないでしょう。 西洋と西洋人、西洋の文化と歴史などを知るために、理解するために、聖書の知識は必要ですよ。 クリスチャンやイスラームの人とうまく付き合うためには、最低限、聖書に関する基本的な知識は必要ですよ。 まぁ、日本という狭い世界のなかで、しかも日本人だけを相手にするのならば、聖書は不必要かもしれませんが、 ですが、西洋から文化・文明を吸収する過程で間接的に、知らず知らずのうちに聖書やキリスト教の考え方を吸収し、それが私たち日本人の思考形式などに影響を与えているので、聖書を読む、勉強するということは、今の自分たちを知ることでもあるんですよね。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ヘンな問いですよね。  ◇ ですが、西洋から文化・文明を吸収する過程で間接的に、知らず知らずのうちに聖書やキリスト教の考え方を吸収し、それが私たち日本人の思考形式などに影響を与えているので、聖書を読む、勉強するということは、今の自分たちを知ることでもあるんですよね。  ☆ すでに 言ってみれば思想もグローバル化しているのでしょうね。  もっとも 何度も言いますが 現代の韓国人だけは あたかもブラック・ホールのようですが。  もう少し みなさんからの声を聞いてみます。

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  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.7

丸谷才一が「新約」聖書を”犯罪小説の嚆矢”と位置づける考えを書いていました。他面、どんなくだらない文学作品もそれなりの存在理由はあるはずですし、そういったものも人類の資産のひとつであり、一部の人間が珍重するのを否定はできません。個人の自由です。ですから外国の高名な古典作品が「日本人には不要なものである」と考えるのは焚書にも値する傲慢不遜なことだと私は思います。 私は若いころ新約聖書を面白い含蓄のある物語として楽しく読みました。他に読みたい本が今もたくさんあるので、再読したいとは思いませんが。 宗教としてのキリスト教の存在はまた別の問題だと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ですから外国の高名な古典作品が「日本人には不要なものである」と考えるのは焚書にも値する傲慢不遜なことだと私は思います。  ☆ これが 原則ですね。そうですよね。  つまり 日本人には要らん! と言われたものですから いちどみなさんに聞いてみようと思ったという単純な質問ではありました。  ★ 丸谷才一が「新約」聖書を”犯罪小説の嚆矢”と位置づける考えを書いていました。  ☆ ほほお そうなんですか。日本語についてしゃべったものなどを読んだだけで 小説のほうも丸谷については残念ながら知りません。  《小説》の歴史としては それほど古くには遡りませんよね。けれども 《犯罪小説》は 新約聖書から始まるというのですか。ううーん。単純に反応すれば それなら旧約聖書からすでに始まっているかとは思いましたが 何か丸谷にしては思うところがあるのでしょうか。  ★ 宗教としてのキリスト教の存在はまた別の問題だと思います。  ☆ ええ。このことは おそらく考える人びとにとっては 共通の理解になっているかと考えます。そもそも宗教一般が よくないとわたしなどは思っています。  ★ 私は若いころ新約聖書を面白い含蓄のある物語として楽しく読みました。他に読みたい本が今もたくさんあるので、再読したいとは思いませんが。  ☆ そうですか。そういう位置づけになるということですね。  とにかく繰り返しますが 《日本人には要らんものだ》という見解は出て来ないようでひとまづ分かったような感じでいます。

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回答No.6

Q、『聖書』は、日本人には要らないのか? A、うーん。 > 『聖書』は、あなたにとって必要で大切な一冊ですか? という問いならば、その答えは「否!」。でも、「日本人には要らないのか?」と問われても・・・。そりゃー、大切にしている人もいるだろうし、そうでない人もいるだろうし。 でも、なーんで?「日本人には・・・」なんだろう。うーん。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ でも、なーんで?「日本人には・・・」なんだろう。うーん。  ☆ これはですね。はっきりしています。  或るわたしの質問で  ◆ 私たちは日本人であり、東洋人であり、キリスト教の神なんか不要です。どうして聖書を知らなければお話にならないのか?  ☆ という回答の中の文章をもらったからです。ですから あまりにも意外だったので いちどみなさんに聞いてみようと。  日本人にとって要らないとは言わないけれど  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~   > 『聖書』は、あなたにとって必要で大切な一冊ですか?  という問いならば、その答えは「否!」。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですか。《大切な》が否定されたのか。それとも《必要》がか。あるいは 両方ともでしょうか。  なかなか なじみは薄いでしょうね 一般に。とは思います。  でも  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   Q、『聖書』は、日本人には要らないのか?   A、うーん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とうなるほどの状態ではあるのですね。ありがとうございました。

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noname#207067
noname#207067
回答No.5

