• ベストアンサー

「よもの海みなはらからと…」が歌われた状況を教えて

「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」 意味の深い歌ですが、明治天皇が歌ったそうですね。その際の状況を教えて下さい。 1、この歌が作られたのは、明治37年だそうですが、この年2月8日に日露戦争が開戦しました。 開戦前に歌われたのですか? あるいは、開戦を考慮中に歌われたのですか?     あるいは、開戦後に歌われたのですか 2、明治天皇は、当時、この歌を他人に公表したのですか?   あるいは、暫く彼の胸の中にしまっておいたのですか? 宜しくお願いします。

  • 歴史
  • 回答数3
  • ありがとう数4

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • drmuraberg
  • ベストアンサー率71% (847/1183)
回答No.2

1)日露開戦の直前のロシアとの国交断絶(2月6日)を決定した御前会議でです。   国交断絶⇒開戦、はこの時決定されました。 2)関係者には公表されています。   しかし日露戦争当時にどの範囲まで公に知られていたかは判りませんでした。 この歌と太平洋戦争開戦の関連は興味あります。 以下は、ご質問に沿ったネット検索の結果です。 明治37年(1904年)2月4日、日本は御前会議を開き、ロシアとの交渉を打ち切り 軍事行動に移ることを決議しました。2月6日、栗野慎一郎駐露公使がロシアに 国交断絶を通告しました。 http://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/seiji01_detail.html この御製は1904年にロシアと国交断絶した御前会議のあと詠まれたものだ。 それは明治天皇が「これは朕の志でないがやむをえない」ともらして詠んだ歌だ、 と側近が書いている。 http://agora-web.jp/archives/1598697.html 日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に 対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)に始まった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89#.E9.96.8B.E6.88.A6 この明治天皇の歌が、太平洋戦争開戦の決め手のように使われたと平山の 著書は読み解いた。 日露戦争の開戦にあたって、明治天皇には危惧があった。世界は全てが 兄弟姉妹である平和な時代であると思っているのだが、どうして波風が 立つような動乱の兆しがみえるのだろうか。このような内容になる。 一読、戦争忌避、平和愛好を感じて不思議ないだろう。 明治天皇の御製を二度朗読あらせられ『自分は常に明治天皇の平和愛好の 精神を具現したいと思っておる』とお述べ遊ばされた。」 「よもの海」の歌は、明治天皇が日露開戦当初に詠んだ和歌で、「そして畏多い ことながら、今上陛下の大東亞戦に臨ませられる大御心も明治天皇と いさゝかもお変りあそばされぬのである」(朝日新聞記事)と。 http://www.sunagoya.com/tanka/?p=12584

park123
質問者

お礼

調べて頂いたご回答ありがとうございました。 1、側近によると <この御製は1904年にロシアと国交断絶した御前会議のあと詠まれたものだ。> ということですね。 2、範囲は不明なれど <関係者には公表されています。> ということですね。 そして、側近は <明治天皇が「これは朕の志でないがやむをえない」ともらして詠んだ歌だ、> ということでっすね。 これらの事情を知っていた昭和天皇は、この歌によって、「日露戦争と同様に、大東亜戦争の開戦も、止むをえない」と消極的に賛成する(追認する)と意志表示をしたと、私は考えますが、いかがでしょうか?

その他の回答 (2)

  • drmuraberg
  • ベストアンサー率71% (847/1183)
回答No.3

歌が詠まれた当時、どの範囲で知られていたかは定かではありません。 御前会議には指導的政治家と軍人が多数出席していた訳ですから、 日露戦争中および戦争直後では、上層部の人々は誰もが知っていたと 推測できます。 一般に知られるようになったのは、それほど遅くない時期で、日露戦争の 様々な行動が美談として語られ出した頃からと思います。 昭和天皇との関係は逆です。 昭和天皇はこの歌を引き、開戦に消極的に反対したと解釈されています。 しかし、朝日新聞に代表される民間は開戦に賛意を示したものと解釈し、 国民の決意を固め戦意を高めるためにこの歌を利用しました。 太平洋戦争の頃は、あの朝日新聞が最も愛国的で戦意高揚に熱心でした。 今手元に、つい最近田舎の蔵で見つけた昭和13年10月21,22日の東京朝日 新聞が有ります。記事の大半は日華事変の中国戦線関連です。 「紙一重の重さに喘ぐ、難行軍、泥と特派員、恵州へ地獄の四日間」、 「市外へ僅かに三里半、広東陥落いまや寸前、わが新鋭続々上陸中」 等など。 地方版には戦死者(論功)名簿が有ります。 「不滅の殊勲甲に輝く、郷土誉れの八勇士、・・・」 ちょっと脱線でした。

park123
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございました。 紹介して頂きました”昭和天皇「よもの海」のなぞ”を早速、読んで(拾い読みですが)います。 この本によると、2月4日の御前会議の後,昭憲皇后に <・・・国交を断行することとなった。これは朕の志でないが止むを得ない」と漏らした際に「よもの海」 が詠まれた・・・> となっていますね。 下世話な言い方にすれば、明治天皇は、身近な親しい人に愚痴を言った際に、この歌を詠んだ、ということになるでしょうね。 次に、先々代の天皇のこういう行為をおそらく知っていた昭和天皇は、どういう意図でこの歌を詠んだのか、関心があります。 すなわち、開戦を思い止どまらせようとしたのか? あるいは、開戦は止む得ない、と暗に承認したのか?

