• ベストアンサー

ブッダについて

閲覧ありがとうございます。この世を一切皆苦と表現したブッダですが、何故子どもをつくってはいけないという教えを作らなかったのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.23

No.5です。 子がまだいないのですか。子がいる喜びや孫がいる喜びを知ったら、子を作ってはいけないなどの教えを信じる気になりません。この感情は理屈ではなく自然なもので疑いの余地がありません。きっとDNAに書き込まれているのでしょう。 子を持つと育てる経済的余裕が必要になります。子を殺す親のニュースを見ると怒りと哀れみの気持ち抱きます。経済的余裕が無くて死んでいった子どもは今でも世界中にたくさんいます。だったら作らねばよいではないかと思うでしょうが、それは誤りです。生きれる確率が低くても子は生まれるように作られているのです。 釈尊の教えが難解なのは年を取るにつれて教えが変化していることです。妻子を捨てたころは苦しむ自分にもがいていたのだと思います。縁起・因縁の悟りを得ると議論を吹っかけ勝って喜ぶ日々であったのです。今で言う自己中心的な考えです。ところが晩年はカースト制で貧しい者や弟子達のことを案じるようになります。教えを広めるために弟子とともに80歳まで旅を続けています。 釈尊は妻と子を捨てたが、後にその子は十大弟子の一人になっています。子がいたことで釈尊は嬉しかったのだろうと思います。

augmydt
質問者

お礼

なるほど、子がいて嬉しかったからそういう教えを作らなかったのですね!回答ありがとうございます!

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (32)

  • hannya-gl
  • ベストアンサー率17% (6/35)
回答No.22

人間の一切は苦て゜あると、知恵、によりて見る者は自らの苦悩を癒す。とブッダは語った。(と聞いた)では?。 釈迦の哲学は、知恵によりて見る、の方でしょう。 知恵により見る(理法に照らして考える)事を縁として、子共を作っては作っては成ならないという、 教え、が起こる。となりますかね。縁起の理法に敵っているかを見るのが。本当に釈迦が言ったかどうかを判別する、第一の目安だと思います。 釈迦が常に口にしていたのは、 己を陽炎泡沫の如き者と思う者には既に知恵がある。 己を陽炎泡沫の如きものと、知恵によりて見る者は、自らの苦悩を癒す。 知恵によりて見ることを縁として、知る、ことが出来る。 知ることを縁として自らの苦悩が癒える。が、解脱、と言う事でしょう。 釈迦の哲学を最も判り安く、簡潔に伝えているのは、と思うのは「世界の歴史」という本にある歴史家が述べているる一文です。 菩提樹の下で瞑想思索し、悟った、と言われる釈迦は。かって修行、苦行を共にした、5人のバラモン修行者 を前に次ぎのように語った。 修行者達よ。 ここに四っの真理がある。苦と苦の起源と苦の滅と苦の滅に至る道、とである。 生も苦、老いも苦、死も苦であり、愛する者と離別するのも苦であるなら、好まぬ者と結のも苦である。 苦の起源とは何か 喜びと貪りとを伴い、あれこれ執著する愛執である、 苦の滅とは何か 愛着の心を残りなく滅する事である、 苦の滅いたる道とはなにか 八っの正しい道 1正しい思惟(理法、考え方)2正しい認識 3 正しい言葉 4 正しい行為 5 正しい生活  6正しい努力 7 正しい思念 そして 8 正しい瞑想 である。 苦集滅道、とか、四締八正道、と言う。法門(仏教の始まり、入門)と言われるものでが。 ご質問の、苦、とは意味あいが違うのでは。

augmydt
質問者

お礼

なるほど!生も死も苦であると考えていたのですね!回答ありがとうございます!

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#202739
noname#202739
回答No.21

本能を否定することになるから。 悟りというのは、聖人になることではありません。 むしろ、聖人ぶった人を信用していない。 欲を最低限にしろとは言います。 これは足をしるため。 でも、完全になくすのは、もはや人間ではない。 そんな訳のわからない理想論を言うほど、お釈迦様は愚かではないということです。 きっと「ひとりの女性をずっと愛しなさい」ぐらいは言ったと思いますけどね。

augmydt
質問者

お礼

なるほど、苦しくなるからほどほどにしろということですね!回答ありがとうございます!

