親鸞の義なきを義とすは神の依怙贔屓か?
- 親鸞の《義なきを義とす》は、神の依怙贔屓を意味しているのか疑問です。
- 親鸞は他力と申しており、義なきを義とすると述べています。
- また、親鸞の言葉によれば、称名念仏は修行や思考を経ずに信じることが求められるとされています。
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親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?
しかも これを わがシントウの《神ながらの道》にひとしいと仮説して問います。 1. たとえば 次のように言っています。 ▼ (親鸞:義なきを義とす) ~~~~~~~~~ 1-1.(親鸞の書簡:末燈抄・十) 他力と申し候ふは とかくのはからひなきを申し候ふなり。 1-2.(同上) 仏智不思議と信ぜさせ給ひ候ひなば 別にわづらはしく とかくの御はからひあるべからず候ふ。ただ ひとびとのとかく申し候はんことをば 御不審(=疑問)あるべからず候ふ。とかくの御はからひあるべからず候ふなり。 1-3.(同上:九) 他力には 義なきを義とするとは申し候ふなり。 1-4.(歎異抄・十) 《念仏には 無義をもつて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆゑに》と仰せ候ひき。 ~~~~~~~~~~ 2. 《無義》の中の義は けっきょく《おのがはからひ》のことだと思われ それを《義》とするというときの義は それでよいという意味なのでしょう。 3. だとすれば アミターバ・タターガタ(阿弥陀如来)の《他力》については いちいちわれわれ人間が詮索し考えることはない。と言っているはずです。 4. 《念仏》についても (1-4)で同じく無義を言うのですから 何ら思考する余地を残すものではない。こうでしょう。 5. 言いかえると 称名念仏は《非行非善》なのですから 修行や思考・思索を経て《信じる》ことがあたえられるというものではなく 善行を積んだから《アミターバの光に摂取され すくわれる》わけのものでもない。 6. アミターバの名をわが心に受け容れたそのとき 《即得往生》である。と。 7. もしこうだとしたら 人びとは何故 《修行をして浄土にたどりつく》と考えるのでしょう? 8. 善行をなさなければ 極楽往生しないと何故おのがハカラヒにて 考えるのでしょう? 9. アミターバとワタシの関係は あとは そのときそのときおのが実存をどう生きるか。これだけではないでしょうか? 9-1. 生きたあと どうなるかは 関係ないのではないでしょうか? 9-2. 生き切ったなら その実存の総体がたたえられる。これでおしまいでいいのではないでしょうか? 10. では アミターユス(アミターバ)とワタシの関係として 不遇の目に遭い逆境を生きなければならないとき それは 何をあらわしているのか? 11. 神――もしくは ブッダの慈悲――は エコヒイキをするということであろうか? 12. たとえば: ▲ (神のえこひいき?) ~~~~~~ 12-1. 神は あわれもうと思う者をあわれみ いつくしもうと思う者をいつくしむ。 (出エジプト記 33:19 / ローマ書 9:15) 12-2. わたしは〔双子の兄弟のうち兄の〕エサウを憎み 〔弟の〕ヤコブを愛した。 〔しかも母の胎内にいるときにすでに〕 (マラキ書1:2-3) 12-3. 神はそのあわれもうと思う者をあわれみ かたくなにしようと思う者を かたくなになさる。 (ローマ書 9:18) 12-4. 神は すべての人が救われることを欲したまう。 (テモテ第一書 2:4) 12-5. 風は思いのままに吹く。 (ヨハネ福音 3:8) ~~~~~~~~~~ 13. このあと 《だから 言わんこっちゃない。やっぱし こうぢゃないか》か あるいは 《けれども じつは こうこう こうなのだ》か ご見解をお示しください。 14. たたき台として示し得た内容について そのすべては シントウないし《日本的霊性》とよぶべきことをも等しく表わすものと思っています。 15. このシンラ二ズム(親鸞思想)は 老荘思想や儒教とは・そして仏教とさえも基本的に異なると考えます。《はじめ(アルケー)》を立てないところです。アミターバ・ブッダを立てていますが――神を立てていますが―― その《義ないし思考または純粋理念》〔なる観念〕から自由な場におのれを置いているからです。これが 神ながらの道であると信じます。 みなさん 思いっきり自由なお考えをどうぞ。遠きを慮り つつしむことこそが 自由なのだというお考えもあるかも知れませんが。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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親鸞の徹底した他力には本物感があります。私は浄土があるとは思っていないのですが、観念の世界ならば阿弥陀如来の事も無義の義の事もどのように考えても自由です。悪人正機とまで言っているのですから、修行も善行も悪行も関係ないのでしょう。親鸞は観念の世界に自分を置くことによって、精神の自由を得ていたのだと思います。 私は創造の神は信じていないのですが、所詮は人間が神を創ったものですから、人間のようにえこひいきをしても不思議ではありません。神に帰依した者としない者を同等に扱っては神の値打ちがありません。この考えも人間らしいです。
