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宗教者は他の宗教の存在を許せますか?

宗教を信じている人は他の宗教との関係をどのように考えているのかおたずねします。 例えば、AさんとBさんは友達で、AさんはXという神様をBさんはYという神様を信じているとしとします。もし本当にAさんがX神様を信じているなら「Bさんは神様でないものを信じている」とAさんは考えると思います。Bさんのためを思えば、X神様を信じるようにBさんを説得すべきと考えるのではないでしょうか?また、BさんもY神様を信じるようにAさんを説得しようと考えるのではないでしょうか? もし「個人には信教の自由があって好きな神様を信じればいいのだ」とAさんが考えるとするなら、AさんはX神様のことを本当は信じていないと思うのです。この世を創造し、人間を創造したのはX神様とAさんが考えているなら、X神様を信じるほかのありようはないからです。もし、個人の自由というなら、それは、神様より上に個人の人権とか自由を置いている証拠です。 私はなにも宗教戦争をしろというわけではありません。本当に信じるということを追求すると他の宗教の否定になりそうに思うので、これを回避するにはどんな考え方をしているのかお聞きしたいと思って質問します。あるいは、それを回避するのは難しいので深く考えないことにしているのでしょうか?

みんなの回答

回答No.22

三たび回答します。 No.21さんへのお礼を読みましたが、逆に非常に疑問です。 どうして、X宗教を本気で信じていたら、それ以外の宗教を否定しなければならないのでしょうか? X宗教も、Y宗教も、それ以外の宗教も、それぞれ立派であり、学ぶべき所は沢山ある。 自分にとってはX宗教がメインだけれど、他にアクセスしたからと言って怒られる理由はないし、却って、今の信仰心にとって有益であると思う。 実例を挙げます。 多くのカトリックの神父は、他宗教に対しても造詣が深く、他宗教の教えを自分の信仰に進んで活かそうとしている。 例えば、日本仏教の創始者である名僧達から学ぶ姿勢を打ち出した門脇佳吉神父や禅の高僧と親交のあった奥村一郎神父など・・・。 そして、バチカン自体が、諸宗教との交流に力を入れ、相互に学び、対話・交流する姿勢を前面に出している。 相互尊重しつつ、自分の信仰を心から信じるのは全然可能だし、何の矛盾もない。 却って、自分の信仰に固執して、他を排除し、否定する方が大矛盾だ! ・・・これでは答になっていないのでしょうか? >この世を創造し、人間を創造したのはX神様とAさんが考えているなら、X神様を信じるほかのありようはないからです。 宗教の中には、キリスト教・イスラム教或いは神道のように、神が宇宙を創造したと教えるものもありますし、仏教のように、仏を全面に出して、全ての生きとし生けるものが仏性を持っているということに焦点を当てたり、それぞれ色々アプローチの異なる宗教が混在しています。 それらの教えの相互間に矛盾点があるのは当たりまえであり、それらを統合して、矛盾をなくすることこそ不自然です。各宗教は、それぞれ別のアプローチで、人類の救済を目指すものであり、どれか一つが正しければ、直ちに他は誤りだなどと言えるものではありません。 又、あなたが、仮にどれかひとつの宗教のみが正当で、他を誤りだと判断したからといって、それが何になるのでしょう? 逆にほかが誤りだとどうやって証明しますか? 私は、宗教の目的は、どれが正しい宗教なのか突き詰めることではなく、それぞれの宗教から、自分の人生の実り、そして「救い」を得るためだと思います。 ですから、どの宗教であっても、それに接することによって、自分の心に響くものがあれば、それを信じ、人生に進んで取り入れれば良いのだと思います。 西洋哲学の考え方は、ザックリ言うと、Aの肯定は即ちBの否定といった「二元論」になり勝ちですが、 東洋哲学の方は、AもBも同時にあり、又、AとBの間にも際限なく解があるとする「多元論」が支配的であり、私も後者の考えを一生、堅持していきたいと思っています。 本サイトのQ&Aは、質問後1ヶ月後の応答日(本質問の場合、10月29日)までに締め切らないと、管理者によって締め切られます。それまでに出来ればコメント(お礼)を入力の上、ベストアンサーを決めて、クローズお願いします。ベストアンサーを頂けるのを楽しみにしています。

stmim
質問者

お礼

申し訳ありませんでした。期日を過ぎてしまいお礼コメントしか書くことができません。何度も回答いただきまして大変ありがとうございました。 私が考えている思考の線とoozora2000が考えておられる思考の線がだいぶ違うと思いました。私は「この世が事実としてどうなっているか?」という線で考えています。oozora2000はどうすれば人間が救われて、こころ安らかに暮らせるかという線で考えておられるように思いました。 私の考えの中には人間が救済されるかどうかは、考慮の対象ではないのです。もし、ある宗教でX神様が世界をつくったという記述があるなら、それが事実として成立するかどうかに関心があります。 事実は1つしかないと思うのです。もし、X神様が世界をつくったなら、Y神様は世界をつくっていない。なぜなら世界は1つしかないからです。 「X宗教を本気で信じていたら、それ以外の宗教を否定しなければならないのでしょうか?」 否定しなければならないと考えているわけではありません。私にはX宗教も認め、Y宗教も認めるという状態が成立するのが難しいと思うので、それが両立するものなら、その理屈を教えてくださいというのが質問でした。 神父が仏教を学ぶというのは確かにあると思います。しかし、その場合に学んでいるのは、その宗教の本質的な部分とは違うと思います。(私の想像ですが)慈悲の心とか、生き物の命を大切にするとか、一般的に通用する道徳的な事柄とか、人間の生き方とかではないですか?その宗教の宗教的な部分、例えば、この世界の中心には大日如来がいるとか、死後は極楽浄土に生まれ変わるとか、そうした部分を学んでいるわけではないですよね。 人類の救済をめざすことはすばらしいと思います。それは事実とは関係ない話ということなのでしょうか?私は、事実とは解答がひとつで、相互に矛盾しないものだと思っています。もし宗教が相互に矛盾するのが当たり前だとしたら、それは事実と関係ない世界ということになります。「事実とは関係ないのだ。ただ、人間のこころが救済されればいいのだ」という考えはありだと思います。そして、宗教とは事実とは関係ない世界の話なのだと納得することができます。 「又、あなたが、仮にどれかひとつの宗教のみが正当で、他を誤りだと判断したからといって、それが何になるのでしょう? 逆にほかが誤りだとどうやって証明しますか?」 私の考えているのはどれが正しいと決めるということではないです。私の考えている想像ですが「宗教というのは心の幸福を求めるものであって、どれも事実とは関係ない」というのが正しいのかどうか知りたいのです。