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.20

>いや、だから最初から言っているではありませんか。自分が苦しいと思うことをなぜ自分の子どもにも強いるのかと。なぜ仏陀は子どもを作るなという教えを作らなかったのかと。それについてのあなたの回答は「辛いんだったらさっさと死ねよ」ということですが、どういうことですか? なぜ何千年も昔の教えが現在にもまだ残っているかわかってますか?その何千年間も運命は変わらず、同じ運命であり、それに苦しむ人間がいたからです。 「死ねよ」の前に、私は「何故生きているの?」と問うてますよね。 貴方は苦しいけど、生きている方が良いのでしょう? ならば、子供を生むのも道理だと言っているのです。 生きるのが「苦」のみだったら、子供を生む以前に、貴方がさっさと死んで居る筈でしょう? 貴方の発言は「生きるのは苦しい、だから子供を生むのは可笑しいのではないか?」です。 しかし貴方は何はともあれ生きています。 生きる価値(楽しみやメリット)があるから、生きている訳です。 何で、他人の生の権利を剥奪するような発言をするのでしょう? 何を甘えているんだかw

augmydt
質問者

お礼

回答ありがとうございます!大きな苦しみよりも小さな苦しみを優先しているのです。つまり、死ぬときは苦しくて怖いから生きているのです。死ねないから生きているのです。 苦しいけど死ぬ「時」よりましだということです。眠るように楽に死ねる施設があるならとっくに行っています。生きている方がいいといいますが、どちらもマイナスです。マイナスの出来事について比べているわけです。そのマイナスの世界にマイナスについて悩む人間を作り出すのはどうかということです。「生きている方がいい。生きていることすらマイナスだけど。→じゃあ子どもを生むのも道理だよね」ということが理解できません。 あと、最後に人格否定しないでください。それは関係ない話です。都合が悪くなるとそうやって相手を押し退けて黙らせているんですか?私は単に疑問を解決したいだけなのです。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • paraspor
  • ベストアンサー率26% (4/15)
回答No.19

補足です。 イスラムに通じるはちょっと書きすぎたかもしれません。 ブッダはイスラムよりはちょっと厳しい。 ジャイナ教よりは穏健だが、それが本当に理想的な道であり、人間はそこを歩むことができると考えていたような感じがします。

augmydt
質問者

お礼

わざわざ補足までしていただいてありがとうございます!

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • paraspor
  • ベストアンサー率26% (4/15)
回答No.18

ブッダの思想はジャイナ教と酷似しています。 唯一の違いは、ジャイナ教が厳格で徹底しているのに対し、ブッダは穏健なところ。 ジャイナ教が本当に理想的な生き方を追求しているのに対し、ブッダは苦しくない、守れる程度にやろうよと言っているように思えます。 ブッダはそういう戒律を作ってもほとんどの人間にはそんなもの守れず、余計に苦しみを生み出すに終わると考えたんじゃないでしょうか。 人間は弱いもので、本当に望ましい戒律を守りきれないという人間観はイスラムに通じるところもありますね。

augmydt
質問者

お礼

回答ありがとうございます!

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.17

仏陀の教えもどんな教えも生まれ、存在しやがて終わっていく間の事に対する教えですよね。 生存開始以前や解脱した後の教えがありますかね。 生むなって教えは始まる契機となるべきではないということですね。 それはA(開始)U(持続)M(消滅)という現象の否定ですよね。 開始や持続を否定することは釈迦が教えることの外なんでしょうね。 つまり釈迦教え以前の事でしょう。釈迦の教えの範囲ではない。

augmydt
質問者

お礼

なるほど、釈迦よりも前にそれは解決しているからそれについては述べていない、ということですね!回答ありがとうございます

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.16

augmydt様、こんにちは。 >「どれから?」 「augmydt様の、今回の疑問から」かもしれません。

augmydt
質問者

お礼

回答ありがとうございます。仏陀は、一切皆苦という同じステージに立たなければならない他人の気持ちを考えていなかったのでしょうか?