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《信仰》という一点に絞ります。次の《信心》は信仰一般であると言えるでしょうか。 ▲ (《歎異抄》 第一章) ~~~~~~~~~~~~~~~~ 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏まうさんとおもひたつたこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。 そのゆゑは、罪悪深重(じんじゅう)・煩悩熾盛(しじょう)の衆生をたすけんがための願にてまします。 しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆゑにと 云々。 http://kyoto.cool.ne.jp/otera/tanni/ (検索で最初に出ているので) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 一番の知りたいところは (A) 《弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて》というとき そこには 《人間の経験的な思考(はからい)》が伴なわれているのではないか。 ☆ です。言いかえれば (B) 阿弥陀仏は 《絶対》か。 ☆ です。《絶対》であるなら 《はからい》はありえない。あっては おかしいと考えます。 (C) 《不思議》は 《〈絶対〉との対面として 非思考》ゆえ 信仰であると採りますが 《誓願》は 概念を含んでおり それを人が受け取るなら 《思考=はからい》を伴なう。 ☆ と疑われます。なお (D) 《念仏》は 《信仰》の現われた一つのかたち。 ☆ と単純に受け取ります。
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- 聖書の示す神とその信仰は 無条件に成り立つもの
・・・でなくてはならない。ということを キリスト・イエスが指し示した。 そこから 《神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てたる〕宗教にかんする一般理論》が成った。 世界における神とその信仰は 神の名が違うだけであって みな同じひとつの神であるということ そしてその神とわれとの関係たる信仰も基本としては 同じかたちである。こう成ります。 《すべての神》という言い方もヘンですが そのあらゆる《神は 無根拠であり 信仰は無根拠にて成り立つ》という意味にもなると考えますが その理由を地図のごとき説明にて示します。 ○ (神とは《非知》のことである) ~~~~~~~ 経験事象 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと人間が知り得た) 非経験の場(因果関係を超えていると想定) 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない) ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~ 信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ直観 ---------------------- 考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教 感じる:《感性の原野》:知覚;直感 ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~ A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*) 無梵:空・シューニャター・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) / マハーワイローチャナ(大日如来) 仏:如来蔵・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) G. ユダヤイズム:霊霊一如 霊:ヤハヱ―;(エローホ=神) 霊:われ H. イスラーム:霊霊一如 霊:アッラーフ(イラーハ=神) 霊:われ * 無神論と有神論:《非知》を――なぜなら 因果関係を超えているゆえ それが有るとも無いとも人間には規定できないので 好きにどちらかをえらべばよいから――《無い神》としてえらんだ結果の信仰が 無神論である。《有る神》として非知を受け取る有神論と それはまったく対等で同じ信仰である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 真理は シンプルです。シンプル・イズ・ベスト。 このたたき台を 言わばコミュニティーに対して かさねて問います。
