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ティッサ・メッテイヤについて

~~~~~~~~~~~~~~~ sutta nipāta 4.7 Tissametteyyasutta http://suttacentral.net/pi/snp4.7 ~~~~~~~~~~~~~~~ sutta nipāta 5.3 Tissametteyyamāṇavapucchā http://suttacentral.net/pi/snp5.3 ~~~~~~~~~~~~~~~ mahāniddesa aṭṭhakavagga 7 ­Tissametteyyasuttaniddesa http://suttacentral.net/pi/mnd7 ~~~~~~~~~~~~~~~ cūḷaniddesa pārāyanavagganiddesa pucchāniddesa 2 ­Tissametteyyamāṇavapucchāniddesa http://suttacentral.net/pi/cnd6 ~~~~~~~~~~~~~~~ スッタニパータの第四章に、「ティッサ・メッテイヤ」 第五章に「学生ティッサ・メッテイヤの質問」があって、 共通した名前が出てくるのは、なんなのでしょうか? とはいえ、同じ経だとしたら別々にする理由もないですよね? どう考えますか? それから、 ~~~~~~~~~~~ 822 (俗事から)離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。(しかし)これだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。──かれは安らぎに近づいているのだが。 ~~~~~~~~~~~~ このようなことも書いてあれば、『犀の角』とつながりがありそうな、ないような?

noname#207067
noname#207067

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  • ベストアンサー
  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.1

素晴らしい研究ですね。

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noname#214841
noname#214841
回答No.3

>>共通した名前が出てくるのは、なんなのでしょうか? 「tissa」といふ名前は、佛典でときどき見かけます。サンスクリット語では「tiṣya」。『テーラガーター』39、『マハーバストゥ』307など。ある程度一般的な名前なのではないでせうか。 「metteyya」は生れた種族と解されますが、意味は「敬母」か「慈愛」かよくわかりません。 『スッタニパータ』の第4章と第5章の「ティッサメッテイヤ」が同一人物なのかどうか、迷ふところです。岩波文庫の中村元の解説では、第4章の人物は、ブッダを同格の友人扱ひしてゐることが言語的に指摘されてゐます。それに対して第5章の人物は、ブッダとの師弟関係のやうにも読めます。一般的な名として、別人物ではないかといふ気がします。もちろん根拠はありませんので、反対する人はいくらでゐると思ひます。 >>同じ経だとしたら別々にする理由もないですよね? 内容に関しても、似てゐるのか、似てゐないのか、名前と同様微妙です。 いづれも女性への欲望について書かれてをり、第4章は、破滅する人、第5章は、克服する人で、同じ内容の続編とみなすこともできさうです。もちろん、偶然なのかもしれません。 私としては、中身の詳細さを比較すると、第4章のほうに分がありますので、別の経典のやうに感じられます。 >>『犀の角』とつながりがありそうな、ないような? これも「ありそうな、ないような?」、どちらとも言へそうです。基本、別別とは思ひますけれど。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

>共通した名前が出てくるのは、なんなのでしょうか? とはいえ、同じ経だとしたら別々にする理由もないですよね? どう考えますか? 〇仏典と新約聖書の違いですね。釈尊は80歳で帰天するまで約50年、待機説法をしていますから、質問と回答は膨大ですね。それを後代の弟子たちは分類しているということですね。同じ弟子の質問でも欲望に関するものと、到彼岸に関するものを分類分けして書き残しているわけですね。それが仏典として編纂されていると見れば理解できるでしょう。 他方、新約聖書はイエスの活動期間も短かったし、弟子も少なく、イエスの教えを分類的に理解できたものはいなかったんでしょうね。ただ、個別の弟子の記憶を並べただけになっていますね。私はこう聞いた「如是我聞」だけでは全体像がみえませんね。仏教経典は次第説法を基礎に編集されているので個々の修行の段階別の指針になるのですね。 >このようなことも書いてあれば、『犀の角』とつながりがありそうな、ないような? 〇『犀の角』の喩えは修行者が持つべき心構えのことですね。この喩えに近い喩えは「旅人」の喩えですね。これは、主人に用を仰せつかって遠方に向かう者が旅の途中で遊びほうけて主人の用を忘れ目的地に達することができなかった。という例え話です。まあ、途中下車ですね。 『犀の角』とは「用事を忘れないで目的地に達せよ。」という喩えですね。 仏教でいう用事とは「アラハンになること」目的地は「彼岸」、つまり、「到彼岸」ですね。 「(俗事から)離れて独り居ることを学べ。」は、「到彼岸」に近い修行者への教えですね。 他方、『犀の角』は駆け出しの修行者への教えですね。従って、違うものですね。

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    ブッダは、悟りを開く前に苦行をおこなつてゐましたが、結局は達成できず、まづ体力の増進をはかることに方向転換しました。その結果として、のちの佛教の隆盛があるわけです。 私は下記文献を読んだとき、なぜ6年間も修行するなかで、そんな(一般人なら当然の)ことが理解できなかつたのか、不可解でした。理由を教へてください。 哲学カテゴリ住人の方が御回答くださる場合は文章がむづかしいので、私の頭でも理解できる程度にかみくだいてお願ひいたします。 *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***  脂肪と肉と血液がすっかりなくなってしまって、骨と皮だけになった。このように体重は減ったが、人間としての深みは減らず、深みの減ることのない大洋のようであった。聖者は激しい苦行のためにいたずらに体を痛めていたが、苦しみの世に再び生まれて来るのを恐れ、真理の理解者になることを望んで、次のように考えた。 「苦行を説くこの教えは、愛欲から自由になるためにも、真理を理解するためにも、また魂の解放のためにも、何の役にも立たない。あの時私がジャンブの木の根元で得た教えこそ、確実な教光なのだ。また、あの教えは、脆弱な人が得ることのできないものである」。   そこで、体力の増進のために気をくばることになり、さらに次のように考えた。 「飢えと渇きに疲れきって憔悴した人は、疲労のため心が病んでいる。心に安らぎのない人が、心で得るべきものをどうして得ることができようか。感覚器官がいつも充実されておれば、心の安らぎが得られる。感覚器官の充足によって心の健康が得られる。健康で充足した心から、深い精神集中(三昧)が生じる。深い精神集中を伴う心に瞑想の実践が始まる。瞑想が始まることによって、正しい教理が得られる。正しい教理によって得難い寂静の境地、不老不滅のかの最高の境地が得られる。したがって、この方法は食事を前提とする」。  そこで、意志が強く叡智が無限の聖者は、食事をとろうと決心した。 『原始仏典 第10巻 ブッダチャリタ』講談社 小林信彦訳 第12章 141,142ページ http://www.ancient-buddhist-texts.net/Buddhist-Texts/S2-Buddhacarita/Sanskrit-Buddhacarita-DN.pdf *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***