要らないという結論にはしたくないです。 言論統制とか、思想弾圧ですから、思想の自由は欲しいです。 焚書坑儒とかよくないでしょう。 流行り廃りとか自然淘汰されることはあっても 人為的に要らないというのはどうでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  けっこう そういう意見が出るようなのです。要らないという。  ★ 人為的に要らないというのはどうでしょうか。  ☆ そういう消極的な理由だけでしょうか。

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  • raiden787
  • ベストアンサー率37% (179/473)
回答No.4

娯楽小説としてはなかなか良くできてると思います。 暇つぶしの手段の一つとしては必要性はあるかもしれませんね。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  けっこう長くて読みでがありますからね。

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回答No.3

聖書に限らず、もう宗教は役目を終えた。 (物理を学ばず日常的感覚に流されている素朴唯物論な人間を除き) 日本人に限らず、世界中に必要ない。 (むしろ宗教やお金といった自己チューな意識のまま社会性を補完する他律的システムが、もうグローバルに分業化=助け合っている世界に、拝金主義や民族的対立といった歪みを生じている)

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 聖書に限らず、もう宗教は役目を終えた。  ☆ ということは やはり物言いがつくかと考えます。聖書は宗教だけの問題であるのか? という問い返しです。  ★ (むしろ宗教やお金といった自己チューな意識のまま社会性を補完する他律的システムが、もうグローバルに分業化=助け合っている世界に、拝金主義や民族的対立といった歪みを生じている)  ☆ (あ) 《宗教》はいざ知らず 《お金》が《自己チューな意識》になるのですか?  (い) 《社会性》と言うことですが すでにそれは《生活のさまざまな部分や側面をめぐっての専門化を経て 互いに社会的にも組織的にも分業=すなわち協業しているそういった経済行為関係の状態》に実現しているのではないのですか?  (う) 《他律的システムが 社会性を補完する》とは どういうことでしょう? 社会性はすでに――前項に触れたごとく――成っているのではないですか?  (え) 《もうグローバルに分業化=助け合っている世界》 これが 《社会性》のことではないのですか?  (お) ならば もはや《それを補完するシステム》は 要らないと言っていることにひとしいはずです。  (か) すでに実現している社会性・しかも世界的に広がったそれに いったいどうして《歪みが生じる》のでしょう?  (き) 繰り返しになるのですが 《もうグローバルに分業化=助け合っている世界》がどうして 《お金といった自己チューな意識》によって補完される必要がありますか?  ★ 日本人に限らず、世界中に必要ない。  ☆ おそらく思想(生活態度)が聖書にもとづくならば 世界の宗教という組織宗教は要らないということが徹底されて やがて消えて行きましょう。  

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noname#207067
noname#207067
回答No.2

聖書を読む いやというほど文献学の話になる。 その後、仏典を読む。 聖書に倣って文献学を適用する。 そのようなことがありました。 先に仏典を読んでいたら、もっと 別の思想になっていたかもしれません。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  お言葉を返すようですが  ★ 聖書を読む / いやというほど文献学の話になる。  ☆ ということは 聖書を開くと あとは文献学に行き着くコースしかないという意味でしょうか?  そんなことはないはずでしょうね。  そういう意味では もう少しくわしいご事情が分かればさらに考えてみたいと思います。

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  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2589/17102)
回答No.1

私はユダヤ教徒でもキリスト教徒でもイスラム教徒でもないので、古事記や日本書紀の様に大昔に書かれた書籍という以上の価値を見出しません。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 古事記や日本書紀の様に大昔に書かれた書籍という以上の価値を見出しません。  ☆ わたしには 《古事記や日本書紀の様に大昔に書かれた書籍というほどの価値を見出し》たのなら 非常に大きい位置を占めています。  生活態度としての思想が知られえます。  ★ ユダヤ教徒でもキリスト教徒でもイスラム教徒でもないので、  ☆ そうだということになります。  出発点が同じですが 行き先は違って来たでしょうか。  

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      一致の定理によるとある微小領域において成り立つ数学的性質は、その微小領域を含むまともな領域全域においても成り立つという。 これはすごい事である。 一致の定理には世界についてのある普遍的な真理が隠されているに違いないと考えてみた。 そこでこれを人間精神に当てはめてみます。 例えば、 ある村に住む坊主が全て肉食妻帯坊主であるなら、日本中の全ての坊主は肉食妻帯坊主であることが導き出される。 ある教会で賛美歌を歌う人の全てが漬かっているなら、日本中の教会で賛美歌を歌う人のほぼ全員が漬かっていることは明らかとなる。 広布の広場に集まり南無妙法蓮華経とお題目を唱える人の全員がアホであるなら、日本中で南無妙法蓮華経とお題目を唱える人の全員がアホであることが分かる。 ある村に住むクソジジイ、クソババアの全員がウザいなら、日本中の全てのクソジジイ、クソババアはウザいことが分かる。 ・・・・などなど。 一致の定理は正しいか。    