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.15

 No.8を承けます。  ☆☆(回答No.8) ~~~~~~~~~~~~~~    ★ (No.6お礼欄) 苦しいと考える世界に新しく人間を産み出しても、そんなもの知らんということですね?    ☆ いえ。《苦》から始める理論は その裏返しとして《おれさまだけは その苦から自由になった》と言っている議論であって 勝手にほざいていろと答えてやればよいしろものだという意味です。  ★ (No.8お礼欄) ~~~~~~~~~~~~  あなたの言うことだと、俺だけが克服した、だから新しく生まれる人間のことなんか知らんということですよね?それでも私の質問は「いえ。」なのですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ブラフマ二ズムが 輪廻転生ということを説きました。それは 社会における身分は すでに生まれによって決まっており ただし現世のあり方によって次には高い身分に生まれてくることが出来るのだと言います。  ゴータマは 人の生きるあり方は すべておのれの行為(カルマン)によって決まると言って 苦にまみれる生からの自由を自分は得たとし そのさとりの状態を得るようにと人びとに説いた。そうすると すでに人は苦の上に成る人の生をふたたび持つことはない・つまりは 人間に生まれてくることはない。と言った。  ★ 新しく生まれる人間のことなんか知らん  ☆ というのではなく 来世のある者はまださとりを得ずブッダとなっていない〔だから 転生する〕と捉えたということではないでしょうか。  もし同じ DNA の者が過去に誰もいないとすれば 輪廻転生という説そのものが阿呆らしいと考えられます。取るに足りません。  そこへ  ★ 何故子どもをつくってはいけないという教えを作らなかったのでしょうか?  ☆ という問いをはさむということですが そういう発想を持たなかったから。ではないでしょうか?  行為によってすべてが決まる。そして親と子とは 人格が違うとでも捉えた。ゆえに 子どもをつくるかどうかについてオシエとして何かを考え決めるということは思わなかった。のではないでしょうか。

augmydt
質問者

お礼

長文の回答ありがとうございます。人として生まれたら来世ではもう人として生まれなくてもいいから子どもを作るということでしょうか?自分の子どもを苦に追いやることで自分は上のステージに行けるということですか?子どもを作るという行為はプラスの行為なのでしょうか?マイナスの行為なのでしょうか?

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.14

 苦行の意味のなさを実感したのは、苦行をしたから。  苦行を通さずに“中道・中庸”を覚ったのではないと思います。  凡人の思う、想像する、中道のレベルではないのではないでしょうか。

augmydt
質問者

お礼

なるほど!ありがとうございます。話は戻りますが「銭湯の温かみのようなもの」を自分の子どもにも実感させるために、子どもをつくってはいけないという教えをつくらなかったということですか?

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • lv4u
  • ベストアンサー率27% (1862/6715)
回答No.13

>>一切皆苦のこの世に子どもをつくって、果たして本当に子どもは幸せになるのかと考えたまでです。私は論理的です。勝手にレッテルを貼らないでください。 質問内容からしたら、レッテルを貼るような回答をするしかありませんでしたのでね。 なお、ブッダの初期の教えは、質問者さんに近い考え方だったようです。つまりは、「この世は一切皆苦、だから、早く、すばらしい、あの世の天国に帰りたいものだ」っていう考え方ですね。また、悟りを得たとき、ブッダは「この幸福な心の状態を抱いたままて、死んでゆきたい」なんて考えたともいわれてます。 なので「生きていても、苦しいばかりで、何も良いことはない。あの世に帰って楽になりたい!」って考えて自殺する方がいても、不思議ではありませんね。 でも、悟りにもレベルがあるし、ブッダも年齢を重ねるにつれて、悟りが深まり「この世には、この世の存在意義がある」という思想に変化したといいます。 そういう意味からも、子供をつくるってことに意味を見出していたと思われます。 仏教教団のあり方も、ブッダの生活も、初期のころと晩年では大きく変化していました。ですので、ブッダの教えが変わっていくのも当然でしょうね。 なお、現代の坊さんは、当時と比較したら、妻帯するし、酒も飲みますし、凄く大きく変化しましたね。

augmydt
質問者

お礼

回答ありがとうございます!悟りのレベルというのと、彼が悟ったこの世の存在意義について具体的に教えていただけませんか?

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • なぜブッダは自殺しなかったのですか?