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回答No.21

宗教によるとしか言いようがないですね。 仏教や神道は懐が広い宗教なので、ほかの宗教にも寛容です。 天理教など新興宗教系では、自分の宗教以外認めないといったところもあるでしょう。日蓮宗の一部宗派では、強制的な宗教強要行為すら行われています。 しかしこのようなことは望ましくありません。お互いの考え方の違いを認めそれぞれの宗教を尊重しあうことが重要だと思います。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。仰る通り、お互いの尊重は重要だと思います。 私がお聞きしたかったのは、自分の信仰を本気で信じている場合に、他の宗教との関係をどのように理屈づけているのか?ということです。相互尊重しつつ、自分の信仰を心から信じるのは可能か?可能とすればどのように説明されるのか?という疑問でした。

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  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.20

>隣人を愛するがゆえに自分の信じている神様を押し付けるようにならないか? なってはいけないのですけど、どうやってそれを防ぐか、その理屈は何かということをお尋ねしたかったのです。私の質問の書き方が悪かったかもしれません。 愛するとは「認め」、「受容」し、「共に手を携える」事です。 「貴方を愛しているの!、だから言う事を聞いて!!」とは、愛して等はいません。 此れは“操縦”しようとしているだけで、使えないのならば“要らない”と言っています。 防ぐ方法は難しいです。 全ての人間が生まれた時から、充分な真の「愛情」に育まれていれば、可能かもしれません。 現実には望ましくない不幸である人災や天災、虐待に人は人生で直面します。 其の時に全ての人間が心が折れずに居られるかは、難しいでしょう。 そもそも愛されなかった人間は「愛情」を理解困難で、生きる為の「執着」しか理解出来ません。 故に自分を受け入れてくれた組織への執着から、愛情の押し売りをしているのです。 正直、体力的に成長しつくした大人に、無条件の愛情を感覚的・体感的に伝える事は困難です。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。お礼が遅くなり済みません。 そうすると相手にも間違った考え方をする自由があるという風に考えるのでしょうか? しかし、自分が正しいと信じているなら、友人を間違った道から救い出したいと思う気もするのですが・・・。

