源頼朝と北条政子の夫婦関係とその背景について

このQ&Aのポイント
  • 源頼朝と北条政子の夫婦関係について詳しく教えてください。
  • 彼らの結婚の経緯や政治的な背景についても知りたいです。
  • また、時代背景や関連する出来事についても興味があります。
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源頼朝と北条政子(鎌倉時代)

二人の夫婦の関係がどのようなものであったか……庶民とまったく同じだったとは思いませんが、……(閨のことなど、詮索好きな人間の考えることから、政治的な背景や夫婦に及ぼした影響などなど……なんでも)教えて下さい。夫婦になる経緯……これはよく知りませんが、本当に政子が頼朝に惚れたのか?だとすれば、当然、そのような出会いが、事前にあったと思うのですが、???……二人の家柄……二人の結婚が政治的なものであったとしても、北条家にとっても、かなり「危険な賭」だったのでしょ???……とか、時代背景やその後の出来事(源氏3代の不信死など)を考えると、極めて興味深いです。歴史の文献に質問の回答に該当するようなものがあるのか知りませんが、単なる想像でも構いません。 BAは選ばないで締め切ります。それでもよろしければ、ご回答をお願いいたします。

noname#205122
noname#205122
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質問者が選んだベストアンサー

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回答No.2

矛盾しませんよ? だから北条氏は伊豆に配流となっていた頼朝の監視役でした 政子は世話係を兼ねたスパイのような物でしたから ただ女と言う物は古今東西 結婚すればその家の女となります 斉藤道三の娘の濃姫も父から「この短刀で信長の寝首を掻け」と言われましたが 濃姫は「信長に嫁ぐからには私は織田家の女です この短刀は父上の首を取る刃となるかもしれません」と言った事から分かるように結婚すれば実家すら敵になります だから政子は頼朝と結婚するまではスパイの様な役目でしたが 結婚した事で頼朝の為に尽くす様になったのではないでしょうか? もっとも北条家としては結婚させる事で政子に頼朝の監視を続けさせる狙いだったかもしれません

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 確かに監視役ではあったと思いますが、自分の娘を「スパイ」にしなければならないほど、危険な人物とは、清盛にも、北条氏にも認識されていなかったのでは? 「結婚した事で頼朝の為に尽くす様になったのではないでしょうか?」……そうなんですか?

その他の回答 (1)

回答No.1

伊豆で流人生活を送っていた頼朝を監視していたのが北条氏です 当然身の回りの世話をしていた政子が頼朝と恋仲になるのも自然なことと思います 北条氏が頼朝含め源氏三代の謀殺を企てたのは 義経による平家滅亡の後でしょう で無ければ平家である北条氏に源氏を滅ぼす理由はありません

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 政子は頼朝の「身の回りの世話」をしていたのですか?それであれば、「政子が頼朝に惚れた」というのは可能性としてはありますよね。ただ、このことを源氏か平氏かということを基準に考えると、そもそも「なぜ、政子は頼朝の世話をしたのか?」……北条氏が平家であるとすれば矛盾しませんか?むしろ、そこには、最初から、源氏とか平氏とかを超えた「何か得体の知れない企み」があったと考えた方が自然でないですか?何かに「危険な賭」と記述されていたのが気に掛かっていました。 源氏や平家にこだわらないで、単なる「欲」だと考えれば、可能性はもっと広がると思います。

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