• 締切済み

「ブッダの教え」について教えてください。

全ての苦しみは執着から生じる。執着しないように生きなければいけない。というのがブッダの教えですが・・・・ すべての執着を捨てるとなると、例えば、会社で実績を上げて人よりも出世しよう!とか 自分の家族をなんとかして養なっていこう!とか・・・こういったことにも執着してはならない!ということでしょうか? すべての執着を捨てるとなると、出家せずしてまず実行不可能と思いますが・・・可能なのでしょうか? どなたか教えてください。

みんなの回答

  • ri-zyu
  • ベストアンサー率30% (184/611)
回答No.4

  すべての執着を捨てる←この執着も捨てて下さい          これが解れば悟ったも同然です出家しなくてもいいです。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.3

出家したり修行する、あるいはそうした僧侶に功徳を施す事で、救われるとするのが南アジアに広く信仰されている上部座仏教(小乗仏教)、誰でも念仏を唱えれば救われるとするのが日本で一般的な大乗仏教です。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.2

ブッダは智慧と慈悲のひとでしたから 在家の各人の事情を理解し共感されることはあっても 「執着しないように生きなければいけない。」という 突き放した言葉は述べてないでしょう。 もちろん、出家者には厳しくいったかもしれませんが。 あと、悟るには出家が必要ですが、出家したから悟れるわけでもないでしょう。 悟るために在家でしておくべきことはたくさんあると思います。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • FEX2053
  • ベストアンサー率37% (7987/21355)
回答No.1

基本的に仏教は「必ず出家しなさい」なんですけどね。 だからタイなどでは男子は必ず一回は出家するんですよ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99 ですから、在家のままで信仰を深められると言った 「親鸞」は、その意味でも画期的な宗教家なんです。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • ブッダの教えと、仏教。菩薩。阿弥陀。

    私はブッダは哲学者で、宗教家ではないと思うのですが、知識が中途半端でよくわかりません。 小乗、大乗は解りますが、いわゆる仏教はいつから宗教として何がきっかけで、成立したのでしょうか?少なくとも、ブッダは菩薩や阿弥陀などの存在を語ってなさそうだし、となれば後世の人が創作したように思えますが、そうなるとブッダの教えとは全く別のものです。ブッダその人を神聖化し「神」の様な存在として崇拝する事は、本来の教えからかけ離れたものと思います。 もしブッダがいきていたら死者を拝んでも、「奇跡など起きるはずもない」といいそうですが、なぜ、このように大きく変質してしまったのでしょうか?

  • 仏教とブッダ

    いちおう検索したのですが答えが見つからず仏教での知り合いに聞いてもwikiを参照してくださいといわれ、見てみても答えがでなかったので質問させていただきます。 仏教とはブッダの教えが元でつくられた思想ですよね?(もしかしたら違うのかな) そして、検索してわかったのですが、ブッダは魂の存在を否定していたらしいです。 なのに何故、今現在の仏教は魂の存在を認めているというか、魂の存在が前提みたいな考えなのでしょうか? そもそも何故、ルーツはブッダの教えひとつなのに世界にはこんなに多くの宗派が存在しているのですか? 教えてください。自分だけでは正しい答えが出そうもありません。

  • ブッダ以外で悟りを開いた人はいますか?

    もしいたらすみませんが、あまりブッダ以外で悟りを開いたという人の話を聞いたこと上がりません(訳の分からない新興宗教の教祖連中は除外してください) 大乗仏教理論をまとめたナーガルージュナなども、悟りを開いたという意味には当てはまらないのでしょうか? いないという前提で話させていただきますが、ブッダはすべての人間が悟りを開けると教えているのに、もしブッダ以降今に至るまで第二のブッダがいないのなら、この事自体がブッダの教えは間違っていたという反証になりませんか? この辺の事情についてお詳しい方お願いします。

  • なぜ、釈迦はブッダと呼ばれるのでしょうか?

     仏教の開祖の釈迦を仏陀(ブッダ)という言い方があり、「ブッダ」とは「目覚めた人」という意味だ、という言い方を何度か聞いたことがあります。  ウィキペディアでも、仏教を《一般に仏陀(目覚めた人)の説いた教え、また自ら仏陀に成るための教えであるとされる。》と、説明しています。  この場合の「目覚めた人」というのは、人のどのような状態を指しているのでしょうか。  「目覚める」とは、どういう状態から、どういう状態になることを指しているのでしょうか。  ネットサーフィンして少し頑張ってみたつもりですが、仏教関係の教義や真理は、調べれば調べただけ広がってしまい、良い帰結を得ることができません.  一つの帰結を見るには、この、ブッダについて明確に知ることが必要と思われましたので、質問させていただきます。  よろしくお願いします。