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回答No.19

No.13です。 【はじめに】 一方に、あなたの言われる通り、X神様のみを信じ、他の神様や宗教を否定する人がいて、他方に、私のように、あらゆる神様や宗教を肯定する人間がいる訳ですね。 あなたも含めほとんどの人(特に日本人)の感覚では、およそ「宗教者」と自認する人間なら、いちずに自分の信仰する神/宗教に邁進する前者のような感覚の方が普通(正常)であり、私のように、複数の神/宗教に足を突っ込み、クリスマスは教会、新年の初詣は神社、お葬式などの時はお寺を渡り歩いているようなミーハー的行為は、「節操をわきまえない」行為として忌避されるべき、となるのでしょうか? 信仰する以上は、他の宗教に脇目も振らず、一つの宗教のみに邁進すべきである、という「潔癖症」のために、多くの日本人は、各宗教に過度に入れ込まず、等距離を保ちたいと考えて、結果的には「無宗教」というスタンスを選ぶのだと思います。 私に言わせれば、こうした選択は、本末転倒であり、大変勿体ないことだと思います。 【複数の宗教への関わり方】 一般に、これに関しては、3つの考え方があります。 主に、キリスト教信者にとって、他宗教に接する場合の3つのスタンスかと思いますが、参考になると思います。それは、 1.「宗教的排他主義」、2.「宗教的包括主義」、そして3.「宗教多元主義」です。 この中で、1は、キリスト教のみが絶対と信じて、一切他宗教を認めず排除するという考えで、確かにローマ帝国以来、西欧キリスト教国の世界侵略のためのひとつの有力なツールとして使われ、キリスト教国の間で通用してきた考えだと思います。 しかし、中世から近代に至り、イスラム世界や、仏教、ヒンズー教などの世界も侮りがたいということに漸く気づき、徐々に、彼ら有力宗教の民もリスペクト(尊重)しないとやっていけない、というふうに風向きも変わり、今では、他宗教信徒も人として扱い、気を遣ってくれるようになったのだと思います。 そのための方便として現れた考えの一つが、 2.「宗教的包括主義」です。これは、他宗教を信仰する人々も、結果的にはキリスト教の神により救われる、という考えであり、現在、カトリックでは最も支配的な考えだと思います。 そして私の理想とするのが 3.「宗教多元主義」であるのは言うまでもありません。私が、前回答で書いた態度がまさにこれです。 これは、「一元主義」(ひとつの倫理的原理のみが正しいとする)の対極語で、「複数の原理のどれもが正しいことがある」と考える立場です。No.1さんの挙げられた金光教や、ヒンズー教、そしてラーマ・クリシュナがこのような考え方ですし、仏教もその傾向がありますね。キリスト教の宗教学者であるジョン・ヒックも多元主義を主張しました。 又、「宗教多元主義」と混同しやすい考え方に「相対主義」があり、「正しい倫理的原理は人(社会、文化、時代)によって異なる」と考える立場のことで、「人(社会、文化、時代)を通して変わらず普遍的に正しい原理がある」と考える「絶対主義(普遍主義)」に対立します。 このように、上記1は別として、2と3に見られるように、西欧社会は、「異教徒」であっても、少なくてもいずれかの宗教を信仰する者は、一様にリスペクト(尊重)する、という文化が育ってきました。 何よりも、キリスト教の基本理念である「愛」(「隣人愛」)の精神は、本来、人々を宗教や国家で差別するものではないはずです。 又、従来、特定の宗教を持たず、「あなたの宗教は何?」と聞かれて「無宗教」と答える日本人のような思考回路は、西欧人には理解しがたいものだったと思います。なぜならそうした精神的基盤を持たない人間は信用できない、という文化があるからです。 しかし、私には、特定の宗教の信者にならずに、各宗教に等距離を保つという生き方は、まさに、前記「多元主義」の考え方を貫く姿勢であり、理解できますし、当の西欧文化も、近年では、宗教/信仰を持たない者を理解しようとする動きもあるようです。↓ (参考URL)http://enculonslesmouches.blog.fc2.com/blog-entry-66.html      http://www.circam.jp/reports/01/detail/id=3172 【「他宗教」への正しい接し方とは?】 聖職者の場合、どうしても特定宗教を代表する立場にありますから、表向きはその宗教の聖職者という立場は崩せないと思います。しかし、その上で、他宗教に対しては、「否定」ではなく、「友好関係」を保ち、各々の教義やスタンスにもそれなりに理解を示し、平和集会や宗教者会議などの場では、交流・対話を図るというのが、現代の潮流です。 聖職者であろうと一般信徒であろうと、自分たちの宗教が一番という考えは捨てる必要がありません。ただ、それを他宗教の信仰者に押し付ける必要もありませんし、押し付けてはなりません。 必要に応じて、他宗教の主催するイベントや法事に参列することも何ら問題がありません。 これは、カトリックの場合は、前回答で挙げた「カトリック教会の諸宗教対話の手引き」にも明記されていることです。 尚、前期の多元主義や相対主義の関連で、「全ての宗教のよいとこ取りをすればよいのでは?」という考えがありますが、それは誤った考えだと思います。 なぜなら、それぞれの宗教の考え方は、非常に異なっており、多くの矛盾点があるので、その半ばを取れば、中途半端な意味のないものになってしまうからです。 例えば、キリスト教は、宇宙創造神を絶対と崇拝し、自然や人間は神が創造したものだと教えますが、仏教では、「神」は副次的な存在で、その上に「仏」を置き、人間も仏のような精神的高みに登る(「成仏する」)ことを理想とする、というように、教えのニュアンスに大きな違いがあります。加えて、日本人の信仰の中心には「先祖崇拝」があり、先祖に対して守ってほしいと手を合わせたり、読経で無の境地に至ることが多いようですが、私たちキリスト教徒は絶対神である「神」に「祈る」というスタンスであり、その信仰の姿勢に大きな違いがあるように思われます。 こうした違いを一々賛同できないと排除してはいられません。 それぞれの行き方がある、と両方とも認めなければ始まりません。 残念ながら、現実の世界では、キリスト教徒とイスラム教徒の諍いや、北アイルランドでのキリスト教カトリックとプロテスタントとの間の諍いがあるのは事実です。 又、日本でも、あなたの言われるとおり、他宗教を排除して、それが正しいと思っている人間が多いようです。 自分の信仰に忠実であろうとするあまり、キリスト教の基本理念である「愛」を忘れたこのような諍いは、本来、イエス・キリストが最も嫌われた行為のはずです。 結構回答が殺到して、大変でしょうが、時間がかかっても、あなたの反応(お礼)を期待してお待ちしています。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございました。お礼が遅くなってすみませんでした。

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  • benesuto
  • ベストアンサー率28% (12/42)
回答No.18

仏教徒なので、仏ですが。 私は、自分の宗派の教義や拝礼、儀式がもっとも正しく、それ以外は全て誤りだと思っています。そして、他の宗教や宗派が信仰する仏、神、宇宙人、次元人、etcは全て、誤った解釈によって生じているものだと思っています。ただ、誤っていると言っても娯楽や学術的な分野から見れば、興味深く、邪悪な考えであっても排除したいと思いません。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。お礼が遅くなり申し訳ありません。 宗教を信じていらっしゃる以上、そのようにお考えになるのが自然だと思います。 別の宗教を信じている二人が思ったことを言うとトラブルになるのではないかと思いました。 思ったことを口に出して言うかどうかはまた別の話ということになるのでしょうか。

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  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.17

stmim様、こんにちは。 >「本当に信じるということを追求すると他の宗教の否定になりそうに思うので、これを回避するにはどんな考え方をしているのかお聞きしたいと思って質問します。」 「信教の自由」というのがあって、「「他の信教の否定」という自由」までは、無い。 そういうことになります。(信教の自由の限界) ・・・他者の自由(「他者「侵害」の自由」までは、認められない)を、侵害できない。 報復だ!、テロだ!、てのは、論外ですね。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。お礼が遅くなりすみません。 そうすると、そうした自由の保障というものが宗教より上に存在するということなのでしょうね。