  • chomicat
  • ベストアンサー率55% (586/1047)
回答No.1

唱歌じゃあるまいし・・。 天皇の咏は御製(ぎょせいと云います) 70年も前だと明治天皇の御製を剣道場で唱和するのは常でした。 日露戦争前に御詠になった御製は明治天皇の已む無く開戦するに対する本当のお気持ちであったのではないでしょうか。 又、御製は全て印刷されて出回り、小、中学校の教育の場で盛んに使われました。 皆で唱和します。 何故戦争に入らなければならないのかとのお気持ちがあったと思います。 昭和天皇は昭和16年9月6日の御前会議で、普通は発言をなさらなかった天皇が統帥部が陛下の質問に対し満足せる答えを出さなかったことに対し、懐の短冊を取り出しこの明治天皇の御製をお詠みになり、已む無く開戦の詔(みことのり)を詠まなければ為らなかった事は昭和天皇には戦争を回避したいと云う気持ちが少しでも在ったのではないでしょうか?

park123
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございました。 <御製> ですね。昔なら、不敬罪かもしれませんね。 ところで、質問のように当時の事情が知りたいのですが。

関連するQ&A

  • 明治天皇のいった言葉を教えて

    「卿もし死を願うならば、われの世をさりてのちにせよ」 日露戦争が終わった時に明治天皇が乃木希典将領に言った言葉でその中の意味はなんでしょうか。 ご存知の方教えていただけませんか。

  • タイトルを教えてください。日露戦争の映画です

    23年位前、夜中に放送されていた日露戦争をテーマにした映画なのですが(当時深夜放送だったことを考慮すると、それより数年は前に作られた映画だと思います) 日露戦争の映画 1.序盤、一部に見られる「太平洋戦争」の映画とまったく同じで、 勝ち目のない戦争を、なんとか回避しようと必死で和平工作を探るものの、最終的に開戦やむなしの結論に至るシーンで始まる 2.明治天皇が主役(か準主役?)で、戦争で困窮する国民を心配するシーンがちらほら、あったような、なかったような 203高地(?)での戦死者名簿を何時間も目を通し、この部隊には山田という苗字が多いとか田中が多いとか呟く 前線の兵士と同じ食事をわざわざ用意させてそれを毎日食べるのでそのことを心配する側近たち 3.ラストは、連合艦隊とバルチック艦隊との海戦 海戦中のシーンで、 指揮官(?):「見ろ、お前の撃った砲弾が当たったぞ!」 砲手(重傷):「バ、バンザーイー、連合艦隊バンザーイ!!」 直後「軍艦マーチ」のBGMが流れ始める 4.映画の最後に明治天皇が詠んだ平和を尊ぶ和歌(だったと思う)が詠まれて終わり うろ覚えなので、一部違っている部分もあるかもしれませんが、よろしくお願いします

  • 日露戦争における両国の国力比

    こんにちは。 日露戦争については、一般的に、日本が国力で大きな差があるロシアと戦い、かろうじて勝利を得たと言われていますが、開戦時における日露両国の国力比を具体的に知る数値はあるのでしょうか。GNPで比較できればいいのですが、おそらく明治時代の話なので無理ではないかと思います。どなたかいい知恵をお持ちの方、教えて頂ければ幸甚です。

  • 戦争責任(辻と昭和天皇の場合)【質問2題】

    お暇なときにでも回答願います。 戦争責任は開戦責任と敗戦責任の2つに大きく分けることができると思います。 大東亜戦争ではこのうち、開戦責任については東京裁判で追求され裁かれましたが(公正な判決だったかどうかは別にして)、敗戦責任についてはうやむやになってしまったような気がします。 戦勝国としては開戦責任を追及するのは当然ですが、日本国民としては開戦責任よりも敗戦責任を追及したいのが心情ではないでしょうか。 例えば、常軌を逸した作戦指導で、多くの将兵や民間人を無駄死にさせておきながら戦後ものうのうと行き続けた人たち(ノモンハン・ガダルカナルの辻、服部、インパールの牟田口、沖縄戦の八谷などなど)(中には国会議員になった輩もいる)がいたということに何か釈然としないものを感じます。 そこで質問。 (1)戦後、こういった人たちの責任を追及するための訴訟はできなかったのでしょうか。彼らに強い恨みを持っていた連隊長クラスの現場の指揮官は多かったと聞きますし。。(国が原告になってもよいと思う)。(法的に不可能だった?) (2)昭和天皇の戦争責任を考えた場合、平時(開戦時)においては明治憲法55条により天皇の大権事項は大臣が「輔弼」する(大臣の責任で実行される)と定められているため天皇には開戦責任はないのでしょうが、敗戦責任についてはどうなんでしょうか。 戦時においては明治憲法11条によれば天皇は陸海軍を統帥する「大元帥」であり、この統帥大権に対し、陸海軍の帷幄機関は「補翼」するだけの助言者にすぎません。つまり戦時中天皇の名において発せられた多くの作戦命令(大陸令、大海令)の最大の責任者は陸海軍の帷幄機関(大本営)ではなく昭和天皇になるのではないでしょうか。