    なぜブッダは自殺しなかったのですか? ブッダの悟りの内容は『この世は苦で満ちている』という『苦諦』でした。 そのために欲を無くした『無』こそ最上である、と教えられたのかと思います。 うろ覚えですみません……。 それ程悲しい悟りの内容なのになぜブッダは自殺しなかったのでしょうか? よろしくお願いします。

  • ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――

     あらためて問いたいと思います。  【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。   * (わざと この舌足らずのまま・あいまいなままとします)。  【問い1】 ブッダは 神か?  【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か?  【問い3】 ブッダがもし神であり人間の境地であると捉えられたとすれば それは――表現の問題を問わないとして―― ブラフマン(梵)でありアートマン(我)であるということではないのか?    【問い4】 つまり 梵我一如ではないのか?    【問い5】 けれどもそれでは 諸法無我なるおしえに反する。つまりは 神ではなくその神のもとなる人間の境地でもないとすれば ブッダは いったいどういう現実なのか?

  • ブッダの教え

    ブッダの教えの中には、仏像を崇拝するという考え方はなかったと思いますが、いつごろからどのようなきっかけでそのようになったのでしょうか?

  • 仏教とブッダ

    いちおう検索したのですが答えが見つからず仏教での知り合いに聞いてもwikiを参照してくださいといわれ、見てみても答えがでなかったので質問させていただきます。 仏教とはブッダの教えが元でつくられた思想ですよね?(もしかしたら違うのかな) そして、検索してわかったのですが、ブッダは魂の存在を否定していたらしいです。 なのに何故、今現在の仏教は魂の存在を認めているというか、魂の存在が前提みたいな考えなのでしょうか? そもそも何故、ルーツはブッダの教えひとつなのに世界にはこんなに多くの宗派が存在しているのですか? 教えてください。自分だけでは正しい答えが出そうもありません。

  • われわれはブッダという父親を殺して来なかったのでは

     ないでしょうか?  あるいは ブッダはすでに死んでいると言うべきではないでしょうか?  あるいは われわれ日本人にとってはブッダは母親だと言うべきでしょうか。そのときには 一般に神話の伝えるような《父親殺し》のかたちではなく どうなりましょうか。母親を抜け出るとでも言うのでしょうか それをおこなって来ていない――のではないでしょうか?  さらにあるいは ブッダもしくはそのおしえは もうすでに確かに末法の状態にあり その基本的な思想としてのあり方において賞味期限を過ぎている――のではないでしょうか?  その欠陥は つねに《彼岸》として見られていること――そしてその点では むしろやはり《父親》のごとく立ちはだかっている―― ではないでしょうか?  この《ブッダ》――つまり観念のブッダとしての像――とわれわれとの隔たり これがつねに壁のごとく前にあり道を遮っているのではないか。こういう問いを持ちます。  ご教授を乞います。    減らず口をたたきます。質疑応答に取り上げられるブッダの多さを見てください。その議論の多くは あたかも意識の排泄であって さとりでも何でもなく 排泄であるなら金魚のふんのごとくつらなります。われわれはこの地獄から解放されるべきでは?  ぼこぼこになるまでご批判をたまわりますようお願い致します。

  • ブッダの教えと、仏教。菩薩。阿弥陀。

    私はブッダは哲学者で、宗教家ではないと思うのですが、知識が中途半端でよくわかりません。 小乗、大乗は解りますが、いわゆる仏教はいつから宗教として何がきっかけで、成立したのでしょうか?少なくとも、ブッダは菩薩や阿弥陀などの存在を語ってなさそうだし、となれば後世の人が創作したように思えますが、そうなるとブッダの教えとは全く別のものです。ブッダその人を神聖化し「神」の様な存在として崇拝する事は、本来の教えからかけ離れたものと思います。 もしブッダがいきていたら死者を拝んでも、「奇跡など起きるはずもない」といいそうですが、なぜ、このように大きく変質してしまったのでしょうか?

  • ブッダ以外で悟りを開いた人はいますか?