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回答No.16

宗教の言っている事は、おおむね正しいのですが。。?? 宗教では、人の心は救えないでしょうね。。 その理由とは。。?? たった一つの、致命的な欠点が、質問者さん、が感じている、他の宗教を認めない事ですね。 。。。 。。。 人の心を救えるのは、その苦しみを作った、自分の心だけなのです。。 人の、心の、幸、不幸は、その人物の心が創りだした、幻影なのです。。 不幸に、気付けば、その瞬間から、その人物は、不幸になるのです。。 幸せに気付けば、その人物は、その瞬間から、幸せになるのです。。 。。。 。。。 幸せとは、満足する事なのです。。 不幸とは、不満に気付く事なのです。。 すべては、極めると、逆転するのです。。 この事は、この世の、森羅万象の法則であり、陰陽逆転の法則と呼びます。。 。。。 。。。 哲学です。。思考の学問である、陰陽逆転の法則と呼ぶ、矛盾を解消する、哲学を、学びましょう。 陰陽逆転の法則とは、矛盾を解消する、世界で初めての、学問なのです。 世界中の子供達が、レベルに合わせて、小・中学校から、学ぶべき学問なのです。 では、この辺で、、ごきげんよう。。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 ちなみに、何らかの、宗教団体の、座談会などに、参加する場合は、参加の前に、 学問である 『 認知心理学の、社会的認知 』を、良く、学んでから、参加する事を、お勧めします。 この、思考の学問である、哲学を学ぶと、人間とは、集団行動によって、 人間は、誰でも、簡単に洗脳される、動物である。。そのような事が、学べるでしょう。。 。 。逆転地蔵 。

stmim
質問者

お礼

回答をどうもありがとうございます。お礼が遅くなりまして済みませんでした。 確かに、しあわせと思えば、しあわせで、不幸せと思えば、不幸せですね。 いろんな法則があるのでしょうね。

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  • hiak123
  • ベストアンサー率16% (14/87)
回答No.15

ガンジーは宗教のるつぼのインドでこういっている。 「どんな神様でもいい、神を信仰することが大事なのだ」と。 宗教ではありません。神です。 分からなければ程度の人を参考にするしかないでしょう。 どんな神様でもいい、です。 あ~、人によってゆがめられた神様はいけませんね。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。お礼が遅くなり申し訳ありません。 確かにその言葉は私も納得します。 人間はある程度、神様を必要としていますね。

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  • umasimaji
  • ベストアンサー率30% (6/20)
回答No.14

この葛藤は信教を行う人に古くからあるものだと思います。 私は、敬虔な信教者ではありませんが、貴方と同じ考えです。信教を信じること=他を信じないこと、であり、信教者同士の対立や軋轢は是となるのが道理と思います。 問題は、AがBを救うべきか否か、という点です。X神は救って下さる、Y神を捨てよ、こういうべきなのか? 私の答えはNoです。X神がいかに救って下さろうとも、Bは求めていないからです。Bが心の乾きや苦しみからの解放を願いすがっているのはY神なのです。Y神は邪教で実は全く救ってくれないのかも知れません。それでも、信じるとはそういうことで、他を是としないのです。これは、信教の自由だからではなく、それが信教であるからだと思います。 こうしたAをX神は罰するでしょうか?そんなことは決してないと私は信じています。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。お礼が遅れましてすみません。 なるほどと思いました。ただ、間違った神をあがめてはいけないと言っている宗教もあった気がします。例えば、たしかキリスト教もそうではなかったでしょうか? クリスチャンの人は、仏教徒の人が死後に(自分達クリスチャンみたいに)天国に行くのか、それとも神を信じていないから地獄にいくのかどっちと考えているのかな?と思います。 もし、地獄に行くと考えているなら、そうならないよう、改宗するようにすすめる気がするのです。

