人間はどう生きるべきか?

このQ&Aのポイント
  • 人間は煩悩から自己を解放できず、他力を頼る必要がある。
  • 阿弥陀仏を信じて念仏を唱えれば、死後に浄土に生まれ変わることができる。
  • 日蓮の哲学は立正なんとか論と似ており、分かりにくいと言われている。
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日蓮は、人間はどう生きるべきだと主張するのですか?

 歎異抄を読んでいます。  親鸞の主張は、要約すると、次の通りのようです。実に分かり易い。  人間には煩悩がある。人間はその煩悩から自己を解放できない。自己の力では、煩悩のために、毎日悩みが絶えない自分を、救うことができない。結局、人間という存在は自力では、自分を悩みから救うことができない。他力しかない。阿弥陀仏を信じて頼るしか道はない。阿弥陀仏を心から信じて、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば死んで浄土に生まれ変わることができる。  ところで、日蓮の哲学をいうのは、上述のように要約すると、どういる説明になるのでしょうか。いろいろ調べてみても、立正なんとか論とか、抽象的で分かりにくいのです。  どなたか、「なるほど!」といえるような、要約をしていたけないでしょうか。創価学会の話は不要です。  よろしくお願いします。

noname#250375
noname#250375

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.2

阿弥陀を信じて念仏を唱えれば死んで浄土に生まれ変わることが出来る それならこの世に生きているうちは悩みも解決しないし 幸せにはなれないということになります。 死んでから幸せになるのでしたら何の意味もない 日蓮の教えは生きている内に悩みを解決し 生きている事に幸せを感ずることが出来て 幸せのまま死んでいけるので 死後も幸せである  という教えです。 生きている内の悩みは他人を頼ってはいけない 自分で解決していくものであるという事で 深い悩みを解決するには 自分自身が強くならなければ解決が出来ない その物事を解決していく力を 「南無妙法蓮華経」という題目を唱えることによって 自分の身体の中に漲らせていくという事です。 整理すれば他力を求め(死んでから幸せになる)と言うのが 阿弥陀の教え (生きている内は幸せになれない) 日蓮の教えは生きている内に悩みを自分で解決し 幸せになりそのまま幸せのまま死んでいくという事です。 そしてその解決する力を得る為に題目を唱えると言う事です。 ですから「南無阿弥陀仏」・・・死んでから幸せ  死の門 「南無妙法蓮華経」・・・・生きている内に幸せ  活の門  という事になります。 「日蓮大聖人御書全集」をお読みになればお解りになります。  

noname#250375
質問者

補足

コメント、ありがとうございます。 大分、整理ができました。 次の個所がポイントのようですね。 日蓮の教えは生きている内に悩みを自分で解決し 幸せになりそのまま幸せのまま死んでいくという事です。 そしてその解決する力を得る為に題目を唱えると言う事です。 ですから「南無阿弥陀仏」・・・死んでから幸せ  死の門 「南無妙法蓮華経」・・・・生きている内に幸せ  活の門  それにしても、「南無妙法蓮華経」といくら唱えても、煩悩は無くなりませんよね。生きて居る以上、煩悩からの解放はできないのが、人間だと思いますね。

その他の回答 (3)

  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2184/4838)
回答No.4

>日蓮は、人間はどう生きるべきだと主張するのですか? 法華経のみを信じて生きろ!という事です。 座禅をくんだり、念仏を唱えたり、偶像崇拝をする事は「悪」らしいですね。 つまり、日蓮宗を除く仏教各宗派信者は全て地獄に落ちるのです。 この教えを強く守っているのが、日蓮の生まれ変わりである大先生一族が支配する創価学会。 創価学会初級テキストにも「信じるものは救われる。信じないものは地獄に落ちる」と書いていますよ。 日蓮宗本山は、個人崇拝の信者団体である創価学会を破門しています。 ですから、日蓮宗と創価学会は別の宗派となりますがね。 余談ですが・・・。 日蓮宗とイスラム教は、似ています。^^;

noname#250375
質問者

補足

 コメント、ありがとうございます。  私が分からないのは、日蓮は、なんのための日蓮宗を創ったのか、ということなのです。  人間の暮らしの中で、なぜ、そんなものが必要だと、彼は言うのでしょうか。

回答No.3

法華経のみを信じて法華経の教えに従って生きろと言っています。 日本仏教の基となる大乗仏教には五千巻を越えるお経(聖典)があります。 日蓮はこの中の法華経のみが唯一の聖典でありこれ以外のお経は不要であると主張しました。 法華経以外の経典を信じることは生活を脅かし国を誤ることになるとして念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊と烈しく非難しました。 立正安国論というのは当時の鎌倉幕府に対して法華経に基づいた政治を行えとした建白書です。 ここで正というのは正しい教えという意味で日蓮にとっては法華経を意味します。 法華経を立て国を安んじるという意味の題名です。 立正安国論は鎌倉幕府に対して書かれていますので、歎異抄のように思想の主義主張を書いたものではありませんので日蓮の思想を知ろうと思って読まれても分かり難いかと思います。 蛇足 歎異抄をお読みになられているようですが、歎異抄には悪人正機説と呼ばれる「善人なほもて往 生 おうじょう をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉が書かれていることから浄土真宗では禁書とされていて一般の人の目に触れることがありませんでした。 明治に入って一般の人達の目に触れるようになりました。 現在も殺人犯であっても南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土へ行けると誤解している人達がいます。 御質問に 「阿弥陀仏を心から信じて、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば死んで浄土に生まれ変わることができる。」 とありますが 親鸞が主張する他力本願とは異なりますのでご注意下さい。 歎異抄の第二条にある 念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。 というのが肝要です。 来世に浄土に生まれるか地獄に落ちるかはあくまでも阿弥陀仏の意向であるのだから全て阿弥陀仏におまかせして結果として地獄に落ちてもかまわないと考え方です。 単に信じるのではなく自分の全てを阿弥陀仏に委ねるといいうことです。

  • aokii
  • ベストアンサー率23% (5210/22062)
回答No.1

人間は一人では生きていけない。

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