    もしいたらすみませんが、あまりブッダ以外で悟りを開いたという人の話を聞いたこと上がりません(訳の分からない新興宗教の教祖連中は除外してください) 大乗仏教理論をまとめたナーガルージュナなども、悟りを開いたという意味には当てはまらないのでしょうか? いないという前提で話させていただきますが、ブッダはすべての人間が悟りを開けると教えているのに、もしブッダ以降今に至るまで第二のブッダがいないのなら、この事自体がブッダの教えは間違っていたという反証になりませんか? この辺の事情についてお詳しい方お願いします。

  • 「ブッダの教え」について教えてください。

    全ての苦しみは執着から生じる。執着しないように生きなければいけない。というのがブッダの教えですが・・・・ すべての執着を捨てるとなると、例えば、会社で実績を上げて人よりも出世しよう!とか 自分の家族をなんとかして養なっていこう!とか・・・こういったことにも執着してはならない!ということでしょうか? すべての執着を捨てるとなると、出家せずしてまず実行不可能と思いますが・・・可能なのでしょうか? どなたか教えてください。

  • なぜ、釈迦はブッダと呼ばれるのでしょうか?

     仏教の開祖の釈迦を仏陀(ブッダ)という言い方があり、「ブッダ」とは「目覚めた人」という意味だ、という言い方を何度か聞いたことがあります。  ウィキペディアでも、仏教を《一般に仏陀(目覚めた人)の説いた教え、また自ら仏陀に成るための教えであるとされる。》と、説明しています。  この場合の「目覚めた人」というのは、人のどのような状態を指しているのでしょうか。  「目覚める」とは、どういう状態から、どういう状態になることを指しているのでしょうか。  ネットサーフィンして少し頑張ってみたつもりですが、仏教関係の教義や真理は、調べれば調べただけ広がってしまい、良い帰結を得ることができません.  一つの帰結を見るには、この、ブッダについて明確に知ることが必要と思われましたので、質問させていただきます。  よろしくお願いします。

  • ブッダの性愛観は 間違っていませんか?

      ひとまとまりとなった次の発言をめぐって問います。  ▲ (スッタニパータ§§814-823) ~~~~~~~~~~~~  814  長老ティッサ・メッテーヤがいった、   ──きみよ。性の交わりに耽る者の破滅を話してください。あなたの    教えを聞いて、われらも遠ざかることを学びましょう。  815  師(ブッダ)は答えた、   ――メッテーヤよ、性の交わりに耽る者は教えを失い、邪まである。    これはかれのうちにある卑しいことがらである。  816  かっては独りで暮していたのに、のちに性の交わりに耽る人は、    車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを卑しい凡夫    と呼ぶ。  817  かってかれのもっていた名誉と名声とはすべて失われる。このこと    を見て、性の交わりを断つことを学べ。  818  かれは諸々の(欲の)想いに囚われて、貧困者のように考えこむ。    このような人は、他人のとどろく名声を聞いて恥ぢいってしまう。  819  そうして他人に詰(なじ)られたときには刃(悪行)をつくり、    虚言に陥る。これがかれの大きな難所である。  820  独身をまもっていたときには一般に智者と認められていた人が、    ついで性の交わりに耽ったために、愚者のように悩まされている。  821  聖者はこの世で前後にこの患難のあることを知り、堅く独身をま    もり、性の交わりに耽ってはならない。  822  (俗事から)離れることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のこ    とがらである。(しかし)これだけで自分が最上の者だと考えてはなら    ない。かれは安らぎに近づいているだけなのである。  823  聖者は諸々の欲望を顧みることなく、それを離れて行い、流れを    渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛された生ける者どもはかれ    を羨むのである。  と。  (中村元訳:ブッダのことば――スッタニパータ―― 第四 八つの詩句の章 七 ティッサ・メッテーヤ )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  疑問点です。  1. 説くべき理論は 一般の人間関係についてであり 両性のニ角関係については その特定の対(つい)関係に入るときの対話(口説き)のあり方までである。  つまりその中身をまづ別にしてそれでも 要らぬことをブッダはここでしゃべっているのではありませんか?  2. 断り書きです。ブッダの性愛観はその中身も間違っているように考えます。ただしそれは (1)の考えによれば 無記とすることが正解だと見ます。  つまり 回答の中で触れてもらってもかまいませんが そしてそれなりに応答するつもりでいますが そこに焦点を当てようとは思っていません。