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回答No.13

カトリックの洗礼を受けていますが、仏教や神道はじめ他宗教にも深い敬愛・共感を抱いています。 私の「宗教」に対する基本的態度を表すと次のようになります。  「他宗教の存在を認めない宗教」のことは認めない。  (自分の宗教が一番でほかの宗教は皆邪教だなどと排斥する宗教こそ断じて許さない。) どうして、こうした強固な基本的態度になったのか、その理由と背景を述べます。 1.私は、幼い頃から、信仰厚い祖母の薫陶を受け、宗教や神様全般、或いは霊的な存在に関して、深い敬愛・共感を抱きながら育ちました。祖母は、キリスト教ミッションの女学校を卒業し、一時はキリスト教の信者になることも考えたようですが、思い直して、色んな個々の宗教や、宗教の根本原理を勉強した結果、「宗教の頂上(神)は一つであるが、そこに至る登山口(宗教)は沢山ある。」という結論に達し、その考え方は、私の今の考えのベースになっています。 2.私の親戚にはカトリック信者が多かった上、ミッションの小学校に通ったので、カトリックのシスターや先生や友達に囲まれて育ち、高校の時には洗礼を受けました。しかし、それでも、彼らの中に家族全員信者で且つ幼児洗礼の者が多かったこともあり、私は、長年、そうした純粋培養の信者たちの輪に、心の底からは溶け込めず、一方では、仏教・神道或いは日本的伝統文化の方に、より親しみを感じていました。当時は、下記「公会議」からの日が浅かったこともあったと思います。 3.古くは、閉鎖的で敷居の高かったカトリックですが、第二バチカン公会議(1962年~1965年)を経て、カトリック教会は、各国の伝統文化の尊重や他宗教との対話を進め、「教会」に、徐々に生まれ変わりました。 小学校の修学旅行では、京都・奈良を訪ね、お寺や神社に参拝しましたし、他宗教に寛容な所は、今やカトリックの特徴であるとさえ思います。 これまでに、他宗教との兼ね合いで、以下のような出来事がありました。 (1)昔、キリスト教に改宗した人が、家の仏壇を「教会」に持って行って「お焚き上げ」をした、と聞いて、「なんでテメエが信者になったからといって、先祖の意向を無視して、キリスト教の教会に炊きあげを依頼する権利があるのか? 寺にお願いするならまだしも・・・」と激しく腹が立った。 (2)職場で、神社に初詣に行った時、「信仰上の理由で」と言って、参拝に加わらず、入口で待っている人間のことが理解できず、どんどん入って、どんな神だろうが手を合わせた。(何教であろうが、手を合わせたり、敬意を表することは、カトリックの教えでは全く問題ない。心の中では、キリスト教の神に拝めとは教えているが・・・。) (3)若い頃、仕事関係でS学会を訪ね、熱心に入信を勧められたが、「実は私はカトリックなんですよ。」と一言発した途端、猛烈な「カトリック批判」がはじまり、彼らの自宗教が一番という「自信」と「忠誠」にホトホト呆れ、感心した。 (4)父が若い頃参禅した影響を受け、鎌倉の円覚寺や近所の禅寺で坐禅や読経の経験が豊富。 最近は、教会で、仏教・天理教・イスラム教などの他宗教信者も交えて「世界平和を祈る集い」が開催され、禅宗の参列者の唱える「般若心経」に堂々と唱和した。 (5)家には、祖父母以前の仏壇と父のキリスト教式祭壇があり、毎朝晩両方に手を合わせている。 (6)家族が海外旅行から帰る前日、祖母の描いた色紙の入った額が音を立てて落下したので、縁起の悪さを感じ、教会・神社・寺のいずれに行こうか迷った結果、寺を訪ね、彼らの無事を祈って読経してもらったことがある。 → 法事以外で寺にお経を上げてもらったことありますか?http://okwave.jp/qa/q6969735.html 4.その他、カトリック教会の本テーマに関する考え方について、以下をご参照下さい。 (1)戦後、GHQにより靖国神社を潰そうという話になった時、ローマ教皇庁代表として日本に駐在していた上智大学教授ブルーノ・ビッター神父によって、救われた話。 → 靖国神社を救ったブルーノ・ビッター神父をご存知でしょうか? http://okwave.jp/qa/q4586508.html   (回答者は私のみ) (2)マザー・テレサ(1910~1997)はインドの貧民街で「死を待つ人々の家」というホスピス施設を創設しましたが、彼女は収容者の臨終に際し必ずその人の宗教を聞き、その宗教で葬儀を行ったと言われています。 (私は、死者の信仰した宗教で葬儀や法要を行うことは、人間の尊厳を守るための基本であり、子孫が勝手に自分の信じる宗教でそれらを行うことは、慎むべきと考えています。) (3)第二バチカン公会議により、各国の伝統文化の尊重や他宗教との対話を進めた「教会」の姿勢は、その後の教皇ヨハネ・パウロ二世による過去のアシジでの世界宗教者会議の成功や、東方教会との和解などに結実し、今日までに、エキュメニカル運動(キリスト教統一のための運動)やイスラムや仏教はじめ諸宗教間の対話という形で進展しています。 (4)日本のカトリック教会の他宗教との関わり方については、「カトリック教会の諸宗教対話の手引き」を見れば、仏式の葬儀やイベントなどにも自由に参列を許し、彼ら他宗教の人たちとも自由に交流を促していることがわかります。 5.以上に記したように、今日のカトリック教会は、かなり他宗教に対して「開かれた教会」でありますが、それでもまだ、私にとっては物足らないことも事実です。 結局、カトリック教会の基本的立場は、「他宗教の存在は認めるとしても、あくまで、最終的に救いに至るにはキリスト教しかないという立場であり、他の宗教を歩んでも同様に救いに至るという、いわゆる「相対主義」とは厳然と一線を画しているのです。 冒頭の1に挙げた私や祖母の考えも「相対主義」に属し、カトリックの教義に合わないことは考えられます。(それにもかかわらず、今のところ私はその考えを改める気はありませんが・・・。) つまり、逆に言えば、個々の宗教の間には、色々矛盾点もあるので、違いは違いとして受け入れ、(どちらが正しいとか違うとかいう議論ではなく)それぞれの存立を認めるしかないと思われます。 仏教にしろ、神道にしろ、キリスト教にしろ、それぞれ大変人間の成長のためになる教えを持っています。 結論として、私は、「どの宗教を信じるか」よりも「如何に信じ、実行するか」の方が大切だと思います。 最後に、私の、次の過去問回答5の後半に挙げた、ほかの私の質問と回答をご覧下さい。 仏教徒のカトリックでの洗礼についてhttp://okwave.jp/qa/q8670273.html

