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哲学で真理はありますか?

結局哲学の研究の結果、真理に辿りついたものと認識されてるものはありますか? どの考えもそれを否定する意見が出てきているのですか? とんちみたいな回答が多くなりそうですが、お願いします

  • gaitu
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質問者が選んだベストアンサー

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回答No.4

>哲学で真理はありますか? いいえ。 真理を探求するのは物理学などの自然科学です。 哲学は物理学などの自然科学が解明した真理をどう解釈するか、解釈の方法を探求します。 作曲家の作品を解釈して論ずる「音楽評論家」のようなものですかね。

gaitu
質問者

お礼

なるほど、その中に良い評論家と、的外れな評論家がいるといったことなんですね 回答ありがとうございます

その他の回答 (5)

  • ways
  • ベストアンサー率31% (79/253)
回答No.6

真理や普遍性を追究するものが、哲学=考えることではないでしょうか。ただ考えるだけ、という机上の空論で終わるものだとしたら、学問として成り立たないと思います。宗教でも真理や真実、普遍性が説かれていますし、世界で起こったことがらからその理由を追究していき、その成果が様々な分野に役立てられる、というふうに、哲学だけ独立しているわけではないと思うんです。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.5

>結局哲学の研究の結果、真理に辿りついたものと認識されてるものはありますか? 〇ありますよ。プラトンの「洞窟の比喩」などは真理ですね。これは、洞窟の入口に立ち、後ろからの光によって洞窟の壁に映る影を見ているのが人間であるということですが、背中の後ろは見られない、これは真理ですね。 背中の後ろを見聞きしたものにしか本当の世界がわからないのですね。だから見えないものは見たものの言葉を信じるしかないのです。それが、また、どのように摩訶不思議であってもね。 誰もが認識できるものは真理ではなく影でしかないのですね。例えば、100年前の常識は現代の非常識、現代の常識は100年後の非常識にしかなりえないのは歴史的事実でしょう。科学技術も長い目でみると影の一つでしかないのです。 影を基礎として構築したどのような学問も影の中のものでしかなく、光がなくなれば、あるいはご本人がなくなれば消えてしまうものですね。ヘーゲルは光を基に構築した哲学体系を構築していますね。ヘーゲル以降は影の哲学ですからどれもさほど長続きする学問ではありません。真理は簡単なものの中にあるのですが影ばかり見ているとわからなくなるものです。ただ、影も実態ですから、影の中でのより良い世界を構築することも哲学の使命であることは明白ですね。光と影の両方を見ながらより良い世界を構築するのが哲学の道ですね。

回答No.3

「真理」という言葉が、「論理的に破綻していない」と 「現実を記述している」という2つの意味を持たされて いるが、一般的にその2つは同義ないし両立すると思わ れているので、真理は1つのものと考えられている。 しかし、不完全性定理において「完全な公理系は無矛盾 ではあり得ない=公理系は不完全な場合にのみ無矛盾で あり得る」という証明がなされ、「現実を記述する= 有限な存在性=Aと非Aを同時に導かない」ためには、 「公理系で証明されない公理の介入=論理的な不整合」 が必須である事が明らかとなった。 その事は「有限的な存在性(認識(不完全)性を除外した 外的存在)の先入性」=決定論が、不確定性原理によって 否定されて、全ての存在の起源が「超弦=量子定常波」に 還元され、その階層現象化(認識体>細胞>分子>原子 >素粒子>クォーク>超弦)に付随して、表面的に (=いい加減に)捉える事によって、有限的存在性が 派生している事に対応している。 無とは分からない事が有である。 哲学とは、肉体に付属した感覚器官によって生じる 『何かあるんじゃないの?』という疑問として生じる世界を、 『本当は無いんだけどね』と無へ還元するプロセスである。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9728/12102)
回答No.2

>哲学の研究の結果、真理に辿りついたものと認識されてるものはありますか? >どの考えもそれを否定する意見が出てきているのですか? ⇒「常に同時に」妥当するような真理、つまり、「いつでもどこでも」真理だと言えるようなものには、永遠にたどり着けないと思いますよ。「それを否定する意見」が出てくるからではありません。本来的に「哲学とはそういうもの」だからです。 いかに真理らしく見えることでも、場所と時間が違えば真理として通用しないことになり得ます。つまり、真理には普遍性や絶対性は付随せず、どんなに不動の真理らしく思われても、「それは大なり小なり、相対的に真理である」と考えるべきものでしょう。 因みに、真理の探究においては、「プロセスこそ大事」と言えるでしょうね。そもそも「哲学(する)」とは、常に真理を探究し、それを求めて自己研鑽する過程に他ならないことだと思います。そしてそれこそが、真理を求める者の持つべき心性であるとも言えるのではないでしょうか。

gaitu
質問者

お礼

行き着くところが虚しいと分かっていてプロセスを踏める人は凄いですね 好きなんですねきっと 神は死んだ、が一応一番真理に近いんですね 回答ありがとうございました

回答No.1

Q、真理に辿りついたものと認識されてるものはありますか? A、究極で絶対的な真理ってのはないでしょう。 人間の知能レベルは、万物の真理を見通すには低すぎるでしょう。 そんな人間の真理探究は、更に時代的な制約から逃れることはできません。 ですから、私たちは「より真理に近いとされる<相対的真理>」についての知見しか持てないでしょう。 と、思いますよ。

gaitu
質問者

お礼

結局虚しいんですね・・・ 回答ありがとうございました

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