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ちてりすと1さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 こちらも思いっきり自由な対話ということで 考えを突き合わせてまいります。 ★ 悪人正機とまで言っているのですから、修行も善行も悪行も関係ないのでしょう。 ☆ 親鸞学として世界の最先端を行こうと思いますので まづこれを取り上げます。 《悪人正機》。これは 意外感をあたえて しかも中身も納得のゆく深さがある思想のように考えられます。 考えられますが やはりおっしゃるように 《修行も善行も悪行も関係ない》。 ようく考えてみれば この場合として すくわれるのに《善人》も《悪人》もない。はずです。両者をくらべることは 一応おもしろい論点であるように見えて 再応としては意味がない。なぜなら 例外をつくるようなら 神ではないからです。 例外が仮りにあるとしたら それは その人の一生のうちに心が癒され 世間と和解しおのれみづからとも和解するということが実現しえなかったという場合だと考えられます。死ななきゃ直らないというよりも 死んでも直らない場合があるかも知れません。それは その本人がそうのぞんだということで 仕方がありません。つまり 例外ではありません。 ですから 《全人正機》でなくてはならない。 さらにしかも じつにこの《すくい――世界とわれとの和解――》は それを一応理屈としてかかげたとしても その理屈にまどわされることはない。というのが 親鸞であり わがシントウの心であり 神ながらの道なのではないか。こう考えています。 従いまして おっしゃるとおり: ★ 親鸞の徹底した他力には本物感があります。 ☆ と思われると同時に この《他力》にしてみても いくら絶対他力だと言ってみても その自力・他力うんぬんなる議論は すでにとっくに突き抜けてしまっている。こうでなくてはならない。と考えます。 《徹底》をも突き抜けてしまっている。と。 ★ 私は浄土があるとは思っていないのですが、 ☆ それはそうでしょうね。人間が思ってどうにか成るとも どうも成らないとも 分からないことだと考えられるからです。 ★ 観念の世界ならば阿弥陀如来の事も無義の義の事もどのように考えても自由です。 ☆ まぁ いちおう合理的に理論をまとめるとは思うのですが 観念である限りで その理屈にはとどまってはいない。 ただし ★ 無義の義 ☆ については これは《くせもの》です。というよりも これだけでは まだその意味内容がさだまっていません。 《はからひ無きをよしとする》と解釈したとしても まだ定まりません。なぜなら ハカラヒを交えないというときには 交えないという意志行為すなわちハカラヒがともなわれるからです。 これは いまはここまでとして保留しておきます。 ★ 親鸞は観念の世界に自分を置くことによって、精神の自由を得ていたのだと思います。 ☆ 率直に申せば これは どうでしょう。むしろ反対ではないでしょうか。 あるいはつまり もっと上へ突き抜け もっと遠くへ飛んで行ってしまっているのではないでしょうか。 なぜなら 《精神と身体 つまり 身と心》の問題を考えるに すでに《義無し》と言い切ったのなら それらをめぐる思考や観念の世界とは――それに頼るべきものとしては――オサラバしていると考えられるからです。 観念の世界には 身をおいていない。身を――したがってわが実存を――置いているのは ただただ《いま・ここ》であるはずです。この娑婆世界そのものだと考えられます。別にどこへも行かない。その場で アミターバ・ブッダと相対している。もしくは そのような神なる対象は 何もない。いっさい何もない(見えない)ところで――なぜなら 所詮は神のエコヒイキゆえに―― ひとり立っている。 ▽ 弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。(歎異抄) ☆ とも言っている。この場合は ブッダが心の目の前にある。矛盾があるようで 経験事象としての《ある・ない》はこれをすでに超えている。ものと考えられます。 ★ 私は創造の神は信じていないのですが、 ☆ これは 勝手に解説におよびますが 神は《非知》です。 非知は 非経験の場ゆえに 経験的な相対世界を超えている。つまり 絶対です。無限です。 つまり 《絶対》から――説明のための思考をほどこして―― 擬人化して《絶対者》なる概念を得る。 この絶対者から 全知全能の存在がみちびかれ 話としては・物語としてはこれが 世界の創造主として表現された。――これだけのことです。 創造の主体や対象ということが そのまま歴史事実だとは決まらない。ということだと思います。 ★ 所詮は人間が神を創ったものですから、 ☆ その表現による物語は 人間がつくったものですが 神が非知であるということは これは 想定です。無限は二で割っても三で割っても やはり商は無限ですが この無限が 非知のことであり 神のことです。そのように想定されるものです。なぜなら 《神》という言葉は どの民族語にも持たれているからには それの説明が 哲学としては必要です。 ★ 人間のようにえこひいきをしても不思議ではありません。 ☆ と見られると同時に――微妙だと思われることには―― えこひいきをしていないと あとで人間にも分かる結果が得られるかも分かりません。そういうたぐいのモノまたはコトであるのではないか。なにしろ天をも突き抜けてしまっているというお話ですから。 ★ 神に帰依した者としない者を同等に扱っては神の値打ちがありません。この考えも人間らしいです。 ☆ という見方と同時に――あるいは そういう側面が捉えられると同時に―― 別の見方や側面がないとも限らない。のではないでしょうか。 というより《神に帰依した・していない》といった区分を 煮詰めて行ったところでは やはり突き破ってしまっている。と考えられるからです。 神を信じる・信じない あるいは言いかえると 有る神を信じる・無い神を信じる この区別も何の意味もない。つまり 無義の義となる。のではないでしょうか? 世界最高峰の思想を 親鸞および縄文と弥生からのシントウイスト日本人たちはつちかって来た。と言えますまいか。