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。お礼が遅くなってすみません。 すばらしいお考えです。特にどの宗教を信じるかより、いかに信じ実行するか、という点は共感いたします。なるほど、そうですね。 ただ、私の考えを申しますと、私は事実がどうなっているのかに関心があります。 世の中には事実は1つしか存在できないと思っています。 神様を事実関係で考えるなら、それは回答は1つしかないと思います。 ですから、それぞれの存在を矛盾なしに認めることはできないと思います。 oozora2000さんは、いかに人生をよりよく生きるかという観点でお考えだと思います。 私は事実関係がどうなっているのか?ということを中心に考えています。 考え方の方向性が全然ちがうと思います。 oozora2000さんの考え方で、私も考えるならご意見にまったく賛成です。 ですが、私は事実関係が気になっているのです。

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    ある特定の宗教(キリスト教、仏教etc)を信仰されている方にお聞きします。 あなたはその宗教を信じようと決心された時、他の宗教の教典を読んだりして比較検討はしましたか?しなかった場合、それはなぜですか? 質問の意図を明確にするため私自身の事を説明しますと、私は特定の宗教は持っていない、そこらへんによくいる日本人です。が、最近クリスチャンの知り合いに少しずつ聖書やキリスト教について教えてもらい始めまして、神について考える事が多くなってきている状態です。私は、神様(私のイメージではこの宇宙や人類を作り、全てを知っている絶対的な存在)はいてもおかしくないとは思いますが、それがキリストだとかアッラーだとか言われると、果たして何を根拠にしてそう言えるのだろうと考え込んでしまいます。例えばもしもこの先、聖書を熟読したり教会に通ったりした結果キリストが創造主であり救い主であると思えたならクリスチャンになってもいいとは思いますが、その場合でも、他の宗教についても相当勉強して、やはり他の宗教の主張は誤っている、キリスト教が正しいと確信できてからでないと洗礼は受けないと思います(真面目にやろうと思ったら一生かかっても無理っぽいけど)。 私が最近行っている教会には敬虔なクリスチャンが沢山いらっしゃいますが、仏教やイスラム教なども一通り勉強された方はあまり(全然?)いないようです。信仰を持つという事は一生を(その人にとっての)神に捧げる、神と共に生きるという事ですよね。そんな一大事を決めるのに、たまたま身近にあった宗教が良さそうだからと入信してしまえるのはどうしてなのだろうと思うのです。理屈ではなく、神の声を聞いた、神を感じたとかいう体験をしたとしたらそれが強い入信動機になるかとは思いますが、それにしたって、それが気のせいや脳がもたらした作用の結果(脳科学の分野になりますかね)でないとどうして言い切れるだろうとも思ってしまいます。(大変失礼な物言いですが) 長くなってしまいましたが、他の宗教と比較検討しなかった方を批判したいのではなく、ご自分の持っている宗教を信じるに至った理由や心理、お気持ちなどを本当に純粋に知りたいのです。気長にお待ちしてますのでご親切な方からのご回答心からお待ちしています!

  • 宗教組織は 結社の自由になじまないのでは?

     (α) 宗教組織は 結社の自由になじまないのでは?  言いかえると――同じような内容ですが――  (β) 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないか?  (δ) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないか?    (ε) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の 自由にとっての 自殺行為ではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  (ζ)  宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為に片向きがちであるゆえ その自由は認められないのではないか?  (η) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為となるのでは?  (θ) 聖典と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   (ι) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?  (κ) 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきでは?

  • 憲法で、国の宗教教育を禁止している国家なんて日本以外にあるの??

    人間が、もし、偶然に単なるアメーバーの遺伝子エラーの 累積淘汰のなれの果てだと言うのなら、目的もなく 偶発的に突然変異で現れたのですから、人間には、生来 創造目的もなく、つまりは、存在目的もなく、結局、 存在価値もないということになりますが、そんなんで、 本当に、人権教育など出来るのでしょうか? 人権とは、生れながらに人間なら誰しもが持っている 自由権を中心とする生存権のことです。 生まれながらに・・・ということは生れる前からということになりますが、 とすると、アダムとエバが生れる前から・・・ということに なり、必然的に、人権を与えた方は、神ということになります。 つまり、これが、天賦人権論の根拠です。 神を否定するマルクス・レーニン主義の唯物的な思想に 洗脳されている「日教組」の教師達が、真の人権教育ができるとは 勿論、思っていませんが、果たして、日本の憲法第20条のように、 憲法で、国の「宗教教育」を禁止している国家などあるのでしょうか? 私は、この日本以外には、どうも考えられないのですが・・・ 子供の教育における宗教教育は、「政教分離」とは 違うような気がするのですが・・・ ご存知でしたら、教えて下さい。

  • 宗教について

    私はまったく持って神や宗教的なものをしんじていません。 それは信仰にすがるのはどうも性に合わないというまったく個人の問題ではあります。 創価学会の彼氏を持った友人は創価学会だということだけでその彼氏との婚約を破棄してしまいました。 宗教の自由は認めます。しかし様々な戦争、暴力、事件が宗教に関わっていることは現実にあります。 「信仰する」ということの心理。また、反対意見の伺いたいので宜しくお願いします。