  • (+_+) 日清・日露戦争は、イギリスのかわりに戦った代理戦争?

     日清戦争と日露戦争は、イギリスのかわりに日本が戦った代理戦争、という説があるようですが、これは定説になってるんでしょうか?  司馬遼太郎さんは明治時代のことにとてもくわしかったそうですが、そのへん、どう見ておられたんでしょうか?

  • 開戦を煽った「宮様」とは?

    韓国の高校生が「日本人猿よ。歴史を歪曲するな」という英語のプラカードの写真をネットにアップしていますが、こういう事に遭遇する度に、何で無謀な戦争に突入したんだろう?という腹立ちが起きます。そこで、以前、読んだ本に「宮様」なる軍人が「戦争するなら今しかない」と開戦を煽ったという事実です。この宮様とは、明治天皇とはどのような関係で、どのような階級の人物だったのでしょうか? もちろん、開戦の原因はもっと他にもある事は承知しています。

  • 君が代って戦時中、皆さん歌っていたのでしょうか?

    君が代って戦時中、皆さん歌っていたのでしょうか? 法律で国家とされたのは10年くらい前ですよね。 戦前って、君が代は、みんなが歌っていたのでしょうか? 明治時代から富国強兵そして世界大戦。 テレビのドラマなどで、日の丸や天皇陛下万歳は見たことが多々ありますが、君が世を歌っているシーンを見たことが無いような気がします。 いわゆる軍歌なら、突撃や略奪できそうですが、君が世で突撃はできそうにありません・・・。

  • 日露戦役記念碑の名目(明治三十七八年戦役)について

    日露戦役の地域出兵記念碑を都内ですが3箇所で見つけました(北区飛鳥山、杉並区妙法寺、豊島区雑司が谷)みな、日露戦役とは書いていませんで、明治三十七八年戦役出兵のと書かれていたのです。大体建立は戦中から戦後直後でした。当時は「日露戦争」とは言わなかったのでしょうか?いつから定着した名称なのでしょう。あるいは「日清戦争」も当初は「明治二十七八年戦役」ということだったのでしょうか?

  • 私の尊敬する歴史上の人物は「明治天皇」。変ですか?

    私の尊敬する歴史上の人物は「明治天皇」。変ですか? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87 「尊敬する歴史上の人物は?」と聞かれたら、私は「明治天皇」と答えます。 「明治天皇って何した人?」と言われたら、別に何もしてません。 「明治天皇ってどんな人?」と言われたら、分かりません。 なんとなく、「つよくてえらくてかっこいい人」というイメージです。 明治天皇は何か技術を発明したわけでもなく、また日露戦争の戦略を立てた わけでもありません。 明治時代とは、幕府の滅亡から始まり、驚愕的な勢いで欧米と方を並べる 近代国家へと急成長したという、世界史上類を見ない稀有な時代です。 明治天皇は日本の近代化の象徴と言われており、明治天皇に対する敬意とは、 イコール明治時代の日本人に対する敬意だと私は考えております。 (ちなみに私は特に偏った教育を受けたわけでは、変な団体に所属しているわけ ではありません。) 私の尊敬する歴史上の人物は、私が何も知らない「明治天皇」。 こんな私は変わってますか?

  • 昔の天皇陛下への忠誠心について。

    昔の話ですが、明治天皇、戦時中の昭和天皇に対する軍人と側近(大臣などの閣僚)のそれぞれの忠誠心とは、どういうものだったのでしょうか?例えば「陛下の考えや思想には賛成できないけど or 陛下あんまり好きじゃないけど、逆らったら命がないから仕方なく忠実に従っておくか」みたいな、内心は本当はそんなでなかった人もいるのか、あるいは「天皇陛下は神様だ。絶対だ。陛下の言うことは全て正しい。陛下のためなら喜んで命を捧げる」みたいに心の底から忠誠心を抱いていたのか……「明治天皇と日露大戦争」という動画を見て、ふと関心を持ったので、質問させていただきます。できれば軍人(兵隊レベルから長官レベルまで)と側近(大臣など)の2側面で教えて下さい!