  • 【仏教の教えの核心部に気付いた】仏教は「何事も盗む

    【仏教の教えの核心部に気付いた】仏教は「何事も盗む前には手を合わせなさい。手を合わせれば何事も全ては許される」という教えではないでしょうか? だから、御飯を盗む前には手を合わせて食べると許される。 命を殺して肉を食べる。殺す前に手を合わせれば許される。食べる前に手を合わせれば許される。 「手を合わせて」の文化が日本から消えて、「頂きます」と言えば許されると思っている。 けど、ブッダは頂きますと言えば許されるとは言っていないはず。 ブッダは手を合わせることが許されることだと説いた。 だから、私は御飯を食べるときに頂きますとは言わずに手を合わせて、盗む前に手を合わせれば許されると説いたブッダの教えに従い、万引きをする前には不良に手を合わせると許されると説きたい。 暴力団構成員も人を殺す前に手を合わせると全ては許されると説きたい。 よって、「殺すぞコラァ!!」と言われたら、ああ、これは殺されたら、あなたの代は滅亡しますよと助言してあげたい。 手を合わせて、これからあなたを殺しますと言われたらもう全てを受け入れるしかない。 だから、電車に乗っていて、老人が前に立って、手を合わせ出したら、席を譲る。 ときどき手を合わせ出す老人は私と同じ悟りを開いたというかブッダの本当の教えに気付いたんだと思う。 ブッダは物乞いなので神にお供えされている食べ物を盗む際に、手を合わせて盗めば罪は逃れられると都合が良い解釈を思い付いて罪人から多くの指示を得た。 侍も人を殺すので本能として罪悪感が残る。その罪悪感を全て取り払ってくれるのが手を合わせてから、首を跳ねれば全ては許されるという一種の儀式にしたから人間は平気で他人を殺せるようになった。 言葉が分からない人に取って、手を合わせるだけで罪が無くなるという教えは大変分かりやすいもので儀式化しやすかった。 イエスキリストも手を合わせている。 手を合わせてからなら何をやっても許される。 これが仏教の究極の教えだったのでは?

  • ブッダ 手塚治虫作 について

    質問のカテゴリが違っていたらすみません。 手塚治虫さんのマンガ、「ブッダ」を読んで思ったことがあります。 ブッダは、とてもすばらしい人であることは分かりました。しかし、奥さんとわが子を捨てて、修行の旅に出るという考えが理解できません。見方を変えると、ただの自分勝手だと思います。ただ自分の欲望を貫きたかっただけではないのかと思います。 たくさんの人々の迷う心を救ってあげたわけですが、一番身近な人(家族)を犠牲にしています。 ブッダも人の子、ということなのでしょうか? ブッダを全部読み終えて、何かすっきりしませんでした。 このことについて、どなたか詳しい方がいましたら、コメント等いただけたら幸いです。 よろしくお願いします。

  • ブッダの言葉が思い出せません。

    以前何かの本で読んだブッダの言葉がおぼろげにしか思い出せません。 ブッダ「あらゆる人に感謝しなさい」 弟子「では暴言を吐かれたらどうするのですか」 ブッダ「殴らないでくれてありがとうと感謝しなさい」 弟子「では殴られたらどうするのですか」 ブッダ「殺さないでくれてありがとうと感謝しなさい」 弟子「では殺されたらどうするのですか」 ブッダ「世の中には自分の手で人生を終わらせてしまう人もいます。そうさせないでくれてありがとうと感謝しなさい」 ……というような内容だったと思うのですが、ご存じの方いらっしゃいますか?

  • 仏教の教えでは、愛する者に会ってはならない。愛して

    仏教の教えでは、愛する者に会ってはならない。愛していない者に会ってはならない。とありますが、日本のお坊さんは仏教の教えを学んだはずなのに結婚して子供がいるわけです。仏教の教えを学んだのに破っていて平気なのでしょうか? お坊さん、結婚していますか?→ええ、お陰様で男の子が一人おります。のやり取りをしているのを聞いて、こいつ偽物やんけ!って思ったんですが、どう思いますか? 師匠のブッダの教えを無視する人がお坊さんと名乗って良いのでしょうか?