  • 組織宗教を 弾劾する。

     たたき台を述べて 表題についてなお問います。     *  教祖と教義と教団とにもとづく組織は 教祖ないし教義を――そして時にはあろうことか 教団〔の存続〕を――《神》そのものとしてその会員に信奉するようにさせることがある。これは いかにその個人の自由意志によると言っても その結果も行為じたいも 無効である。  自由意志そのものを放棄する自由意志の発揮は 無効である。  すなわち 《信じる心 つまり心に神を受け容れている》に《考えるオシエ つまりオシエを考え実行する》を先行させることは 《信仰》ではなくなる。信仰としての意志自由ではなくなる。つまり宗教組織は 《信仰》という看板を取りはづしてから 宗教と名乗らなければならない。  そうしてこのおそれは そのような可能性がつねにあるという意味では 宗教組織そのものの持つ欠陥である。  よって 組織宗教は すべからくすみやかに解散せざるべからず。  信仰を取り除いて 宗教をかかげることは ありえず 出来ないことだと考えられるからには。    *  ▲ (K.マルクス:宗教批判) ~~~~  ( a ) 宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。  ( b ) 宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ( c ) それは人民の阿片(アヘン)である。  ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。  ( e ) 彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。  ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。        (『ヘーゲル法哲学批判序論』)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでは総じて言って 個人にとっての信仰――わが心に《非思考の庭》が成るということおよびその生きる動態――が忘れ去られている。  個人が信仰をいだく前にも後にも 《現実的悲惨》は われわれの前にある。  それは われわれのものでさえある。  けれども 信仰であるなら――これはマルクス自身も言うように―― たとえ《阿片》であっても痛み止めはそれとして必要であり 持たれてもおかしくない。  そしてそこまでである。信仰をめぐる《超現実(想像の世界また想像物としての神》)》の必然性と必要性とは。  〔そのあとさらに積極的な信仰の保持は 一人ひとりの信教・良心の自由の問題である。そういう人が互いに語り合うのなら 組織宗教にはならない〕。    だから( b )で 《追い詰められた者のためいき》は 信仰に行き着いたとしても 組織宗教には到らない。ほんとうには 到り得ない。    ○ ( b )の修正: 超現実への想像は追いつめられた者の溜息であり、そこにともかく《信仰》を得たならその信仰とはたしかに 非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  そしてこのあと     ○ 《超現実への想像》が 《単なる想像の産物としての神( Y )》をいだくか それとも《非経験の場 としてのナゾなる神( X )》を無根拠として心に受け容れるかに分かれると思われる。  想像物としての神( Y )は けっきょく《考える》の対象である。そして一般に《オシエ》となっている。オシエが神としていだかれることになる。  それでも そのオシエをいだく信念も 《個人にとっての・わがたましいの》問題であるかも知れない。  ただし 信仰は 《思考に非ず》にて 《オシエや人間としての教祖そしてさらには教団》をむろん超えている。その意味でのたましいの問題である。思考や観念の神と分けて 霊なる神である。霊とは 非合理である。思考に非ずというからには。    《非思考の庭》にあってワタシは 人は人をころさないものだなぁという直感(ないし直観)を得る。そこから誰かが 《汝 ころすなかれ》というオシエをこしらえる。けれどもこのオシエは 信仰内容の固定観念化である。偶像である。  教義をこしらえたからと言って その教祖にしたところで えらいわけではない。オシエは 非思考に先行していない。  問題は 一人ひとりの内面における信仰としての心の伸びもしくは心の明けである。この明けがあれば どの神・どんな形態の信仰に対しても わが心は開かれている。閉じられていない。《信じる》は 人の心的現象として 何ものにも先行するところのものゆえである。  無思慮とも言うべき非思考の庭が・そして次に感性(直感)が 理性に先行している。  オシエは 混沌とした信仰内容に先行しない。まして組織ないし集団が 個人に先行するものではない。(それはただ 無効の行為として 権限関係などによってたまゆらの有力となるのみである)。  組織宗教は 自己解体を前提として みづからをへりくだらなければならない。  オシエよさようならと言わなければならない。  したがって     ▲ ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。    と言えたとしても 問題は実践としては すでに《教義ないし教祖を後光に持つ》という組織宗教じたいについての批判が先である。  あとは ふつう一般の人間論ないし存在論が来ると思われる。  (非思考なる信仰が 思考に先行するという命題を 人間の内面についてあるいは社会的側面に沿って問い求めておかねばならない)。  (社会政策といった側面は 社会哲学のさらに応用部門であるように思われる)。    個人の信仰の宗教化(教義化)およびそれにもとづく組織化 つまり組織宗教というものは すでにその存在じたいにおいて 信仰の自殺行為である。  信仰にかんする自由意志の放棄・従って人間の存在そのものの放棄 これらをおこなったところで成り立つ代物だからである。  つまり 非思考が思考に先行するという命題が 有効であるなら そういう結論になる。  仮りに信仰をも批判する人がいて      ▲ ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教  というくだりを 次のように言いかえたとしよう。      ○ ( d )の修正: 個人の幻想的幸福としての信仰  だからいけないという論法で信仰をも批判したとしてみる。どうなるか?  まづは 幻想ないし超現実を想像しない人間がいるか? このように反論する。  つまり想像物としての神( Y )も それとして 有益な場合がある。特には 小説などの虚構によって人間の真実を表現しようとする芸術の場合である。  つぎにもし《非思考の庭に無根拠にていだいた神( X )》にもとづく《信仰は 幻想的幸福》でしかないとした場合。  この場合 問題は 人びとどうしのかかわり(関係)とまじわり(交通)にある。共生の問題でもある。  すなわち 互いに言葉をとおして意思疎通を図っているのなら 問題はない。コミュニケーションが取れていれば 何も問題はない。蛸壺に閉じこもるのでなければ その信仰なる主観がたとえ幻想であったとしても 話し合いをつうじて思考および感性としての生活が 社会の現実に合ったものであれば 問題ない。  信仰は 教義化をせずその中身は わづかにヒラメキとして持たれることがらまでである。  そのヒラメキから得た内容を言葉にし思考の問題としてもし自己表現するとすれば これを他人に押しつけない。語り合うまでである。  言いかえると 信仰の無において生きている人びとも その思考内容つまり主観を他人につたえるということまではおこなうというのと まったく同じことである。  そこで互いに心から同意する思考内容があれば みづからの意志で摂取するだけである。信仰ゆえに対話する。開かれている。その《幻想的幸福》は 練られて行くはずである。  よって 組織宗教は要らない。要らないだけではなく そのオシエが信仰にとって信仰なる蝉の抜け殻のようなものであり 人びとの主観の自己表現つまり意志伝達にとって オシエ〔の固持〕が 自分のあるいは他者の自由意志を侵害する傾向に満ちている。ゆえに ここに弾劾する。

