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ナポレオンは

ナポレオンはワーテルローの戦いで勝つ確率はありましたか?

noname#201073
noname#201073
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  • taoyuany
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回答No.1

可能性はありました、実際に英国債券市場ではネイサン・ロスチャイルドが英国債に大幅な空売りを仕掛け、暴落させてから底値で買い占めて大儲けしています。これは、当時のイギリス人の多くが戦況はナポレオンに不利だがナポレオンは戦上手なので勝つ可能性がある程度あったと考えていた証明になります。 本会戦でもナポレオン12万の軍を率いては英蘭軍12万とプロイセン軍11万を順に各個撃破する戦略を立て、実行しました。 まず、ベルギーにて集結していたプロイセン軍へ攻撃を仕掛けます。 これがワーテルローの戦い(6月18日)の二日前のリニーの戦い(6月16日)と呼ばれており実際に戦闘したのは フランス軍 68,000 vs プロイセン軍84,000 でした。 フランス軍は6,000-7,000の被害でプロイセン軍に2万の被害及び8,000 - 10,000の脱走者を出させて壊滅させます。軍隊はだいたい三分の一を失うと壊滅すると言われており、16日に戦闘したプロイセン軍の8.4万のうち3万の被害というのはほぼ壊滅に近い数字でした。 また、この時にプロイセン軍の総指揮官であるブリュッヘル元帥も負傷し、指揮権を腹心のグナイゼナウに委ねます。グライゼナウは16日の戦いで支援してくれなかったイギリス軍への不信が膨らんでいた事と総司令官の負傷、軍をまとめるために時間が必要であるための理由で北東のライン方面への後退を考え始めます。 フランス軍はグルーシー元帥に33000の軍を預け、後退するであろうプロイセン軍に対させ、ナポレオン自身は翌6月17日の土砂降りの中オランダへ侵攻、オランダに居た英蘭軍に、昨晩からの雨が乾いてきた6月18日の昼前ごろから襲い掛かりました。 フランス軍 72,000 vs 英蘭軍 68,000 数字上は負けなさそうな戦いでしたし、実際に16時頃まで半数に近い27,000の被害を出しつつも英蘭軍は耐えましたが、勝つには程遠い状況でした。 ですが、16時ごろ戦場にフランス軍にとっては戦場に居るはずのない5万のプロイセン軍が到着し、フランス軍を敗退させたのです。 これはプロイセン陣内においてグナイゼナウが後退を決意した際、負傷していたブリュッヘルが起き上がり、後退を却下。グナイゼナウが指揮を執ってフランス軍を撃破するよう命じたと伝えられています。 グナイゼナウは英蘭軍へと合流するためにフランス軍に気付かれないよう静かに駐屯地を離れます。幸いなことにそれから土砂降りの雨が続いたため、プロイセン軍の行方はわからなくなった上、雨が理由で開戦が一日遅れました。そのためプロイセン軍が16時に戦場へ着くことが出来フランス軍を撃破できたのです。 他の敗因としてはフランス軍が戦力の集結ができなかった事が挙げられます。決戦に参加したのは フランス軍 72,000 vs 英蘭軍 68,000 & プロイセン軍 50,000 でしたが対プロイセン軍のために分離させたグルーシー元帥の軍33000は戦場から三時間の距離にいました。これが駆けつけることが出来れば フランス軍 105,000 vs 英蘭軍 68,000 & プロイセン軍 50,000 になっていたので、多少勝つ確率は増えていたかもしれません。 たまたまナポレオンからグルーシーに向けた「以前の命令を取消、集結し攻撃せよ」と送った伝令が雨の為か道に迷ったため、33000の軍は以前の命令に沿って相手の裏面へ向かって行軍中し続けました。 軍事学者アントワーヌ=アンリ・ジョミニは敗因として以下の四点を挙げています。 1)英国とプロイセンの連携によるプロイセン軍の到着と、グルーシーがプロイセンを止められなかった事。 2)イギリス歩兵と指揮官たちの耐久力。軍が半分になるほどの被害を受けたが戦線を大きく崩さなかった。 3)土砂降りの天候。地面がぬかるみ、行軍が困難になり、さらに18日朝に行われるはずであったフランス軍の攻撃開始が昼まで遅延することになった。 4)フランス軍の第1軍団の隊形が原因で、第一次攻撃を成功させられなかった。 私自身はこれに付け加えてブリュッヘル元帥の怨念に似た強い性格もあったと思います。ブリュッヘルは前進将軍と呼ばれた程猪突猛進で無教養、典型的な親分肌タイプで、その性格のためかナポレオンには翻弄され、一対一で対面した戦場では生涯勝つことは有りませんでした。 ナポレオンも二日前にブリュッヘル率いる軍に快勝していたため、ブリュッヘル率いるプロイセン軍を対し少し舐めていた部分もあったのかもしれません。 総司令官であるブリュッヘル元帥が強硬に英蘭軍に合流し、戦うのだ!と厳命したためプロイセン軍は敗戦後でも雨中行進でき戦場に間に合いました。この合流がほんの数時間遅れれば英蘭軍は壊滅していた可能性があります。彼が少しでも弱気になっていれば歴史は変わっていた可能性もあるかと思います。 大会戦であったため他にも多くのifが指摘されていますし多くの歴史家の方がこれについて書籍を書かれています。 今回は簡単に私見を述べさせていただきましたが、興味がおありでしたら yahoo知恵袋「ワーテルローの戦いでのナポレオンの敗因はドコにあると思いますか」 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1485567899 などにも私より良い回答があるかと思います。 以上質問者様の参考になれば幸いです。

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