  • ブッダの複数形は何を意味するか?

    buddha(ブッダ)という単語の複数形が経典に登場する そうですが、するとブッダは複数いたのでしょうか? それとも、ブッダは一人だけど弟子も含めた ブッダの複数形なのでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ パーリ語 アイウエ?オ(7) http://www.j-theravada.net/sakhi/pali-aiueo-2.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ まずは、上のサイトで、ブッダに複数形があることを確認。 次に、検索してみたら ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ところで、「仏教の開祖は釈尊」という辞書の解説は疑う余地がないのであろうか。  実は筆者は釈尊自身にはおそらくそういう認識はなかったものと考えている。釈尊は諸々の仏が通った古い道を自分も通って仏となり、諸々の仏が悟った真実を自分も悟り、諸々の仏が説いた教えを自分も説いたという自覚を持っておられたからである。それを最も象徴的に示すのが、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」という句である。「是諸仏教」という句のパーリ語の原語は‘etaM buddhAna sAsanaM’であって、‘buddhAna ’は‘buddha’の複数形所有格であって、「諸」は「教え」にかかるのではなく「仏」にかかるのである。そこでこれは「七仏通誡偈」とも「諸仏通誡偈」とも呼ばれる。諸々の仏は、それぞれ時代や環境や衆生の機根の異なる世界に生まれられたので、その教えはさまざまなものとなったが、この句だけは共通して説かれたという意味である。  確かに釈尊は無師独悟されたとされている。釈迦牟尼仏は誰かに教えられて仏になったのではないが、一方では諸々の仏が通った古い道を自分も通って仏となり、諸々の仏が悟った真実を自分も悟り、諸々の仏が説いた教えを自分も説いたにすぎないという自覚も持たれていたのである。  もっとも釈尊自身はそうであったとしても、仏弟子たちはやっぱり仏教は釈迦牟尼仏が説きだされた独創的な教えだと考えていたかも知れない。しかしながら仏弟子も『テーラガーター』という仏弟子たちの言葉を集めた経典の中で、「智慧ある者は諸々の仏の教え(buddhAna sAsanaM)に思いを凝らすべし」などと言っているから、やっぱり同じような見解をもっていたといってよいであろう。  その証拠に仏弟子たちが編集した原始仏教聖典にはブッダの複数形が無数に出てくるし、毘婆尸仏(ヴィパッシン仏)などの具体的な釈尊以前の仏たちの行状に関する伝承が記され、釈尊滅後100年か200年ほどしてインド半島を統一した護教の王として名高いアショーカは、過去の仏の1人であるコーナーガマナ仏の仏塔を修復したという碑銘を残している。 http://www14.plala.or.jp/hnya/tokubetukikou-.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 上のサイトがヒットした。 >ブッダの複数形が無数に出てくる。 と書いてあるわけですが、 どう思いますか?

  • ブッダの性愛観は 間違っていませんか?

      ひとまとまりとなった次の発言をめぐって問います。  ▲ (スッタニパータ§§814-823) ~~~~~~~~~~~~  814  長老ティッサ・メッテーヤがいった、   ──きみよ。性の交わりに耽る者の破滅を話してください。あなたの    教えを聞いて、われらも遠ざかることを学びましょう。  815  師(ブッダ)は答えた、   ――メッテーヤよ、性の交わりに耽る者は教えを失い、邪まである。    これはかれのうちにある卑しいことがらである。  816  かっては独りで暮していたのに、のちに性の交わりに耽る人は、    車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを卑しい凡夫    と呼ぶ。  817  かってかれのもっていた名誉と名声とはすべて失われる。このこと    を見て、性の交わりを断つことを学べ。  818  かれは諸々の(欲の)想いに囚われて、貧困者のように考えこむ。    このような人は、他人のとどろく名声を聞いて恥ぢいってしまう。  819  そうして他人に詰(なじ)られたときには刃(悪行)をつくり、    虚言に陥る。これがかれの大きな難所である。  820  独身をまもっていたときには一般に智者と認められていた人が、    ついで性の交わりに耽ったために、愚者のように悩まされている。  821  聖者はこの世で前後にこの患難のあることを知り、堅く独身をま    もり、性の交わりに耽ってはならない。  822  (俗事から)離れることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のこ    とがらである。(しかし)これだけで自分が最上の者だと考えてはなら    ない。かれは安らぎに近づいているだけなのである。  823  聖者は諸々の欲望を顧みることなく、それを離れて行い、流れを    渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛された生ける者どもはかれ    を羨むのである。  と。  (中村元訳:ブッダのことば――スッタニパータ―― 第四 八つの詩句の章 七 ティッサ・メッテーヤ )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  疑問点です。  1. 説くべき理論は 一般の人間関係についてであり 両性のニ角関係については その特定の対(つい)関係に入るときの対話(口説き)のあり方までである。  つまりその中身をまづ別にしてそれでも 要らぬことをブッダはここでしゃべっているのではありませんか?  2. 断り書きです。ブッダの性愛観はその中身も間違っているように考えます。ただしそれは (1)の考えによれば 無記とすることが正解だと見ます。  つまり 回答の中で触れてもらってもかまいませんが そしてそれなりに応答するつもりでいますが そこに焦点を当てようとは思っていません。