  • 宗教の意味

    いわゆる「宗教」Religion は、神との契約、という意味なのでしょうか? それでいくと 一神教の絶対神との個人の契約であり、ギリシャ・ローマ教などのいわゆる多神教は「宗教」とは言えないのでしょうか? また仏教も、釈迦は「目覚めた人」の意味であり、お釈迦様は絶対神ではなく、契約もないので、本当の意味では「宗教」ではなくて「哲学」なのではないのでしょうか???? Religionの語源、「宗教」という言葉の正確な意味・解釈が知りたいです。 よろしくお願いいたします。

  • 組織としての宗教は 違憲ではないか

     1. 宗教組織は 結社の自由になじまないのではないか? 信教の自由を侵しかねないかたちと内容をもって 憲法違反ではないか? 以下 これを問います。  2. 信仰は 《良心・信教の自由》がうたわれているとおりに 個人の内面主観において自由に成り立つと考えられる。  3. しかるに宗教とは この信仰から得られた生活態度ないし世界観をオシエとして表現したものである。  4. その宗教は しばしば教団とよばれる組織を持つ。一般には 結社の自由において 自由だと見なされている。  5. ところが 信仰の教義化かつ組織化は まづ教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている(註1)。しかもそのオシエを中心としオシエに従って 組織の権限関係が形成されることになる。  6. ならば 一方で主観内面としての信仰はすでに消えており(もしくは 蝉の抜け殻と見るべきオシエに変身しており) 他方でしかもその信仰が――という意味は オシエとその遵守というものに成り変わった信仰観念が―― 組織の運営や人間の関係にとって判断・評価の基準とされることになる。  7. つまり 信仰ではないものが信仰と見なされしかもその教義が組織〔としての人間関係〕の中心となる。教義が中心となるということは 組織の権限関係において最高の地位に立つものが解釈したその教義内容が中心となることを意味する。  8. もしこうであるならば 組織の長としての人間が ほかの人びとを・そしてしかも組織の外の人びとをも ほんとうは信仰ではなくなっている倫理規範としての《教義》とその知識および実践の度合いに応じて 評価しときには裁くというかたちになる。  9. これは 信仰の・または信徒のあつまりではありえない。言わば道徳ごっこである。道徳ごっこっとしての仮面をかぶったイジメ合いである。  10. 自分も他人もそして世の中が 自分の思うようにならないという《苦――生老病死だそうだ――》から逃れようとして いやそれなら自分以外の人間をみなおれの思うようにあやつればよいという支配欲にみづからが支配され この道徳ごっこ――つまり内面における信仰の外面化としての倫理規範のもてあそび――を考案し 結社の自由に乗じて組織化したものである。のではないか?  11. この組織宗教とは 良心・信教の自由を侵す犯罪行為ではないのか? 憲法違反ではないか?  12. 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪行為ではないか?  13. 結社の自由は 宗教にもとづく組織としては 個人における良心・信教の自由と両立しないのではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  14. 信仰の宗教化じたいがすでにその瞬間に 信仰の自殺行為となるのではないか?  15. 聖典等と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   16. いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきではないか?  17. 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきではないか?  (註1) 《信仰はその教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている》: たとえば信仰においては 《存在の奥底にそなわったと言うべき中核のチカラが 〈ひとは人をころさないものだ〉と語っているのを知っている》。しかるに 宗教においてその信仰内容が教義化されるということは 《なんぢ ころすなかれ》という言葉による表現となって持たれることを意味する。  片や 心の声を知っている信仰と 片や その声の内容を倫理規範として持ちそのことの習慣化によって或る種の観念を形成しこの観念が――法規範と成ることをとおしても――おのれの思惟や行動〔の自由〕を規制するようにはたらくこととがある。この両者の差は おおきいであろう。 

  • 実数解が存在するための条件

    x,y,z,a,bは実数とする。 x^2+y^2=a,y^2+z^2=b,y(x+z)=1 を満たすx,y,zが存在するためのa,bの条件を求めよ。 既出の行列の問題でどうしても分からないので、再度の形に なりますが、よろしくお願いします。 次のように考えましたが、間違っているのは、分かるのですが、 どう改善すればよいのかわかりません。 x^2+y^2=a,y^2+z^2=b,から、(x-z)(x+z)=a-b .......(1) y(x+z)=1より、x+z=1/y ..........(2) (2)を(1)に代入して、x-z=y(a-b) .......(3) (2)^2-(3)^2より、xz={1/y^2-y^2(a-b)^2}/4 x,zを解とする方程式は、 A^2-1/yA+1/y^2-y^2(a-b)^2}/4=0 これが、実数解をもつから、 判別式=y^2(a-b)^2>=0となり、a,bが何であろうと必ずx,zは実数解をもつ。 また、x^2+y^2=aだから、a>0,同様にb>0 よって、a>0,b>0 (となるが、行列式の値から、少なくともab>1となること(回答で指摘頂いた)はわかるので、a>0,b>0は 間違っているのは分かる。)