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あなたの死という考え方について

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回答No.16

こんにちは。 死について。 自分は死について考えない日はありません。 今日で終わりになるかもしれない、明日で終わりになるかも、と 常に考えています。 事故だってあるし、病気で急死もありえる。 なので、一日を、今を大切に生きたいと思って行動しています。 死について、身近な人が死によって自分と離れたことが いまのところないものですから、漠然と思うことしか 出来ませんが、死があるからこそ、生きている人の現在というものの価値や 死んでしまった人との思い出や記憶が、尊いものになるとおもいます。 自分が死ぬことはとても悲しいですが、 自分が死んだ次の日も、来年も、世界が続いていくことの不思議を 時々感じます。 死ぬことを自分で選ぶ場合があります。 否定する人もいますが、自分は自死というのは恥じることでもなく 当然の権利であるし、ひとつの選択肢だと思うので 死んでしまったことは、悲しいけれど、自死を選んだことを責めることは 出来ないです。いろいろな立場や考えがあり、決断したことを誰にも 非難することは難しいと思うからです。 死ぬことで、死んだ人はたぶん、意識がなくなるので、悲しみや 楽しさや思い出を振り返ることは出来ませんが、生きている人は 死んだ人のことを考えたり、思い出したり、想像したりすることで 生きている自分を通して、死んだ人を再現できると思うので 唐突な死というものに、動揺はしても、感情を殺したり、自暴自棄になって 生というものを不安がる必要はないと思います。 だれでもが、いつか一度は死ぬので、 有限である日数を楽しめたらいいかなと思います。 もし、不死であるならば、まぁこの命題は10年後にやればいいか、とか これ食べてみたいけど、いつか食べれればいいか、と後回しにすることが 増えると思います。 限りが、終わりがくるからこそ、自分はせっかちなので やりたいこと、いきたいところは後悔しないように、前倒しで進めています。 死ぬことで、肉体が腐敗します。 日本だと火葬が多いと思います。死んだあとで、肉体が燃やされていくのは どんな気持ちがするだろうとおもうことがありますが、 たぶん、こころもないので、苦しくはないし熱くもないんだと思います。 死ぬ前に、たとえば病気で苦しんで痛かったり、言葉が発せられなくて 何も伝えられないときに、どんなことを思うんだろうって 自分は、想像することがあります。 生きていたときの、感謝? まだ生きていたい執着? 遣り残したことの、未練? 死んでいく自分の絶望? そういうのを考えると、たとえ毎日にちょっとしたいやなことがあっても そんな気持ちに勝る感情は、ないんじゃないかって思って 笑えます。生きているだけで、空が刻々と変化するのをみれるだけで 自分の心で考えて、言葉で伝えたり、音楽を奏でたり、笑ったり、 そういうのが出来るのって最高だなって思います。 死について、考えるとき、自分はこのようなことを思います。 ほんとは、死後の世界や来世についても考えてみたいけど なかなか、生きていることで忙しくて、そこまで手が回らないので もっともらしい本を読んだり、臨死体験について調べたりしてみます。

myp0120
質問者

お礼

この日本ですからひたすら生きることもままなりません でも、死という考えに至ったとき、生きることに苦しみなく、むしろ楽しもうとしている貴方は不謹慎かもしれませんが、すごいと思います 自分も手ごたえのある生き方をしたいと思います ありがとうございました

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