  • 人生に意味などないことは明らかで、それ故そろそろ死のうかと思っているのですが

    とても下らない質問です。 お忙しい方は、どうぞ無視してくださって結構です。 さて。 こんな状況を想定してください。 ある理系の高校生がいます。 唯物論的世界観を有する彼にとって、世界は極めてシンプルです。 彼にとっては、科学を前進させること、人の役に立つ技術を開発することのみが、究極的には唯一、真に意義があると思われる命題です。 なぜ彼がこれほど単純な世界観を有しているかと言えば、それは彼がそれまで「自分」や「世界」について真剣に考えたことが一度もなかったからです。 幸い彼は、数学、物理などの理系分野にそれなりの才能があったので、世間では一流大学と呼ばれている大学の工学部に進学します。 大学生活の中で彼は、「哲学」と言うものに初めて出会います。 これがあらゆる不幸の始まりです。 「哲学」と言う名のウィルスは、少しずつ、しかし確実に彼の精神を侵食し始めます。 彼は「哲学書」という書物を読み漁るようになります。 この「哲学」という名の凶暴な悪性ウィルスが、彼の薄っぺらな世界観をすっかり転覆させてしまうのに、それほどの時間はかかかりませんでした。 彼はたちどころにそれまで信じて疑わなかった、「人生の意味・目的」というものを失います。それどころか、今後二度と以前のような意味での「人生の意味・目的」を得ることはできないことを確信します。 これはもちろん彼にとって、受け入れがたい苦難でした。それ故、彼は何度もそれらの書物を読み直し、そして考え直しました。しかし、どのように考えても、存在論的な基盤の上にある西洋哲学からは、人生の意味や目的を見出すことは不可能のように思われました。そして、それを承知でなおもそれら解決不可能な問いを探求し続けるのが哲学だと言うことに、ようやく気付いたのです。 人生の無意味、さらに言えば、存在の無意味に気付いてしまった(と少なくとも当人は思っているようです)彼にとって、残された道は二つしかありませんでした。素知らぬ顔で、残りの人生を過ごすか、あるいは無意味、無目的に耐えながら日々を過ごすかです。不器用な彼がとることができる道は、後者のみでした。それ以来彼は、数年にわたりシューシュポス的な日常に耐え忍んできました。 もちろん、取り付かれてしまった病を克服する努力はしてきました。 論理を超えたところに光があるのではないかという淡い希望にすがりながら、彼は宗教書や文学を読み漁りました。あるいは西田幾多郎や鈴木大拙などと言った東洋の思想も読みました。 一時はそれらによって、絶望を打ち破ることができたように思われました。 しかし、ダメでした。 3年前に、彼はうつ病と診断されてしまいます。 それ以来、投薬治療や認知行動療法などを続けますが、そんなものが効くはずはありません。彼にはそれが誰よりもわかっていました。何故なら彼は、本当はうつ病ではないからです。うつ病だったらどんなに楽だろうかと思いました。うつ病ならば、抗鬱剤で快方に向かいますが、デンマークの哲学者が名付けた彼の病の特効薬は「死」しか存在しないからです。 それ以来彼は、死に対する憧れを抱くようになりました。 夜眠りについて、そのまま一生起きることがなかったらどんなにいいだろうかと思いました。ただし、自殺を実際に行動に移すだけの勇気も、気力も、彼にはありませんでした。 もちろん、彼が自殺を思いとどまってきた理由は他にもあります。それは、家族、友人の存在です。彼が自殺をすれば、友人は猛烈な自責の念に苛まれ、両親は今後一生立ち直れないであろうことは、彼にはわかっていました。それゆえ彼は、それらの人々の為だけになんとか生きているといってもいい状態でした。しかし、忍耐にもそろそろ限界が来てしまったようです。 彼はそろそろ死のうかと思っています。 もちろん彼の死に一握りの悲劇的要素もないことは、彼自身が誰よりも承知しています。 何よりも無意味な死、犬死です。 しかし、彼の悩みが彼固有のものであると思うほど、彼はバカでもうぬぼれてもいません。 それどころか、数え切れないほど多くの人が、同じような問いに悩み、それを乗り越えてきたことを知っています。しかし、数千冊の書物から彼が導き出された結論は、それらの問いを乗り越えることとは、結局妥協によってのみ可能だと言うことです。 ただし、これは彼の結論であって、あなたの結論ではありません。 彼は、レヴィナス風に言えば、少なくとも「他者」を「私」ではない「他者」として認識するだけの謙虚さは持っているようです。 そこで彼は、インターネットと言う媒体を使って、「他者」にたずねてみることにしました。 彼の病を克服する「知恵」を、教えてあげてください。

  • 《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?

     哲学として定義してくださいませんか?  宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。  質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。  1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。  7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。  10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。  12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。  15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。  16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。